30
結果を伝えておくことはなるべく早くがクマジリとの約束だったが、その顛末は今やすぐにでも知らせねばならぬものへすりかわっている。
転がるように工場街を抜け出しトキは、どうにか駅前まで戻っていた。そのありふれた賑わいに紛れ、尻ポケットから携帯電話を抜き出す。火事場のクソ力とふるったハンマーのせいか、それとも抜け出してきた光景の余韻なのか、そのとき初めて手が震えていることに気づかされ、他人のもののように眺めて一人、足を止めた。
挙動は己にさえ奇異と映り、なら周囲を行く他人の目にこそそう映っていると思えたが、まるで知らぬフリを通すことで関わりを持たぬようにと無関心そのもの、ひたすらトキを追い越してゆく。
いや事実、そうしたくなるほど面倒事はすでに、前任者によってばら撒かれた後だった。誰だってこれ以上、うんざりしたくないはずだと思える。
震えを止めて今一度、強く手を握りなおした。
感覚の戻った指先で改め携帯電話へ触れる。
耳へあてがいながら事務所を目指した。
だが受話器が取られる気配はない。
いくらか待ち、聞き飽きた呼び出し音を切っていた。どうしてこんな時にと思うのは、たとえクマジリが席をはずしていようと事務員がいるはずで、「どうなってんだ」とこぼし蘇った光景にすぐさま口を結びなおす。
そう、出がけに警察とすれ違ったのだ。もしあの後もう一つの帳簿のことが知られていたなら、のうのうと受話器を取っている場合でこそない。
とうに忙しさのピークを過ぎた飯屋の暖簾が暇を持て余し、揺れていた。裏腹と忙しなく回る頭でトキは、あれだけの死人が出た場所から何も告げずに立ち去った自分が、警察が立ち入ったような場所へ向かっていることの危うさに気づかされる。
いっそこのまま姿をくらますか。
積まれた土手の下、事務所へ向かいながら考えた。何しろこれ以上、関わって得るものなどありそうもなく、どうせつながりかかわるならどれほど手強かろうと人生にはヴィーク一人で十分だと思いもする。
前へ事務所は見え始めていた。その二階で窓は閉められていることを示すと、貼り付けられた社名を順番通りに並べている。そこに人影はない。何食わぬ顔で正面へ周りこめば捜査のための規制線はおろか、警察と思しき車両すら停まっていないことを見て取った。
しばし拍子抜けし、つまりそれなりに緊張していたのだと省みつつ中へ入る。寝床と拝借していた更衣室のドアを左手に、二階へ伸びる階段を見上げた。手洗いはそんな階段の真下、デッドスペースを利用して造りつけられ、邪魔にならない所に現場で使用する三角コーンや安全ベストに表示器が変わらず放置されたままになっているのを確かめる。
やはり警察が手を入れたようには見えない。それでも上がるその前、二階へ耳を澄ませた。少し静かすぎやしないか。うがり、階段へ足をかける。たどり着いたそこで、あれだけ綺麗に片付けた長テーブルの散らばりように「ったく」とこぼしていた。
右へ左へかわしたその後、事務所のドアをノックする。
返事は必要ない。
ドアを引き開けていた。
いっときここがどこだったのか、分からなくなる。嵐にでもあったかのような有様だ。事務所は徹底的なまでに荒らされた後となっていた。壁際でスチール棚は倒れ、島を作り並べられていたデスクに椅子はひっくり返り、紙類やパソコンが、電話機にこまごまとした文具が、足の踏み場もないほど床に散らばっている。
まみれて知った顔はあった。まさかと室内、足場を探りながら近寄れば、折り重なる椅子と書類の下に事務員は一人、眼を剥き横たわっている。つまりと振り返ったそこにもう一人、うつ伏せと倒れるつむじはあった。その事務員とハの字を作る位置にアルバイトの女の子もマネキンかと転がっている。最後、クマジリは、倒されたデスクの下敷きになって尻をこちらへむけ見つかっていた。
何をどうすればいいのか分からず「誰が」と「なぜ」が交錯する。それをパニックというなら確かに頭の中は真っ白で、泳ぐ目にそれはとまった。
凝視して身を引き、トキはぎこちなく首をかしげる。気づかなかっただけでそれは事務所中、あらゆるところに白く点々とこびりついていた。所によっては擦って尾を引き伸びており、トキは恐る恐ると指で触れる。すくいとり、ザラつく感触のそれを指の腹でそうっと押し潰してみた。
土だ。
吹けば飛ぶほど乾き切った土だった。
無論、事務所にそんなものがあるはずもない。つまり持ち込んだのは誰だ、と過ったところで顔を上げていた。
パラパラと、記憶で土は額へ降る。
ヒツジか。
処分するべくソウマに雇われた事務所なら、確かに襲われる理由はあった。もちろんそんなヒツジたちがどうやってここを突き止めたのかなど知りはしない。だがすでにクラブの会員を三人も殺したというのだ。前任者さえ従わせたその「雰囲気」で、全てを知るからこそ知らないフリで他人を決め込む駅前の誰かに案内させたのかもしれなかった。
つまり次は自分か。
手に負えない。
きびすを返し、耳にしていた。
足音だ。
歩いて、などと穏やかではない。乱暴と束なり、猛烈にそれは階段を駆け上がってくる。しかも刻むリズムは明らかに二本足ではない。
まさか、と思えば背にした事務所の壁からもバリバリと音は聞こえていた。弾かれ振り返ればそこで、壁から飛び出たヒツジは三頭、宙で身を躍らせている。そうして着地したヒツジは幻覚でもなんでもなく、散らばるファイルを踏みつけ横滑り、立ち上がってはすぐさまデスクへ飛び上がった。蹴り出しトキへ大きく跳ねる。
「クソッ」
背にして部屋を抜け出していた。返すきびすでドアの傍らへ身を貼り付けたなら、開いたままのそこからヒツジは矢のように吹き出してゆく。のみならず足音通り階段を上がって、真向いからもヒツジは押し寄せた。
まずいと事務所へ逃げ込みかけて、信じられまいと壁から現れたヒツジに身を切り返す。また壁抜けなどされてはたまったものじゃないと、散らばる長テーブルへ飛び上がった。ならつけ過ぎた勢いに滑ってテーブルは寒気のするような音を立て、上でバランスを取りなおす。その目がとらえるのは川に沿って積まれた土手で、二階のここからではもう、すぐそこにさえ見えていた。
ほかにないのだ。
向かって伸びる長机は滑走路か。
トキは駆け出す。
動きに吸い寄せられるようにヒツジたちも身をひるがえしていた。
背に引き連れて貼り付けられた「警」の字を突き破る。無数のガラスと群れて宙へ飛び出した。そうして初めて思いのほか土手が遠いことを知るがもう遅い。
受け身を取るも意味をなさない。
斜面へ刺さるように肩から落ちる。呻いて転がり、土手を滑った。止まらぬ勢いにしがみついて、仰いだ空に同じく窓から身を投げたヒツジの腹を見る。
しがみついたばかりの斜面を押し出していた。
ヒヅメはそこに突き立って、転がったその先を二頭目に塞がれる。
跳ね起きたなら前へヒツジの顔は突き出され、その鼻先をトキは咄嗟と掴み返した。力に抗い目を剥くヒツジはもうヒツジでなく、噛み付かんと悶えて吠えるただの獣だ。
ままに、のしかかられて潜り込ませた足で、柔らかい腹を蹴り上げた。食らってヒツジはそれこそ毛玉と転がり落ち、起き上がろうとしたところで二頭目に視界を塞がれ、引き剥がさんと毛を鷲掴む。目と鼻の先で長い前歯が空を食んでいた。睨みつけて抗い、トキは己が尻をとにかくまさぐる。ロッカーから持ち出したナイフが触れたところで抜き出し振って、飛び出した刃を鷲掴みにした首根っこへ突き立てた。
瞬間、暴れたヒツジだったが、抜き去ったとたん力を失い毛皮と化して、襲いかかっていたはずのトキへただ覆いかぶさる。
体中で払いのけてはみたものの、間も空からヒツジは次々、降っていた。
かいくぐり、三頭目を切りつけた。
囲う二頭の足へ闇雲に刃を振るい、どれもがもんどりうって土手を滑り落ちてゆくのを肩を揺らしてただ見送る。残る力を振り絞ったなら、きつい傾斜を上りかけて新たな一頭に食いつかれ、もつれてもろとも斜面を転がり落ちた。下草を掴むとどうにか上下を取り戻す。
振り返ればそこに、同じく立ち上がらんとヒツジは身悶えしていた。
拳を握る。
肩が抜けるほどにだ。
その横面めがけ振り抜いた。
食らったヒツジの鳴き声は豚のようで、浴びながら再び裏返ったその脇腹へトキはナイフを突き立てる。抜かず一気に切り割けば、暴れるヒツジは緑に赤をこすりつけて土手を果てまで落ちていった。
見送るアゴから汗がしたたる。酸欠の頭で次を考えるなどままならない。だからして無防備極まる背中を押しつぶされ、「だぁッ」と吐いて払い落とした。振り返ったそこでヒツジは一頭、興奮に口から泡を吹いている。あのどこを見ているのか掴めなかった目はそのとき確かに正面へ寄ると、たちまちコイツだ、トキに言わしめた。倶楽部の屋上でただ一頭、見下ろしてみせたヒツジだと、放たれる「雰囲気」から確信する。
そんなヒツジの後ろ脚に乗った体重が、トキへ向かい放たれた。受け止め、耐えきれず背から倒れ込めば、かぶりつかれそうになって首をひねる。そんな目の前をヒツジの耳は何度も往き来し、そこに刻まれた文字もまた「ツバメカワ」とちらついた。
冗談じゃない。
火を放たれたから、点けさせたのか。
「ワラに火が移ったらどうするッ」
耳を掴んで唸ったはずが、口から飛び出した言葉は誰のものか、不手際をいさめていた。
じゃあ丘で一服してくるさ。
応えるヒツジに息をのみ、まさかと疑って、とんでもない幻聴だとうろたえる。「何しろ彼女は自分の彼女でこそないはず」で、それこそ何の話かとコンクリートの冷たさが尻から這い上がってくるのを感じ取った。つまり満足と引き換えに引き金を引く権利こそ自分のヒツジならあるはずで、そして公にできない「依頼」にふけるのが倶楽部の醍醐味なら、火をつけたところでこれもその一環に過ぎない……。
叫び声を上げていた。
噛みつかれた腕を振り払う。
それとも暴走しているとしか思えない思考のチャンネルを、どうにか切り替えるためだったのか。どちらだろうと、もうどちらも尋常にない。
溜めた力を全身で解放する。これが最後と、トキは渾身の力でヒツジの腹を蹴り上げた。態勢は巴投げのようで、勢いにヒツジの体も宙を舞う。裏返ってゴムマリのように跳ね、くねらせたそのあと斜面で跳ね起きた。
ぜいぜい、と肩で息するトキへヒツジは振り返る。
だが襲いかかろうとはしない。
そこからじっと、ただ見つていた。
いつしか日は土手の向こうに落ちている。代わりと灯されたヘッドライトが白く灯って街をくまなく這い回っていた。
背にしたヒツジは腹を蹴られたことなどもう忘れたような面持ちだ。ままに、後ろ足を静かに引く。それきりくるり身をひるがえした。痛み分け、とでも言うつもりか。軽快な足取りはまるでアルプスの山でも下りてゆくかのようで、土手を下るとその姿をやがて闇の中へと消し去っていった。
見送ってもなおトキは、ヒツジの消えた暗がりを睨み続ける。立ち上がることを思い出せたのは乱れきっていた息が落ち着き始めてからだった。腰を浮かせてよたつき、その場に再び座り込む。立ち上がろうと力んで脇腹へ痛みを覚え、骨でも折れたかとただ笑った。
四つん這いで土手を登る。
ヒツジは再び襲ってくる。
そんなトキへ違えようなく「雰囲気」は、ヒツジの企みを伝えていた。だとして助けを求められるような相手こそもうおらず、ひたすら逃げろ、と土手へ上がる。遠ざかるためだけに重い体を引きずり、あてもなく川上へ向かった。見晴らしのよさに危険を感じ、再び下って土手沿いの細い通りをなぞり歩く。
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