27
弾かれたかのごとく振り返っていた。
今しがた出てきたばかりの部屋だ。
突拍子のなさにソウマもすくめた体でドアを凝視している。
瞬間、会員たちの悲鳴が通路を震わせた。重なり、何が起きているというのか。壁に床を叩きつけて、テーブルを倒し椅子を投げ出す音が視界を揺るがす。
「……ん、だ?」
浮かぶのは「逃げ惑う」光景それそのもで、トキは唖然と口を開いていた。背でソウマは後じさり、気配に振り返れば呼び戻してひときわけたたましい音はこだまする。
部屋のドアが弾け飛ぶように開いていた。ぶち破って中から弾丸のごとくだ。ヒツジは飛び出してくる。しかも一頭ではない。連なり次々、駆け出してきていた。
そんなヒツジは立ち塞がる壁を前に体をひねるが、床にヒヅメは滑ってどれも横倒しとなってゆく。それきり壁へぶち当たると裏返り、腹をむき出し通路へ折り重なった。かと思えば毛玉を揺らし、互いを蹴散らし倒れた順に起き上がってゆく。
うちの一頭が、トキとソウマへ頭を向けた。向かって蹴り出す足は床で滑り、踏ん張りとらえなおすと今度こそ二人めがけ走り出す。
勢いに「ひゃあ」とソウマが声を上げていた。すかさずぼうん、と聞こえた鈍い音は腰を抜かしてついた尻もちの音だ。それでも身をひるがえすと、ソウマは四つん這いになり逃げだす。
「おいッ」
何しろ依頼はまだ引き受けていない。だが状況はそれを許さず、呼びかけてトキはただうろたえ、その傍らをヒツジは追い越しソウマめがけて駆け抜けていった。
一頭でないならあっという間だ。トキはヒツジの群れにのまれ、尻の向こうからソウマも蒼い顔で振り返る。もう鉄格子まで逃げ切れそうにないと判断したなら命からがら、手前のドアへすがりついた。重みにドアは頼りなげと開いて隙間から、中へなだれ込んでゆく。
すかさず押し戻されたドアが壁を塞いでいた。ヒツジは次々そこへ頭から突っ込んでゆく。体当りと言ってもいいほどの勢いは容赦がなく、ドアは再び弾けて開き、おかげですっ転んだか奥から「ひゃあっ」とソウマの声は上がっていた。後続のヒツジたちがここぞとばかり、その隙間へ駆け込んでゆく。何頭かが滑って入り切れず壁へぶつかり鉄格子へ激突していたが、そんなヒツジたちもあっという間だ。吸い込まれるようにドアの向こうへ消え去っていた。
なら最後のヒツジが蹴りつけたのか、ドアがバタン、と音を立てて閉まる。
壁を叩きつける音が、ソウマの悲鳴だけが、しばし廊下へもれ続けた。
やがてこもるような短い叫び声を最後に、ソウマの声はおろか物音さえもが途絶えて消える。静けさはトキの耳を刺し、思い出したようにそんなソウマへ駆け出していた。
「お、おい、大丈夫かッ」
辿り着いたドアへ拳を振り上げ、叩きつける。反応がないならノブを握り、一思いと押し込んだ。
白く広がる手洗と対峙する。
そのどこにもヒツジなど、いない。
ただソウマだけが、据え置かれた洋便器へ頭を突っ込み伸びていた。己が目を疑ったところでそれ以上、探す場所がないのだからどうしようもない。
「クソッ」
トキはソウマの襟首へ手を伸ばす。掴み上げて引きずり起こした。ジョロジョロとたっぷり水を含んだ髪がむしろ小便のような音で水を滴らせ、「おいッ」とその体を揺さぶる。勢いにソウマの頭は跳ね上がるが、のけ反るようにトキを見上げたきりの顔には生気がない。
目にしてトキは眉間を詰める。
掴んでいた襟から手を離した。
壁に寄り沿い沈み込むソウマは、それきり体を床へと倒す。
光景に、鋭く息を吸い込んでいた。早いかトキは身をひるがえす。その頭には小うるさかった会員たちの姿があり、しあしながら詰めていた部屋のドアはヒツジが飛び出したきり、まだ誰も出てこようとしない。
確かめ中へ身を躍らせた。
目にしたものにそれ以上、踏み込めなくなる。
死んでいた。
それも一人残らずだ。
位置を変えた机と転がる椅子の中、会員たちは折り重なると床に無残と転がっていた。
前に置いて飲み込んだ生唾は固く、わずかこめかみさえもが痙攣する。
復讐を始めたんです。
聞いたばかりの言葉が脳裏を巡っていた。
手に負えない。
前任者も語りかける。
警察へ。
言うしかない状況であることには間違いがなく、しかしながら通報し保護を求めたところで、この場所との関係を尋ねられて答えに窮するのはトキの方で間違いなかった。明かせないならこのまま逃げよう。思うがこれまた、これだけの人間が行方知れずとなるのである。遅かれ早かれ警察沙汰になるのは明白で、なら自身がここへ足を踏み入れた事が知れたそのとき、通報せず逃げたワケを疑われることもまた頭を過った。
だとしてだ。
全てはヒツジがやったことなんです。
証言するのかと考えバカな、と吐き捨てる。
「……俺じゃぁ、ないさ」
言い聞かせていた。
「俺じゃない」
繰り返し、ただあとじさる。
ままに通路へと出た。
物音が、そんなトキを刺す。
手洗いだ。
振り返れば急ぎ離れたせいで開きっぱなしの手洗いから、居もしなかったヒツジはいくらも吹き出した。
嘘だろう。
理解できぬ事態が恐怖をトキへ呼び込んでゆく。知ったことかで現実、ヒツジはドア向かいの壁にぶち当たってはまた転び、跳ね起きたかと思うとトキめがけ身を躍らせた。
もうじっとなどしておれない。
押し出されて通路を駆け出す。
追うヒヅメの音は通路に鳴り響き、あからさまと近づいてくる様に思いがけず彼らの足が速いことを知らされていた。
振り切り、階段室へ飛び込む。なら壁のごとくそびえて階段は、急こう配とトキの前に立ちふさがった。
当のヒツジはそんなトキの方向転換について行けず、またもや後ろで滑ると通路の端に吹きだまっている様子だ。
この機を逃がせば後はない。トキは階段へ食らいつく。手すりがないのだから両の手足で積み上がる段差を引き寄せ、蹴り出し、手繰るままに這いずり駆け上がった。
下方でヒツジたちはようやく方向転換を果たし、山間よろしく軽快と階段を上りはじめている。
その音に包み込まれたなら手繰れども、手繰れども、途切れぬ階段がもどかしさも頂点とトキの焦りを膨れ上がらせる。まるでカラカラ遊具を回すハツカネズミだ。果てにこのまま地上へ戻れないのではないだろうか。
あり得ぬ疑念さえ抱えて二度、階段室を反転した。
急こう配はその先でようやく途切れると扉は立ち塞がり、確かめトキは股倉から下方をのぞく。辛うじて見えたヒツジたちは上へ下への大騒ぎだ。もうすぐそこにまで迫ってきている。
戻した頭で前を睨んだ。
同時に掴むべき段差は費え、最後を押しやった腕をトキは顔の前で交差させる。
蹴り出す足に躊躇はない。
体ごと木戸へ突っ込んだ。
何の抵抗もなく外れて木戸は床へと倒れ、つんのめってトキもまた地上へ転がり出る。
前にはソウマが点けて歩いた蛍光灯が、表をさし示し灯っていた。辿るべく駆け出しかけて、再び激しい物音を背後に聞く。肩越しと盗み見れば躍り出てきたヒツジたちが、外れて床に投げ出されていた扉を木端と踏み潰していた。
けたたましさにまみれトキもコンクリートを蹴りつける。
わずか数歩で、足をすくわれ前方へと吹き飛んだ。
床にしこたま胸を打ちつけ、詰まった息に転倒したのだと気づいてしまった、と我に返る。すぐさま寝返れば仰向けとなった腹越しに、ソウマが注意を促したあのレールは横たわる。それもこれを飛び越え薄暗がりから、ヒツジは現れると腹をみせつけトキの頭上を横切っていった。
まずい、とひるがえした肩で身を起こす。
そこへヒヅメは突き刺さり、目にしたならクラウチングスタートだ。振り回す手でトキは再びコンクリートを蹴り出した。
その真後ろでヒツジが大きく左へ飛ぶ。壁ぎわ、作業台に置かれた道具が蹴散らされ、吊られていた蛍光灯も弾かれ大きく前後に光をまき散らした。
光が、突き当りの勝手口を断続的に照らし出す。
クソッタレ。
吐いて奥歯へ力を込めたのは、そこに掛けられた鍵を初めて目にしたせいだ。ソウマがかけるに手間取っていたとおり、それは壁へ扉を縫いつけるがごとくチェーンと合わせ番号の錠前で、二重、三重にかけられている。だとして今さら迂回も後戻りもできはしない。唸り声をあげトキは肩から扉へブチ当たった。案の定、扉は抜けず、己の肩から反動がただ抜けて覚えた痛みに低く呻く。その肩越し、過った気配にブチ当たったばかりの扉を押し出せば、入れ替わりでそこへヒツジは体当たりを食らわせた。
懲りず跳ね返って、身を投げ出したトキの足先でまたもや次々折り重なってゆく。
その下敷きになりかけて急ぎ手を振り上げていた。手当たり次第だ。掴んだものを引き寄せどうにか身を起こしてゆく。それもまた作業台ならそこに大きな万力は固定されると、のみならず上に持ち手の長いハンマーは乗せられていた。
息を切らしてハンマーを、トキはしばし凝視する。
掴み上げたところで重みに肩を落とし、半歩、足を踏み出していた。担ぎ上げるべくつけた反動もろともだ。次の半歩で扉へ身をしならせる。
途中、踏みつけたゴリ、という感触はヒツジの足だ。
かまわず渾身の力で扉を叩きつけた。
踏まれたヒツジは声を上げ、叩きつけた扉からねじまがったノブが弾け落ちる。スポットライトがごとくそこから光は白く差し込むと、舞い上がる埃を闇に無数と浮かび上がらせた。紛れてヒツジは起き上がろうと頭を揺らし、光景にトキは持ち変えた柄でハンマーを水平にふるう。
食らった扉からすりガラスが砕けて通りへ投げ出された。ついていた鍵もどこぞへ飛び散り開いた扉の前に、かけられていたチェーンだけが張りつめる。めがけて振り下ろしたハンマーは。地面さえ叩きつけていた。切れたチェーンに跳ねて扉は全開となり、傾いだ太陽にまどろむ通りが眼前に開ける。まさに命からがらだ。飛び出しトキは転げていた。追いかけ飛び出すヒツジもまた、次から次へとその頭上を飛び越えてゆく。
目にしたからこそ頭を抱え身を縮めた。
たちどころに周囲を踏み荒らすヒヅメに息を殺す。
だが何も起きない。
どれほど時間がたっただろうか。
堪えきれなくなりうっすらまぶたを開いていた。眩し過ぎる光さえ怪しむように、トキはそうっと周囲へ視線を這わせてゆく。
そこにヒツジはいなかった。背後かと跳ね起き首をひねるが、一頭たりとも見当たらない。
唖然としていた。
いや、するほかなかった。
と、控えめに遠ざかってゆくあの足音が、思い出したようにトキの鼓膜を弾いて呼び止める。覚えがあるからこそトキは咄嗟にアゴを持ち上げていた。
空だ。
あの時のように目を凝らせば、気配を残してわずかと影は揺れ動く。
ネコだと?
ついさっきはそう片づけたはずだった。だが今ではもう、思えやしない。むしろ、と思考は巡りだし、その額へ雨粒は振る。いや、確かめ拭って初めて土だと気づかされていた。空から? とうがれば繰り出す動作は性急とならざるを得ず、ヒツジだ、倶楽部の屋上に彼らの姿を見つけていた。そこでヒツジたちは手すりを蹴り出し空へ飛び出してゆく。
たくわえた毛並みがまるで雲だった。むしろ雲だからこそか、赤く染まり始めた空の中へその身を一頭、また一頭と溶かしてゆく。
恐怖なのか驚きなのか。光景にトキはもう、瞬きすらできずにいた。
その中の一頭が首をひねる。
ひねってトキを見下ろした。
両眼がいかほど離れ焦点を失っていようとも、瞬間、伝わるのは意思であり、そのときトキは確信する。
なんて仕事だ。
こぼすまま地面を後じさっていた。ついた勢いを借りて立ち上がり、きびすを返し走り出す。
放り出してきた死体も何もかもが、だ。
手に負えない。
言葉は過り、話して助けを請うなら事務所しかないと、なにはさておき全てを知らせなければと、駅へ急ぐ。
シャッターの並ぶ工場街のその先で、列車が次の駅へ向かい走っていた。
がたん、ごとん。
運ばれてくる音には昨日の事故が濃く残されている。消えた火はおそらくまだそこで、煙をまき散らし燃え続けていた。
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