34

光景は貼り付けられたかのように突飛で、まるきりウソのようだった。それほどヒツジは逃げることなく気付いたパーリィを、土手の上からじっ、と見つめていた。だからパーリィも、見つめ返してヒツジが幻でないことをただ確かめ続けた。

 動物園から逃げ出して来たのかな、とようやくちゃんと考えてみる。いや動物園こそ管理は厳しそうで、小学校の飼育小屋から逃げてきたのかもと想像した。だいたいこんな街中の、ごく普通の家でヒツジが飼われているなんて思えやしないのだから、ほかに思いつくところなんてあるはずなく、と考えたその時、すでに確かとヒツジが失せた場所があることを思い出す。 

 エムニの研究所だ。

 これがそうなのか。

 考えるほどに動物園から逃げ出したなんて成り行きよりも、学校の飼育小屋から逃げ出してきたなんて筋書きよりも、どこかのオウチでペットとして飼われていたなんて光景よりも、ずっと確かに感じられてならなかった。だからこのヒツジを返してやれば全ては元通りとうまくいく。あった閃きはその時なおさら鮮明と像を結び、逃がしたらおしまいになる。ぼうっと見つめていただけのパーリィの両目もまた、とたんしっかりヒツジをとらえなおしていった。

 そうしてゆっくりと、ヒツジを驚かさないようにゆっくりとだ。橋の上へ座り込んでいった。ほかにやり方がわからないのだからそうするしかない。ネコを呼び寄せる時のようにちっちっち、と舌を弾いてみる。音は人気のない辺りによく響いて、聞きつけたヒツジもくるり、耳を回した。その耳は天を指してピンと立ち、一拍、置いたその後だった。ぐい、と高く突き出した頭で、ひょこひょこがちょうどとパーリィへ向かい歩き始める。

 とってもいい子。

 様子にパーリィは目を輝かせた。じっとなんてしておれない。パーリィもまた迎えに行く。

 触れた毛玉は思ったよりもゴワゴワ固い。その下にある肉もしっかりしていて、まるで大きな犬を触っているようだった。確かめながら撫でつければ、ほんのり生き物の温もりは手のひらへ伝わって、パーリィはほっと小さく息をつく。だからもっと撫でていいよ、とヒツジもパーリィへすり寄ってくるようで、人懐っこさにパーリィの頬にも久方ぶりと笑みが浮かんでいた。

 渡って誰か追いかけてきやしないか。我に返って川向うへ目を凝らす。誰もいないと分かれば今のうちだと、急ぎヒツジの毛玉を掴んで引っ張った。

「こっちっ」

 今すぐエムニへ連れて行きたかったけれど、エムニは今、パーリィが忍び込んだせいで大騒ぎとなっているだろう。近寄れないならどんなに早くとも明け方まではお預けで、それまでヒツジを匿うためにも、パパのよこした二人に見つからないためにも、橋を渡り切り、見通しの良すぎる土手を避けて河原へと降りる。

 明かりも少ない河原は建物さえ建っていなくて、本当に人気がない。シクラメンはあの二人から逃げ切れたのだろうか。それとも無力化して今頃、パーリィを探しているのだろうか。知りようなくパーリィはそうであってほしいと願い、叶っていつか届く連絡を受け取るためにも人目を避けて川下へ向かった。

 はかどらない距離にじれったく感じて、走り出す。

 遊具だけの冷たげな公園をやり過ごし、ランナーのいないランニングコースをなぞり、闇を座らせたベンチの前を通り過ぎた。土手の上を走るバイクにドキリとしながら高速道路の下をくぐり抜け、遠くに積み上がるテトラポットの見える場所へ出たところで、土手沿い建つ小屋に気づく。

 河原で初めて目にする建物に、つま先は自然そちらへ繰り出されていた。

 その頃にはもう時々でも見かけた街灯すら辺りになく、ただ広くなった河口が音もなく傍らを流れている。吹く風に潮の匂いは混じり、嗅ぎながらパーリィはたどり着いた小屋の傍らに停め置かれたリヤカーの荷台をのぞき込んだ。見慣れぬ大きさのチリ取りと、束にされたゴミ挟みだけを確認して、ふーん、と鼻をならし顔を上げる。

 やはり辺りに人の気配はない。なら決断は素早く、が重要だった。

 ヒツジを掴んでいない方の手で小屋の木戸を引っ張ってみる。ぶら下がる南京錠に阻まれたなら、握り変えた手でそんな南京錠を揺さぶった。様子にパーリィの力でもどうにかなりそうだと思えたのは、南京錠を下げている金具がすでにぐらぐらしていたからだ。

 返したきびすでリヤカーからゴミ挟みを掴み出す。その先端を金具とドアの隙間に突っ込み、テコの要領でふん、と力をこめ金具を弾いた。

 開けたドアの向こうは真っ暗闇だ。それでも跳ね返ってくる音から、がらんどうに等しいことを感じ取る。確かめのぞきこみ、入ってすぐの壁際に電灯のスイッチがあることを知る。ただし、点けてここにいるよと知らせるわけにはゆかなかった。パーリィはただヒツジへ視線を下ろす。

「ここ。中に入ろう」

 誘って先に足を踏み入れた。少しばかり警戒するヒツジを、おっつけ中へ引き入れる。覆い隠して木戸を閉めれば辺りは山の中さえ比べものにならないほど暗くなり、自分の体すら消え失せた。そんな場所でヒツジから手を離せばどこにいるのか分からなくなってしまいそうで、掴んだ毛玉をむしろ傍らへ強く引き寄せる。手さぐりで壁を探し、背を添わせながらゆっくりその場へ腰を下ろしていった。

 ふう。

 息がもれる。

 気持ちは「やっと」がちょうどで、暴れることなくヒツジも隣へ座り込んでくれていた。

 なんていい子なんだろう。思うままにこの調子でこれからもお願いね、とパーリィは手探りでその頭を撫でる。触れられても微動だにしないヒツジはやっぱり大人しくて、繰り返すほど手触りだって心地いい。だから撫で続ければそれはむしろ、自分を撫でているかのような気分にさえなっていた。

 知って引き受けてくれているかのようなヒツジは頼もしく、ほんのちょっとだ、パーリィはそんなヒツジへもたれかかってみる。逃げず支えてくれる重みは心地よくて、毛玉もクッションみたいにくつろげた。そのうえほんのり温かかいならエムニの飼育塔へ向かって以来だ。張っていた気持ちは緩んで、夢中から突き放されたうら淋しさにさらされる。

 堪えきれなくなってヒザを抱き寄せていた。

 ぎゅうっと力を込めても全然、変わらないならひと思いだ。ヒツジの首根っこへしがみつく。

 獣の匂いを胸いっぱいに吸い込んだ。

 けれど決して臭いなんて思えない。

 聞こえたようにヒツジも振り返ると、顔をうずめたパーリィへ自身の頭をすり付け返す。今度こそ本当に撫でつけられてパーリィは、開いていても見えやしない目を閉じていった。

「お日様がね」

 話しかける。

「昇る頃に、ヒツジさんを丘の上へ連れて行きたいんだ。そこにはヒツジさんを大事にしてくれる人がたくさんいるよ。そこでパーの無実を証明しほしいの。パーの味方になってほしいんだ」

 それから「けれど」と続けかけ、言葉をのんだ。怖気づいたからこそ言ってしまおうと、再びパーリィは唇へ力を込めなおす。

「けど、パパは許してくれるかな……。パパをとってもがっかりさせちゃったもん。もうパーなんて、いらないみたいなんだもん……」

 だとしてヒツジが答えるはずもない。もっとぎゅっとパーリィは、ヒツジへ体をくっつけた。くっつけて、そういえばと思い出す。同じように何度もしがみついたけれど、パパのくれたもぐはニオイなんてしなければ、ちっとも温かくなんてなかったことを思い出す。あんなに大事にしていたのにそれだけで記憶は急に色褪せて、つい昨日までのことなのに、読み終えて棚へしまい込んだ物語のように空々しくさえ感じ取った。

「もう……、帰るところがないよ」

 それもこれもこのヒツジのせいだというのに、殺してやろうとしていたヒツジなのに、どうしてこんなに温かいのか。

 咳き込むように嗚咽はもれて、ままに泣いたりなんかしたらもう立ち上がれそうにはなかった。堪えるためにもヒツジから体を剥がす。勢いよく抱えたヒザへ再び顔をうずめなおした。

 パーなんて、どこにもいない。

 だから泣かない。

 止めた息で固く、固く、縮こまる。

 傍らでもそり、気配はそのとき揺れていた。やがて湿った鼻先がそんなパーリィの腕をぐい、と押す。生暖かい息は吐きつけられて、頑なに縮こまったパーリィの胸を突くと頬を探った。

 いやだよ。

 拒んでパーリィは肩を揺らす。

 けれどべろん、と頬は舐められて、引っ張り上げられたアゴを浮かせていた。だから絶対、顔は上げてやらないんだ。決めてなおさら強く伏せたなら、だからこそやめないヒツジはしつこくて、「もう」とパーリィはヒジで押し返す。押した分だけ押し返されて、ぐいぐい揺するヒツジへヤメテ、と身をよじった。

 だけど諦めないヒツジは本当にしつこい。探る鼻先でパーリィに顔を上げろ、と押し迫る。できないならこうだ。伸ばされた舌にもう負けたよ、と思わされたなら、ようし決まった、でべっちょり頬を舐められていた。押し上げられてまたアゴは浮き上がり、それどころかもうのけぞって、ついにそんな顔を舐め回される。様子はまるでひと月ぶりに帰って来た主人を大歓迎する犬みたいで、バウバウじゃれつくくすぐったさに身をよじった。堪え切れずパーリィは「きゃあ、きゃあ」騒いで声を上げる。耳にしたヒツジも「その調子」といわんばかりだ。なおさら勢いづいていった。

「あはは。分かったよ。もう分かったってばっ」

 泣きながら笑い転げた後の目尻を拭う。

 五本の指が、とたんそんなパーリィの腕を掴んでいた。

 驚いて振り返り、柔らかい感触を押し付けられて唇を奪われる。

 そこにヒツジはもういなかった。真っ暗闇の中、体温を感じるほど近くに誰かは間違いなくいて、その誰かは乱暴だけど柔らかな感触でさっきのヒツジみたくパーリィを探すと、返事しろよ、とただ迫る。

 いい加減、パパなんて放っておいて俺のものになっちまえよ、と吹き込んだ。

 とたんはち切れそうにパーリィの胸は痛む。体は痙攣するように震わせた。

 だってもう誰もパーリィのことなんて。

 不意が過ぎて鉛のように重い涙が止めようなくわいてくる。

 支えきれなくなってまぶたを閉じた。

 鉛はボロボロ剥がれて頬を転がると、もう笑って誤魔化すことなんてできなくなる。

 塞がれてもなお唇は歪んでいた。そこから吐き出す思いはパパでもオムレツでも、もぐでもない。自分を見てくれる「誰か」が欲しくて、それだけだった。求め続けて頑張っていた。でなければからっぽで「嬉しい」も「悲しい」ですら、パーリィには湧いてこない。

 いいよ。

 教えて許す。

 パーをあげる。

 見ていてくれるなら悪魔だろうと嘘つきだろうと、かまいはしなかった。いつもそばにいてくれるなら、他には何も必要ない。けれどそれを覚悟と呼ぶなら、ほっとしているはずなのに震えは止まらず、すぐにも止め方を教えられて、なぞって返せばそこから先は夢中となった。

 それほどまでに全ては大好きだったオムレツそっくりだと思えてならない。食らうほどにお腹の底はふわふわのとろとろに溶けて混じり合い、「幸せ」と「満足」をパーリィへ送り込んだ。

 だからこそもう二度と失いはしないんだと誓う。

 誓う強さで、見も知らぬ誰かに一生懸命しがみついていた。



 冷たい。

 感じながら目を覚ます。

 どうやら足は、そうまで痺れているらしい。裏腹と体は極上の寝床と、暖かな毛玉の上にあった。確かめられるほど辺りは、やって来た時と違ってずいぶん明るい。何もないと思っていた小屋の奥にも初めて竹箒が数本、使い古された軍手にロープが放り込まれているのを目にする。

 探り床へ手を突き立てた。そうっと体を起こしておっつけ毛玉をのぞきこむ。そこにあるのはやっぱり丸まり眠るヒツジの顔で、当然だろう、いくらなんでもヒツジが人間に変わるなんてありっこなかった。

「変な夢、見ちゃった……」

 呟きに眠るヒツジもクルリ、耳を回転させている。

 様子にくすり笑ってパーリィは、自分の足へ手を伸ばした。一晩中、こんなところで眠ったせいだ。歩き疲れていた足は痺れ切ると鉛のように冷たくなって、急ぎさすって感覚を取り戻させる。

 合間、掃除道具があるのだから、どこかに水道もあるに違いないと考えた。ここを出たなら自分もヒツジも水を飲み、人が動き出すその前に山へ潜り込んでしまおうと考える。

 だと言うのに予告もなく、前で木戸は開いていた。引きちぎられるような勢いにパーリィは肩を跳ね上げ、眠っていたヒツジももたげていた頭を起こし振り返る。

 そこから差し込む日差しは凶器だ。遮り立ち塞がる影はしかしながら、こんなところにいるパーリィとヒツジに驚くことはない。次の瞬間にも小屋の中へ上がり込むと、剥げた影にまとう白衣を晒して「やはりか」とただ呟いてみせた。パーリの痺れた足をまたいで迷うことなく、ヒツジの毛玉をわし掴みにする。

「な、何するのっ?」

 一挙一動にパーリィは唖然とし、立たせて鼻先を強引に外に向けなおした白衣へ声を張り上げた。前で白衣はヒツジの首へしっかり縄を結わえ付け、短く持った縄を引きなおしている。その力に仕方なく足を繰り出すヒツジはやはり、ただのヒツジだった。

「待って、どこ行くのっ。エムニ? そこへ連れて帰るのっ?」

 歩き始めた白衣へまくし立てる。

「ねぇっ!」

 だが白衣は答えず、思うように動かない足を引きずりパーリィも床を這いずる。

「ねぇってばっ。あたしじゃないよっ。あたしが見つけて返そうとしたんだからっ。 そうでしょ。ねぇ、ヒツジさんっ」

 呼べばヒツジは振り返っていた。パーリィへ向かい震える声で鳴き返す。

 こんなの、いやだ。

 それは言っているように聞こえてならない声だった。それともパーリィがそう思っていたからそう聞こえただけなのか。だとしてどちらがどうだろうと、もういずれかの思いであることだけは間違いない。パーリィもありったけを振り絞る。

「いやだぁっ。連れていかないでっ」

 河原に停められていたバンはありふれた白いバンだった。その後ろのドアは開いてヒツジはそこへ押し込まれる。一仕事終えて叩きつけるように閉じた白衣たちもまた、それぞれバンへ乗り込んでいった。

 小屋から這い出すだけが精一杯だ。そうしてバンはヒツジもろともパーリィの前から走り去ってゆく。

 風が吹きつけようと一段と高く昇った朝日が目を射そうと、パーリィはそんなバンから目を逸らさなかった。そこに貼られたナンバープレートを強く記憶へ焼き付ける。忘れてはなるものかと、何度も何度も心へ強く念じ続けた。





 それからしばらく後、街の一角にある工場街で多数死体は発見されている。

 犯人と思しき男はそれから数日後の朝、川に浮かんでいるところを通りがかりの住人に通報されていた。

 殺害した暴力団員はだがしかし、殺害相手の職場へ足を運んだ覚えはない、と事実を認めていない。それでも職場の警備会社では間違いなく社員たちが惨殺されており、そのうち真実は明らかになるはずだった。

 街を巡るニュースに噂は、列車火災をあっという間に過去のものへと変えている。

 おかげで言い得ぬ「雰囲気」は一つ、誰もが避けて口にしないからこそ見えぬ力でまた大きく街を包み込んでいったようだ。

 がたん、ごとん。

 乗せて列車は今日も誰かの恣意を己が本懐とすり替え、鉄橋を渡る。

 その川べりで問題の警備会社が取り壊されたのは事件が起きてから一月も経たないうちのことだった。だが二階建ての建物が消えたとして、景色は近隣の住人でなければ気づくことができないほど以前となんら変わりなく、変わらないことでむしろ取り壊しても拭えない何かをそこに強く残し続けた。

 感じ取りつつ人々はまだ笑いもするが、それが空々しいことにあまり関心がない。あの場所もまたヒツジを取り戻せたのだ。今のところは、というべき満足と安心を満喫するばかりだった。



 そうしていくらか経った、それはある夕方のことである。遠く様子を見つめて少女は一人、丘のふもとに立っていた。

 この場所を訪れることは彼女にとって二度目だったが、ヒツジを連れ去った車のナンバープレートを追ってようやく辿り着けたような場所でもあった。

 これから始めることはパパのためでも依頼人のためでもない。自分のためだと彼女は強く感じている。そんなことを考えるのは初めてだったが、何しろ全く疑いようがないのだからどこで覚えたのかなど、とるに足らないことだった。

 ただ少しばかりごわつくあの毛玉の中に、あまりある幸せが詰まっていることを思い出す。取り戻してこの街を抜け出したなら、一人と一匹で好きに暮らす夢を描いた。そのために仕事を辞めたところでなんら後悔するところはありもしない。

 いや、果たすべき義務などすでになくした後だったか。

 そう言えばここへ来る途中、山の中に熊のぬいぐるみが落ちていたのを彼女は見ている。拾わなければ、と立ち止まったのはとても不思議な衝動で、しかしながら今となってはなぜそう思ったのかが不思議でならない瞬間でもあった。

 さあ、行こう。

 空を見上げていた。

 全ては信じられるが、確かなものはまだ何もない。

 なぜなら私は私であるが、混じり合う因子のまま常にあなたでもあり続けるのだから。


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