17

 たまらず雄叫びは上がっていた。たたんでいた足を宙へ振り上げ、もぐの頭をドラムと連打する。抱えて右へ左へ床を転げ、伸びて縮んで万歳を繰り返した。

 果たして切れた息にようやく我に返ったなら、再びパソコンへ覆いかぶさる。操る十本の指も勇ましく、一気呵成と文字を打ち込んでいった。


 絶対、ものにしなきゃだめだ。けれど相手の言いなりばかりじゃ、いけない。認められたから話は持ちかけられていて、そんなときこそ自分を信じなきゃだめだ。パーリィは必ずユースケの味方だし、ユースケは夢見た通りきっとプロになれる。ユースケの本気を誰より知っているのはパーリィで、だから契約をびしっと決めて約束とおりパーリィを会場へ


 綴ったところで指は止まっていた。

 シクラメンが耳元でまた「あなた、行くつもりなの?」と呆れて囁く。

 そう、あのとき言葉を聞き流したのは、なんとなくなんて曖昧なものじゃない。互いは決して会ってはいけない。それがユースケと会話を続けるための決まり事と、意識していたせいだった。

 それほどまでに、いかに綿密と計画を立てようと「やってはいけないこと」の全てをコントロールすることは難しい。気象条件だろうと誰かが捨てたゴミひとつだろうと、ドミノ倒しと予測不能で調整不能な齟齬は降りかかると、予想外はパーリィの前へ転がり込んで、いつも臨機応変を強いていた。そのたびパーリィがどれほど体を冷たくしたかは忘れられない。なら、人と人のつながりもまた調べたところでキリのないドミノ倒しの最初ひとつだ。みんなの注目を集め、不特定多数とかかわるユースケだからこそ直接かかわるなんて、喝采を浴びるその輪に加わるなんて、とうていできやしなかった。

 けれどユースケはいつだって本気だ。嘘だってつかない。それはパーリィが一番よく知っていて、だからスポンサーが決まればユースケは必ずパーリィを会場へ招待してくれるハズだった。だのに今さら行けない、なんて言ってしまえば、パーリィの方が口先だけの嘘つきになってしまう。応援している。繰り返した言葉の薄っぺらさにこそ、耐えられなくなっていた。


 パーリィを会場まで招待して


 打ち込めず、のしかかっていたパソコンから身を起こしてゆく。伸ばした指でバックスペースキーをそうっと押し込んだ。目の前から削り取られてゆく文字はといえば、なんとも軽くあっけない。

 会ってもないんでしょうに。

 またシクラメンが繰り返して、パーリィはしゃっくりでもしたかのように体を跳ね上げた。おさまった頃にはもう文字は欠片も残っておらず、見つめてついたはずのため息もなんだかうまく吐きだせなくなる。

 その息苦しさに着込んだチューブトップを脱ぎ捨てていた。振った足でショートパンツもまた放り出す。

 メッセージは見なかったことにすればいい。ただ考えた。ログインの履歴が残らないここは返事を書かなければ自然、そうなるはずで、ならパーリィは招待されず、断らずにすめば嘘つきにもならなくてすむはずだった。ままに、ずっとユースケを応援するパーリィでいたい。そう思う。

 パソコンの中にはもう、ほかに見るものなんてない。立てていた画面を両手で閉じた。

 そう、パーリィはパパの愛に生きる職業婦人なのだ。

 片手でコンセントを引っ張り抜き、一番星を指さすように勢いよく立ち上がる。テーブルに残されたオムレツの皿をただ目指した。半熟だった卵はそこで、軽く洗ったところで取れそうもないほどカリカリに乾き切っている。

 これもシクラメンの言ったとおりだ。さっさと片付けなかったパーリィのせいだと思う。

 睨んでパーリィは掴み上げた。

 カチン、と鳴った音に手元を見る。パパからのプレゼントはそこで光り輝いていた。

 水に濡らして時計までもをダメにしてしまうなんてこれ以上は耐えられない。華奢なチェーンへ指をかける。けれど一人でつけられなかったそれを一人ではずすことはできず、咄嗟に辺りを見回した。目についたスーパーのレジ袋を冷蔵庫の傍らからつまみ出し、時計をはめている方の手にかぶせる。抜け落ちないよう、輪ゴムで手首もまた絞った。かなりおおざっぱだったけれど、これで時計は濡れずにすむはずだと思う。そうしてパーリィは五本の指がある手と、白いビニール袋に包まれた塊を見比べ、へへへ、と笑った。

 ひねった蛇口から盛大と水を出す。飛沫は容赦なく体へ飛んだけれど、裸なら拭けばすむだけのことで、黄色い塊が剥げて落ちるまで、一生懸命、皿をこすった。

 熱中すれば頭の中からユースケのことは消えて、裸にパパとビニール袋だけがパーリィにはちょうどとなる。

 やがて洗い終えた皿の水気を切って振ればその顔はサルとめくれて吊り上がったけれど、その頃にはユースケのことも忘れてパパの時計も濡れなかったのだから、パーリィにはもうどうでもいいことだった。





 だというのに成果は上がらない。トキは二時間近く粘った柵から離れる。ダチョウの見える檻までぶらり、足を運んだ。

 夜が近づいている。察して引きゆく人足に競争相手はもうおらず、敷地の中を軽快に駆けるダチョウを前にベンチへ腰かけた。

 結局ヒツジたちは牧草を毟るだけ毟って食い尽くすと、たった二百円ぽっちといわんばかりトキへなつくようなことをしなかった。様子はまさにかぼちゃの主の言ったとおりで、喋らぬ相手とうまくやるには「雰囲気」とやらの扱いが肝心らしい。

 つかむためにも無理から撫でて話かけたが、得ることができたのは互いに無関心だ、ということだけだった。

 傾けた体で尻を浮かせる。ポケットから携帯電話を引き抜いた。万が一にも生きていた前任者から連絡は入っていないか、多少の期待を込めて確かめる。朗報はなく、お兄さん、しつこくて嫌われるタイプでしょ、何の因果か浴びせられた言葉だけが目の前を行き過ぎていった。

 確かに二時間もの間だったのだから、ヒツジにとってはしつこかったのかもしれず、それが好かれなかった原因だとして実際、二百円ではしつこくする間もあったものでなかったさ、とこぼす。

 むしろ一年余り、ヴィークにこそしつこかったかもしれず、しかしそちらへは二百円も払っていなかったことに思い当たっていた。

 弄んでいた携帯電話を尻へ戻す。突き立てた足で勢いよくベンチから立ち上がった。

 吹く風には独特の動物臭さが混じり、閉園を知らせてその中をアナウンスは流れる。目で追えば、またひとつ色を変えた空が夜へ向かい伸びていったようだった。

 だのにちぐはぐと、いまだ軽快に駆けまわるダチョウはまるで夜が近づいていることに気づいていない様子だ。それもこれも柵に囲われた安堵感からならと考え、柵の外へ出たヒツジは今頃どこで何をどうしているのだろうと思う。見つからない以上、身を隠しているに違いなく、以前のように食える保証もないなら守り、獲得するためにもほどよく野生を得ているのではないかと想像した。

 だからといってしょせんはヒツジだ。想像がそう野蛮になるはずもない。だが「手に負えない」、前任者の残した言葉は蘇ると、トキにひとつ可能性を示す。

 よもや前任者が追い詰められたのはヒツジの野生化が原因なのではなろうか。考えはたちまち凶暴なヒツジを暮れゆく空へ駆け上がらせ、その赤く焼けた高みから得体のしれぬ横長の瞳でトキを見下ろさせた。

 不気味だ。

 過ったが最後、吸い上げたヒツジの瞳は過らせた通りをなぞり、みるまに巨大と膨らんでゆく。トキの視界を、やがては空そのものを、覆い尽くしていった。

 見上げてトキは後じさる。

 冗談じゃない。

 繰り返す瞬きで今、ここへと立ち返った。

 前でダチョウが身を弾ませている。

 妙なシナリオを走らせやがって。前任者へは毒づくほかないだろう。同時に頭の中から野蛮なヒツジを追い払う。

 そもそも今回、手に負えないと判断したなら断る権利はあるはずだった。いや、そんなことより終えた後のことへ考えを向ける。

 最低でも二百円だ。支払う価値はあるとしか思えなかった。ヴィークの店へ向かうことにする。ダチョウの前からきびすを返した。

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