29

気分はまるで殴られたみたいで、それくらい受けた衝撃にパーリィは一瞬、動けなくなる。それでも聞こえてきた方へ、固まったような体をゆっくり向けなおしていった。

 壁の凹凸は柱だろうか。窓はそんな柱の高いところにはめ込まれ、投げ入れる光でむしろ窓の下を暗く影で塗り固めている。だからはっきり見えはしないけれど、確かに人はそんな柱の影に立っていた。

 男だ。

 声の通りのシルエットに、パーリィは眉へ力を込めた。

 ずっとそこに潜んでいたんだ。

 頭の中で舌打ちする。

 すなわち「待ち伏せ」されていたことに、なるほど今さら納得していた。だからフェンスは破られたままで、監視もいい加減で、ヒツジはここにいないんだと思う。全ては忍び込ませるために違いなく、そうするわけなど捕まえてパーリィの企みを表沙汰にしたいからなのだと確信する。

 逃げなければ。

 センターのために。自分のために。なによりシクラメンにパパのために。けれど男は放っておけず、なんとかしなければ、と思うほどに散っていた気持がひとところへ集まり始めたのもまた感じ取る。

 ウソのように冷えてゆくその頭は訓練の賜物だ。

 そんなパーリィの前へまた一歩、男は足を踏み出す。つま先が差しこむ月明かりを踏みつけて、カーゴパンツがだらしなくかぶさったスニーカーは、赤くパーリィの目に映った。

 そんな男に力でかなうはずもない。だからして右手の拳銃を確かめ、じわり握りなおしていった。五本の指がしっかとグリップへ絡みついたところでそら今だ、と体の中から上がる声に背をたわませる。支えきれなくなったところで一気に放つとパーリィは、渾身の力で床を蹴りつけた。

 つけた勢いは男を驚かせるためもあったのだから、とたん動きを止めた男は狙い通りだ。

 見据えて銃口を振り上げる。もぐごともう片方の手を添え小気味よく引き金を絞り続けた。何しろ男の胴体はまだ暗がりの中にあり、定めた狙いは勘に近かく、だからしてパーリィは次々と弾を放つ。

 逃れてシャツがひるがえっていた。

 逃れられず銃声は飼育塔の中を跳ねまわり、すばしっこい男は完全に柱の向こうへ身を潜り込まてしまう。

 靴底をコンクリートへ叩きつけパーリィもまた立ち止まれば、慌ただしかった気配はそこでふい、と途絶えていた。

 銃声の残響さえ消えて辺りを静けさが包み込む。ともない耳は腫れ上がったように音を求めて過敏となり、応えて少し上がった自分の息遣いだけを邪魔なほどに響かせた。

 かき分けパーリィは果てから微かと伝わる男の気配を手繰り寄せる。拳銃は下ろさない。ままに男の一挙一動を感じ取りながら柱の陰へゆっくりと、足を滑らせ回り込んでゆく。ままにパーリィもまた天窓から差し込む月明かりを離れると、同じ暗がりの中へ潜り込んでいった。

 邪魔だった光のベールは剥ぎ取られて、暗いけれど鮮明さを取り戻した視界に潜む男の厚みが浮かび上がってくる。大きく上下する胸が、草むらに隠れて息をひそめる野兎のようだった。そこに外さず仕留めるだけの面積を確保するには、あと一歩と半分、移動しなければならないだろう。

 拳銃に添えた手からぶら下がるもぐが「気を付けて」と囁きかけていた。言葉が「今だよ」に変わったのは次の瞬間で、そのとき新たな声もまたパーリィの片側から投げ込まれる。

「あっ!」

 咄嗟に通路へ目玉を返していた。立っているのは着込んだ白衣がすぐにも研究塔の研究者だとわかる男で、しかしながら呼び出されて駆けつけたとして、研究塔はこれっぽっちの時間で辿り着ける距離にない。

 まだ他にも待ち伏せてるの?

 不安が噴き出す。

 瞬間だ。

 大きな何かはパーリィの視界へ割り込んだ。

 柱に潜んでいた男だ。

 慌てて視線を引き戻す。

 間に合わず体を弾き飛ばされていた。

 尻より先に背は床へつき、それでも両手だけは投げ出していなかったなら、壁と真上に現れた男へ唸り引き金を引く。驚き男は飛び退いて、白衣が悲鳴を上げていた。ここぞでうつ伏せと身をひるがえし、押しやった床を蹴りつけパーリィはただ駆け出す。

 はずが、掴まれたジャージに引かれた身をのけぞらせていた。すかさずもう片方の手もまた伸びてきたなら、もう死にもの狂いだ。パーリィは肩を揺すって振り払い、その間にもジャージのジップを引き下ろす。袖から左手を抜いて銃を持ち替え、回転するように残る右腕もまた抜くと、ジャージをするり脱ぎ去った。

 手の中に残った抜け殻を床へ叩きつける男は、動作がいちいち大きい。合間に返したきびすで外へ向かう。はずが食らったタックルにパーリィは前へ吹き飛ばされていた。

 手をついたけど、打ちつけた胸に息を詰める。

 呻いて振り返ったそこで初めて、両足へすがりつく男と目を合わせていた。

 放せ、とその脳天めがけパーリィは拳銃を振り下ろす。飛び来る平手にアゴを跳ね上げ、ジンジンする唇で銃を突きつけ返した。だが近すぎた銃身は掴まれると、奪い取られまいとした体を仰向けとひっくり返される。上へ男は馬乗りとなっていた。自由になったけれど何の用も足さなくなった両足をパーリィは思いきり振り上げる。何一つ手ごたえがないまま力負けした腕を拳銃ごと床へ押さえつけられて、すかさずもう片方を振り上げた男の喉へ叩き込んでやった。食らった男は鈍く呻くが、今だ、と身をよじったところでまたもや頬をひっぱたかれる。負けずパーリィもその鼻柱を殴り返せば、動じぬ男に今度こそ加減なくひっぱたかれて脳ミソを震わせていた。

 やおらぽたり、ぽたり、と降る生暖かい感触が頬を濡らす。

 我を取り戻してパーリィは目を瞬かせた。

「いい加減、諦めろッ」

 鼻血を滴らせた男がそう吐きつけている。

「ウルサイっ。ヒツジをどこへやったぁっ!」

 怒鳴り返して拳をふるうが、食らうものかと身を引いた男にはもう届かなかった。

「そんなものは、とうにいないんだよ。オマエが殺したんだろうが」

 言うのだから耳を疑わずにはおれないだろう。

「研究員の過失でヒツジが消えたなんて、言えねぇってよ。代わりにあんたが責任を、いや、センターが責任を取るんだ。あ? そうだろ? こんなところへヒツジを探しに来るモノ好きなんて、センターの手先くらいだって話だ。違うのか?」

「そ、んな……」

「たく、昨日の今日で来やがるとは。俺の日給、どうしてくれんだよ」

「……嘘だ」

 パーリィはただ呟く。

「ああ、嘘だ」

 答える男に後ろめたさはこれっぽっちもない。

「だとしてあんたのいうことを、誰が信用すると思ってんだ。おら、警察、いくぞ」

 吐きつけパーリィの胸倉を鷲掴みにする。ままに突き出されてしまえばそれこそ全てのオワリで、引き剥がさんとパーリィは引っ張り上げようとする男の腕へ掴みかかった。

「あっ、あたしはヒツジなんて、やってないぃっ! そんなの嘘だ。嘘つきはお前の方だぁっ!」

 様子を男はさも愉快そうに見おろし、びくともしない腕をパーリィは引っ張り叩く。ボタンの留められていなかった袖口は勢いに乱れて、そのとき大きくめくれ上がった。筋張った手首の青黒い十字架は、叫ぶパーリィの目に飛び込んでくる。

 その先端は全て、チューリップのように先を割ると開いていた。

 バーコードのようなローマ字は、ほかで見た覚えがない。

 いやそれ以上、あれほど眺めて比べっこした腕は、そこにあった。

「ゆ、ゆーすけ?……」

 聞こえて男も動きを止める。穴が開くほどだ。パーリィを見つめ返したかと思うと、言った。

「……誰だよ、オマエ」

 とたんパーリィの体は震え出す。

 だってそんなはずなどないのだ。パーリィの知るユースケはBMXでプロを目指していて、もしかしたら今日だってスポンサーとの契約を取りまとめているかもしれず、そんな話が舞い込むくらい皆が注目するカッコイイ男の子だった。契約が決ればパーリィを試合会場へ招待すると言ってくれた、優しい男の子のはずだった。そしてそれくらい仲のいい二人は恋人同士ってことに違いなくて、シクラメンにだってそう自慢したところで、証拠に川が見える事務所の二階で交わしたハイタッチには二人にしか分からない阿吽の呼吸が潜んでいて、だからもうパーリィはユースケに会っちゃダメだ、とも思っていたのだ、と考えたところで息をのむ。

 だって決っている。そもそもパーリィはユースケに会ったことがない。だのにハイタッチを交わした事務所だなんておかし過ぎて、あるはずない記憶は生々しくも、そのとき鳴った音を耳の中でこだまさせていた。

「突っ立ってないで、早く警察を呼んでくれッ」

 吹き飛ばして、男が白衣へ怒鳴りつけている。

 そんなことさせられない。バレてしまえばパパはパーリィを一生、許さないだろう。シクラメンだって二度と特性オムレツを作ってくれなくなる。パーリィが好きだったユースケだってもうどこにもいないなら、誰一人としてパーリィの前から消えてなくなる。

 嫌だ。

 そんなの絶対、許せなかった。

 ぶつけて吠えたその顔は、真っ赤に腫れあがるとめくれあがってサルどころか鬼と化す。その鬼は口を大きく開けると、胸倉をつかんで離さぬ十字架へ食らいついた。「ぎゃあ」と男が悲鳴を上げようとも、そんな男にこそユースケの十字架は似合わないのだから、返せとそこから毟り取る。パーリィの口の中に鉄の味は広がって、暴れる男が初めてパーリィを払いのけた。床へ打ちつけられたパーリィの頭はごうん、と音を立て、尻をすった男も上から転がり落ちる。

「なっ、なんてことしやがんだァ。この女ァ」

 恐怖に縮みあがった目がパーリィを見ていた。そうして押さえた腕からは血は止まることなく流れ落ち、見据えてパーリィは、少しクラクラする頭を持ち上げてゆく。立ち上がって口の中に残るものをペ、と床に吐き出した。それでも前歯の裏にナニカ残って、指で掻き出し弾き飛ばす。

 光景に、一目散と白衣が逃げ出していた。

 そんな白衣が扉を閉めてしまえば、ここから出られなくなってしまうかもしれない。過るが早いか追いかけパーリィもまた追いかけ走る。

 なら白衣はすでに格子の向こうへ回り込むと、焦るあまり持て余す十本の指で南京鍵をかけなおそうとしていた。そんな格子へパーリィもまた体当たりするように食らいつく。僅差で鍵はかけなおされて、白衣は鉄格子から弾き飛ばされた。それきり悲鳴を上げると逃げ出してゆく。だとしてパーリィは迷わない。鍵へ向かい引き金を絞った。二発も浴びせたなら十分で、蹴りつけ開き、くぐり抜ける。そうして振り返った白衣と目もまた合わせた。

 やっぱり閉じ込めるつもりだ。

 考えは伝わって止まず、だからこそ逃げる真っ白い背中へ銃口を持ち上げる。ありったけの集中力を振り絞ると、吐きだす息に沿わせて引き金だけを軽く引いた。

 吊られていた糸が切れたみたいだ。崩れ落ちた白衣はパーリィの視界から消えてなくなり、パーリィは再び両足へ力を込める。

 加速するまま転がる白衣を飛び越え、ゲート脇に置いていたリュックをさらった。その時もその後も、詰め込んでいた物が幾つかこぼれ落ちたけれど、後戻りする余裕こそない。

 飛び出した外は暗くなっていた。

 やって来たとおり、パーリィは夜の丘を駆け下りてゆく。

 気づけばもれる嗚咽を飲み込みながら、流れる涙もそのままに風となって山へと駆けていった。

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