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 片側にある土手のせいだ。行き止まりのようなそこに人の往来はなかった。静まり返った風景は時が止まってしまったかのようで、闇がいっそう現実感のなさを際立たせる。

 そのせいか立てられた標識の足元に、ぽつねんと立つ自動販売機の向こうに、茂る植え込みのその影に、ヒツジの気配はちらついてならない。次の瞬間にも目の前へ踊り込んでくる錯覚は過り、見つかる前に立ち去ろう、繰り出すトキの足を早くさせた。

 だがそうして逃げ出せば逃げ出すほどだ。傍らを吹く風にさえ怯える自分に気づかされる。ヒツジが飛び出してこられるだけの空間全てに恐怖を覚え、今度はそんな自身に追い回されて潜り込める場所を求め逃げ惑った。

 横切り列車が前方を走り抜けてゆく。かかる橋梁を、潰れそうに大きな音を立て渡っていった。

 辿る通りはその下をくぐり抜けて伸びている。

 なぞるままトキも橋の下へと潜り込んだ。

 中程まで進んだところで塞がれた頭上に安堵を覚え、確かめるように仰ぎ見る。そこで線路は片側を土手に乗せると、もう片方を橋梁へ乗せその先を川へ伸ばしていた。上をまた、ゴオッという大音量で列車は通過してゆく。囲われた辺りに反響すれば視界は波打ち、阻んでトキは目を閉じ耳もまた塞いだ。

 しかしながら伝わる振動は押し返せない。

 侵食そのものと身を覆う。

 抗いついぞ声を張っていた。

 そうして奪い返せば類まれなる報酬は待っているはずだった。「そのとおりよ」とヴィークも特別な笑みを投げかけ、「悪事など暴いてしまえ」と囁きかける。そもそも引き合うだけの施しを与えてやったのだ。報酬を得る権利はあり、証拠にヒツジも「ワラへ火を点けろ」と前歯を剥き出していた。果てに燃え盛る群れはりありと目の前に浮び上がって、一部始終は空から撮られた映像となってテレビの中で流される。見入ればシンクの前にトキはいた。周囲には白衣が立ち、口々に放つ「待っていたよ」の声を聞く。その温かさは格別で、底知れない安堵感がみるまにトキを呆けさせてゆく。

 これは何だ、と疑う事すら出来やしない。

 むしろ失いたくないものとして、義務を果たさねばと見つめていた。

 よし、わかった。

 心もそのとき決まった様子だ。

 明日がいい。

 それも朝がいいだろうと考える。

 ぎゅうぎゅう詰めとなった群れへは中から焚き付ける方が効果的で、そのためペットボトルへ油を忍ばせてゆくことを思いつく。携え貨車へもぐり込めば、あとは振りかけ火を点けるだけだった。思い付きは完全犯罪のようで待ちどおしく、成功したあかつきを想像したところで最後の一両はトキの頭上を行き過ぎる。

 訪れた静けさに貫かれていた。

 食らって死んだのは幻で、引き換えに、知りもしない確信もろともトキは目を覚ます。指を、とたん抱え込んだ頭へ食い込ませた。記憶など引き剥がせないなら、今見た全てに声を上げる。

 様子をヒツジは離れた場所からうかがっていた。

 光景こそ妄想なのか幻覚なのか区別がつかない。

 区別をつけようとしている自分こそ、本当に本当の自分なのか。

 曖昧でしかなく、分からない自分は明日の朝、計画通り自らへ火を点けてしまいそうだった。

「手に負えない」

 言葉はもれて、トキは顔中を撫で回す。そうやって確かめずにはおれぬほど今、自分が笑っているのか困り果てているのか、泣いているのか怯えているのか、分からなかった。分からず誰かに教えて欲しいと願い、たとえそれが適当と並べた嘘だろうと、その嘘にいいように操られようともだ、そちらの方が幾らもましだと思えていた。

 ヴィークだ。

 至極単純に会いたいと思っていた。会えば自分を自分へ戻してくれるような気がして、それほどヴィークは「雰囲気」を操るのがうまかった。身を任せればこれまで通りを取り戻せそうだと思えてならない。

 連れてこの街から抜け出す。

 ヒツジともおさらば、だった。

 思い描き高架下から、よろめくように抜け出してゆく。

 周囲へ注意を払うことがもう癖のようになっていた。自身が不審者と注意を払われようと、寄って来る者がいなければそれでいい。緩く長いスロープを上り、再び土手へ上がって川に架けられた橋を見る。ヴィークの住む町はその向こに広がると、吹く風のぬるさに霧でも出そうな予感を抱いたそのときだ。トキは後じさりかけて押し留まる。

 それは橋の向こう側だった。

 ヒツジはそこに立っている。

 決着をつけに来た。

 たじろぎもしないたたずまいはトキへ意志を伝えて止まず、感じ取ったトキの目に、それはヒツジの皮をかぶった狼と映り込む。だとして逃げ出すにはもう手遅れで、参ったな、と立ち止まっていたそこでトキは強張っていた面持ちを力なく崩していった。諦め笑えばヒツジも息せき切って、襲いかかってはこない。

 互いはただ橋へ静かに足を繰り出す。

 そうして進めば進むほどだった。

 ヒツジは前足を持ち上げて、トキは背を倒していった。 

 その手が地面を捉えたなら白く毛玉は背へ生えそろい、真逆と二本足になったヒツジの背から毛玉は抜け落ちてゆく。ままにすれ違えば互いの姿は入れ替わり、ヒツジは夜風に上着をひるがえすトキとなり、毛玉をまとったトキはヒツジと橋を渡っていった。

 川で重たく魚が跳ねていた。

 あなたが想像できる限り、それでも時は正しく動いている。

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