5

 チリンチリン、と音が鳴る。

 くもりひとつない輝きはクリスタルそのもので、そんなグラスが奏でる音もまた突き抜けるほどに透明だった。耳にしてパーリィは、語りかけてくるあの声もまた頭へ蘇らせる。


 よくお聞き、可愛いパーリィ。

 この世には「やってはいけないこと」が、本当にたくさんあるんだよ。そのワケは、どれもみんなが「やりたい」と思っているからなのさ。だって誰もがやり始めてしまえば手がつけられないことになってしまうだろ。だからどれもこれも「やってはいけないこと」にされてしまったんだね。わかるかい。これがどれほど煩わしい決め事かってことを。なくなってしまえばどれほどみんなが喜ぶかってことを。

 だからパーリィ。


 それは大きく両手を広げたような呼びかけだった。


 そんなもの、ひとつずつ失くしてゆこう。

 一緒に失くしてみんなを一度に幸せにしてあげよう。

 お前ならできるはずだよ。やり遂げて、どうかわたしを心から喜ばせておくれ。

 わたしの可愛いパーリィ。

 愛するこの世にたった一人のパーリィ。


 願いを突っぱねることなどできはしない。だから違わず応えてパーリィは固く唇を結びなおした。胸の中で「分かったわ、パパ」とうなずき返す。

 そのために押すワゴンは最上階へ辿り着いてからというもの、毛足の長いじゅうたんに埋もれて物音ひとつ立てていない。聞こえるのはシャンパンのささるバケツにグラスが触れて立てるこの音だけで、運ぶワゴンは他にも焼きたての鳥を一羽、乗せている。その鳥には今、銀のおおいがかぶせられると焼け具合はわからない。

 押すパーリィは用意されていた黒のワンピースの上に白いエプロンをつけていた。とはいえたっぷり布が使われたこのワンピースを、パーリィはあまり気に入っていない。けれどこれがこのホテルで働くメイドの制服なら、扮する以上は手を加えたりできなかった。

 紛らせグラスがまたチリンチリン、と音を立てる。

 ほどに、ひっそりした通路を進むと、現れた一枚のドア前で足を止めた。

 二度、瞬きを繰り返してルームナンバーを確かめ、小さなポッチのドアチャイムを曲げた中指の関節で押しこむ。

 部屋の中で鳴ったチャイムの音はパーリィの耳にもかすかに聞こえたけれど、返事だけが返ってこない。

 もどかしくなって控えめに三度、ノックした。

 やっぱり人が出てくる気配はなくて、おや、とパーリィは顔をしかめる。両目の二重が深くなっていることに気づいてすぐさま元へ戻した。

 いつからこうなったのかパーリィには覚えがない。けれどネガティブな顔をすると決まってオーバーになるのが、パーリィのクセだった。それは知り合いから歯を剥き出したサルだ、と揶揄されるほどで「メイド」がそんな顔をするなんてありえない。

 ワゴンの品は今しがた注文を受けたルームサービスなのだから彼は必ず部屋にいる。そしてその品数から誰かに見つめられつつ一人で鳥へむしゃぶりつくような性癖の持ち主でない限り、相手は一人でこれを待っているハズだと心を落ち着かせた。そんな今こそもう二度と訪れないようなたぐいまれなチャンスなのだから、台無しにしてパパをがっかりさせたくない、と黙って返事を待ち続けた。

 と、それはようやくと言っていいほどの間をおいてからだ。鍵の解かれる音は聞こえて、やがてわずかドアは引き開けられる。できた隙間から白はのぞいた。

「案外、早いんだね」

 だからずいぶん待たされたんだと思う。どうやら風呂に入っていたところを引っ張り出してしまったらしい。羽織るバスローブの上に渡されていた写真の顔は乗っている。脂ぎった初老の、いかにも「企み」という言葉がぴったりだったその悪人面は今、上気する頬に清潔感さえ漂わせていた。

「はい、ルームサービスです。中までお持ちいたします」

 幾度となく練習してきたセリフをこれが最後と繰り返す。

「じゃあ、頼むよ」

 疑う素振りをみせない男は招き入れると、ドアを全開にしてみせた。

 やっぱり慣れないせいだ。押し入れたワゴンがまたいだ敷居に大きく跳ね、中から鳥が飛び出すのではないかとパーリィは急ぎ銀のおおいを手で押さえつける。

「重そうだね」

 背でドアを閉めた男が心配そうに眺めていた。顔へは会釈を返すだけにしておいて先を急ぐ。

 廊下を抜けた先に現れた部屋は隅から隅までが生活感のない場所だ。濃紺と木目に統一されたすべてはカタログから抜け出してきたようで、その真ん中にはおおよそ腰かけるものではなさそうな曲線のソファが有り余るほどのクッションを並べている。その傍らにはダイニングテーブルにバーカウンターが設えつけられると、いかにも夜景を楽しんでください、といわんばかりの角度を窓と取っていた。

 きっとこんな場所から眺めたなら、街はあの時くらい素敵に見えるに違いない。パーリィは想像する。けれどまだ昼間なら窓にはレースのカーテンが引かれていて、想像を確かめるどころか外からパーリィ達をも覆い隠していた。

「いやあ、僕はここのホロホロ鳥が大好きでね」

 言う男は年のわりに快活な足取りでパーリィを追い抜くと、隣の部屋へ消えて行く。

「ありがとう。ダイニングテーブルへ置いておいてもらえないかな」

 開け放たれたドアの向こうから指示を出した。

 だがここだって盗聴されていない、とは限らない。パーリィは答えず、視線だけをバーカウンターの向かいにあるダイニングテーブルへ投げる。そのどこにも、離れた奥の部屋にも、万が一にも疑った性癖を証明するような何某の姿に気配はないことを、澄ました耳と凝らした目で、開いた口と張り詰めた背中で確かめていった。

 次の瞬間、握り続けたワゴンのバーから手を離す。

 頼まれた鳥の皿へ目を落とした。

 だがテーブルへは移さない。

 敷居をまたいだとき弾け飛びそうに踊った銀のおおいを持ち上げる。そこに乗る、黒々とした鉛の塊を掴み上げた。添え物のように置かれた減音装置もまた手に取ると、先端へあてがい手早く回して接続する。増した重みに重心を取りなおして強く握れば、「やってはいけないこと」を成し遂げるたび馴染んできたそれは、今日もパーリィの手の中で鈍く光りを放ってみせた。

 そう、男へ食わせるものがあるとするなら、ここから飛び出す鉛の弾くらいがせいぜいだ。そしてそのためにパーリィは、メイドの姿でやって来ていた。

 当の相手は部屋からまだ戻ってこない。

 開け放たれたドアを盗み見つつ、パーリィは皿へ銀のおおいをかぶせなおす。言われた通り、ダイニングテーブルへ移動させ、その足で男が消えたドア脇へ歩み寄った。殺さなくとも敷かれたじゅうたんの消音効果は抜群で、そうっと壁へ背を沿わせてゆく。

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