21
驚き上げた視線の先で「お待たせしました」とヴィークは小首をかしげている。
ハレーションを起こしたのかと思うほど白いワンピースドレスの襟元は詰まり、足先さえ隠すほど長く直線的なシルエットがギリシャ神話の何とか、言う女神のようだった。ここがヴィークのための場所であればこそ、その圧倒的なオーラに圧されてしばし固まる。
「昨日も今日も。いいえ、いつだってそんな具合よ。あなた、よっぽど驚かせるのが好きなのね。でもこれ、ずいぶんマズいと思うんだけれど」
言われてオーナーの視線を思い出していた。
「あたしの仕事、取らないで」
ボトルへあてがっていた手を押し返される。
隣へ腰を下ろしたヴィークの重みはソファ越しでさえ、肉感伴い伝わっていた。
「分かっているからあなた、店へ来ないのだと思っていたのに。シングル? ダブル? ロックだったかしら? それとも何かほかにする?」
細い指が伏せられていたグラスひとつ、起こす。
「もうオーナーに、ひと睨み食らってきた」
「それ、あとでわたしが困るとは思わなかったわけ?」
「シングル」とだけ答えてトキは、応じてアイスボックスからひとつ、ふたつ、グラスへ氷が落とされてゆくのを眺めた。
「そうだ。あれ、朝飯、美味かったな」
「大きな声」
あしらわれたところで従うつもりなどないのだから、切り出したようなものだ。
「どうしたらあの中身で、ああなるんだよ」
「たしなみのひとつ」
仕方なく返すヴィークが、ボトルの口に差されたガラスの栓を音も立てず抜いてゆく。しっとりと支える指先はやがて、グラスへ琥珀色の液体をひどく丁寧に注ぎ入れていった。
「心を掴むには胃袋から、っていうでしょ」
仕草はたったそれだけだというのに、やたら洗練されている。なら感じるのは、それほどまで繰り返してきたのだという事実で、そのつど隣を埋めていた何某はトキの中に無限と連なり、とたん「たしなみのひとつ」さえ繰り返した成果なのかと過らせる。
「困るって、ガキでもなきゃ、親父でもあるまいし」
藪から棒に吐き捨てていた。
「それはそうだけど」
うなずくヴィークは、しかしながらこうも続ける。
「ここで仕事を続けられるようにあの時、ずいぶん支払ってくれたのよ。あなたがお金も、わたしも奪っていったとしたら、パパは黙っちゃいないわ」
そうして最後、手にしたマドラーで魔法をかけるようにゆっくりグラスをかきまぜた。淡い渦を描くアルコールは、蜃気楼のようにグラスの中で揺らめき混じり合ってゆく。余韻さえ漂わせてマドラーは引き上げられると、滴が落ちるようなことはない、グラスはトキへ押し出されていた。
掴み上げて上澄みを舐める。
「罪悪感なんて義理が通じるほどの親父かよ」
至極単純に美味い。吐いて目と鼻の先のそれをしばしみつめた。
「でもね今の私を作ったのはパパなの」
言うヴィークはどこか自慢げだ。覚えた胸糞悪さにだからこそ、伝えておくべき話があったことを思い出す。
「今の仕事を辞める」
唐突さは群を抜いていた。証拠にヴィークも片付けかけていたアイスボックスから顔を上げ、こちらを見ている。
「まだ最後、ひとつが残ってるけどな。アレはすぐに終わるさ」
むしろすぐに終わらせなければならない。言い聞かせ、再びグラスを傾けた。もの足りなさを感じてその目をヴィークへ裏返す。驚くでもなく喜ぶでもなく、そこでヴィークは穴が開くほど、いまだトキを見つめていた。
「それ、本当なの?」
言ってようやく唇の端を持ち上げる。
「昨日の昼、事務所に話した。事務所も先行きが怪しい。きっと通る」
「そう」
相槌は気が抜けたかのようで、約束させた本人こそおまえだろう、思えば感じ取ったか「それで」とヴィークは続きを埋めていた。
「次はどうするの? もう決まっているんでしょ。だから辞めるのよね?」
だがそれこそたまたま揃ったピースの成し得た成り行きに過ぎず、その偶然に後の用意などありはしない。
「すぐ見つかるさ」
「なに言ってるのよ」
言葉がヴィークにいつもの調子を取り戻させる。きっかけに止まっていた手も忙しく動き始めていた。
「じゃあそれまでどうするつもりなの?」
「どうにでもなるさ」
「子供じゃないの」
「ないから、どうにでもなるんだよ」
「冗談」
「なあ」
しびれを切らす。
「これで約束は果たしたろ」
だがヴィークは答えない。
「なぁ」
向かって身を乗り出した。
「だめよ」
「言うなよ。条件つけたのはそっちだろ」
「だったらあなた、パパを縛ってくれたらって言ったらそうするの?」
「試すなって」
「違います」
「ウソつけ」
「だめなものはだめ」
「だったらあれは何なんだよ」
「あなたが次を見つけたらね」
悪びれることなくヴィークは付け足す。むしろ当然だ、といわんばかりアイスボックスをテーブルの隅へ押しやった。そうして向けられたうなじは、ねぶる気が失せるほどと味気ない。
「なら見つけりゃいいんだろ」
見せつけられて言っていた。
覚えのあるその感触に、はたとトキは口をつぐみもする。
それは最初「約束」を交わした時だ。あの時もこんな具合に勢い任せと言い放ってはいなかったか。今ならふいと詳細までもが思い出せそうで、だが探れば探るほどだった。掴めそうな記憶の奥からじっと見つめる視線を感じ取りもする。
コツさえつかめば世界中、何とだってうまくやれますよ。
かぼちゃの馬車の主はそこから語りかけていた。
なるほど確かに噛みつかせるもさせないも肝心なのは雰囲気で、言い得て妙とヴィークはそいつを扱うのがうまかった。だからして今もまた、ついぞ約束を飲まされかけている。つまり言いくるめるよりも何よりも、今ここにある雰囲気を己の自由にすることこそが肝心要で間違いなかった。
「その代り」
目にしたこともないソレの気配へ、初めてトキは気を巡らせる。
「俺が次を見つけたときは」
これか、と掴んだそれは尻尾かたてがみか。掴んで静かに手繰り寄せていった。
「今度はお前が店を辞めろよ」
なら連なり振り返ったヴィークの顔は、今度こそあてがう表情を失ったように張りついている。
「そういうことだろ?」
とどめと諭せばひどくゆっくりとだ。捻じれた体を戻していった。間合いは巡る思考を体現しているかのようで、ままに掴んだ尻尾を奪い返されてはたまらない。どうなんだ、と傾げた首でトキはヴィークへたたみかける。つられてヴィークの口は開きかけるが、しかしながら言葉を吐き出すことこそなかった。代わりにじんわり、いつもの笑みを両の瞳へ押し上げる。
「……分かった」
短くとも十分だろう。
と、その視線は逸れていた。
いつからそこにいたのか。向かって耳打ちするボーイこそまったくもって空気が読めてやしない。話を聞き終えたヴィークは想像とおり、「ごめんなさい」と切り出している。
「本当は向こう、抜け出して来てるの」
「ああ」
言うほかなくなっていた。
口ぶりに、ヴィークも困ったような笑みを浮かべている。ありきたりなその親しみは、見上げるほどの「特別」をそのとき初めて剥がしたようだ。隔ててあった距離も一気に失せる。
「本気で考えてくれてるなら、あたし、馬鹿になってもいいわ」
ヴィークも身を大きく乗り出していた。
「お店、辞める」
傾けた体の重みごとトキの耳へ吹き込む。
「じゃ、失礼します」
残し、キリリと立ち上がった。繰り出すお辞儀は何事もなかったかのようであっけなく、それきりフロアへ立ち去って行く。
見送れば、いつからか頬は緩んでいた。何しろ誰もが手に入れようとして果たせなかったものなのだ。取り付けた約束はもったいぶって舐めるなどと馬鹿らしくさえ思えるほどで、ひと息とトキはグラスを飲み干す。おもむろに冗談じゃない、と吐き捨てもした。
何しろそうと決まればヒツジなどと、真面目に相手している場合ではないのだ。そしてこの仕事にはうってつけと、選ぶ権利が与えられていた。行使するに越したことはなく、明日、依頼主の元へ行こうとも行かずとも、依頼を断る意を固める。その足で警備会社のロッカーを片付け、最短コースでさようならする様を思い描いた。
その後、見知らぬ女はテーブルへ現れ、 今となっては覚えのない会話と、甲高く響く声だけを頭に残し席を立つ。
また別の厄介者が店を訪れたのかカウンターにオーナーの姿はない。気分よく支払いをすませ、再びジャガーの前足を一蹴した。
気づけばしてもいない調査に調査費が、まるまる消えてなくなっている。だが上げた別の成果は格別で、トキの酔いを回しに回した。
午前様にはまだわずか届かない頃、マンション近くの駅で降りる。いつもの通りを折れたところで、のぞくそのシルエットをとらえていた。
瞬間、酔いは吹き飛ぶ。
エントランス前だ。自動販売機脇に立ち尽くす人影はあった。すぐにも男だと見て取れる頭は三つ。手持無沙汰と吹かす煙草をホタルと灯し、上下させている。
間違いなかった。
確信できるのは一戦交えたからだろう。
きびすを返す。
相手はまだトキに気づいておらず、怪しみ追いかけてくる気配はない。
確かめ、浅く振り返っていた。そこで紙切れを失敬した事務所の輩は待ちくたびれると、吐き捨てた煙草を踏み潰している。
なぜここにいる。
思わずにおれなかった。クソと吐き捨て、急ぎ現れた角へ飛び込んだ。念のためにと、さらに次の角を折れる。闇雲と別の通りへ足を繰り出した。
おかげで当分、いや二度と、と考えた方がいいだろう。部屋へは戻れそうにないと考える。事態は何も初めて経験することではなかったが、だからといって見越した備えがあるわけでもなかった。
ともかくだ。今晩どこで過ごすかを考える。甘えて早々、ヴィークの部屋へ転がり込むかと思い、巻き込むには相手が悪すぎると諦めた。そこで行き当たりばったりだった靴先を駅へ向けなおす。迷惑をかけて相当の場所といえばそこしかなく、思い出した事務所の存在に足を速めていた。何しろ一階のロッカー室にはちょうどと仮眠用の布団も一式、置かれており、特殊な立場ゆえ鍵も預かっている。
万が一そこに先客がいたとして、男との添い寝だけは勘弁してくれよ。
あえて叩く軽口で気持ちを紛らせた。
それもこれもたかが紙切れなどとあなどったせいか。
うがり、そんなつもりなどなかったハズだ、己へ言い聞かせた。何度だろうと繰り返してトキは、その身を闇へ紛らせてゆく。
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