第6話

 子供の頃の恐怖心は大人になり錆びついてしまった。

 幼い頃は開けることが出来なかったブリキ缶に何が入っていたのか、知りたくなった。

「ねぇ隼人、一緒にブリキ缶を取り出さない?」

 隼人は虚を突かれたようにこちらに目を向けた。

「この絵本のラスト、決まってないんでしょ?」

 隼人は苦笑いした。

「死んでいる蝶を見ても仕方ないよ。干からびてるだけさ」

「そうかな。あんなに不思議な蝶だよ。もしかしたら、宝石みたいに綺麗なまま残っているかもしれない」

 隼人の瞳の奥に好奇心の火が灯った。


 三十分後、私達二人は軍手をはめ、スコップを手に庭に立っていた。

木蓮の下を掘り進めていくと、石に当たった。

「きっとこれ、私が埋めたやつ」

「じゃあこの下だな」

 周囲の土を掻き分けていく。石が完全に出たところで掴んで外に出すと、下にはひしゃげたブリキの缶が埋まっていた。

「あった」

 私は嬉しくて思わず手を伸ばしかけたが、隼人に止められた。

「待って、変な匂いがする」

 気付けば辺りには軽い腐臭が立ち込めている。隼人は穴に鼻を近付けたが、すぐに顔を歪めて引っ込めた。

「こいつからだ」

 指差す先には缶がある。隼人は躊躇したが、慎重に周囲の土を掻き分けて缶を取り上げた。

「これ、蝶の他に何が入ってるの?」

「何も」

「本当に?」

 隼人は不安な表情で缶をそっと地面に置いた。

「真帆、僕は開けない方がいい気がする」

「私は開けたい」

「君はいつもそうだったよね、思い立ったら止められない」

 隼人は溜息を吐いた。二人ともいつでも逃げることが出来る体制に構えて、私が蓋を開けた。

 鼻がねじ曲がるような強烈な異臭が立ち込める。中身を見た途端、思わず悲鳴を上げながら蓋を投げ付けて後ずさった。

「ねぇ、隼人、見た?」

 混乱して息がうまく吸い込めない。鼓動が早くなる。

「見た」

 夏だというのに、隼人の顔からは血の気が引いている。

 缶の中には、ぎっちりと織り込まれた汚物のような色をした生き物が詰まっていた。生き物だと判別出来たのは目があったからだ。蝶の巨大な複眼。そしてぐるぐると巻きこまれた大きなストロー状の口。

「ごめんなさい」 

 知らず零れた私の謝罪に反応したのか、折り畳んでいた体をブリキ缶からもたげた。

 恐ろしいのに、目を離すことが出来ない。

 蝶は足を次々に出して缶の淵に引っ掛けた。翅は振動しながら伸びていく。しかし、一か所ひしゃげていつまでも伸びない部分があった。先程、缶の蓋を投げ付けて当たったからではないか。

 二、三度翅をゆったりと開閉すると、のろのろと巨大な蝶は舞い上がった。咄嗟に隼人は私を背後に庇ってくれたが、蝶は私達を攻撃する様子もなく、ゆったりと庭を旋回し始めた。

 蝶はよく見ると翅に目玉模様がある。ただ大きいばかりの汚い虫が飛び回る様は、気持ちが悪いとしか言いようがなかった。

 不吉な光景に悪寒がして、私は小石を蝶に投げ付けた。

「真帆、何してるんだ!」

 隼人は振り向いて私の手を掴んだ。

「だってあいつ、気持ち悪いじゃない!」

「可哀そうだろ、何もしてない」

 私は隼人を振り払って、もう一度石を投げ付けた。石は翅に少しかすり、蝶は体制を崩した。

「やめろって!」

 隼人に抱き締められて身動きが取れない。なんとか抜け出そうとするも上手くいかない。

「あいつ嫌いなの!」

 口から飛び出た言葉に自分でも驚いた。これではあの時と一緒だ。いつまで駄々っ子でいるつもりなのだろうか、私は。

 その時まで確かに、私の瞳には汚物のような蝶が映っていた。しかし、瞬きをした次に私が見た光景は、隼人と彼に抱き締められている若い女の姿だった。わたしは私を俯瞰している。

 理解の域を超えた光景に、ただ翅をばたつかせて旋回しながら彼らを茫然と眺めた。

これは夢なのだ。私はいつ失神したのだろう。

 隼人はわたしに対して憐憫の目を向けてくる。欲しかったのはそんな視線じゃない。思わず目を塞ぎたくなるが、わたしの足は顔を覆い隠すことは出来ないし、後ろを向いたって目に入る。

「隼人、元通りに仕舞おうよ」

 私が恐ろしいことを囁いている。

「あの子、どこにも行かないじゃない。缶の中に帰りたいんじゃないかな」

 わたしは必死に翅を動かしてこの庭から出ようと努めた。しかし、湿り気のある上に負傷した翅は重く、上手く動かすことが出来ない。もがきながら木蓮まで辿り着くと、貧弱な足で木登りを始めた。

「捕まえた。お家に帰りましょう」

 私はわたしを乱暴に木から引き剥がした。衝撃で足が二本ほど取れる。痛みはない。そのまま端を摘ままれて缶の中へ押し込まれた。

「真帆、あまり乱暴には」

「大丈夫」

 私は折り紙を折るようにわたしをブリキの缶にぎゅうぎゅうに収めると、最後に折れた足二本を添えた。

「悪かったな、お前は悪くないのに」

 隼人が苦しそうな目を向ける。

「おやすみなさい、蝶々さん」

 この私は笑い方を知らないのか。それとも、わたしはいつもこんな顔をして笑っていたのか。なんて醜いのだろう。

 優しく蓋は閉じられた。

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