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 残してドアへ鍵をかける。ゆったりとられたポーチを横切り、シクラメンは形ばかりの門扉を押して廊下へ出た。

 ここ最上階に部屋はパーリィのそれひとつしかなく、つまるところ共有というより占有のそこをエレベータホールへ向かう。ひとつしかないボタンを押してエレベータが上がって来るのを一人、待った。

 あいだ眺める扉の窓には、自分の顔が映り込んでいる。気づいてシャツのボタンを上まで留めた。向かおうとしているのはいわば商談なのだからジャケットのひとつも羽織っておくべきだったかと考え、その内容こそ汗だくになってまで装う「建前」を必要としていないことに思い当たる。

 乗り込んだエレベータの中、右肩のトートバックへ視線を落とした。

 十二時十七分。

 取り出した携帯電話の時刻を読み、約束には十分間に合う時間だと思う。

 相手は培養室室長、ウエステイ・シシオ。場所は電車で三十分余り、降りた駅からほどない場所に建つウエステイの仕事場「Eg開発センター」だった。そこは十年余り前から活動を始めると、企業や個人の援助により「EgT」と呼ばれる研究に携わっているという。

 調べのつく限り公にできる範囲では、室長を務めるウエステイの年齢は六十三。国立大学の理科学系学部を卒業後、同学部の研究室に勤務。退職後いくらかの空白期間を経て現在の「Eg開発センター」に続く組織を立ち上げたとあり、その顔はホームページの「ごあいさつ」で確認することができた。生来の二重まぶたと加齢のたるみに囲まれた目力の強さが印象的だ。言うまでもなくセンターを代表して「あいさつ」しているのだから団体のトップに違いなく、これまでの依頼者がすべからく公に出来ぬ団体との接触を隠蔽しようとしていたことに比べ、こうしてセンターの中で会うことを許すウエステイに、不都合を自在に揉み消すことができる権力のにおいを感じ取りもした。

 大物、ね。

 頭の中で呟き、用のなくなった携帯電話をバッグへ落とす。

 だがどうしても調べがつかなかったのは団体の行っている研究内容についてで、ホームページでも「詳しくは培養研究室まで」と触れていなかった。だからといって調べようにも素人がいくらインターネットで検索したところで乏しいを過ぎてない知識に、引っぱり出せるものはなかった。

 トートバックを肩へ掛けなおし、巻き込んだ髪束を払う。なら窓へ一階エントランスは滑り込み、エレベータを降りたところで今日も違わぬ人気のなさに、だからパパはパーリィへここをあてがったのだろう、と改め思わされつつ表で出た。

 すでに高く昇った日の光を全身へ貼り付ける。

 たどり着いた駅前の、長蛇の列に驚かされた。ロータリーへ次々に滑り込んでくるタクシーやバスは、そんな客を乗せるたび駅を離れ、案内する駅員も右往左往だ。拡声器を振り回し声を張り上げている。

 一体何が、と思えば歩みは早くなっていた。改札へ上がって貼り出された紙に四時間前、起きた車両内での火災を知らされる。証明して見上げた電光掲示板も「遅延」と「運休」の文字ばかりを並べると、その下で一瞥した客がまたロータリーへと去っていた。

予定こそただの会合ではないのである。シクラメンも色めきだった。ロータリーへ向かう客の後につきかけ、いや、と思いなおす。

 そもそも行き先が記録されてしまうタクシーには乗れなかった。バスを使うとして、そのバスこそあの様子ではいつ乗れるのか分かりもしない。比べればたとえダイヤが乱れていようと到着した列車に乗ってしまえば、数十分後には着くだろう場所だった。とにかく一度、ホームをのぞいてみてもいいんじゃないか。

 選び放題の自動改札をくぐり抜ける。ホームへ続く階段を、下の様子をうかがいながら降りていった。

 案の定、そこには黒い頭がヒシめいている。吹き上がってくるざわめきもまた相応に重く、制するアナウンスが刺さるような音を誰もへ容赦なく浴びせていた。

 どうやら間もなく列車は入ってくるらしい。

 ついている。

 思いを過らせる。

 いや車内に缶詰にされたなら、と想像は働いて、むしろ、と降った閃きにシクラメンはしばしその身を固めていた。

 そう、パーリィにはああ話したものの、本当のところパパは今朝とても機嫌が悪かったのだ。それもこれもこの依頼のせいにほかならない。なにしろ向かう「Eg開発センター」こそ一昨日パーリィがホテルで始末した男、ワタヌキの勤め先で間違いなかった。

 そんなワタヌキ殺害を依頼したのは同じ研究で成果を争う「EMネットワーク・インターナショナル」、通称「EMNI《エムニ》」だ。目的はいわずもがな競争相手の研究妨害で、つまりこのタイミングで舞い込んだセンターからの依頼は十中八九、ワタヌキ殺害の報復で間違いなかった。

 だが認めつつもパパはそれを引き受ける、と言うのである。受け入れられずシクラメンが抗議すれば、しばし互いは口論となった。当然だろう。手を下すのはパーリィとシクラメンだ。この「またぐら公約」が知れて危ういのは二人の立場にほかならない。それは二人のあずかり知らぬところで発覚する可能性こそ高かった。

 何とか回避する手はないか。考えながらシクラメンはパーリィのマンションへ向かっている。いっそのこと先方が依頼を取り下げてくれればいいのに。起こるはずもない偶然を願った。なら望んだ通りこうして想定外は起きると、乗るべき列車はこうも遅れ、何もかもが台無しになろうとしている。

 素知らぬ顔で巻き込まれ、先方の信用を失ってみるのはどうだろうか。小賢しいまでのシナリオは、列車がやって来ると言うアナウンスをきっかけに願うままシクラメンの中で膨らんでいった。むしろそのために誰かが火災を起こしてくれたのではなかろうか。過ったその時、警笛に横面を叩かれる。

 醒めて視線を跳ね上げていた。

 足元にのぞくホームへ列車はすでに滑り込むと、停車したそこから降りてきた人はといえば数人だけだった。蹴散らし群衆はホームで鈍く動き出すと、途切れず列車へ潜り込み始める。

目にしたなら決断は下された後となっていた。

 残る階段をシクラメンは駆け下りてゆく。

 その一足ごとに間違いなく、火災を起こした誰かの恣意は己が本懐とすり替わり、携え人混みの中へ飛び込んだ。遅れるために間に合わせようとやっきになれば押し返す他者の顔に同じ企みは確かと過り、おくびにも出さないその無関心さでシクラメンを共犯者として取り囲んでゆく。

 乗り込んだ車内の混雑は想像以上だ。掴めた手すりもなんのその、「サービス」だけを剥ぎ取って列車は人を荷物と、いや生き物なのだから家畜と言うべきか、乗せてホームを離れていった。

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