32

 めくったきりのフェンス付近に人影はなかった。潜り抜けて早く山の中へと思えば急ぐあまり足はもつれ、何もないところで吹き飛ぶようにつまずきパーリィは突っ伏す。

 覆う下草はもう夜に塗りつぶされて真っ黒だった。掴んで呻き、顔を上げ、そのずいぶん後からやってきた痛みに頬を歪める。涙の上には草が貼りついてしまっていて、払ってパーリィは立ち上がった。

 たどり着いたフェンスをくぐるがフェンスは意地悪だ。ウインドブレーカーへ噛みついてくるものだから、やめてよ、と払いのける。ガシャガシャガシャ吠えて放してくれないなら無理矢理にでも引っ張って、パーリィはついにエムニの敷地を抜け出していた。

 きっと夜のせいだ。見上げた山の木々はその先でずっと密度を増している。飛び込み、破れたウインドブレーカーを脱ぎ捨て振り返った丘で、灯りが幾つも這いまわっているのを見た。

 絡む様はまるで今にもパーリィを追いかけ捕まえようと伸びくる手のようで、その光が丘を下ってパーリィの目を射したときパーリィは、天敵に見つかった小鼠のように身を縮める。そのまま両の手で地面を掴むと、ただ斜面を蹴りつけた。

 一生懸命走るけれど山の景色は変わらない。太い幹に茂る小枝は次から次へ襲いかかって、かわすことだけにパーリィは懸命となる。でなければ風に乗って追い上げてくる人の声に掴まってしまいそうで、どうしよう、どうしよう、と頭の中で言葉を回し続けた。

 そんな自分に気づいたのは、かなり後になってからのことだ。生い茂っていた木々の隙間から街の灯りが見えてようやく、逃げ切ったのだという思いに我を取り戻してからのことだった。

 看板の中で作業員は変わらず空へ向かって止まれ、と両手を突き出している。だがその先に待ち受ける「失敗の代償」こそ逃げ切れるようなものでなく、追い立てられてパーリィは看板の後ろへ転がり出る。

 そよぐ風が吹き出す汗を撫でていた。だが気持ちいと思える余裕なんてありはしない。ないなら何事もなかったような面持ちで街へ紛れ込めやしなかった。

 思い出して初めて自分の体へ目を向ける。「あ」と口が開くのも当然だろう。脱ぎ捨てたウインドブレーカーのせいだった。ミノムシみたいに体中に落ち葉はついていて、木肌で擦った痕や、転びそうになったときの土もいたるところについている。街行く人が見たならきっと一体この子はどうしたんだろう、びっくりするに違いないそれは有様だった。

 だめ、だめ、だめ、と唱えてパーリィは、頭の天辺から落ち葉に土を払いのける。いつできたのか膝小僧に擦り傷を見つけて「キエロ」と唱え押さえつけた。傷といえば飼育塔で男と揉みあった時、かぶったアレを思い出し、頬を手繰る。すぐにもかさぶたのようになった鼻血に触れたなら、力任せとこすって取った。そうまで強か殴りつけたのだから仕方ない。パーリィの拳もまた赤目を剥いていて、こんなの女の子の手じゃない、と剥けた皮をさすって元の位置へ繕いなおす。爆発したような髪を押さえて撫でつけ少しは可愛く戻れたろうか、眉を寄せた。

 シクラメンへ連絡しなきゃ。

 思えたのは、ようやく頭が回り始めた証拠だろう。いや、まずそうしなければ直接マンションに帰るなんて危なげで、よし、とパーリィは帰りついたあかつきに頬張るふわふわの特性オムレツを想像しながら、そのときまで電源を入れない約束だった携帯電話をリュックに探した。

 そんなもの、まるきり見当たらないことに唖然とする。拳銃に、もぐに、入れていた何もかもだ。逃げる途中で振りまいてきてしまったに違いない。引き換えに得た身軽さの代償と、全て無くしてしまっていた。

 なんて自分はバカなんだ。

 夜の山はそれほどまでに視界に足場が悪かったし、おちおちしていれば掴まってしまいそうだったと言いたい。けれどそんなの言い訳にならず、また泣き出しそうになる。泣いたところでどうにもならないならパーリィは、懸命に唇を噛むと堪えてみせた。

 歩き始める。

 そうして突っ込んだポケットの中で、指は行きの切符のお釣りに触れる。五百円玉を崩したはずだから、と握って手探りで数え、途中までだったけど、どうにか電車で帰る見当をつけた。

 公衆電話なんてあったっけ。

 今にも止まりそうな思考へ鞭打ち思い出そうと試みる。監視カメラに映っちゃだめだといわれているのだから辿って来た道のりを巻き戻し、マンションの近く、通りの角にまだ電話ボックスがあったことを思い出した。

 堂々と歩く方が人ごみには紛れやすいことくらい分かっている。けれど間延びしていた建物と建物の間隔が詰まってきて、辺りに信号機が立ち並び、行き交う人の足音が間近をかすめるようになったなら、泣き腫らした顔を上げるなんてできはしなかった。

 もぐの代わりにポケットの小銭を強く握り絞める。

 すれ違う人は皆、そんなパーリィのことなどお見通しのような気がしてならない。いやきっともう知れているのだから、こうして知らないフリをしてくれているんだろうと思う。心遣いに報いてパーリィも、そんな誰もから視線を背けた。急ぎ足で券売機へ向かう。一つ手前の駅までを買うと、残りを電話代にと、残した。

 すり抜けた自動改札がいってらっしゃい、と言っている。

 帰るんだよ。

 不吉な囁きへパーリィは突き返し、ホームへ降りた。そこは家路を急ぐ人でいっぱいで、紛れこむとパーリィは列車を待つ列の一番後ろで目を閉じる。

 パン。

 その耳の奥で、音は鳴る。ハイタッチは再び軽快とパーリィの記憶で交わされていた。





 そのいくらか前になる。川べりでバン、と車のドアは閉められていた。

 あえて終業間際に足を運んだのは、実際、彼は警察を避けているからである。しかしながら部下は大事な話がある、と彼へ連絡し、それが表沙汰にできないことを彼は「大事」のニュアンスから感じ取っていた。だからして先送りにはできそうもないと、遅くに訪れた己が社屋を見上げる。

 出払っているアルバイトたちが戻って来るのもそろそろだろう。しかしながらドアを押し開けてすぐ、まったく点いていない明かりに首を「おや」とかしげていた。進むほどにどこもかしこも暗いままだと知れて、いつもと違うナニカを、あらざる緊張感を感じ取る。

 すなわち明かりをつけながら移動してもよかったが、そうしなかったのは彼の警戒し始めたことに由来しており、考えられるすべてを予感しながら二階の部屋のノブを押し込んでいった。

 窓が広く取られているせいだ。川面に反射した月明かりが、明るく部屋を照らしていた。おかげで相も変わらず散らかっているなと思い、通り抜けるにも邪魔な机と椅子をなぞってふと、吹き込む風に窓へ目をやる。

 そこで窓は割れていた。

 見据えて彼は眉間を詰める。歩み寄ったのは確かめるというよりも状況が理解できなかったためだろう。なるほど、辿り着いて足元に破片が残されていないことを知り、中から外へ突き破られたのだと理解した。ままに、その何かを追ってそうっと頭を突き出し下をのぞき込む。だが暗いせいか、それとも本当に何もないのか、闇にのまれた地面に見えるモノこそありはしなかった。

 引き戻した頭で身をひるがえす。だとすれば相当の騒ぎがあったはずで、しかしながら何も知らせてこない部下とこの静けさに最初、感じていた以上の違和感を覚えて事務所へ急ぐ。

 予兆か、そのドアは浮いていた。

 軽くノブを引けば、空を切って開いてゆく。

 光は欠片も漏れてこない。暗がりは地続きと先へ伸び、導かれて進んだそこで彼はひとつ、息を吐いた。

 足の踏み場もないとはこういうことを言うのだろう。荒らされた事務所はまさか、警察のせいだ、などとは思えない有様だった。証拠に上下を失った物の中へ目を凝らして、見知った顔が埋もれているのもまた見つける。

 結局、明日も警察は来ることになるのだろう。思うからこそ、急ぎ差し当ってを済ませなければと彼は動き出す。ここ、警備会社に存在してはならない帳簿を、ごみための中から探しにかかった。書類棚の足元に落ちているのを見つけたところで拾い上げ、こびりつく泥を払って窓際へ歩み寄る。尋ねて報告してくれる相手がいないのだから自ら目を通すしかない。月明かりを頼りに帳簿に最も新しい依頼を確かめた。

 瞬間、閉じて部屋を飛び出す。

 急ぎ階段を駆け降りた。

 何しろ話をするに荒れた事務所では物騒過ぎる。彼は車の運転席へ尻をねじ込み、同時に背広の内ポケットから携帯電話を引き抜いた。迷うことなくボタンを押して耳へあてがえば、たった二回のコールで相手は受話器を取り上げる。

「わたしだ」

 その間合いに、かかってくる予定の電話を待っていたのだと知らされ彼は舌打った。

「パーリィは向かったのか?」

 問えば返事は手短と返される。だからと言って手遅れだとは思わない。むしろ間に合ったとさえ感じていた。

「もういい。パーリィは捨てて今すぐそこから離脱しろ」

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