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その本人こそもうこの世にいないやもしれないなら響きこそいただけず、トキは用紙を机へ戻した。空いた手で、思い出したように殴られた痕を撫でさする。
「だからこれだけは先方に了解を得てる」
「何を?」
唐突に切り出すクマジリへ目玉を裏返した。
「あなたが判断してほしいの。現場を見て、こなせそうなら引き受けてちょうだい。でないなら断ってもらってかまわない。それでどうにか筋は通るの。後の事こそこちらで処理するわ。だいたい前任者に振った地点でこちらに見誤りがあった。それはもう間違いないことなのよ。そのうえ現場でしか分からないことが起きてる。この整理に関してコッチで判断できることはもうないと思っているの」
「頼みごと、ね」
言い切られて、なでつけていた動きを止める。思い出すと繰り返し、その手をトキは下ろしていった。
「俺も古株になったってわけだ」
「異例で申し訳ないわね。どう?」
結論を急かしてクマジリは顔をのぞき込んでくる。こんなときだけその面持ちは女を強調するが、クマジリにこそエプロンは似合いそうになかった。むしろクマジリの方が愛人めいていて、などと支離滅裂であればあるほど考えは連想させる相手と深く結びついているに違いなく、ゆえにヴィークが引きずり出されてくるのは「これから先のことを社長と相談する」と言ったクマジリの言葉が引き金となったに違いなかった。ゆえに連想された解雇は、かなうヴィークとの約束に着せてやりたい「エプロン」を、クマジリへ重ねてしまったのだと思う。
だがその繋がりこそ今は余計だ。目の前のことへ集中しなおす。
「ところで俺の方の依頼人は?」
問えばクマジリは半開きにした口で「え?」と聞き返していた。
「え、ええ。紙切れを処分したことはあの後すぐ連絡した」
そんな具合に出だしこそ頼りなかったものの、話すほどにいつもの調子は取り戻されてゆく。
「アナウンスが聞こえてた。アレ、列車の中じゃなかったのかしら。行き先は知らされてない。ずいぶん感謝してたわよ。あなたによろしくって。昨日のことは全て予定通り。むしろ想定外は、あたしの方にあったってわけ」
明かされた話に疑う必要こそなさそうで、トキはひとつ大きく息を吐いた。
「そうか」
再びつまみ上げた用紙をしげしげ眺める。
「万事、丸くおさまったなら次だな」
言うほかなくなった言葉を紡げば、ようやくクマジリも理解したらしい。肩をすくめて緊張を解くと、おっつけ「次の話」をつまびらかとしていった。
聞けば経営者らは血眼になっていた、らしい。だがトキにはまるで聞き初めの話で、しかしながらごく身近で起きていたことのようだった。
はじまりは先週の深夜だ。近隣にあるという「ヒツジ倶楽部」から飼われていたヒツジは五十頭、逃げ出した。経営者が血眼になったのはその回収で、しかしながらそうも慌てた理由こそ街中が大騒ぎになることを恐れたからではなく、ヒツジに堂々、刻印された名前が知られることを恐れたためだと言う。何しろ記された名前は倶楽部へ投資した会員らの名前らしく、そんな倶楽部で夜ごと行われていたことはといえば、ヒツジを追い回す事だと、それもかなり熱狂的に追い回す事だということだった。
「そりゃ、牧場か?」
うつむき聞いてトキはクマジリへ目玉を向ける。
「いいえ」
クマジリは首を振った。
「クラブが提供しているのは閉鎖空間で会員に群れを追わせて、ヒツジがパニック陥る様を観覧するってアトラクションなの」
「は?」
思わず声が裏返る。
「ほら、ヒツジって前にならって群れるでしょ。ひどく臆病な生き物だっていうし。だから追えば面白いように逃げ惑うらしいのよ。そうして逃げ場がなくなったヒツジは群れの中心を目指すって。様子は真ん中で圧死するヒツジが出るくらい凄まじいらしいわ。そうなるよう煽ったり、てんてこ舞いする姿を眺めて楽しむのが倶楽部の目的らしいのよ。追いかける方は相当アドレナリンでも出るんじゃない? 虐待って言ってしまえばそれまでだけど、倒錯って快楽だと思うのよ」
二の句が継げなくなる。同時に公になどできそうもない趣味のセンスに、なるほどここへ話が舞い込んでくるわけだと納得しもした。
しかもその過激さのせいでヒツジの入れ替えは激しく、秘密裏に匿うためにもかさばる費用を支えるため、会員らは川向こうの富裕層がほとんどだという。そら地位に名誉があればこそだった。ヒツジが逃げ出すことで表沙汰となってしまえば会員らの名誉も、抱えた倶楽部の存在そのものも、動物愛護協会などとあるくらいだ、危ういとしか思えない。
結局、経営者は一晩のうちにヒツジを四十三頭、捕獲したらしい。だが残り七頭を見つけることはかなわなかった。
ところがトキも事態を知らなかったように一日、二日経ったところで街にヒツジが現れた、という騒ぎこそ起きていない。だとしてこれ幸い、と放っておけるようなモノでなく、話は事務所へ持ち込まれたようだった。
経て前任者が請け負ったのは、消えた七頭を見つけ出すことがひとつ。そのさい可能なら倶楽部へ連れ戻し、無理であればヒツジの体から刻印を剥いだうえで処分する、の二つであることを聞かされる。
「本当にそれだけか?」
だとするならあまりに仕事は簡単過ぎた。前任者が自死をほのめかすほど追いつめられた理由が分からない。
「つまりひどい動物アレルギー、ヒツジアレルギーなんてのがあるのかどうか知らないが、前のヤツはそんなこんなで手に負えない、とでも言ってきたのか?」
「分からない。だったとしても死ぬことこそないわ。それもあんなやり方で。て、あなたアレルギー、大丈夫よね」
確かめるクマジリこそ真剣だ。
「聞いてくれるなよ」
払いのけたなら「それもそうね」と我に返った。
ともかく相手はたかがヒツジだ。そしてこの整理には引き受けるかどうか選べる権利というものがあった。トキは預かる、とだけ答えて返す。その手で終わったばかりの整理の手当てを受け取った。
「多いだろ」
のぞいた茶封筒の中身に違和感を覚える。
「今の手付けが入ってる」
「おい、倶楽部へは向かうが、それは判断するためにだ。まだ引き受けちゃいないぞ」
「判断するにも活動費は必要になるから。事務所でもそれくらいは使ってる。気にしないで」
言われてとんでもないな、と驚かされ、なら削られても困ると懐へ押し込んだ。
ただし前任者と連絡がつかなくなったのは今朝がたのことだ。万が一の行き違いを考慮して、せめて一日、猶予が欲しいと考える。それでも前任者と連絡が取れなければ明日の午後、受理の可否を見極めに倶楽部へ向かうことをクマジリへ告げた。
「そうね。それがいいかも。先方へはわたしが伝えておく。向こうを見て結論が出たらすぐに連絡を入れて。それはこちらからお願いしておくわ」
返事は小気味よく、了解、とうなずき返すと同時にクマジリも席を立つ。その体をパーテーションの向こうへひねった。様子こそ、そそくさと逃げ去るかのようで、そう見えたせいでヴィークに始まった連想がまだ終わっていないことを、トキは思い知らされる。気づけば、だった。「待て」と口は開いていた。
「それから、これで最後にしたい」
言う。
自身でも驚くほどそこに躊躇はない。躊躇のなさにクマジリもまた驚かされているのは、聞かされた後もなお向けつ続ける無表情が語っていた。
それも社長に話しておく。
引き止めるも何も権限がないのだから返事は妥当だろう。残して今度こそパーテーションの向こうへ姿を消した。残されトキは何もこのタイミングでなくてもよかったはずだ、と今さらのように省みる。だが内容はもう撤回できるようなものでなく、たまたまだと思うことにした。
そう、失せ物がタンスの裏から偶然出てくるように、思いにもよらぬタイミングでたまたまピースは今日に限って姿を現すと、ヴィークが思う絵を完成させてしまっただけなのだ。そう片付ける。
どうぞよろしく。
遅れてトキも言葉を返した。
「ヒツジ倶楽部」へ向かうまで、まだ一日と時間はある。ヒツジについて調べておくかと図書館へ足を向けかけ、ガラでもないと切り返した。気分が気分だ。今朝がたの映像が記憶に生々しい駅は避けることにして、ちょうどと滑り込んできたバスに飛び乗る。
終点のそこで柵にもたれかかった。
道すがら買ったパンを差し出し、注意する声に呼び止められて振り返る。
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