18

「ごめんパー、遅くなったわ」

 玄関からシクラメンの声は放たれていた。

 あれからやっぱりパパの時計ははずせていない。パソコンも触らぬままだ。ただ見上げた空はすっかり暗くなっていて、部屋もなんだかうすら寒い。だからちゃんとつけた下着の上にパーリィは今、ローマ字が描きなぐられた黒っぽいジャージを着ると、立てた両ヒザを抱えていた。

 知らぬシクラメンが靴箱を開いている。脱ぎっぱなしにはしない。それはシクラメンの美意識で、片付けたなら六歩だ。いつだってきっちり六歩で廊下を歩くと、部屋のドアを押し開けていた。

 合わせてパーリィも「五」からカウントを取る。同時に解いた腕でテレビのリモコンを握り、「四」でボタンを押し込んだ。「三」でどうっともれ出す笑い声を浴びながら「二」で隣のもぐをテレビへと向けなおす。すかさず残る「一」で自分も体を回転させ、元通りと立てたヒザを抱え込んだところで「ゼロ」を唱えた。同時にドアを押し開けたシクラメンを視界の隅にとらえる。

「もう少し待ってくれる? 今すぐ支度するから」

 言う声は大きく、迎えてテレビがまたどうっと笑ってみせた。見つめてパーリィは「うん」とうなずき、それからシクラメンへ振り返る。

「お帰り」

「こんなに手間取るなんて、もう大失敗よ」

 訴えるシクラメンは「ただいま」なんて言う気などないらしい。トートバックを椅子の背もたれへかけてレジ袋をテーブルの上に乗せ、横倒しになったそこから中身を取り出すことに懸命となる。

「今からあれこれやってたら遅くなるでしょ。だから今日はほら、パーの好きなあれ。チキン南蛮、買って来たから。レンジでチンだから早いわよ。つけ合せは冷蔵庫の残り、温めなおせばいいし」

 まくし立てて言った通りのチキン南蛮からラップを剥しにかかる。中身を皿へ移して放り込んだレンジのスイッチを押し込んでからの動きはといえば、滑るように鮮やかだった。ケトルを掴み、ずらしたフタの隙間から水を足して火にかける。

「ヤダもう、パー。外、真っ暗なんだからカーテンくらい閉めなさい」

 思い出したように猛然と窓へ足を繰り出し、途中、ソファから拾い上げたエプロンを振り回しながらカーテンを閉めた。あおがれふわり、風は巻き起こって、くすぐられたようにまたテレビが笑う。

 そうしてエプロンをつけたシクラメンは、もう吊り棚からあのフライパンを下ろしていた。後ろ姿はなんだかオーケストラの指揮者のようで、込められた気迫のままに二つ目のコンロへ火を入れる。撫でるように熱くなったフライパンへ油を引き、否や換気扇は回されて、放り込まれた何かがパーリィの背で派手な音を鳴り響かせた。おかげでテレビの音は聞こえなくなったけれど、選んでつけたわけじゃないならかまわない。黙ってもぐと眺め続けた。

 やがてしょっぱい匂いが頭の上を漂いだす。

 部屋中に広がったところで棚から引っ張り出された皿がガチャガチャ、騒がしい音を立てた。

「パーお待たせ。出来たわよ」

 声にはまだ気忙しさが残り、それはぼやぼやしていたらパーリィの方が待たせているかのような気分になって、いそいそと尻を持ち上げてゆく。

 四つん這いでテレビを消し、いつもならノートパソコンの上で待たせるもぐと共に、タルタルソースの乗ったチキン南蛮と今しがた盛大な音を立てて炒められたほうれん草のソテーを、ちぐはぐのような昨日の残りのきんぴらごぼうに、浮かぶクルトンがインスタントらしいカップスープを見下ろした。最後、よそわれたご飯がそこへ加えられ、もぐを隣の椅子へ座らせたところで視界に突き出された箸を受け取る。

「あー、お腹すいた」

 などと吐いたのはシクラメンの方だ。

「パーもお腹すいたでしょ。食べて」

 促しエプロンを剥ぐと、ゆがんだ襟元をなおして茶碗を持ちあげる。

 目にしてようやくパーリィも、そうだったと思い出し、短冊に切り分けられたチキン南蛮へかぶりついた。

「いただきまぁす」

 とたんじゅう、と鶏肉の油につけダレのしょうゆ味が、タルタルソースの甘酸っぱさが、口の中へと広がってゆく。パーリィはその端っこの、焦げてカリカリになったところが大好きだ。見つけて味わえば自分のお腹もようやく空き始めていた。

「今日、電車で火事があったって知ってた?」

 カップスープから口を離し、やおらシクラメンは切り出す。

「知らない」

「おかげで遅れるかと思ったわよ。決ったから」

 続く報告は突然で、けれど今さら何が、なんて聞けはしないだろう。

「うん」

 うなずいた口へ白飯を押し込む。

「どんなの?」

 苦手なほうれん草も少しだけつまみ上げると、ちまちまと口の中へ導き入れた。

「ヒツジですって。依頼主はウエステイ・シシオ。ほら、ワタヌキのいたEg開発センターの培養室長」

 依頼主以上、ターゲットは想像だにしていなかったものだろう。

「それ、ほんとにほんとのヒツジのこと?」

 聞き返してシクラメンに「覚えてるわね」と目配せされる。

「本物。エムニの実験動物。エムニは研究所だったでしょ。そこで飼われているらしいの。そのヒツジが世間に知られるとセンターは研究競争に負けるんですって」

 ならそれは、人に比べてずいぶん楽な「やってはいけないこと」だ。

 と、チキン南蛮にきんぴらごぼうを次々と口へ運んでいたシクラメンが、椅子の背に引っかけていたトートバックへ体をひねる。中をまさぐる動きは素早く、箸を握ったままの手でそこから紙を数枚、引き抜いてみせた。パーリィにもよく見えるようテーブルの真ん中へ置くと視線を投げる。

「今回パパはこの依頼にとりわけこだわってるの」

 その顔はおっかない。つまり乗り気じゃないこの気持ちなど、バレバレだということらしい。

「わかってるってば。パーはどっちの味方でもないし、相手がヒツジさんだって手は抜かないよ」

 すぐにも返して隣のもぐへ「ねー」と首を傾げた。

「で、それさぁ、ばい菌とかついてるの?」

 向きなおり、やる気をみせる。

「いえ、ウイルスは持ってないわ」

 教えるシクラメンは「遺伝子操作されてるだけよ」と言った。

「ふーん」

 とはいえパーリィには「いでんしそうさ」が何なのか分からない。たとえ教えてもらったところで分かりそうもないのだから、ただ置かれた紙を真上から眺めるべく茶碗を片手に立ち上がった。

 パソコンからプリントアウトしたものらしいそれは地図だ。ところどころに商店やビル、公園の名前が書き込まれており、左上の指紋のような渦が山を示していた。回り込むようにして右手側を鉄道は走っている。それがエムニ研究所の周辺地図である、とすぐにも理解できたのは、ワタヌキの件でエムニについていくらかを知っていたせいだろう。間違いなし、と引かれた蛍光ピンクのマーカーが、順路を示して駅から山のふもとまでをつないでいた。その傍らには小さな文字で電車とバスの時刻表も書き込まれている。

「エムニってさぁ、ここからだと山の裏っ側だったんだね」

「そう。ここね」

 示すシクラメンが地図の中の渦巻きの詰まったところ、蛍光マーカーの片端を指で押さえた。

「パーもよく服、買いに行くとき使うでしょ、この駅。そこから研究所まで二キロちょいよ」

 滑らせて蛍光マーカーが引く線の果てを指す。

「でもパーがいつも行くのはコッチ側じゃないから、何回か下見、行かないと落ち着かないなぁ」

 確かにいくら思い描いてみても、山手側の風景は頭の中でうまく動いてくれない。

「だめよ」

 遮られ目を瞬かせた。

「時間はかけられないの。ヒツジは近いうち公表される予定だって。正確な日時が掴めていない以上、それって明日かもしれないらしいのよ。だから先方は急いでて、明日にでもって」

「ええぇ」

「明日。昼に出発してもらうから」

 放つとシクラメンは食事へ戻った。

 見つめてパーリィはすとん、と椅子へ腰を落とす。言い切れるほどプランには自信があるのか。黙々と食むシクラメンを見つめた。だったらゴタゴタ言うのは間違いで、これまでシクラメンが手を抜いたことは一度だってない。「やってはいけないこと」はパーリィだって同様に、中途半端な気持ちで挑んでいいほど甘くもなかった。

 パパのためなら絶対失敗しない。

 呪文はパーリィを無敵に変える。

 まとわせて「わかった」と、アゴを引いた。

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