第三話 アナから牡丹餅

 ルーシーには七つ上の姉アナと二つ上の兄テオドールが居る。


 一番上のアナは領地の中等科を出て以来、マリアやピエールと経営が傾いてしまったボルデュック領の管理にルーシーとテオドールの世話にと忙しくしていた。


 そのアナは昨年夏から王都の伯父ゴダン伯爵の屋敷に滞在している。要は出稼ぎの為である。融資をしてくれる銀行なども探しているがあまりあてはないらしかった。


 テオドールは一昨年から王都の貴族学院に編入し医学を学んでいて、彼も伯父宅に居候している。『早く王宮医師の職に就いて家計を助けたい』というのが口癖だった。




 時間は少々遡り数週間ほど前のことである。アナから父のジョエルに文が来た。王都で出会った近衛騎士で次期侯爵との婚約が成立し、彼から多額の援助をしてもらえるようになったそうである。


 ボルデュック家の皆には信じがたい話だったが、その文と共に送られてきたのは婚姻許可の申請書だった。父のジョエルの署名が必要なのだった。


 ルーシーはもちろんマリアもピエールもジョエルでさえ貴族の婚姻許可の書類など見たこともなかったが、本物であることは分かった。相手の名前はジェレミー・ルクレールとあった。


「ルクレール侯爵家ってもしかして……この方、今上陛下のお妃さまの弟君ではないのですか?」


「え、そうなの?」


「そうですね、世事に疎いお父さまがご存じなはずがありませんわね……」


「アナがこの方と結婚したいのなら私に異論はないよ。もう二十二だったかな?」


「お姉さまは二十一です」


 娘の歳も誕生日も父親のジョエルは覚えていないのだった。とにかく書類にはすぐに署名して送り返すことにした。




 ルーシーは次の日早速ボルデュックの町の小さな本屋に学校帰りに寄った。図書館などない田舎の町である、しかしその本屋には過去の新聞が資料として置いてある。


「陛下のご成婚は何年前だったのかしら……資料がまだあるといいけれど……お兄さまに文を出して聞いた方が早いかしら……」


 当時の新聞記事はまだ保管されていた。確かに王妃の名前はミラ・ルクレール、ルクレール家の爵位も侯爵である。


「やっぱり年齢からすると王妃さまの弟君よね、他にルクレール侯爵家がなければ……ってお姉さまいきなりそんな方と婚約結婚? 何かの間違いでしょう?」


 確かに侯爵家同士で身分的には釣り合っている。が、華やかな社交界には全く縁のないボルデュック家である。王都に行った姉のアナだって、舞踏会やお茶会に招待されることもないだろう。


 アナは金策の為に銀行回りをしたり、内職などの仕事をしているだけである。どうやってそんな高位の貴族と知り合ったのかが全くの謎だった。


 絶世の美女と言われる王妃の弟ということはよっぽどの突然変異でもない限り彼もさぞ見目麗しいのだろう。


 それに比べるとアナは父に似て小柄で容姿も……身内の贔屓目で見ても人並みである。豊かな黒髪にルーシーのそれより濃い碧い目をしているが、その細いたれ目は本人も大層気にしている。


 一方テオドールとルーシーは亡くなった母親に似て背も高く顔立ちもわりにはっきりしている方だった。




 ルーシーはすぐに王都の兄、テオドールに文を書いた。彼からの返事にはこう書かれている。


『姉上の婚約者はお前の言う通り、王妃様の弟君だ。伯父上と伯母上は純粋に良い縁に恵まれてと喜ばれている。まあでもな、文に書くのもなんだから今度の春祭りの時に帰省するからその時に話すよ』


 何かがひっかかる兄からの文だった。


 ボルデュック家がルクレール侯爵家から多額の援助をとりつけたというのは本当であった。アナからすぐにとりあえずの生活費の足しにと送金がされてきたのである。


 貧乏暮らしに慣れているボルデュック家の面々には勿体なくて手を付けられないくらいの額だった。援助と言うが所詮は借金で、いずれは多大な利子をつけて返済しないといけないに決まっている。


 とにかくアナはその援助のお陰で領地建て直しの為に経営に詳しい人を雇ったとのことだった。それがラプラント伯爵家の次男ステファンで、彼はアナの王都での知り合いが紹介してくれた信頼できる人のようだった。破格の報酬でボルデュック領まで来て働いてくれるという。


 ステファンは王国西部に位置するラプラント領と王都で事業を営んでいる。事業は家族や従業員に任せてボルデュック領の為に働いてくれることとなった。時々はラプラント領や王都に行くこともあるが、当面はボルデュック領の再建に力を注いでくれる。


 これがステファンが遥かボルデュック領までやって来ることになった経緯だった。




 次の日の朝、ステファンに領地を案内して回ると言うピエールによっぽど同行したかったルーシーであるが、学校を休むわけにはいかない。しぶしぶと登校の準備をしているルーシーにマリアは意味ありげな視線を投げかけている。


 ステファンには未だに怪我の心配をされているルーシーだった。


「ルーシー、そんなにたくさんの荷物を持って怪我に障らないかな?」


「いえ、鞄に入れて肩に掛けていきますから大丈夫です」


「包帯が汚れたり濡れたりしたらすぐに清潔なものに替えないといけないよ」


「……はい」


 ルーシーにはまるで幼い子供に話しかけているように聞こえてしまうのだった。


(気に掛けてもらっているのは分かるのだけど……私なんて彼にとっては女性ではなくてまだまだ少女なのよね……)


 ルーシーは誰にも分からないようにそっとため息をついた。ステファンがピエールと出掛けてから朝食の片付けの手伝いをするルーシーは未だにマリアから微妙な表情で見られていた。


「なあに、マリア?」


「い、いえ何でもございません。今日はアナお嬢さまがお帰りですね。楽しみですこと」


「ええ、そうね」


 姉のアナに会うのは久しぶりだった。昨年の夏に彼女が王都に出て行って以来である。彼女はステファンと一緒にしばらく領地の管理のために戻って来ることになっていた。


 青春の全てを幼い弟妹の世話と領地の経営に捧げていたアナである。化粧っ気もない、流行のドレスも持たないあの姉がいきなり王都の貴族と婚約した、というのが未だに信じられないルーシーだった。


 その日の夕方に乗合馬車で到着したアナは大きい荷物を抱えてピエールの迎えの荷馬車に乗って帰って来た。大金をポンと出してくれた婚約者が居るにもかかわらず、相変わらずいつもの質素な身なりである。


「まあ、ルーシー、しばらく見ないうちにまた一段と大人になって……背も少し伸びましたか?」


 そう言って目を細めて喜んでいるアナに、ルーシーは以前と変わらない姉を見て少し安心した。


「お父さまにご挨拶してきます。アトリエよね」




「マリア、お姉さまはもう少ししたら大貴族の奥さまになるのよね……全然そうは見えないわ」


 彼女はマリアにそっと呟かずにはいられなかった。


「どなたに嫁がれようとアナお嬢さまはきっとお変わりになりませんわ」




 アナと父のジョエルが母屋に戻ってきた時にはステファンとピエールも帰宅していた。


「ステファン・ラプラントさまですね。アナ=ニコル・ボルデュックでございます。この度は遥か遠くから良くいらして下さいました。アントワーヌから貴方のことは聞いております。お世話になります」


「僕もアントワーヌからアナさんのこと、色々聞かされましたよ」


「まあ、彼にはさぞ恥知らずで図々しい女だと思われていることでしょうね。私の方がいつもお世話になってばかりなのです」


「いえいえ。アントワーヌは直接自分がアナさんの領地のことを手助け出来なかったことを少し悔やんでいるようなのです」


「そんな必要は無いのに……彼は責任感のとても強い方ですから」


 アントワーヌというのがステファンを紹介してくれた人物らしい。王宮で文官をしている彼はステファンとは領地が隣同士で家族ぐるみの付き合いをしているとのことだった。


 ルーシーはそんなことよりアナの婚約者のことが聞きたくてうずうずしている。




***ひとこと***

本編「奥様」でお馴染み、ジェレミーと婚約したばかりのアナの登場です。ルーシーは二人の婚約の経緯に興味津々です。

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