13

 景色を堪能できる余裕などない。

景色もまたそぐう猥雑さで流れていった。

列車は現れた駅ごとにわずかな乗客を吐き出して、橋を渡ると黒々伸びる川の上を這うように越えてゆく。やがて増えた緑に「郊外」という言葉がしっくりくる街へ、迷うことなくもぐり込んでいった。

 あいだ徐行したのは橋の手前、その一度きりだ。ああも慌てたことが滑稽と、挙句列車は予定の時刻ちょうどに目的の駅へ到着する。

 気が抜けたように降りていた。

 迷うほどもなくたどり着き「Eg開発センター」のビルを見上げる。

「十四時に培養研究室のウエステイ・シシオ室長と打ち合わせのお約束をさせていただいております。トリムラと申しますが」

 さんざん拒んできた気持ちはもう固めるほかなく、ちょうどの時刻に受付を訪れる。そうして名乗った偽名は、時刻と合わせて暗号のような役割を果たしている。だからこそ遅刻は厄介で、でないなら受付嬢は内線電話を掴み上げていた。

「少々お待ちください」

 そのさい向けた笑みの奥、スーツ姿でもなければ長髪のうえ、薄くとも化粧までほどこしたそれでいて男らしき人物へ探るような支線を投げたことは正しい反応だろう。だからして安堵できるのは、それもこれもイザとなれば剥ぐことで彼女が「トリムラ」を見分けられなくするためのミスリードが機能していることを示すからだ。

「お待たせいたしました。室長のシシオは二十三階の自室におります。わたくしがご案内いたします」

 一言二言で終えた内線を戻し、立ち上がった彼女の指先が奥を示す。

 従い、乗り込んだエレベータでクリーム色の壁が通路を挟むフロアへ降り立った。見通しの悪さが迷路のようなそこを彼女に続いて奥へと進み、木目が重たげな扉の前で足を止める。

 彼女の繰り出すノックに躊躇はない。むしろ自身の部屋のように、しかしながら「失礼します」と言葉を添えて扉は押し開けられていた。

「室長、トリムラ様がおみえになられました」

「ああ、入っていただけるかな」

 ホームページにあった写真に丁度の声が言う。おっつけ行く先を譲る彼女がシクラメンへと振り返ってみせていた。





「お兄さん、やめて下さいよ」

 声に振り返る。

「パンでしょ、それ。パンなんてやらないでください、ヒツジには」

 言う顔は「かぼちゃの馬車」からのぞいている。上には「どうぶつのえさ」と書かれた看板が掲げられており、だからしてどこにも引いて運ぶ馬などいない売店は、「ふれあいパーク」と銘打たれた動物園の片隅にとめられてもいた。

「なんだよ、営業妨害ってか?」

 ヒツジを連れ戻すとなれば知識はあるに越したことはない。図書館をやめて訪れたそこでトキは口を尖らせる。

「違いますよ。やったら何でも食べますから。で、腹具合を悪くするんです。何もウチの餌を買ってくれ、って言ってるんじゃないですよ」

「わかったよ。やらないよ」

 なおさら渋面を向けられて両手を挙げた。そのままジャムのついた端くれを自分の口へ放り込む。だとして相手に納得したような素振りこそない。

 だろうね。

 ひとりごちる。

 何しろ今、ここを訪れているのはパステルカラーのスモッグでウサギにモルモットへ、ヤギにヒツジへ手を伸ばしている園児たちと、それを見守る母親だけだ。餌の注意などと声をかけるきっかけが欲しかっただけで、気が気でないのは昼の日中に現れた顔にアザ持つ男の方に違いなかった。

 コッチも色々事情があるんだよ。

 経緯など話せやしないなら、トキは胸の内でこぼし向きなおる。聞こえてきた猫なで声に、再び売店へ背をよじっていた。放った相手はそこで、訪れた親子へニンジンスティックの入ったカップを差し出している。受け取る子供はカップの中のニンジンに、いつも食っているだろうそれがポニーの好物だと知らされなんとも不思議そうな面持ちだ。

 そうさ。

 横顔へトキは囁いてやる。

 渡されたニンジンはボクの食うニンジンのようで、そうじゃないんだ。つまり百円でやり取りしたモノは、もっと別のモノってあんばいだ。

 だが言葉はむしろ、トキ自身へ突き刺さったようだった。そう、ボクが百円と交換したものが新しい知識だったなら、ここはひとつこの「ボク」にも新鮮なそいつが欲しいと思う。

 ポニーがどんな風にニンジンを食べるのか。心躍らせ親子はかぼちゃの前から立ち去っていた。

 入れ替わりでその窓へ、トキは身を潜り込ませる。

「俺にもひとつ。ヒツジのやつをくれよ」

 懐へ手を入れた。

「細かいの、ないんですか」

 もらいたての茶封筒から一枚、引き抜きかけて投げつけられる。

「じゃあ、ふたつ」

「意味がわかりませんな」

「俺ばっかり食ってたら、奴らがかわいそうだろう」

 言ううちにも前へ二つ、牧草は束で並べ置かれていた。まもなく隣へヨレた札と小銭もまた乱暴に積み上げられる。

「はい、おつりが九千と、八百円」

 横滑りした小銭が落ちそうになり、様子にむっ、としたところでさっさと立ち去るわけには行かない。小銭を受け取ったフリでかわして、「かぼちゃ」の窓へトキは頬杖をついた。

「あのさ、ヒツジが五十頭。牧場を始める。あいつら。なついてくれるかな?」

 とたんレジへ一万円札をしまいこもうとしていた手は、動きを止める。上で、顔はトキへと向けられていた。その強張り加減に痛んでいない方の頬を持ち上げ笑い返してやるが、あからさまと視線を逸らした相手はもう手元を再開させている。

「なあ、あんたその筋のプロなんだろ?」

 その愛想のなさに無視するなよ、ですり寄っていた。

「五十頭とは、また思い切ったことをなさるんですね」

 返されたなら、もうこちらのものだとしか思えない。

「そうさ、だから心配してる」

 おかげで会話は成立すると、気づいて相手もしまった、といわんばかりの顔をしてみせていた。

「でしたら、これまで何か動物をお飼いになられたことは?」

「ないね」

「五十頭ですよ!」

 ちらり、投げた視線のその後で、大いに声を裏返す。

「何も知らず牧場だなんて、あなた、からかってるんですね。でなきゃせめて犬くらい飼っておくべきですよ。それをいきなり。経験が、経験からくるコツってものが入りようじゃあないですか」

 だがその食いつきこそトキにはいい調子だとしか思えない。

「お、なんだよそのコツって。テレパシーか何かなのか?」

 投げた言葉は突飛だったが、ちょうど今しがた以心伝心、向けられた視線に感じたところなのだから前後はある。

「じゃないならお兄さんはヒツジと喋れる、とでもおっしゃるんですか?」

「そりゃその、五十頭も飼えば、そのうちなるかもな」

「なりゃしませんよ」

「けど噛みつかれちゃあ、たまらないだろう」

 なにしろ前任者は手に負えない、と言ったのだ。

「て、あんた、ヒツジに噛まれたことある?」

 とたん乱暴と、小銭のトレーは寝かされた一万円札の上へ戻されていた。

「ありゃしませんよ。バカらしい」

「だったらコツを教えろよ」

 それこそ客への物言いとは思えやしない。応じて返せば喧嘩腰だ。トキの唇も尖っていた。

「ならお尋ねしますがね」

 レジを閉めた相手が切り返す。踏みかえた足でようやく体をトキへ向けなおしていった。

「お兄さんのその目は、ついているだけなんですか」

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