28
うろこ雲と言うけれど、赤く染まり始めた空を流れるそれはまるでヒツジが群れで飛んでいるかのようだった。見上げたパーリィは今、シクラメンが用意したとおりを辿ってY字路へ差し掛かろうとしている。道は字のごとく行く手を二つに分けると、左を濃い緑の中へ、もう片方を緩い上りで街の中へ消し去っていた。
競い合うように並んでいたマンションも、店舗ももう、辺りにはない。代わりに続く塀が、広い敷地を連想させる一戸建を間延びした間隔で並べていた。だからか人気もめっきり失せて、ゆえに信号機に横断歩道も必要なくなると、Y字路はまるで誰かの描いた風景画とパーリィの前に広がってもいた。
そんなY字をパーリィは、シクラメンが指示した通り左へ入る。足取りが自然、急ぎ足となってゆくのは、奥が行き止まりであることを知っているからだ。そんな場所へ女の子が一人向かうなんて不自然で、だのに誰かに見られてしまえばきっと記憶に強く残るはずだと思えていた。「やってはいけないこと」にほころびがでるのはたいがいそんな類の証言が元で、避けたいからこそ歩調はなお早くなってゆく。
右手に、せり上がる山すそが見えだしていた。
だからしてチラリ、背後もまた盗み見る。だが道は山を回り込むように伸びており、あった街並みはもうしなる枝葉に隠れて見えなくなっていた。安心した、なんていうのは早すぎると分かっていても、今にも駆け出しそうだった足はさかいにいつものリズムを取り戻してゆく。覚えた余裕に視界さえ広がってゆくかのようだった。
おかげで誰にも手入されていないのは想像とおりだったな、と気づかされもする。辺りに落ち葉はずいぶと吹きだまっていたし、それはやがてアスファルトを覆い隠すほどの量となって、湿り気を帯びた腐葉土とパーリィの前に体積していった。
「立ち入り禁止」
上へ、両手を突き出し侵入を拒む作業員の看板は立てかけられている。隔てた向こうは土砂崩れか、土砂が大量に流れ出した跡はあった。しかもそれは起きてずいぶん経っているらしく、上に細いながら幾本もの木を生やしている。
これなら越えて道の向こうからひょっこり、誰かが姿を現す心配もなさそうでならない。
前にしてパーリィはぴょん、とひとつ跳ねる。リュックを背負いなおして念のためと、もう一度、背後へ振り返った。
さあここからだ。看板の向こうへと足を踏み出す。その足はやがて小走りとなり、ついに駆け出して勢いのまま崩れた土砂の上へ飛び上がった。生える小枝をかわして進み、埋もれていた大きな石を踏んで斜面にひょろりと生えた木立ちを掴む。引き寄せたなら山肌を上へ上へと登っていった。
どの木もそんな傾斜に逆らうように生えていて、パーリィを助けてくれる。遠慮なく手をかけ、張り出した根っこへ足を乗せ、押し上げた体を木の向こうへとまわした。
さすがに誰も来ないと分かっていても、どうしても大胆になれない。その幹へもたれかかって身を隠し、背からおろしたリュックの口を開く。着替えの黒いジャージを引っ張り出してはおり、アゴまでジッパーを引き上げる。ウインドブレーカーの黒いズボンへ足を通し、中身の減ったリュックの口を絞りなおした。背負えばこの先、生い茂る枝にリュックを引っかけてしまいそうで、少し邪魔だけど体の前で担ぐことにする。
時間を読んだ。
辺りが薄暗いせいで急がなければと思っていたけれど、まだ十分、余裕はある。
もたれかかっていた木を背で跳ねのけた。
落ち葉を踏みしめフェンスの切れ目までの移動をパーリィは開始する。
慣れないせいだ。落ち葉に取られた足が幾度か斜面を滑り落ちかけた。道などないのだから行く手を塞いで生える木を、右へ左へかき分ける。たちまち汗は吹き出し、息は上がって、立ち止まって深呼吸したなら時計に備えつけられた磁石で方向を確かめまた前進する。
そんなパーリィの胸元でもぐは頑張れ、頑張れと励ましてくれていた。声はパパの声にも重なると「もちろん」と答えてパーリィは何度だろうと山へ挑み続ける。
目指すフェンスまでの距離は直線で百メートルぽっちだった。けれど真っ直ぐ進めないせいでもう三十分余り、費やしていることを知る。
と、続いた登りが下りへ様子を変えていた。同時に木々の間からチラリ、下方にその姿はのぞく。
フェンスだ。
斜面を下った先、山の茂みが途切れたなだらかな丘の上に、三メートル足らずの高さで上の方をネズミ返しよろしく「く」の字に曲げた金網は見えていた。
とたんパーリィの足も勢いを取り戻す。よく見たくて急ぎ木の間を潜り抜けた。ネズミ返し以外、有刺鉄線が張られているとか、電流が流されているとか、仕掛けはなさそうであることを見て取る。たちまち薄れる緊張感に、触れるどころか越えてもいいのだよ、と柵が囁きかけているようにさえ感じていた。
切れ目はまだこの先だ。
視界にフェンスを捉えながら、パーリィはなぞり移動を続ける。
時計が五時を過ぎたところで目的の箇所へ辿り着いていた。
歩きずくめの足を止める。
屈めた体で葉の間をのぞきこんだ。フェンスはそこだけが明らかに人の手でコの字に切断されわずか、浮き上がっている。隙間は、パーリィならリュックを抱えたままでも潜り抜けられそうで、同時に本当に情報通りなことに感心した。
時刻は午後五時二十二分。
あと二十分ほどで定刻だ。
パーリィはフェンスの両端を目で追える限りなぞる。人がいないことを確かめてから木々の隙間に屈みこんだ。リュックから持ってきて正解だったワイヤーカッターを掴み出し、万が一に備えてハサミのようなそれを握って動作を確認する。どこにも問題がなかったなら尻を歪な地面へつけた。斜面に背を立て、リュックごとヒザを抱えて小さく丸まる。息を殺せば長いようで短い定刻までの時間は、これからに備えて集中力を高めて行くのにちょうどとなった。
邪魔して、あれほど気がかりだった虫が寄って来る気配はない。ただパパが喜んでくれるならと、そしてどれほどパパに感謝しているのかを伝えることができるならと、成功のイメージだけを閉じたまぶたへ焼き付ける。
その中で躊躇なく動くパーリィは、いつだって力強い女の子だった。襲い来る炎を次から次にかいくぐり、追いかけ迫りくる邪な企みを、みんなのために明かしてねじ伏せ、名声と報酬を受ける姿を想像する。
あれ、と首をひねった。
それはなんだかテレビアニメのような光景で、けれどそんな番組を見た覚えはなく、何よりこれから始まる「やってはいけないこと」とはまるで違う。
ともかくとパーリィは、もう一度、息を整えなおした。理想の姿を手繰り直し、体の中へ広げてゆく。
いや理想なんかじゃなく、それがパーリィ自身なのだ、と思い直したところでまぶたを開いた。
空はいつしか暗い色を広げ始めている。
丸めていた背を伸ばし、その昼と夜の狭間へ向かい立ち上がった。下る斜面へ吸い込まれるように体を倒してゆけば、連なり足も繰り出されて、積もる落ち葉を踏みしめ斜面を駆け降りる。勢いがつきすぎたなら、立てた踵で落ち葉を割いて一気に滑った。山から飛び出しそうになったところで尻もちをつき押し止まる。すぐにもひるがえした身で地面へ張り付くように低い姿勢を取り直し、フェンス脇へと駆け寄っていった。
周囲を、大袈裟にではなく小さな動作で素早く見回す。
切断されたフェンス部分へ手をかけ、開きにかかった。固くてびくともしないなら握りしめていたワイヤーカッターを持ち上げ、何度も刃先をあてがいなおしながらねじるように、残りの部分を切断してゆく。
ひとつ、ふたつ、みっつ。
切り落とさなくとも手で押せば開く程度に金網は動き出して、パーリィは先に荷物をフェンスの向こうへ投げ入れた。追いかけ自分もくぐり抜ける。
前へ、そんな自分の影は長く伸びていた。どこかから見られていそうでワイヤーカッターを捨て置き、ともかくその場を離れる。
その行く手に伸びるのは、ごく緩やかな上り坂だ。飼育塔らしきシルエットがもう見えている。
息が切れる前だ。コンクリート製の飼育塔はやがてはっきり視界へ映り込んでいた。入口が下り斜面側にあることはもうシクラメンとの打ち合わせで知っており、だから研究塔から誰かがやって来ても見えないよう、パーリィは飼育塔の影に隠れるようにして真正面から近付いてゆく。
相変わらず辺りに人の気配はない。それでも幾度となく確かめ、飼育塔の城門のような鉄扉に背を添わせ立ち止まった。目の高さにある、カバーのかぶせられたパネルを開き、スリットがついたセキュリティーシステムの下部、テンキーへそのままの態勢で手早く暗記してきた数字を入力する。
先にもぐりこんでいたセンターの誰かさんは、本当に優秀だと思えて仕方ない。それとも管理がずさんなのか。フェンスに続いて番号もまた変更されていなかったなら、開錠の金属音が鈍く響いたそのあと扉はゆるゆる、開いていった。
見届け初めてパーリィは添わせていた背を浮かせる。
入口を前に仁王立ちとなった。
非常灯を灯した通路はそんなパーリィの前にまっすぐ伸びて、奥からあふれ出す動物の臭いを体中で感じ取る。まとい、中へ身をひるがえし、外から見えなくなったところでリュックをおろした。底から銃を掴み出せば太陽はもう限界まで低くなっていて、弾を装填するパーリィの横顔を赤く照らし出す。
内緒だよ。
太陽へ呟いて、パーリィは安全装置を解除した。ずっとリュックの中で息をひそめていたもぐの手を取る。連れて行ってもかまわないだろう。引っ張り出した。
「だって、ヒツジさんだもんね」
むしろリュックの方が邪魔で、その場に置いてゆくことにする。
さあ、ここから先はシクラメンが言っていたように何も考えず、考えるヒマもないまま素早くヒツジを始末して離れようと思う。思うままに通路の奥を見すえ、軽く息を整えた。ならその時ついに太陽は地平線の彼方へ消え去って、パーリィの足元から伸びていた影を消し去る。
味方につけて駆け出した。
通路には空調の音も、カメラらしき物影も、それ以上、ハイテクを駆使したようなセキュリティーさえ見当たらない。やがて現れたのは南京錠がかけられただけの鉄格子で、解除してしまえばコンクリートで塗り固められた明かり一つない冷たい通路はさらに奥へと伸びた。
途切れて出口が口を開く。
だからといって飛び込むなんて無防備すぎて、駆けていたスピードを緩めてパーリィは出口の脇へ身をすり寄せた。乱れた息を大きく吸ったり吐いたりしながら、そうっと出口の向こうへ視線を投げやる。
早くも昇っていた月が、くりぬかれたようにあけられた頭上の窓から白い光を投げていた。そこに柵は、鈍く光りを放ち円を描いている。辺りにはワラが散乱し、目が慣れるほどに水飲み場の桶らしきものも見えていた。
他には……。
右から左へ視線を走らせるけれど、肝心のヒツジは見当たらない。
嘘だ。
思わずにはおれないだろう。だから体も勝手に動き出すとパーリィは、もぐを振り回して柵を掴むと中へ身を乗り出していた。けれど案外、広いそこに死角なんてありはせず、やっぱりヒツジはどこにもいない。
どうしよう。
少しパニックに陥りかけている自分を感じ取る。言葉は何度も頭の中を回り、だからといってヒツジを探して外をうろつくことなど危険すぎた。
つまりこれは失敗なの?
考えは過り、何事もなかったように引き返すことを考える。そうすればもう一度、挑戦する機会は残されるはずで、そのときまたやり遂げればいいのだと思う。
今日はだめ。
決まればもぐを胸まで引き上げていた。ぎゅっと抱きしめ一歩、二歩、がらんどうの前からあとじさる。
瞬間だ。
「何か、ご用が?」
声は聞えていた。
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