第十六話 アナが出るか蛇が出るか

 ある日の夕方、ピエールは仕事帰りにボルデュックの町でステファンを誘った。


「ステファンさん、たまには一緒に飲みませんか? 夕食前に軽く一杯、私がおごりますよ」


「いいね、ピエール」


 二人は食堂に入り、麦酒を注文した。


「ステファンさん、王都かラプラント領で何か心配事でもあるのですか? 余計なお世話かもしれませんが、先日帰ってこられてから何だか元気がなさそうですね」


「参ったな、ボルデュック家の皆さんには敵わないよ。ルーシーやマリアならともかく、ボルデュック侯爵まで僕の調子が良くなさそうだって聞いてこられるし」


「皆ステファンさんのこと、家族の一員だと思って心配なのですよ」


「実はね……婚約者が居たのだけど前回王都で会った時に婚約破棄してきて……」


「えっ、それは存じませんでした。あの、何と申していいか……」


「何も言わなくていい。僕と彼女の将来設計が大いに食い違っていただけで、破棄出来て良かったとさえ思っている。けど、しばらくは女性不信に陥ってしまっているよ……」




 忠実な執事ピエールからの報告を聞いたルーシーはひどく心を痛めた。


「まあ、ステファンさんにそんなことがあったのね。さぞ気を落としておいででしょう」


「そうですね、お嬢様。それでも彼は心機一転、気を取り直して前に進もうとされているようです」


「でも……ボルデュック領にこうも長く滞在していることが原因で破局したのなら、申し訳ないわ……」


「彼も詳しくはおっしゃいませんでしたから、私も断言することはできません。破局した直接の原因はお相手の不貞だそうです。それに彼も婚約破棄とここでの仕事は関係ないとはっきりおっしゃいました」


「それでも、将来を誓い合った女性と別れないといけなかったなんて……」


「お嬢様までそんなに落ち込まれてどうなさるのですか……」


 ルーシーはもしかしたらステファンがボルデュック滞在が嫌になったのではないか、とまで心配になる。


(ステファンさん、大丈夫かしら。ピエールによると女性不信になってしまったって……私は何もして差し上げられないのね……)


 そしてステファンが今は婚約者も恋人も居ない身だということに少々嬉しくなった自分を恥ずかしく思ったルーシーだった。


(ステファンさんは苦しんでいるというのに、私って身勝手で最低……あーあ……)




 そうこうしているうちに秋も深まってきた。今年のボルデュック領は豊作が見込まれた。何となく領地全体の雰囲気も例年になく明るいものだった。


 秋祭りにはアナとテオドールも帰ってくる予定だった。


 ルーシーは前回アナが帰って来た時から王都の貴族学院に編入するという進路を少しずつ考えるようになっていた。


 ステファンは日々努力して自立している女性のことを好ましいと言っていた。少し前までは彼がボルデュック領に居る間はずっと側に居たいと思っていたルーシーである。


 彼に毎日会いたいという気持ちはもちろん今も変わらない。


 しかし自分はこのまま領地に居ても中等科を出ただけで、家事手伝いしか出来ない女のままだ。そんなルーシーではいつまでたってもステファンに一人の女性として見てもらえることはないと分かっていた。


 王都に行ってしまうとステファンに会えなくなる。この調子でボルデュック領が復興するといずれにせよ彼はもうここにいる必要はなくなり、ラプラント領に戻るのだろう。


 ルーシーが貴族学院に編入すると在学中に別れがやって来るのである。しかし、ルーシーは早く彼に一人前の女性として認めてもらいたいのだ。


(ステファンさんがラプラント領に帰ってしまっても時々文を書くくらいはいいかしら?)


 時々ステファンに領地の経営について案や意見を出したりもするが、所詮は素人の夢物語でしかない。ステファンはルーシーをなるべく傷つけないようにやんわりと彼女の案にダメ出しをする。彼にかえって気を遣わせているようでルーシーは申し訳なかった。


 学院では経営や経理について学ぼうかとも思ったが、もともと草花や薬用ハーブの知識を祖母や母親から教わっているルーシーは薬師という職業の方がより興味を持てた。


 ボルデュック家は代々医師を輩出している家系なので屋敷にある医学書も時々は読んでいてこの分野には既に親しみもあるのだった。


 こうと決めたら早く編入して薬師になりたいルーシーだった。秋祭りに帰ってくるアナに相談してみることにした。




 アナとテオドールは秋祭りの二日前に侯爵家の馬車ではなく、乗合馬車で帰省した。


 戻ってきたアナはルーシーの目から見ても以前と変わりなく、全然侯爵夫人ぽくなかった。


 ドレスは流石に質の良いものを着て帰ってきたが、ボルデュックの屋敷に着くなり以前の質素なドレスに着替え、エプロンを着て、腕まくりをし、掃除や洗濯にジョエルの散らかった部屋の片付けを始めたのだ。


「お姉さまお疲れでしょう。実家にお帰りの時くらいゆっくりなさったらどうですか?」


 マリアにも同じことを言われている。


「ま、まあ、侯爵夫人になられた方に家事を手伝っていただくわけには……」


「いいのよ、マリア。ルクレール家ではいつも据え膳上げ膳ですから、体がなまってしまって。そうそう、ルクレール家の料理長に色々料理を教わったのです。今晩は私が何か作りますね」


 侯爵夫人が厨房で料理を学ぶなど……あっていいことなのだろうか。ルーシーは疑問に思った。とりあえず向こうの使用人達とはうまくやっていけているようではある。




 テオドールからは以前と同じく、アナが全く新婚らしくないと告げられた。


「何だかさぁ、婚約中もそうだったけど姉上、結婚後も幸せそうに見えないんだよ。俺時々学院で昼食を一緒に取るけど。学院でも一人だけ既婚者でその上周りの学生よりも随分年上だろ、あまり馴染めていないみたいだし」


 結婚後、この秋から貴族学院に編入して魔術を学んでいるアナだった。


「まあ、お姉さま……」


「誰にも言うなよ、先日なんてさ、目のところに怪我をしていてびっくりしたよ」


「怪我ですか? もしかして?」


「しぃー! そんな大声出すなよな。俺が思うに……」


「ルクレールさまって男色だからって家の為だけに女性と結婚した上、その妻に暴力を振るうのですか? 最っ低!」


「姉上は大慌てで否定していたし、真相は分からないさ。姉上はいつ聞いてもルクレールのことを深く愛していて、彼と結婚できて幸せだって断言するから」


「そんな、お兄さまどうしましょう……」


「こっちだってさ、王家とも繋がりのあるルクレール侯爵家に対してはあまり強く出られないし……多額の借金もあるし……姉上が何も言わないから」


 アナの婚約以降、経済的な心配事は激減した。それに領地の復興も着々と進んでいる。すべてルクレール家のお陰である。


「ルクレールさまだって素っ気ない振りをしているけれどお姉さまのことはまんざらでもないみたいだ、なんてお父さまはお気楽なことをおっしゃっています。ステファンさんだってあの二人は意外とお似合いじゃないかって」


「ステファンさんはともかくな、父上の言うことなんてあてにならないさ。まあ俺達は今自分が出来ることをするだけだね。ところでお前、ステファンさんとはどうなってんの? 仲は少しは進展してないのか?」


「もうヤダ、お兄さまったら! どうしてそれを!」


 ルーシーはテオドールに向かって枕を投げつけた。




***ひとこと***

執事のピエール氏グッジョブ! ルーシーお嬢様の恋のために彼も苦手な聞き込み?を頑張ります。


さて、今度はテオドールとルーシーの間でルクレールDV夫疑惑が持ち上がっています。全くもう、ジェレミーとアナは何をやっているのでしょうね……

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