19
「移動は電車と徒歩。まあ、昨日あって今日もってことはないとは思うけれど、その手書きの、電車とバスの時刻表ね。何かあったときは使って。動きが読めている方が、コッチも都合のいい場合もあるから」
それにもパーリィは「うん」とうなずき、残るほうれん草を口の中へ押し込む。そんなパーリィへシクラメンはピンクのマーカーがなぞるまま、駅からエムニまでの風景を説明していった。研究所敷地を囲うフェンスに一部、途切れた箇所があることを聞いたのはその最後だ。
「山に隣接しているでしょ」
残るきんぴらごぼうを口へ運びながらシクラメンは、目で地図を指し示す。
「研究所は山の一部を所有してて、フェンスが切れてるのはそこにかかる部分。侵入はそこからしてちょうだい」
「じゃ、夜じゃないんだ」
何しろ明かりを点ければ目立ちすぎる。使えないなら知りもしない夜の山を移動するなんて無謀だった。
「そうね」
答えたシクラメンは「いい?」と、パーリィへ確認する。それは昼間、パパのことを聞いたときとそっくりで、もうふざけたりはできっこない。
「明日の日没は五時五十八分。研究所職員の終業時間は通常が五時半。つまり人の出入りが減ってなおかつ日の残る時刻、五時五十分に侵入開始。六時四十分までにすませて同じ経路で街に戻って」
「分かった」
答えたところでシクラメンは「で」と話をつなぐ。
「こっちが研究所周辺の見取り図」
置いた紙の下から等高線の渦巻く別の一枚をさらに引き抜き、上へ乗せた。
「ここが研究塔」
すかさず箸を握った指先でその右端を押さえつける。
「研究員と助手と警備員が寝泊りしながら、二十人ほどで暮らしているわ」
それこそ見逃せず、パーリィもまたのぞき込む。同時に指を一気に対角線まで滑らせたシクラメンは、止めた所を二度、突いてみせた。
「ここ。山際の丘、その頂から少し下った辺りにヒツジの飼育塔はある。ヒツジはこの中で飼われてるわ」
「これってさ。研究塔からだと高くなってるところの向こう、ってこと?」
指紋のような渦巻を読んだからこそパーリィは口を尖らせる。
「そう。研究塔からは死角よ」
明かすシクラメンは最後のカップスープをすすり上げていた。
「ええー」
何しろ相手はヒツジなうえに、目の届きにくい場所にいるというのだ。やっぱりコトは簡単すぎて、どうしてわざわざリスクを冒してまでパーリィ達に頼んだのかが納得できない。
「こんなの、ただのハイキングだよ」
「やめて」
「だってさぁ」
それこそシクラメンに睨み付けられ、唸った肩から力を抜いた。
「わかったぁ」
仕方ない。紙から読み取れる風景を頭の中へ広げることにする。
そこは等高線の詰まり具合からして、きつい傾斜のうかがえる場所だった。フェンスが切れていても放置されているのは、きっと普段、人が寄りつかないような場所だからだろう。だからして山は手入れされておらず、うっそうと茂っているに違いないと、光景もまた目の前へ広げていった。
足元には落ち葉がうず高く積もり、ピンクの蛍光マーカーの端から山へ分け入れば、ずいぶん滑って動きが取りづらい。そこで履いてゆく靴は決まり、これだけうっそうとしているのだから服は暗い色で十分だろうと見繕いなおしもした。
まとい、パーリィは飛ぶように山の中を駆け抜ける。やがて右下に超えるべくフェンスは伸び始め、木々の隙間にちらつくその先に、目的の切れ目を見た。
実際は行ってみないとわからないだけに、とりあえず今は人が一人、潜り込めそうな程度、めくれ上がった金網をあてがってみる。
目指してパーリィは立てたかかとで斜面を滑り下りた。山から飛び出しそうになって木にしがみつき押し止まる。何しろその先は等高線が示すように明るく開けたなだらかな丘だ。視線を投げればフェンスの向こう、丘を少し上がったところにぽつねんと、飼育塔もあけすけと見えている。覆う空はいい具合に赤く、まるきり夜になるまでにコトを終えて山の中を街まで戻れというなら、決して用意された時間も長くなかった。
左右へ視線をなげただけで、しがみついていた木を押し出し山から抜け出す。フェンスへ駆け寄り、めくれ上がったそこへ身を屈めた。
「てさ」
気配を察して口を開く。
「飼育塔の中にきっと誰かいるよ。だってヒツジさん、すごく大事なんでしょ? まだ明るくてここ見通しいいし、監視カメラだってあるよ。周囲、どうなってるの? これ、どこかで引っかかるよ」
だとしてシクラメンに慌てた様子はない。
「飼育塔はコンクリート製。ゲートをくぐってからヒツジの位置まではおよそ十五メートル。飼育塔のゲートには電子セキュリティーがついていて、中間点にもヒツジの脱走防止用に鉄格子が一か所ある。けど電子セキュリティーは研究員が登録した暗証番号で開閉するもので、入手済。鉄格子にはただの南京錠が掛けられているだけ。パーならすぐに外せるわ。他は何もない。監視カメラも飼育員も」
そんなのないと思う。おかげでパーリィの集中力も切れていた。
「それ、おかしいよ。大事なのに見えないところに置いてるなら、きっとちゃんと見張ってるって。絶対、何かあったらすぐ駆けつけられるようになってるって。ねぇ、さぁ。じゃないならヒツジさん、ダミーとかじゃないの?」
「思うけれど、現地へはあたしたちより先に潜入していた人物がいて、暗証番号もこの地図も、情報の全てはその人から流れてきてるのよ」
「先に?」
「ひと月も前じゃない」
「じゃ、なんでその人が最後までやらなかったの?」
考えて当然だった。
「だってヒツジだよ。潜り込めたならあとはものすごく簡単だと思うよ。パーじゃなくてもさ、出来ると思うんだけど。だのになんでパーなの? ほんとにパーが行かなきゃダメなの? パパ、ほんとにパーにやって欲しいって言ったの?」
本当に今回はおかしなことだらけでやっぱり気になる。
「屁理屈言わないでちょうだい」
投げつけられていた。
「調査の人は調査の人でしょう。そこから先があたしたちの仕事なんじゃないの。嫌ならパパにそう伝えるわ。パーがやりたくないって」
「わ、それ告げ口。ひっどー」
言う顔さえ見てくれない。シクラメンは皿を片付け始め、その手はパーリィへも伸ばされる。それだけで伝わるものがあるのだからおっかない。慌ててパーリィは握っていた箸をシクラメンへ渡していた。
「とにかく、カメラは敷地正面のみ」
受け取ったシクラメンが続きへ戻る。
「絶対、前は横切らないこと」
「分かってる」
「さっき教えたルート通りに歩けば、街の防犯カメラも回避できる。ちゃんと守ってよ。それからいつも言うけど」
ええ、まだ言うの? と思わずにはおれない。
「何があってもタクシーだけは使わないで。乗車記録が残るし、運転手は案外、乗せた人の顔や下ろした場所を覚えてるから」
「それも分かってるってば」
パーリィは面倒くさげと返していた。
「で、帰りにちょこっと服を買って帰る」
先回りしてやる。
「クラ男、パーのこと馬鹿にしてる」
言った。
「何言ってるの。ヒツジだって聞いてみくびってるのは、あなたの方でしょ」
返され、なおさらブーたれるほかなくなる。そのつむじへ、何、その顔、と一瞥、食らっていた。それきりかき集めた皿と共にシクラメンは席を立ち、すかさずひねられた蛇口にシンクの盛大と立てる音を聞く。
「職員はなるべくヒツジと接触したくないのよ」
紛れて声は聞こえていた。
「だからカメラもつけていないし、飼育塔も死角へ移動させたらしいわ。パー……」
スポンジを握りかけて、呼び掛けたシクラメンは出したばかりの水を止める。テレビを消したせいだ。とたん信じられないくらい静けさは辺りを覆い、その中でシクラメンはパーリィへ振り返ってみせていた。
「だからって気を抜かないでほしいの。そういう時ほど考える余計事が計画を狂わせるわ。何も考えないでいつも通りやってちょうだい。いいえ、考える前にやり切ってほしいの」
それきりパーリィが分かった、と言うのを待ち黙り込む。
知っていてパーリィが渋れば、片手間にケトルの乗ったコンロへ火を点けた。再度、向けなおしたその顔で分かった? とパーリィへ訴えかける。
「……分かってるってば」
言わずには終われず、だからして口にした言葉は自分のものじゃないようだった。その心細さにパーリィは椅子の上へ両足を引き上げてゆく。
「そんな怒んなくてもさ、いつも、ちゃんとやってるの知ってるじゃん」
隣の椅子からもぐもまた引き寄せて、アゴの下に匿い形が潰れるほどぎゅう、と両足ごと抱きしめた。
「明日はいつもと違うのよ。今回あたしはサポートできないから」
シクラメンの言葉に「え」とアゴを浮かせる。
「パー、ひとり?」
「そう。ワタヌキの件で、あそこでは顔が知られているでしょ。その場しのぎなら男で待機するけれど、現場での万が一が一番まずいから控えた方が確実だろうって、パパも……」
「だからクラ男はパーにうるさく言うわけ?」
確かめずにおれなかった。
「まぁ、そんなところだけど。ともかくこういうのは初めてだし」
シクラメンの返事は曖昧で、なおさらはっきりさせたくなってくる。
「だからクラ男はしつこくパーへ言ってたってわけ?」
「なによ」
おかげでシクラメンも気づいた様子だ。少しばかりむっとした面持ちでパーリィを見つめている。目にしてパーリィはついに確信していた。
「それってつまりさぁ。パーに何かあったらクラ男は悲しい、ってことだよね」
言って堪えきれず、ぐふふ、と肩を揺らす。
「それだけクラ男はパーのことが好きで、パーはそれっくらいクラ男にも愛されてる、ってことなんだよね」
でなければこんなにも心配されることなどなく、言った自分の足の裏がこそばゆくなってテーブルの下で擦り合せた。前でシクラメンは「はあ?」と首をひねり返し、その顔になおさら身悶えする。
「やだ、クラ男、かぁわいいっ!」
高い高いでもぐを抱え上げた。再び胸へ抱きしめなおす。
「あなたねぇ」
とたん背後でケトルがピーと音を立てていた。そのどちらからも逃れるようにパーリィはささ、ともぐの後ろへ身を隠す。目尻にとらえてシクラメンはコンロの火を切り、向けてパーリィは取ったもぐの腕を操り振った。
「まあ照れるなよ、クラ男君」
おかげで一睨み食らうがそれきりだ。答えずシクラメンはお茶の準備に取り掛かる。
待つ間パーリィは、もぐをヒザの上で踊らせ続けた。
経て、出された湯呑みを両手で包み込めば、じりじり伝わる熱が心地いい。その上澄みをすすり上げて深く長く、息を吐き出す。
様子は年寄りのようだったけれど満足すれば誰だってこうするはずだと思えていた。それほどまでにパーリィは二人から、こんなにも大事に思われているんだと噛みしめる。噛みしめれば噛みしめるほどお腹の中はまたあの大好きなオムレツみたくふわふわのとろとろに溶けて、黄金色の光が温かく広がってゆくようだった。
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