33
「お言葉ですが、それは一体どういうことでしょうか?」
やっとパーリィから終了の連絡が入ったのだと思っていた。予定の時刻を過ぎた今、しかしながら聞かされたのはパパの不躾な指示で、落ち着けなかった気持ちもそこで一気に冷え込んでゆくのをシクラメンは感じ取る。
「ブッキングだ。エムニの飼育塔で張り込み、侵入者を警察へ引き渡す。警備会社が警備の仕事を引き受けている」
息を飲んでいた。
「だが、そのヒツジはすでにいない」
「いない?」
なおも話し続けるパパは、シクラメンの眉間へひたすら深くシワを刻み込ませる。
「研究員の過失が原因だとある。その失態を侵入者へ転嫁し、スキャンダルでセンターを潰す。警察への引き渡しも依頼に含まれている」
「そんな……」
「始末するヒツジが存在しない以上、忍び込んだパーリィに成功はない。我々は退路のあるうちに退く。しかも」
そこでパパの声はひときわ低くなっていた。
「……警備会社がやられた。何者かは不明だが全員、殺されている。私もしばらく身を隠す」
「だから捨てろと?」
「やるとすれば同業者以外、考えられない。いずれそっちにも手が回る。これ以上、深入りするな。警察沙汰になる前にお前もそこから離脱しろ。しばらく地下へ潜って私からの連絡を待て」
シクラメンは奥歯を噛み、パパはためらうことなく指示していた。その語尾がわずか遠ざかったように小さく聞こえたのは、パパが電話を切るべく耳元から離したせいだ。
「待ってくださいっ」
繋ぎ止め、シクラメンは声を張っていた。
「でしたら、これより9‐2を決行します」
救出に向かう、そう意味する隠語を放つ。
「わたしの指示に逆らうのか」
言うそれはパパの大ナタだ。振りかざされてシクラメンは、逆らったことへの恐怖より覚えた怒りに強く受話器を握りしめていた。
「あの子がこれまでどれだけあなたのために尽くしてきたとお思いですっ?」
吐き出したその手は震える。それは、これまで触れたこともないパパの胸ぐらを掴んで揺さぶってやりたいと思う力で間違いなかった。
「あの子はあなたに気に入られたくて、あなたの喜ぶ顔が見たくて、これまで体を張ってきたんです。それがどういうことか、お分かりですか? まだたったの十七なんです。好きな男の子がいて、友達とのおしゃべりが何より楽しい年頃なんです。その全てをあの子は犠牲にして、ここまでやって来たんです。そこまであなたを信じて、あなたに感謝しているんです。だのにそうも簡単に切るなどと、よくもおっしゃれたものだとっ」
高くなる声が止められない。
「何を言う」
上へパパの固い口調はかぶせられていた。
「お前はわたしが無慈悲だとでも言っているつもりか。なら何不自由することなく暮らすためにコレだけの物を与えてやったのは誰だ? 終わるたび、欠かさず褒美を取らせたのは誰だ? ショパールの腕時計などと小娘には過ぎるモノだと思うがね。でなければ自分の親を焼き殺した餓鬼に、まともな未来などありはしまい。たとえそれが過失だとしても、だ」
「今、なんと?」
問い返せば己の中で、これまでの全てが無へ反転してゆくのをシクラメンは感じ取った。いや確かにパパは言ったその後に「ふん」と鼻で笑ってみせたのだ。
「あの子は自分の身を守っただけです。引き取る際、そのことについてはお聞きになったはずでしょう?」
だからして意外なほどに冷静と、一言一句をつづることが出来ている。
「今、そっちへ近隣の二人を向かわせた。機密のためにも全てを置いて行くのは危険だ。到着したなら必要最低限だけを持たせて、共にそこを出ろ。すぐにも到着する。用意を急げ」
言葉に、受話器を握りしめたまま窓際へと走った。カーテンを引き忘れた窓から外へ視線を投げれば、心地よく眺めてきたハズの夜景は今や、そこへいつパパの手先が現れるやも知れぬ禍々しさで迷路と広がる。
「わたしはパーリィを待ちます」
「わたしの立場を理解しての物言いか」
恫喝などと今さらだろう。
「よく存じ上げた上で」
「自分の、もか」
確かめることでパパは何かを予告し、それにも迷わずシクラメンは答えて返した。
「もちろんです」
「いい返事だ」
皮肉がパパの正体をあらわにする。証拠に、初めて切れた連帯に、互いは二度と切れることない殺意で繋がった。
「ならそこで待っていろ」
それきりだ。パパは通話を切った。シクラメンもまた受話器を戻す。弾かれたように窓へ駆け寄っていた。開いてベランダの手すりを掴み身を乗り出す。階下をのぞき込む脳裏には「消される」とだけ言葉が明滅し続けていた。なら、こちらへ向かっているという何某が辿り着くその前にだ。パーリィもろとも姿をくらませなければならないと思う。
そんな階下にらしき人影はまだ見当たらなかった。跳ね返ったゴムマリのようにシクラメンは部屋へ戻る。持ち出すモノのリストは日頃から非常時に備え見繕ってあり、当座の現金、身を守るための道具。それから、と振り返ったところで二度目のベルは鳴っていた。
息継ぐ暇なく掴み上げる。
耳へあてがいながらパーリィは、すぐそこに建つ自分の部屋を見上げていた。オレンジ色の灯りは窓辺をひどく柔らかに彩ると、今すぐ飛び込んでしまいたい気分にさせている。堪えるのは大変で、だから一秒でも早くシクラメンが返事してくれることだけを待っていた。気持ちが届いたか、そのとき呼び出し音はブツリと切れる。
「あたし……」
言っただけで伝わっていた。
「パーリィ、今どこっ?」
矢のように問い返されて、聞き慣れた響きに心底ほっとし、心配されているのだと分かったことに胸もまた詰まらせる。
「どうしよう、クラオ。失敗しちゃった。だって代わりにユースケが。ヒツジなんていなかったんだよ。どうしよう。パパにっ、パパが……」
吹き出す不安に思いつくまましか並べられない。
「どこにいるのっ?」
問いなおされて、引っぱたかれたようにただ従う。
「マ、ンションの下。ひとつめの信号の角。電話ボックスあるでしょ。荷物、全部なくした。パー、顔だって見られてる。ユー……、男が待ち伏せてたんだよ。クラオ、どうしたらいい? パー、どうしたらいいの、ね、これからどうしたら!……」
「どうしたらじゃない。落ち着きなさい」
とがめるシクラメンの様子がおかしい事に、そこでようやく気づかされていた。なら覚えたはずの安堵も吹き飛び、何があったのかと走る動揺に視界がまた滲み始める。
「よく聞いて」
見透かしたようなシクラメンの一喝に、全力で口をつぐみ歯を食いしばった。視線を、それがシクラメンであるかのようにマンションの窓へ投げる。ならちょうどだ。シクラメンの姿はベランダへ飛び出してきていた。逆光のせいで影だったが、右へ左へ忙しなく動いてすぐまた部屋へ引っ込む。
「逃げなさいっ!」
荒い息遣いの間から投げつけていた。
「今すぐっ!」
逼迫した口調はパーリィの肩を跳ね上がらせ、電話越し、シクラメンの開け放ったドアの音を耳にする。
「ど、どうしてなの?」
勢いはただ事になく確かめずにはおれない。
「……パ、が……、あな、すつも……」
だが子機が電波の受信範囲を越えつつある。言うシクラメンの声は途切れ途切れしか聞こえてこない。
「何、どうしたの? クラオっ。逃げろって、どうして? そのあとパーはどうしたらいいの? ねぇ、ねぇっ」
慌てふためくうちにも通話は切れてしまう。
聞こえない声は、開かないドアより絶望的だった。食い入るように空を見つめてパーリィは固まる。
その顔を振り上げたのは、いけないことだと分かっていても部屋へ戻ろうと決心したからだ。何しろ部屋はもうすぐそこにあって、そこにはシクラメンがいて、そのシクラメンに何かあったのではないか、過る心配がもうとまらない。
戻した受話器にわずかなつり銭が落ちる。拾うことなくパーリィは電話ボックスを飛び出した。
マンションの入口はまっすぐ行って突き当り、T字路を作る道路の向こう側に建っている。見定め「おや」と目を細めた。なぜならマンションの入口は昼間からして人気がないのがいつもで、夜ともなればなおさらなのに今夜に限って人がいる。
加えて新たに人影は、オートロックのガラス戸を開け飛び出してきた。二人連れの男だ。動きはただ急いでいる、というには無理がある物々しさをまとっており、とたんパーリィは息を飲んでいた。
同類だ。
瞬間、マンションから二人を追いかけシクラメンもまた姿を現す。二人は物々しさの理由をみせつけそんなシクラメンへ振り返った。表で待っていた人影もそこへ加われば、蹴散らすシクラメンが一つに結んだ長い髪を闇に散らし応戦する。だとしてうまく間合いを取り続ける二人は、パーリィの目に手練れと映り込んでいた。
目の当たりにしてようやく、逃げなさいと言われた意味を理解する。
パパだ。失敗したから、パーリィのことを嫌いになったんだ。
最も恐れていた仕打ちに胸の奥は縮み上がり、構うことなく影とシクラメンははまた絡んで、往来の人を振り返らせる。
見つめながらパーリィは後じさっていた。
「逃げなさい」という言葉にひっぱたかれて、駆け出す。
そんなパーリィに行くあてなどない。ただまっすぐ、来た道をまっすぐ戻った。前が見えなくなったなら涙を拭い、灯る光と光をつないでひたすら走る。
息が切れたなら足をゆるめ、いつしかとぼとぼ、歩いて逃げた。
気づけば今、自分がどこにいるのか分からない。涙にぬれた顔はひど過ぎて、上げられず伏せたままで辺りを盗み見る。
そこに家のドアは並んでいる。そのどこにも見上げたベランダのように柔らかい明かりは灯り、パーリィはその中を一人きりで歩いた。歩きながら、しゃくりあげる涙を止めるためにも「ちゃんと考えて」と自分自身へ言い聞かせる。けれど考えるほど涙は止まらず、シクラメンは大丈夫なのか、そしてまた会えるのか、自分はこれからどうすればいいのか。飼育塔での事さえ混じれば、心細さに押しつぶされそうで止まらない涙を足跡に代え、アスファルトにこぼし続けた。
どうしてこんなことになってしまったんだろう。
それもこれもいるはずの場所にヒツジがいなかったせいだと、おかげで失敗したパーリィはパパをがっかりさせてしまったせいだと振り返る。事実に胸はまた詰まって、泣いてごめんなさいを繰り返しそうになり、聞かせるパパがいない不毛さに堪えて、そうか、と閃いていた。
パーが、ヒツジを取り戻せばいいんだ。
思う。
何しろ全てを狂わせたのは、そこにヒツジがいなかったからだ。取り戻せばきっと自分が殺したなんて嘘は通らなくなるはずで、むしろありがとう、と感謝されるに違いなかった。そうしてこの全てが表沙汰にならなければパパもいつものまま過ごせ、シクラメンも特性オムレツを作って帰りを待ってくれるはずだと思う。
その後また、こっそりヒツジを始末しに行けばいい。そのときパパは心から、成し得たパーリィを喜んでくれるだろう。センターだって納得してくれるはずで、これしかないと思う。
まとまった考えが、どうにか顔を持ち上げさせた。
やり直しだ。
意を決する。
けれど一番の問題は、どうしようもなく取り残されていた。
ヒツジだ。
返すヒツジをどう見つけ出せばいいのか分からない。少なくとも街の中だ。どんなヒツジだろうと、いるわけなかった。
山に街を走り、歩き続けた足はもう棒になっている。お腹もすいたけれど、とにかく一度、休まなければこの難問を考え続けられそうもなかった。
マンションから遠ざかり続けた辺りはもう、住宅地から抜けつつある。証拠と行く手に、川は横たわると流れていた。かかる橋を渡ればひとまず逃げ切れたような気がしてならず、パーリィはそのあと休んで再び考えようと思う。
鈍い痛みを覚える体へ鞭打ち土手を上がった。のぼりつめたそこで、渡れば一足ごとに崩れて行きそうなどこか古めかしい橋の前に立つ。渡ればなんだか落ちてしあまそうで、けれどこれ以上、回り道して別の橋を探す体力も気持ちの余裕もありはしなかった。パーリィは、いやな予感を振り払って足を踏み出す。
中程まで渡ってそうっと振り返った。
分かっている。崩れたりなんてしない。
橋は変わらず架かっていて、どうしてそんなことを心配してしまったのか自分に呆れ前へ向き直った。向こう岸にたたずむヒツジを一頭、目にしていた。
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