26
階段室を飛び出せば両側に壁は反り立ち、一本、廊下は伸びる。上で等間隔を置いて蛍光灯は灯されると、影ひとつなく辺りを照らしていた。クラブと銘打つからにはもう少し華美なイメージを抱いていたが、一帯はまったくもって無彩色だ。絵画一枚ないそこにあるものといえば、間延びした間隔で左の壁に取り付けられたドアだけだった。
「おいッ。そいつは、ただの被害妄想だろう」
中を、奥へ向かいソウマは歩いている。
「いえ、事実でございます」
「ならそっちは誰かしらをヒツジと偽っている。そういうことだ」
ヒツジが三人も人を殺したなどと、いや間接的には前任者も含めヒツジに関わることで四人も死んだなどと思えない。
「ですからそんなことは致しておりませんッ、と」
追いつき並べば振り返った声を荒げてソウマは振り返った。どうにか押し殺すと低くトキへ知らせる。
「あちらの部屋でございます」
指示すドアの向こうにもう一枚、様子の異なるドアはあり、すぐ傍らには通路を塞いで鉄格子が立てかけられていた。様子は異様で気にかかり、しかしながらその先に明かりはともされていないせいで何も見えない。ただドア前で立ち止まったソウマの繰り出すノックの音を耳にしていた。
「みなさん! 警備会社の方がお見えになられましたよ」
開け放ち唱えた背中へ、急ぎ視線を引き戻す。安堵とも期待ともとれる声はドア向こうから漏れ出して、「どうぞこちらへ」と促すソウマと目を合わせた。「判断はお任せすると申し上げたでしょう」と囁くソウマは、入れば晒される期待募らせた視線にためらうトキを見抜いており、「まさか最初から断る気で。ですからさきほどからあのようなことを」と付け加えさえする。
だからこそ隠さねばならないのは本音となっていた。トキは大きく鼻から息を抜き去る。とにもかくにもここでケリさえつければ終わるのだ。面倒くさいことになるだろうこれからへ気持ちを奮い立たせると、まさか、ととぼけて返す代わりに部屋へと足を踏み入れていった。
「遅くなって申し訳ありません」
とたん次から次へ目の前で、会員たちは立ち上がってゆく。
「お待ちしておりました!」
「ああ、これでやっとだ! 早くヒツジをお願いします」
「都合がいいとおっしゃるでしょうが。そこをなんとか!」
勢いにいっとき圧され目を泳がせて、突き出された顔に顔を見回していた。なるほど、男女合わせて二十人ほどか。富裕層だと聞かされてきただけはあって、ひと財産ありそうな中高年ばかりがそこに並んでいる。
「ヒツジたちが復讐を始めたんです」
その一角から声は投げ込まれていた。
「もう、そうとしか考えられないのですよ」
「ふく、しゅう?」
トキは言葉を繰り返し、先ほどまでの勢いがウソのように心底、疲れ切った面持ちでうなだれてゆく会員らにまさか、と浮かべた苦笑いでソウマへ振り返る。
「間違いありません!」
目の覚めるような会員の声に弾かれると、再び会員たちへと向きなおっていた。
「亡くなられた方は、わたしをこちらへお誘いいただいたご近所の方で」
話し始めたのは、奥に腰掛けていた老紳士だ。
「ですから自宅で倒れておられるところを発見された後、ウチへも警察は事情を聞きにこられていました。何か隣でいつもと違うことは、不審な人物を見かけなかったかとか。お隣で、この辺りで、ヒヅメのある動物を飼われているところはないかと……」
そこで一度、言葉をのむ。
「そんなの、いるわけないじゃあないですか」
意を決したように口を開いた。
「ですから違いないと確信したんですっ」
「わたしも見ました。もうおひとかた、亡くなられたマガメさんのお宅おの前で警察が写真を撮っていたのを」
かと思えば老紳士の向かいから、ご婦人もまた手を掲げて訴えていた。
「動物の足跡です。ヒツジの足跡でございました。ここでいつも目にしているものだから分かります。ええ。マガメさんはヒツジに襲われたんです。襲われて、ああなってしまったのです」
断言する表情は真剣そのものとおっかなく、だったとして逃げたヒツジがどうやって会員の家を知り得たというのか、まったくもってトキには飲み込めない。以前に、そもそもヒツジが復讐心など抱くものなのか。抱いたとしてどうやって人を殺せるのか。話には、まるきり現実味というものが欠けていた。
「そりゃただの偶然。被害妄想ですよ」
だからして言ってやる。そう、快楽にかまけて行った残忍な行いに、心のどこかで常に後ろめたさを抱いているだけだ。だからふとしたことをきっかけに後ろめたさは噴き出すと、罰を受けたに違いない、妄想は膨らんで後戻りできなくなった。冷静に考えるほどそうとしか思えず、しかしながらまた別の声は吹き上がってくる。
「それもこれもツバメカワのせいだ。ヒツジにつきっきりで世話なんぞしおって。みたろ、あの可愛がりよう。ツバメカワ、あのころからおかしかったんだよ」
「その、ヒツジはツバメカワさんの家の裏山にひょっこり現れたヒツジなんです」
何の話を始めたのか。うがるトキへ続けさま首を突き出した手前の会員が教えていた。
「ツバメカワさんからの連絡でソウマさんがここへ連れ帰って、ツバメカワさんはそのヒツジの出資者になられたんです。けれどわたしたちがヒツジを飼うのは世話するためじゃないですから、ええ……。おかしなことをなさるなぁ、と」
「だのにアイツ、火を点けた」
続く声はもうテーブルを囲むどの口から放たれたものか、トキには追い切れなくなってくる。
「可愛がり過ぎて追い込みのさい急に奇声を上げたり、とにかく異様なくらい興奮しとったからな。あの様子に何かやらかすんじゃないかと心配しとったんだ。そうしたらこうだ。群れへ火を投げ入れおった。そこから先はもう」
それきり語尾を濁したのは、奥の方で腕を組んだ恰幅のいい会員だった。なら消え入った語尾を拾って隣の会員も話し出す。
「ギュウギュウ詰めですもの。投げた火が足元に落ちていれば踏み潰されて終わりだったのに、背に乗っけた一頭が燃え出して。それからはもうあっという間。広がって、火柱みたいに燃え上って。ヒツジは逃げるし、燃えながら狂ったみたいに走り回るヒツジも。火を移されるかと、こっちも必死だった」
「そうしたら中から飛び出してきたんです」
さらに向かいの一人が身を乗り出し、トキへぎょろりと目玉を向けた。血走る目でその一頭がツバメカワへ襲いかかったのだ、と教える。なら前にならうのがヒツジの習性だった。きっかけにして火をくすぶらせたヒツジもそうでないヒツジも、動ける二十頭が会員たちへきびすをかえしたと言うのである。
「そらぁもう地獄絵図だ」
「ツバメカワさん、大けがされて」
「病院なんかへ行けんもんだから家へ帰ったら今朝、またヒツジに襲われて結局、亡くなられた」
つまり三人目の死亡者がツバメカワだということらしい。
果てに焼け死んだヒツジの死体は累々と倶楽部に残り、会員を襲うだけ襲ったヒツジたちは混乱に乗じて街へ逃げ出していったということだった。
「いくらなんでもあれはやり過ぎだ」
「わたしたちは殺すことを目的には、しておりませんでしたのよ」
「いや同じだよ」
「恨まれて当然と言えばそうかもしれん」
「いや、だからおかしかったんですってば、あの人が」
言い合う声を交錯させる。
「いや」
だからこそ気づかされることはある。
「鉄格子の向こうがその、現場なんだろう」
「はい」
問うたトキへ頷き返したのは、一部始終を一歩下がったところで傍観していたソウマだ。
「俺たちが下りてきた階段以外、出口はあるのか」
「いえ」
「ならシャッターとそこの鉄格子、二重に施錠されていたことになる。ヒツジは本当にここから逃げたっていうのか?」
確かめずにはおれなかった。とたんソウマの顔に弱り果てたような笑みは浮かぶ。
「それがおかしな話で。シャッターは閉まっておりましたものの、あの日、鉄格子のくぐり戸どころか、上がったところの木戸まで開いていたようでして。ええ、ええ。いつもきちんと施錠しておるのですが、どういうわけか。はい」
卑屈と屈めた腰で説明してみせる。
「じゃあ、シャッターの横のアレも?」
開くにあれほど時間のかかったドアだ。トキは目を丸くしていた。
「絶対にツバメカワの仕業だよ」
横やりは入り、しかしながらその問いにだけソウマは答えない。
見て取りトキは舌打った。当然だ。つまるところ最後のドアは閉まっていた。ヒツジは逃げたと決まっていないのだ。ヒツジについて倶楽部が隠していることがあるとすればそれで、とたん依頼の信憑性そのものが怪しくなってくる。そして逃げ出していやし「ない」ものは探し出せず、偽ってまで押し付けようとする「それ」を引き受ける理由こそありはしなかった。
手に負えない。
言い残した前任者のいきさつさも、ようやく理解できたような気になってくる。
果たしてそうまでして倶楽部は、トキらに何の尻拭いをさせようとしているのか。ナス顔がとんだタヌキに見え始めていた。
「いいえ間違いございません。ヒツジは確かにここから逃げたのでございます!」
だがソウマは引かない。
「現に、会員の方々がヒツジに襲われております」
あわせて会員たちもうなずき返す。
「数が、死骸の数が合わないのです。わたくしも数頭、表でヒツジを連れ戻しました」
「どうだか。数が合わないのは、そっちの手違いじゃないのか?」
と一斉攻撃だ。嘆く者もあれば、助けを請う者。激高する者もあれば、それをなだめる者と、トキに向かって会員らは思いのたけをぶつけた。部屋は騒然となり、収集のつかぬ状況にソウマすらも右往左往する。
「おっしゃるのでしたらせめて」
果てにトキへ告げていた。
「一緒にヒツジをご確認ください」
まさか死体を、と思えばそうではないらしい。
「活動の様子はいつも録画しております。あの日、ヒツジらが人を襲って逃げ出していったところも記録されております。見ればヒツジは人を襲うものだと、復讐するものだとご納得いただけるはずです。お見せするには会員の皆様の同意が必要かと思われますが、よろしいようでしたらどうか」
下げた頭で請い願う。合わせて会員たちも「かまわん」「ぜひとも」と連呼すれば、トキの意向などお構いなしだった。
「決まればこちらへ」
ドアへ手をかけ、もう片方の手でポケットをまさぐる。仕草は明らかに鍵を探しており、取り出したそれを挿す場所があるとすればあの鉄格子に違いなかった。
行って目にするのは彼らの切り札である。経ても断ればもう彼らに手はないはずだった。
ソウマが部屋を後にしてゆく。つまりこれが最後の一仕事で間違いなく、連なりトキも部屋を出た。
「こちらです」
促すソウマは想像とおり鉄格子へと向かってゆく。
後を追えばその時だった。
背で物音は激しく鳴り響いていた。
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