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確かに、街にうごめく「他者」もまた環境という刺激の一部だったなら、そんな他者こそ目まぐるしく変わり続ける刺激の最たるところで、にもかかわらず個々はおのおの「個別の情動体」を抱えた存在でもあるのだから、そんな互いが出会い、すれ違うたび繰り出されるのは攻防戦さながらの凄まじい適応反応にほかならず、決着がつき、せめぎ合っていた因子らが安定するからこそ「その場の雰囲気」という情動体が出来上がりもする。
「元に感情に思考を働かせておるから、我々もこうして互いに突飛な行動に出ることもなく話せておれる」
言い含めたウエステイが笑んでいた。応えてシクラメンも唇を持ち上げるがぎこちなく、「同時にこれが示すのは」と真顔へ戻ったウエステイにたちまち身構える。
「わたしはあなたの、あなたはわたしの持ち寄った因子たちを、着いた決着通り再分配。今、ココで働かせておる、ということにもなるのです」
持ち上げた指が、己が額を突いていた。
「お分かりですか? この場の雰囲気とはいわば、各々の情動体同士が、因子を互いに混ぜ合わせた結果、できたものなのです。そう、これは彼らの交配である、と我々は考えております。そうして多種多様な情動体を作り上げ、様々な環境に実に巧みと適応しつつ活動範囲を広げながら繁殖してきた。しかも我々の離合に比例して恐ろしい拡散力とスピードで」
まくし立てて力が抜けたように一息つく。とたん面持ちに影は差し、深まる深刻さのままにウエステイは身もまた深く前へ倒していった。
「しかもこれら因子の性質には、ある特徴が備わっておることも分かっておりましてね」
低く吐いて、「ほら、そうでしょう」と呼びかける。
「他者の怒りや恐怖に不安は実にストレートに伝わりますが、幸福や安堵へは共感したところで妬みにそしり、ときに怒りさえもが誘発されるゆらぎを持っている。そうなんです。我々の不安や恐怖、怒りなどを誘発させるいわば陰性の因子の活性化率は、いや生命力だ。生命力は非常に強いのです。ですが反して喜びや安心、幸福感などを誘発させる陽性因子はそれが弱い傾向にある」
「あの」
たまらずそこでシクラメンは切り出していた。もちろんタイミングが悪いことは分かっている。だがもう我慢がきかない。
「煙草を吸っても?」
話の腰を折られたウエステイは気が抜けたような顔つきだ。それでもどうにかあのサンタの笑みを浮かべると「どうぞ」とシクラメンを促す。朗らかさについぞ会釈し返してシクラメンは、つまみ出した一本へ急ぎ火を点けた。
「我々の試算では」
吸い込んだ最初一口は最高に美味い。
話を再開させウエステイも「このまま放置し続けることでそう遠くない未来、陽性因子は絶滅することが予測されております」と語る。
「無論、繰り返す繁殖により彼らは多様性という複雑さを獲得し、比例して我々もまた複雑な情動や行動を有すると様々な環境へ柔軟に対応、彼ら共々こうもながらく繁栄してきました。ですがそれももう長くない」
広がりゆく煙がウエステイを霞ませていた。その中で背を丸めたウエステイは、それまであった快活さをすっかり失っている。だからこそ「まあ、証拠に」と放ったそれは、互いの関係を皮肉った冗談で間違いなかった。
「世の中、何かにつけて物騒になっていますからね」
そうして浮かべた笑みは、先ほど見せたサンタのそれとは比べものにならない。だからして見なかったことにするなど容易く、シクラメンはただ二口目をきつく吸い込んだ。
ならなぜサンタの笑みを拒む事は出来なかったのか。
自らを省みる。
いや部屋へ入ったとたん合わせて打った小芝居も、促されて返した先ほどの会釈も、そもそもこうしておとなしく話を聞いておれるワケもだ。それ以前にここへ来ることとなった原因もまた、同じように投げかけられたサンタの笑みを、拒めなかったのだとしたら。
広がる思考は突飛だったが、それこそあずかり知らぬ場所でうごめき己の行動を支配する因子のせいなのかと巡らせる。何より依頼をよこしたウエステイ自身が「ねたみ」に「嫉妬」、場合によっては「怒り」を持ち合わせた淘汰の勝者をまとう人物である。そんな彼の因子がこの場を制したからこそ逆らえずにいたのなら、逆らえぬこの雰囲気の中、次に「彼ら」が「わたし」へ促すものは何なのか。挙句、浮かんだ「洗脳」という言葉に、いや感染かと選びなおし、そのどちらかを真剣に吟味し始めている己へバカな、とシクラメンは吐き捨てる。その口からただ煙草を毟り取った。
「喜びや安堵の元手を失くすなどと、地獄ですよ」
横面へ、ウエステイは囁きかける。「したがって早急に」と背筋を伸ばした。
「我々は、我々にとって有益な陽性因子を保護、繁殖させることが必要であると判断しました。長々とご説明申し上げておりますEgTとはすなわち『エモーショナル・ゲノム・テクノロジー』情動因子遺伝子操作技術というものであります。これは陽性因子の絶滅を回避すべく因子へ人工的に手を加えることで、陰性のそれに劣らぬ繁殖力、生命力を持たせるものだとお考えください。実現のため我々は必要不可欠でありながら最も欠乏しているがゆえ市場で盛んに取引されている満足と安心を数多ある陽性因子の中から選出、因子における遺伝子に相当する部位を特定すると共に、組み換えについての研究を進めてまいりました。技術はすでに実現しております。……残念ながらエムニの手によって、ですがね」
つけ加えられたそれは卑屈を極めている。仕切り直して「当該のヒツジには」と言ってみせた。
「エムニが実験的に繁殖力を引き上げた、プロトタイプのヒト情動因子が与えられております。環境にも左右されることなく因子はヒツジを宿主にして活性化。新たに形成した情動体でもって、感情どころかそれにまつわる記憶さえもを他者の中へ再現させるほどに仕上がっておると報告も受けました」
そんなヒツジの健康状態に問題が出なければエムニは全てを公開し、特許申請を行うつもりでいるらしく、阻止するためにもヒツジの抹殺は必須なのだと語った。でなければ成果に期待し、莫大な資金援助を続けてきた支援者らこそ黙っていないと力もまた込める。
「その報告、とは?」
聞き逃せはしないだろう。
「この件で動いている人間は、わたくしども以外にもいるということなのですか?」
シクラメンは視線を投げる。なら立ち上がったウエステイはその足を、デスク向こうの窓へ繰り出していった。背は再び逆光に塗りつぶされ、「当時、エムニもウチも研究は行き詰まっていましてね」と見えないところから教える。「そういう時ほど相手の動向が気になるもので」と探るべく職員を一人、潜り込ませたいきさつを明かしていった。全てはそんな彼からの報告らしく「でしたらその方に」とシクラメンは言いかけ、「いや、もうひと月前のことです」と遮られる。
「彼にヒツジの処分を指示しましたが以後、連絡がつかない。うちに副室長のワタヌキという男がいましてな」
唐突なまでにその名を聞かされていた。
「これがおとつい死にました」
覚えた居心地の悪さには動揺が混じっている。
「いや正確には殺されたんですな。相手はエムニで間違いありません」
気づけばシクラメンはさして吸いもしていない煙草の、垂れはじめた先端を急ぎ灰皿へ落とした。ワタヌキはセンターの研究情報をエムニへ洩らしていた疑いがあったことを、殺害はその証拠集めを進めていた矢先に起きたということを、その指先で聞く。
「あの男、追い詰められつつあることをエムニへ洩らしたのでしょうな。いや、証拠集めなどと、豪華過ぎるあの部屋で発見されたことこそエムニからずいぶんな報酬を受けていた証です。だとしてしょせんはその程度の関係だった。情報を持ち出すどころか最後、自らの死で我々の研究にさえ水をさしてくれたのですから、まったくもって迷惑としか言いようのない男だ」
ウエステイの言葉は辛辣を極め「おかげでエムニのやり方も十分知れました」と「連絡が途切れた彼のことも、きっぱり諦めがつきましたよ」と吐いた。
「ふまえて気にされておるヒツジとの接触についてですが」
入れ替ええた気分で本題にたちかえる。
「手が加えられた因子はまだ未知の部分も多く、危険であるといえばそうなります。ですが互いの間に共通の情動体さえ作らせなければ影響を受けることはないとお考えください。その点そちらはプロであり、ヒツジの飼育にもかかわっていない第三者だ。出来上がる前に素早く処理していただけるものと期待しておりますよ」
だとしてシクラメンは「手に負えない」と言うつもりでいた。理由など特殊な例であればいくらでも持ち出すことができ、そしてその真偽をたしかめることこそウエステイには不可能だ。
だが耳にした話は荒唐無稽も度を越すと、信じたフリでひと芝居うつことすら許そうとしない。それほどまでに体は拒み、手段など選んでおれない状況だからこそたしなめるほど感じる融通の利かなさに、自分以外の力が存在することを感じ取らざるを得なくなる。
たとえばだ。操れぬこの嫌悪こそ、適応すべくせめぎ合いの果てに勝者と紛れ込んできたウエステイのソレだとするなら。
「お引き受けいただけますか?」
窓からウエステイが期待のままに引き返していた。サンタの笑みは塗り潰されていたそこへ再び浮かび上がると、拒めないなら従わされる、シクラメンは咄嗟に逸らした目でうつむく。
その手元で煙草は燃え尽きようとしていた。
灰皿へ引っかけ、冷めたカップを引き寄せる。
カタリ。
音は鳴っていた。
もちろんカップの立てた音だ。
だがカタン、コトン。やがてはがたん、ごとん、と連なり大きく迫り来る。響きには覚えがあり、だからして開けて視界も時をさかのぼった。
列車だ。
今もなお列車は一本道を走り抜けている。
窓で景色は飛ぶように流れゆき、他者の恣意を己が本意とすり替えた共犯者へ途中下車など許しはしない、と訴えかけた。
「でしたらひとつ確かめたいことが。因子はノイズを取り除く過程で発見されたとおっしゃいましたが、だとすればエムニとはどのようにして同じ研究を競い合うことに?」
それでも試みようとしたのだ。
「ああ、それは因子を発見してからのことです。掲げた情動因子のビジネスモデルで意見を分けましてね。元は同じ研究グループでした」
だが好都合、としたなめずりしたのは自身の方だった。
「こちらの方では今日、明日にでもと考えております。いや、急なこととは存じ上げております。ですのでお役に立てればと、すでに彼から得た情報をお渡しする用意も整えております」
ウエステイも改め持ちかける。
「……であれば、問題ないと」
言葉は紡ぎ出されると、たちまち満足げとウエステイの頬が潰れてゆくのを眺めていた。
ほどに、音もまたがたん、ごとん、と勢いを増してゆく。
「ご用意いただいているものを早速、改めさせていただきたいのですが」
そうしてそうか、とひとりごちていた。
「彼ら」は確かに存在している。
がたん、ごとん。
騒ぐ鼓動へそっと耳をそばだてる。
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