第二部 22

「ちょっと」

 投げ込まれて力をこめる。

「一体どうなってるのよ」

 まぶたを開こうとしているのだから、目は覚めていた。その背にあるのは事務所の畳で、トキは悶えるように寝返りを打つ。かぶっていた布団を巻き込むと、しばし奪われた自由に唸り声を上げた。

「いやだ、ホントに酒臭いんだけど」

 言う声は真上にある。

 それは少し前、といってもあいだ眠っていたやもしれず曖昧だが、ともかく辺りの騒がしさにアルバイトたちが出勤してきことをぼんやり、感じ取っていたのだった。知らせたのはそんな彼らで違いないだろう。こうしてクマジリのしかめっ面は真上に差し込まれていた。

「んだよ。昼からだろ」

 ようやく出せた声と共に、絡みついていた布団を跳ねのけ身を起こす。

「そういう問題?」

「向こうにつく頃には、抜けてる」

「そういう問題でもない」

 答えて呆れられ、堪えきれなかった欠伸を吐いた。いくらかはっきりしてきた頭でこれまた堂々、背伸を繰り出す。

「聞きたいのはどうしてこんなところで寝てるのか、ってこと」

 耳へとねじ込まれた言葉には、そりゃそうだと同意するほかないだろう。だとして必要以上ややこしい成り行きを明かし、関係だけは長引かせたくないと思う。

「部屋かと間違えた」

 交互に両の目ヤニを拭った。

「家ならもうすぐそこでしょ。あなたまさか」

 クマジリの声はそこでワントーン下がる。

「多めに渡した分、使いこんだんじゃないわよね」

 鋭い観察眼、と言うほどでもない見解なら、見透かされたとしてうろたえるほどのことでもない。

「今、……だ?」

 ただ聞く。

「え?」

 「何時だ」と聞こうとしてもつれた舌に聞き返され、「九時半」と教えられる。なら頃合いか。トキはめくれ上がった布団の下に手を潜り込ませた。探し当てた上着のポケットを全て探ってようやく指に触れたそれを引き抜く。

「紛らわしいんだよ」

 クマジリへと投げた。驚きつつも受け止めたクマジリは、案外運動神経はいいらしい。

「先に返しておく。これでもう間違えないだろ」

 預かっていた事務所の鍵はジャラリ、そうしてクマジリの指先にぶら下がった。

「あなたのことはまだ話せてない。社長は忙しい人だから。今日の午後、事務所へ顔を出すって」

 本当かどうかが疑わしい。だがそれが引き止めるための駆け引きだったとして、もうなんら切り札にはならない。

「気にするなよ。心変わりはしないさ。ロッカーのキーも今日中に返す」

 言って心行くまでつむじを引っ掻き、どことなく重い後頭部をなでつけた。出そうになった二つ目のあくびをかみ殺して、名目上のロッカーには何が入っていたろうか、思い起こす。だが何ひとつ浮かんでこないのだからやれやれ、と掴んだ首根っこを揉んでそんなものか、とひとりごちた。

 一部始終をクマジリはただ見つめている。

「なんだよ」

 思わず突き返していた。

「さっき警察から電話があった」

 あてがっていた首根っこの手もそこで浮き上がる。

「後で来るって」

 言い残した警察は事務所の営業時間を見計らい、電話をかけてきたらしい。そうして例の車両火災で火を放った人物の所持品から、ここのタグがついた鍵が出てきたことを、その大きさと形状から簡易ロッカーの鍵らしいことを話したらしかった。またタグに書き込まれていた名前も読み上げると、ここにそんな名前の従業員はいるか、いるとすれば出勤状況はどうなっているかを確かめたという。

 それもこれも混雑が必至のあの時間帯だ。かぶった灯油は足元までまわらず、前任者をマッチ棒と燃え上がらせたためらしい。背負っていたリュックに、本人の上半身は判別不能なまでに焼け焦げたものの、鍵だけは残された下半身のポケットから見つけ出されたということだった。

「やっぱり間違いなかった。あの電話のあと、彼がやったのよ」

 言うクマジリの声は低い。

「これ以上のアクシデントは、ウチの表にもかかわることだから……」

「ああ」

 そもそも断るつもりでいたなら、釘を刺されたところでこれ以上のトラブルこそ起きないだろうと思う。トキは二つ返事で返し、「ロッカーの鍵は差したままにしておいてかまわないわ」と言ってきびすを返すクマジリを見送った。

 つまりそれが最後の挨拶らしい。

 畳の上へじかに横たわっていたせいだった。シャツは畳屑にまみれている。これじゃまるでヒツジじゃないかと動物園の二頭を思い出して苦笑いを浮かべ、払い落して立ち上がり、片隅に取り付けられた小さなシンクで顔を洗った。口をゆすいだついでに水も飲み、手洗いをすませてロッカーの扉を久方ぶりに開く。

 どうりで思い出せないハズだろう。詰め込まれていたのはゴミ同然のモノばかりで選別の余地すらない。右から左だ。全てをゴミ箱へ移動させた。この仕事を始めた頃、護身用に携えていた折りたたみナイフだけを尻ポケットへ差しておく。十分も経っていない。目が覚めて一時間足らずで言われたとおりロッカーへ鍵を差し、事務所から出た。

 そのとき前へと一台、車は滑り込んで来る。車体がどうのと言うその前に、中から現れた二人の男の風体に警察だと直感していた。

 何があったのか。

 すれ違いざま向けた表情は少々芝居がかっていたろうか。会釈しトキはパトカーを回り込む。出た通りを川に沿って左へ折れ、この時間帯ならきっとすいているに違いない、進んだところに店をかまえる馴染みの定食屋の暖簾をくぐった。

 予想通りまばらな客は店の奥、高い位置に置かれたテレビを眺めたり、手元の冊子に携帯電話へ目を落としながら皿を突いている。混じるべくトキもカウンターやショーケースから自身の皿をみつくろうと、支払いをすませテレビの真正面を陣取り腰を下ろした。

 不味くはないが旨いとも言い切れないのは、用意した相手に特別、思い入れがないからか。平らげひと息ついて、前の客が残して行ったきり投げ出されていた新聞を広げた。早々飛び込んできた黒煙、吐き出す列車の写真に目を細める。

 おそらくそこに書かれている以上を知っているはずだった。だが本当に全ては知っているとおりなのか。気になり文字を追ってみる。その傍らでテレビが流すのもまた事故の続報なら、退屈な記事も半ばで視線を上げた。

 画面の中には昨日の朝、何気なくつけて目の当たりとしたワイドショーの空撮動画が映し出されている。終われば続けて目撃者のインタビューや実況見分の様子が、焼け焦げた車内の風景が流されていった。

 見るもの、聞くもの、そしてこれから向かう先もだ。何をしようとこの事件ばかりでうんざりする。見つめ過ぎたテレビから、こちらも腹いっぱいだと視線を剥がした。ちょうどと立ち上がった別の客も、そんなテレビのチャンネルをおもむろに切り替える。

 様子に気が利くな、と感じたのはいっときだろう。替えられたチャンネルに誰ひとり、不満を表さなかったことに気づいてトキは、思い巡らせる。そう、うんざりしていたのは自分一人ではなかったのかもしれず、いや事実、事件の被害者は一人や二人ではないのである。誰もが、知り合いだか仕事仲間だか他人事とすまされぬ間柄に被害者を抱えていようと、ふともすれば本人がひどい目に合った当人だとしておかしくなかった。

 そんな誰もが醸し出す「雰囲気」を感じて客は、チャンネルを替えた。

 とたんかぼちゃの主は再びトキの脳裏へ、あいつらは手強い、と姿を現す。しかもその「雰囲気」こそ「事故」により撒き散らされた「憂鬱」ならば、なんとも操るに面倒な相手であることだろう。 

 つまり言い残した前任者も同様に、面倒な相手を前に操られるまま捻るチャンネルよろしく自らへ火を点けたのなら。

 ならば自分も。

 過らせトキは冗談じゃない、と己へ吐いた。

 そうして上げた顔の向こうに、いるはずもない前任者が立っているのを見つける。その顔は明らかに店の隅からトキをじっと見つめていたが、表情をうかがおうとすればするほどだった。大きな穴は開いて確かめられなくなる。

 中を列車は黒煙、吹き上げ駆け抜けていた。よりいっそう「雰囲気」は濃くふり撒かれて店内を、いやこの街をか、「憂鬱」で包み込んでゆく。

 とんでもないことをしてくれたもんだ。

 だとして有難いことに、どうするべきかは知っていた。

 毒づきトキは手を伸ばす。

 真似て静かにひねってみせた。

 この思考から、そっとチャンネルを切り替える。

 本格的と混み合う時間が近づいている。たたんだ新聞はまた次の何某のために残して行った方がいいだろう。あの「雰囲気」を抱えた輩がさらに集うその前にだ。もうたくさんだと席を立った。

 こんな仕事からだけでは落ち着けそうもない。終わればヴィークと共に街から抜け出すことを考える。考えつつ事務所の最寄り駅、その山側に広がる工場街の一角、「ヒツジ倶楽部」へと向った。

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