9
「それからパー」
背で交差するエプロンのたすきには、まっすぐな黒髪が乗っている。ひとつに束ねてシクラメンは、フライパンを洗いながらそう切り出していた。
「ひとまず一週間ほど空けておいて。予定が入りそうなの」
言って水を切ればその後ろ姿に一滴も残すまい、と気迫はみなぎり、眺めながらパーリィはそんなシクラメンが作ってくれたチーズにベーコンとバターがたっぷり入った特製オムレツを頬張る。
「うぇ、もう? だってやっと終わったところだよ」
「わかってる。あたしもさっきパパから聞いたところなのよ。だからこのあと表へ出るから、本決まりになるのはそれからかしら。とにかく、あるかもってことだけは覚えておいてほしいの」
言うまでもなく入りそうな予定とは「やってはいけないこと」だ。そしてホテルから持ち帰ったワンピースは昨日、処分したところでもあった。無論、実際にやってのけたのはシクラメンで、二人はこんな具合にずっと前からパパの元で「やってはいけないこと」を続けている。
だからもう長いあいだパーリィは、パパと会ってもいなかった。
「ねえ、さぁ」
呼びかけてパーリィは、またその口へオムレツを押し込む。
「今日、パパ、どんなだった?」
投げかければ洗い終えたフライパンを吊り棚へ戻したシクラメンは、出しっぱなしだった水を止めて「ええ」と返してみせていた。
「おとついのこと話したら、とても喜んでたわよ。ほんと、嬉しそうだった」
キッチンの扉に引っかけてあったタオルで、濡れた手を削ぐように拭うと、ヨレたタオルを手早く整えなおしもする。
「おかげで仕事もはかどるよ、って。パーリィのことすごく褒めてたわ。いつも通りスーツの似合う、すごく格好いいパパのままでね」
「じゃあさ」
それこそパーリィの想像通りでまちがいなかった。だからなおさら、たたみかけずにおれなくなってくる。
「パパ、パーに会いたいって言ってた? 今日、来る?」
そろそろ期待したところで、バチは当たらないはずなのだ。だのにシクラメンは一仕事終えたそこからため息交じりに、振り返ってみせただけだった。
「パー、知ってるでしょ」
もうそれだけでパーリィには十分だ。
「パパはほかにも、たくさんの仕事をかけ持っているの」
そう、パパはとびきり忙しい。それはパーリィだってよく分かっている。分かっていることを知っているシクラメンもまた、それ以上を言おうとしなかった。代わりに束ねていた髪から軽く振った頭でゴムを抜く。唇に挟むと髪を結いなおしていった。
「でもパーが前にパパに会ったのはさぁ……」
目にしたなら口ごもるほかなく、代わりにぴしゃぴしゃ、パーリィは揺らすフォークでオムレツを叩きつける。そのたびに大事なオムレツは不味くなっていくようで、諦め大きく息を吸い上げた。
「ふぁーいっ」
止めてひと思いと天へ吐く。握りなおしたフォークでオムレツをすくい上げると、おでこの高さまで持ち上げ開いた口めがけて黄色い塊をトゥルンと落とした。ならやっぱりオムレツはふわふわで、トロトロで、むにゅむにゅとパーリィの口の中へ広がってゆく。それはこの世の果てかと思うほど濃く、溺れそうなほどパーリィを満足で満たしていった。
だからといって作ってくれたシクラメンはパーリィのママでもなければ、パパだって当然、本当のパパでもない。そもそも二人は夫婦ですらなく、すなわちパーリィはそんな二人の間の子供でもなかった。
だいたいパーリィには家族がいない。世話してくれていたのはグループホームの先生で、先生は「思い出せないのは忘れた方がパーリィのためだから」とことあるごとに話すと、むしろパーリィから家族を奪いたがっていた。
そんな先生に手を引かれてあの場所を訪れたのは、パーリィが六歳になりたての頃だ。
そこはとても明るくて、とても広かったことを覚えている。足元はまるで雲の上を歩いているかのようにふわふわで、これまで一度も感じたことのない空気に包み込まれていた。
目指す先に空は広がっている。
はめ込む窓は左右に連なり、眩しさにパーリィは目をつむっては開きを一生懸命、繰り返していた。やがてその中に影はひとつ、滲むように浮き上がって、近づくほどにソファへ姿を変えてゆく。そこからゆらり、人影もまた立ち上がらせていた。
目にした先生が足を止める。
少し警戒してパーリィも、どうなるのだろう、思うからこそその隣で、そうっと先生を仰ぎ見ていた。
しかしパーリィの目に映ったのは大きく出張った先生のアゴだけで、声色は覚えていても何を話しているのかまるで覚えのない会話はやがて、パーリィの頭上で始められている。
あいだ大きな茶色の靴と、ぴしりと折り目のついた灰色のズボンはずっとパーリィの前にあり、その足は何度も床を踏み変えては、見つめるパーリィに嫌な事の前触れを感じさせ続けた。そのたびにお腹はぐじぐじ痛んで、パーリィは強く引いたあごでぎゅっ、とスカートのひだを掴んで睨みつける。
とその時だ。
ズボンの折り目は潰されていた。パーリィの前へ、見も知らぬ顔は下りてくる。驚きのあまりパーリィは小さく跳ねて、もう消えてなくなりそうなほど縮こまった。縮こまってその果てから、やっぱり恐る恐る降りて来た顔を盗み見る。
とたんあれ、と思っていた。
なにしろそこで男は笑っている。
それはパーリィにとって驚くに十分なことで、次の瞬間、胸に埋まるほどだったアゴを先生へ弾き上げていた。
けれど先生はやっぱりパーリィを見ようとはせず、名前はなんというのかな、と男だけが問いかけてくる。答えないととんでもないことになる。慌ててパーリィは返していた。
パーだよ。
そうかパーか。
聞いた男は繰り返し、けれどその顔が曲がってめくれ上がることこそない。
素敵な名前だね。
伸ばした手でただパーリィの髪に触れた。滑らせゆっくりなでつけてゆく。
素敵な名前だ。
何が何だか分からず、分からないからパーリィはもう目が逸らせなくなっていた。ままに見入れば吸い込まれてゆくようで、本当に吸い込まれて嫌な予感も消えてなくなる。
だからしてまたもやパーリィはあれ、と瞬きを繰り返していた。確かめて息を吸い込み、やっぱりなんともないや、と思う。それどころか痛んでいたお腹は今やあてがった手の下でくすぐったげに揺れ動くと、パーリィをいてもたってもおれない気分にさせていた。
もう堪えきれない。撫でられるままだ。パーリィはぐふふ、と喉を鳴らす。身をよじってそのすぐったさに、きゃはは、と声を上げた。その声を待っていたかのように男の瞳はなおさらたわみ、そこにたまってゆくもので見つめるパーリィをずっと、もっと愉快にくすぐり返す。
「そうらパーリィ。優しいお方だろ」
笑い転げるパーリィへ先生の声は降っていた。聞いてパーリィは、そうか、優しいってこういうことだったんだと思う。だからお腹はこんなにもくすぐったくて、大好きなオムレツみたくとろけるとふわふわの黄金色になっているんだと確かめた。
すると先生はこうもパーリィへ教えてくれる。
「この優しいお方が、今日からパーリィのパパになるんだよ」
握られていた手が解かれてようとしていた。パーリィの笑いはとたんひっこんで、驚き先生をただ見上げる。
けれど先生はここでも何一つ答えてくれず、パーリィの前で男だけがひとつ、うなずき返していた。
どうだろう。
言わんばかりの目でパーリィをのぞき込む。
お腹のくすぐったさはもうおさまって、代わりにぐるぐると、それはパーリィの頭の中を回っていた。パパになればこんなことがずっと続くのか。目の当りにして信じられず、信じられないからこそ疑って、パーリィの頭の中はもうぐるぐるの「ぐる」も回らぬほどに、そのことで一杯になる。
だのに助けて「そうだよ」と答えて返す声はひとつもない。見守ることで先生だけが、パーリィのつむじへ「そうだよ」と吹き込んでいた。
同じように言い含めて、前で男も両手を大きく広げてみせる。たたえる笑みはちっとも変わらず、その笑みでさあおいで、とパーリィを呼び寄せた。知らない場所にパーリィが戸惑えば、「そうら」の掛け声と共に抱きしめる。
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