第4話
あの蝶は、近所の神社を取り囲む森にいた。禁足地で滅多に人が入らないためか、珍しい虫が多くいたので、私と隼人は内緒でよく侵入していた。
その蝶は、木々の隙間から陽射しが入らなければ見逃していただろう。胴体も足も触覚も何もかもが透き通っていて、シャボン玉のようにねっとりと瑞々しい艶があり、光を反射して淡く輝いていた。
木漏れ日を浴びながら軽やかに舞う宝石は、一瞬にして隼人の心を奪った。隼人は大きな瞳を真ん丸にして、上気した頬でふらふらと蝶に誘われるまま付いて行った。
いつもより森の深くまで足を踏み入れたところで、私は隼人を呼び止めた。
「その蝶、捕まえよう」
私は虫捕り網を振りかぶった。
「え、あれは駄目なんじゃないかな」
隼人は困惑して私の顔と蝶を交互に見比べる。
「どうして?そいつと同じ生き物でしょ」
隼人が肩に掛けている虫籠に目を遣った。二つあるうちの一つにはカマキリが入っている。隼人は隠すようにそれを背中にやった。
私は虫捕り網を振り被った。しかし、ひらりとかわされてしまった。高く飛ばれると捕まえる事が困難になるため、間をおかずに再度網を翻すと、容易に捕らえる事が出来た。
「やった」
逃がさぬように網の中に手を滑り込ませて翅を掴む。氷のようにひんやりとして、絹のように滑らかだ。それを隼人の首から下がっている空の虫籠に入れてやる。安っぽい緑色の虫籠はその蝶には不似合いだった。
「すごい、綺麗……」
隼人は虫籠を持ち上げて恍惚の表情を浮かべている。私はその顔を見て満足し、得意気に帰還を促した。
その日から隼人は蝶の虜だった。外にも遊びに行かず、食事も忘れて、自室の文机の上にそれを置いて眺め続けた。次第に私はその美しい生き物を捕らえたことを後悔し始めた。
捕らわれたのは蝶なのに、隼人の方が囚われている。
「お祭りに行こう」
「いいや」
「おばあちゃんとトウモロコシ採りに行こう」
「行きたくない」
「魚釣りに行こう」
「ここにいる」
うっとりと虫籠を撫でている。
「最近、隼人変よねえ。虫籠ばっか見てるし」
「そうなんよ。なんかぼーっとしてねぇ。甲子園だって毎年見とるのに、降りて来ないしねぇ」
祖母は玉露、叔母はビール、私と隼人はコーラを片手に、球児達を応援するのが夏の楽しみの一つだった。
沈んだ気持ちで賑やかな居間から二階へ上がり、隼人の小さな背中を見詰める。涙が滲んだ。あいつのせいで私の隼人はいなくなってしまった。
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