第十五話 飼い猫に手を噛まれる

 ロレッタが子を身籠みごもったことはステファンは正に寝耳に水だった。彼には身に覚えが全くない。


 そう言えば今までに何度も彼女にはもう婚約しているのだから、と故郷のラプラント領でも王都でも、ボルデュック領に先日彼女が訪れてきた時までも一夜を共にしようと誘われていた。


 頭が固いと言われればそれまでだが、ステファンはどうしてもその一線を越えることが出来なかった。


 自分は貴族として生まれ育ったが、爵位を継がない次男の彼は商人として生きて行こうと商人の娘と婚約した。しかし、やはり彼の貴族としての価値観で婚約者の女性とは結婚するまでは清い間柄でいたかったのだった。


「手遅れになる前にラプラント様を騙し、宿屋か事務所の二階で一緒に朝を迎えたことにして、貴族の奥様としてまんまと収まろうとしたわけですね。そして彼に他人の子供を我が子として育てさせようと考えた。それを世間では托卵たくらんと呼ぶのですよ」


 男は呆れたようにそう付け加えた。


「お嬢様、私の子なのですね!?」


「多分ね、でも確かではないわよ」


 ここでステファンにはやっと全てが繋がって見えた。彼が王都に居ることを何故かロレッタが知っていた事、彼女がラプラント商会に出入りしていること、そして帳簿の不審な点……


「ほう、間男ジャコブ氏の他にも父親候補がいらっしゃるとは……開いた口が塞がらないとはこのことですねぇ……」


「貴方がどなたかは存じませんが、私がラプラント商会から盗んだ金は何年かかっても必ず返します、どうかお嬢様だけにはおとがめは……」


「その自己犠牲の精神は汲むけどな、ジャコブさんよ。さっきも言ったようにこの俺にはアンタたちを裁く権限はないのよ。アンタらが謝罪しないといけないのはラプラント様だろ」


 ステファンは名前を知らないその男ドウジュはそこで壁の反対側に居る二人の方向をちらりと見た。アントワーヌに押さえた声でステファンは聞かれる。


「どうします?」


 苦悩の表情を浮かべたステファンはやっとの思いで声を絞り出した。


「僕が出て行くしかないよね……」


 そこでアントワーヌは壁を軽く三度叩いた。


「ステファンさん、そこの扉からどうぞ」


「うん」


 ステファンが居間に入った時にはもうアントワーヌの仲間と見られる男の姿はなく、ロレッタと椅子に縛られたジャコブだけだった。


「ステファン!」


「若旦那様、申し訳ありません! 私が全て悪いのです。あの、商会のお金は必ず返しますから……」


「ジャコブ、君が何となく怪しいとは思っていたけれどね、君とは付き合いも長いし。君一人で出来ることだとは到底考えられなかった。やっぱり共犯が居たんだね。でもそれがロレッタだったとは……僕も舐められたものだね」


「……」


 ロレッタは唇を噛んで沈黙している。


「ロレッタ、僕は確かにこの春からボルデュック領に行ったきりだった。君の婚約者として一緒に居てあげられなくて、君にも言い分はあるかもしれない……けれど、こんな形で裏切られるとは残念でしょうがないよ」


「……ばれてしまったものはしょうがないわね」


「お父上には婚約解消を申し入れるよ。理由は僕から言わなくてもいいだろう、君から説明してくれ」


「分かっているわよ!」


「君達が商会から騙し取った金は餞別だ、生まれて来る子供に罪はない。王都警護団にも通報しないよ。ラプラント領と王都、それにボルデュック領以外の場所で新しく生活を始めるのに役立ててくれ。それとももう使い込んでしまってないのかな……じゃあね」


「若旦那様……あ、ありがとうございます」


 ステファンは情けなくて惨めな気持ちだった。アントワーヌの顔を見て話す気分にもなれない。二人の男性は無言でその場を去った。




 その夜、アントワーヌと飲みながらステファンは白状した。


「自分の情けなさには腹が立ってしょうがないよ。それに、実はロレッタと婚約解消して肩の荷が下りた自分がいるんだ。ほっとしているよ。僕って最低だ」


「ステファンさん……」


「アントワーヌ、今回のこと調べてくれてありがとう。まんまとロレッタの罠にまらなかったのも君と調査員の彼のお陰だよ。あの彼にもよろしくね」


「はい。一刻も早くこの件から立ち直れることを願います」


「君は全て知っていたの?」


「あの二人が共謀しているということは少し前に知りました。ステファンさんにどう言おうか、迷っていたところでした。でも、彼女に子供まで出来ていたとは……彼らの動きから何となく察してはいたのですけれどね」


「ロレッタが僕では物足りない、不満に思っているとは常々感じていたのだよ。でも僕はボルデュック領での新しい仕事にやり甲斐を見つけて、そこでの暮らしも充実していて楽しいし……彼女ときちんと向き合うのを避けていた」


「それでも、正式に婚約までした相手をあんな形で裏切る行為は許されませんよね」


「うん」


「王都のラプラント商会の方は、ジャコブの仕事を引き継ぐ人はいるのですか?」


「他の従業員も居るし、これからは商売仲間に少し委託しようかと思っているよ。暫くはボルデュック領での仕事に専念したいしね」


「それにボルデュック領で新しい出会いがあるかもしれませんね」


 アントワーヌにそう言われてウィンクまでされたステファンだった。


「まさか! 何を言っているの、アントワーヌはもう。女性との付き合いとか婚約とか、当分の間はもう懲り懲りだよ」


「そんなこと、人生何が起こるか分かりませんよ。不謹慎でしょうが、僕は嬉しいですね。ステファンさんがきちんとこの事件にけりをつけられて」


「うん。ありがとう、アントワーヌ。お陰で少し気が楽になったよ」


「本当に良かったです」


「何だか早くボルデュック領に帰りたくなってきた」


 アントワーヌは穏やかに微笑んでいるステファンの顔を見ながら思っていた。


(ステファンさんは今朝あの二人に、王都とラプラント領とボルデュック領以外の場所に行け、と告げていたよね。今もボルデュック領に帰るって言った……出会いがもうあったのじゃないかなあ。本人は自覚していないみたいだけども……)


 そして傷心のステファンは王都の事務所の引継ぎを急いで済ませた後は実家ラプラント領に一日だけ寄り、ボルデュック領に戻って行った。




 ボルデュック領ではいつものようにステファンは温かく迎え入れられる。


「ステファンさん、今回の滞在はいつもより長めでしたね。お疲れのご様子で、顔色があまりよろしくないですわ。お忙しかったのですか?」


 ステファンは自分の感情が顔に出ていたのだろうかと思った。ルーシーにそんなことを聞かれたからである。


「まあ、ステファンさま。少しお痩せになられたのでは? 今晩は腕によりをかけますからしっかり召し上がって下さいませ」


 マリアにも心配されてしまう。ステファンの様子に人一倍敏感なルーシーはそれでも彼に直接聞けない。


「ピエール、ステファンさんがお元気なさそうよね。心配だわ。何か聞いていない?」


「そうですね、お嬢様。悩み事でも抱えておいでなのでしょうか? 何か分かったらすぐにご報告致しますよ」




***ひとこと***

ライバルはこんな形で去ることになりました。後味悪い終わらせ方は避けたかったのです。


晴れてフリーになったステファンです。ルーシーに頼まれてピエールは再び聞き込みを開始しますが……

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る