第5話
ある日、私の我慢は限界に達した。その日も家には隼人と二人だったので、川遊びに誘ったのだけれど、見向きもされず断られた。
頭に血が上って一階にある台所へと駆け降りると、戸棚に仕舞ってあるクッキーの缶を取り出した。中身を皿にぶち撒けて、空のブリキ缶を携え、隼人と蝶が幸せに暮らす部屋へと舞い戻った。
「隼人、その蝶は私のものよ」
隼人は振り返った。久し振りに真っ直ぐに私を見ている。その表情には驚きと恐怖が満ちていた。
私は大股で隼人の側まで行くと、虫籠を取り上げた。
「何するの、真帆!」
「自由研究よ」
纏わりつく隼人を払いのけて、虫籠に手を突っ込んで乱暴に蝶を引き摺り出す。そのままブリキ缶の中に押し込め、素早く蓋を閉じた。
「やめてよ、真帆、返してよ!」
「私が捕ったんだから私のものよ。こいつ、砂糖水も飲まないって言ってたじゃない。閉じ込めて、いつまで生きるか試してみるの」
私はブリキ缶を激しく揺らした。隼人は悲鳴を上げる。中で衣擦れに近い音がした。
「やめて、真帆、やめてよ!」
隼人が泣き喚きながら飛び掛かってきたが、私はそのまま階段を駆け下りて蔵の中へ駆け込んだ。
「真帆!真帆!」
扉が激しく叩かれる。隼人の手が心配だったが、返してなどやらない。この蝶をただ逃がしてやるだけなんて許せない。許さない。ブリキ缶を強く抱き締めた。
隼人はなかなか扉を叩くのを止めなかったが、祖母の声が外から聞こえてきた。
「どうしたん、隼人!」
祖母は畑から昼食の準備に戻って来ただけであろうに、異様な様子を目撃して声が上擦っていた。
「わーん!おばあちゃーん!」
それから祖母による私への説得が始まったが、私は黙秘を貫いた。やがて、祖母と隼人は蔵から離れて行った。
私は空腹と喉の渇きからぐったりとして地面にしゃがみ込み、いつしか眠ってしまった。
烏の鳴き声で目が覚めると、蔵の中の高窓から西日が差している。睡眠は人の気持ちを整理する。私は自分が起こした非情な行いを急激に恥じた。
傍らにあるブリキ缶に目を遣る。まだ生きているだろうか、この蝶は。隼人に返そう。謝って仲直りしてもらおう。
ブリキ缶を持ち上げたが違和感があった。重い。蝶が入っているだけなのに。
また烏が鳴いている。暗闇に取り込まれ始めた蔵から慌てて外に飛び出した。辺りは絵の具をぶち撒けたように朱色に染まっている。
その時、悪寒が走った。缶の蓋が中から押された。昼間に聞いた衣擦れの音は中から聞こえない。音が鳴る隙間がないほど、持っている金属部分のすぐ向こう側にみっちりと何かが詰まっているのを感じる。
おかしい。今、中には何がいるのだろう。
すぐに放り出したかったけれど、手放して中身が出て来る方が恐ろしくて、私は蓋を強く押さえた。
周囲を見渡して大きな石を一つ見つけた。ブリキ缶を地面に置き、その上に石を乗せると、犬のように木蓮の下を必死に掘った。そして、石ごとブリキ缶を慎重に穴の中に仕舞った。
後は素早く丁寧に土を上から押し固め、逃げるように現場を去った。
その足で祖母がいるであろう台所へ向かい、東京に今すぐ返して欲しいと懇願した。
「どないしたの、泥だらけで」
祖母は心配そうに頭を撫でてくれる。
「昼間、隼人と喧嘩したんやろ?蝶がどうのとかって聞いたけど。何があったん?」
祖母に優しく語りかけられ、涙が溢れた。
私は結局、すぐに東京に帰ることは出来なかった。代わりに、今まで寝ていた一階の部屋ではなく、庭から出来るだけ遠い叔母の部屋で一緒に眠らせてもらう事になった。
ただし、家の構造から縁側を通らないと二階から一階へ行くことが出来ないので、一階にしかないトイレを夜中に我慢して漏らしたこともあった。
幸いな事に一ヶ月経過しても何事も起こらず、蝶にまつわる出来事も全て夢だったのではと思えてきた。
結局、大好きな隼人とはそれ以来殆ど口を利かずに、別れたまま現在に至るのだ。
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