恋心

第一話 女子も木から落ちる

― 王国歴1029年 初春


― サンレオナール王国北部 ボルデュック領




 その日、ステファン・ラプラントは一頭立ての小さな荷馬車で王都より北に位置するボルデュック領に着いた。


 田舎の一本道を行く彼の前方に小川をみとめ、彼はつぶやく。


「教わった道によると、そろそろ屋敷が見えてきてもいい頃なのだけどな……」


 先程、町に寄って食事をした際に尋ねたところ、そこから北に馬車で四半時もかからないうちにボルデュック侯爵家の屋敷は見えてくるとのことだった。


「この橋を渡った先だろうね」


 そこからは木々がまばらに生えている丘陵地帯が始まるのであまり遠くは見渡せなくなる。




 ここ数年不作続きだと聞いていたボルデュック領である、ステファンはひどく寂れた町を想像していたが、意外にも町民達はすさんだ感じなどなかった。


 食事のために入った宿屋のおかみも大したものは出せない、としきりに謝っていたが、出されたスープは良く煮込んだ根菜の優しい素朴な味がした。


 丁度昼時ということもあるだろうが、ここは宿屋兼食堂で、町民が集っていた。おかみは客の一人一人と軽口を叩きながら給仕をしている。


 領主のボルデュック侯爵家までの道を尋ねたステファンにも彼女は丁寧に教えてくれた。


「やっぱり質素な旅の装いをしていてもどこか庶民とは違うなと思ったわ。あ、余計なことを口走っちゃってすみませんね」


 そして会計を済ませて去ろうとするステファンを呼び止め、なんと彼女は焼きたてのパンを大量に持たせてくれたのだった。


「お屋敷に行かれるのなら、このパンを持って行って下さいな。アナお嬢さまが王都からそろそろお帰りになるそうですし」


 よそ者のステファンをここまで信用しているのだった。


「何だよ、おかみは若い美男子にだけは気前がいいな!」


「俺もあと十歳くらい若ければなぁ!」


「何言ってんだ、このお方がお屋敷に行かれるから領主さまんとこへおすそ分けだよ!」


「でも俺がお屋敷に寄る時は何も持たされねえけどな!」


「そりゃ、お前が道中平らげてしまうからだ、ガハハハ!」


 この宿屋のおかみと客達を見る限りでは領主一家と領民の関係も悪くはないようだった。


(幸先良いかもな……領民達がこんな雰囲気だと)




 そしてその小川に架かる橋を渡ろうとしたステファンの耳に数人の子供の声が聞こえてきた。


(一本道だから迷う筈はないけど、彼らに聞いてみるか……)


「ルーシー、ありがとう!」


「どうやって下りるのさ?」


「キャー!」


「うわーん! ルーシーが落ちるぅー」


 どうやら子供が木登りをして足を滑らせたのだろう、ステファンは急いで子供達が居る大木のもとへ荷馬車を向けた。


 子供の一人が馬車に気付いて駆け寄ってくる。


「ああ、そこの旅の人、助けて下さい、ルーシーが……」


 その子が指差す方向を良く見ると木の枝に少女がぶら下がっているのが見えた。周りの子供達よりは大きい、背の高い女の子で十代後半くらいだろうか。


 急いで荷台を彼女の真下につけ、そこに積んでいた小麦の袋の上に飛び乗る。小さい子供はそのルーシーという少女が今にも落ちそうなのでわんわんと泣いている。


「さあ、ここまでなら落ちても怪我はしないだろう、飛び降りなさい!」


「で、でもそれでは貴方さまの積み荷を駄目にしてしまいます……」


 自分が木から落ちて大怪我を負うかもしれないのに積み荷の心配とは呑気なものだ、とステファンは少々いらついた。


「心配するな、大したものは積んでいない! さあ早く、僕を信頼して!」


 何本か持ってきた高価な葡萄酒の瓶のことが脳裏をかすめたが、今はそれどころではなかった。


「申し訳ありませんっ!」


 そう叫ぶとそのルーシーとやらはステファンの広げた腕の中に落ちてきた。彼女を受け止めた衝撃で小麦とじゃが芋の袋の上に尻餅をついたステファンだったが、それらが緩衝材になり、無事だった。


 荷台の上で彼に馬乗り状態のルーシーと目が合う。


「うわぁーん、ルーシーが落ちたぁ!」


「ルーシー、大丈夫?」


 荷台の周りの子供達の声も二人の耳には入ってこず二人は見つめ合う。


 彼女の薄い青色の瞳をステファンの茶色のそれがしっかりと捉えたのはほんの一瞬だった。すぐさま彼女はパッと脇に下りて小麦の袋の上で土下座をする。


「あの、貴方さまのお陰です。ありがとうございました。ご迷惑をお掛けして、大変申し訳ありません!」


「僕が運んでいるのが小麦とじゃが芋で良かったよ! 全くこれが荷台いっぱいのトマトだったら僕達今頃トマトジュースの中を泳いでいたね!」


「あの、小麦は大丈夫でしょうが、私が痛めたじゃが芋は弁償いたします! あ、でもそれでも今すぐにと言うわけには……その、数か月待っていただけると……」


 ルーシーの気を楽にするために冗談を言ったが、それも通じず彼女はそれどころではないようだった。


 薄茶色の質素なドレスにエプロン姿の彼女は近所の農家の娘なのだろうが、それにしては言葉遣いと身のこなしに上品さが漂っている。


「少々潰れたじゃが芋なんてすぐ食べればいい。君に怪我はない?」


「はい、お陰さまで大丈夫です。あの、貴方さまは?」


「僕も大丈夫だ。それよりちょっと手を見せてごらん」


「えっ……」


 躊躇ためらうルーシーの手首を無理やり掴み、手のひらを見ると案の定ひどく擦りむいていた。


「年頃の女の子が木登りとはね……」


 そのステファンの言葉に彼女の碧い瞳が少々陰った。


「ルーシーは悪くない!」


「おじさん、ルーシーは僕らの凧を取ってくれたんだよ!」


「ルーシー、怪我痛い?」


「ううん、痛くないわよ」


 ルーシーは子供達を心配させないために強がっているようである。


「そうだったのか」


「私も軽率でしたわ。大人を呼んで梯子でも持ってくれば良かったのです。でもそこまで高いとは思わなくて。すっかり貴方さまの足止めをしてしまいました……」


「そうだ、これからボルデュック家に行くのだけど、道案内をお願いできるかな?」


「なーんだ、おじさん、ルーシーんちに行くのか?」


「えっ? 君の家?」


「はい、ボルデュック家の次女、ルーシーでございます」


 侯爵令嬢にしてはかなり質素なドレスで領地の子供達の面倒を見ていた彼女は、ステファンの雇い主の娘だったのだ。


 ルーシーの擦りむいた手をそこの小川で洗わせ、彼女を馬車に乗せ、ボルデュック家に向かう道すがら、彼は自己紹介をした。


「ラプラント伯爵家の次男、ステファン・ラプラントです」


「まあ、貴方さまがボルデュック領の再建を手伝って下さる方なのですね」


「うん。アナさんに妹さんがいらっしゃるとは聞いていたけれどね」


「姉は王都で元気にしておりますか?」


「実は彼女にもまだ会ったことはないんだ、ボルデュック家にはアナさんと共通の友人の紹介でね。今回は王都に寄らずにうちの領地から直接来たし」


「まあ、ラプラント領からだと結構な道のりでしょう? 長旅お疲れさまです」


「うん。確かにちょっと疲れたね。早朝に出発したから」


「遠路はるばるようこそお越し下さいました。よろしくお願い致します」


「こちらこそよろしくね」




***ひとこと***

これが主人公二人の出会いでした。本編「奥様」と「蕾」をお読みくださった方はお覚えかもしれませんが、アナの妹ルーシーとアントワーヌ君の昔馴染みで地味ながらもそこそこ活躍していたステファンの話になります。

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