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 日付はいつしか変わっている。点けた明かりに気は抜けて、ドア閉めると同時だ。ようやくたどり着いた玄関でへたり込んでいた。それきり壁へもたれかかりかけ、腫れ上がった背中に弾かれ身を投げ出す。

 こういうとき必ず浮かぶのはつくづくこの仕事は向いていない、というくだりだろう。だからして「居てくれ」とせがまれてもいないのに「辞めてやる」と一人、返す。

 落ちていなかったことが奇跡のような携帯電話を尻ポケットから抜き出した。ボタンひとつで呼び出し音の鳴り始めたそれを耳へと押し付ける。待つ間さえおっくうだ。目を閉じたところで呼び出し音はようやく切れていた。

「俺だ。終わったらでいいんだ。うちまで来てくれよ。覚えてるだろ? どうしても頼みたいことができた」

 が、相手に返事はない。

 結局それっぽっちでしかない。仕方なく似たフレーズを留守録へ吹き込み、終えて思った以上に消耗したことを実感する。つまりずいぶん期待していたらしく、まったくもって動けそうにないのだから玄関で、それきり眠りに落ちていた。


 そうして一時間余り経ってのち、ヴィークは部屋へ現れている。巻貝のようにまとめた髪と、肩の開いた濃紺のワンピースがとにかくよく似合っていた。だのにアクセサリーはなく、あえて外して来たろう理由こそ、そうまで電話口の声がヒドかったせいだと思わされる。だからしてヴィークは夜の店を終えてやって来たとは思えないほど、シラフでもあった。

「いやだもう。まったくなあに、これ」

 挙句、カラスの死骸でも目にしたような声を聞かされる。

「猫が降って来たんだよ。飛び切りデカいやつがさ」

 ベッドの上であぐらをかくと、背中を晒し言ってやる。

「だったらその猫、コンクリート製か何かだったの?」

 などと返すヴィークはすでに、いきさつを察していた。

「届かないんだよ。頼む。手っ取り早くそれ、貼ってくれよ」

「その顔だけでも驚かされたのに」

 脇の下から指を突き出し湿布の箱を指して示せば、言われて、そういえば殴られたな、とタクシーで浴びた執拗な視線を思い出した。

「頼めそうなやつがいない」

「言えば喜ぶとでも?」

「ならもっと他の方法を知ってる」

 とたん大きなため息は吐き出されて、同時にヴィークは言いたいことの全てもまた出し切ってしまった様子だ。

「ほんとに、もう」

 なじると「そのまま待ってて」と箱を開けた。


 もう一年ほど前の話だ。そのときすでにヴィークは店一番の売れっ子で、誰もを虜にするあの笑みをふりまいていた。現れたストーカーはその辺りを勘違いしたまさに素っ頓狂な輩で、ヴィークの周りをうろつくと店の売り上げにさえ影響を与える存在と化した。オーナーが二重帳簿をつける事務所へ現れたのは、そうした状況を見かねたからだ。

 果たして受理された依頼はトキへ振られると、従いトキはヴィークと行動を共にすることとなっている。目障りな男の出現にストーカーが現れたのはその数日後だ。刃物片手のそいつを半永久的に追い払ったことで、トキの仕事は終わりを告げていた。引き換えに、ヴィークとの間へ妙な連帯感は残されることとなっている。

 そう、まだ「連帯感」でしかない。

 中途半端な野郎だ、とストーカーをなじったところで仕方がない。振り回された刃物はかすりもせず、ヴィークが上げた悲鳴こそお粗末そのもの。尻切れトンボと劇画的展開もことごとく鉄板のオチを逃すと、おさまるものもすっぽ抜けたきりとなっていた。


 そのときしがみつかれた指がひやり、メントールのシートを背中へあてがう。感覚はまさにしみるが相当で、吸い込んだ息を細く吐いた。

「あぁもう。見てるだけで痛くなってきそう」

 おかげで「痛いのはこっちの方だ」と言いそびれる。

「これ、あとでちゃんと病院に行った方がいいわよ」

「こういのは科学より、優しさの方が効くんだよ」

「それ、コマーシャルのキャッチフレーズ」

 すかさずいさめるヴィークは仕上がりが気になるらしい。

「まあ剥がれないとは思うけど」

 だとしてもう済んだに等しく、吟味する手を取った。

「嘘じゃない。試せば分かるって」

 引き寄せ倒して腹の下に組み敷けば巻き上げられていた髪はベッドで潰れ、たちまちヴィークを別人へと変える。

「こら」

 そこから聞き慣れた声は投げられていた。

「ケガしているから呼んだんでしょう」

 返す唇が飴玉と照っている。ならそれはどこより最初、舐めてやりたくなるシロモノで、残る距離を詰めていた。

「おい、よせよ」

 強いメントールの匂いを押し付けられて、ただ返す。そのたびにブブブと震えてベタな宇宙人を真似させるのは、剥がしたばかりの湿布のフィルムだ。飴玉代わりにあてがいヴィークは、真下でさも楽し気と笑っていた。

「そのつもりで来たんだろ」

「そう、あの時あなたカッコよかったもの。女の子ならきっと誰でも好きになる。でも今の仕事を辞めてから、ってあたしたち、約束したはずよね」

 確かに。だがなぜそんな約束をしてしまったのか、いまだ経緯が思い出せない。

「あんな危なげなことしてる人と安心していられやしない。それともあなた、本当はそういうところを利用する卑怯者ってわけ?」

 問いにはこのさい「そうだ」と答えてやりたくなる。だが認めてしまえば「卑怯者」に次こそなく、呼び出したところで応じない相手へまといつけばそれこそ自身がストーカーだった。

 たまりかねて押し付けるヴィークの指ごと、あてがわれたフィルムへかぶりつく。

「違うなら約束は守ってね。意思は強いって聞いたところなんだもの」

 レタスのように食らって、それこそ食えたものでないなら吐き捨てていた。

「そうとも」

 金輪際タバコと縁を切ったと宣言したのは、ついこの間のことだ。

「あれはママのおっぱいだ。口唇愛期の象徴だね。格好つけたつもりで思春期に吸い出すのも、自立による分離不安の裏返しってやつさ。でなきゃあんなマズイやつ、ガキが中毒になるまで吸えやしない」

 すごい。芝居がかった顔でヴィークは聞き入り、ふざけるな、で体をヴィークへ押し付け返す。

「ママのおっぱいは卒業した。ほかのがいる」

「残念さま」

 だが返す口ぶりこそあっけない。

「あたしは甘えん坊さんのお世話に来た、そのママなの」

 言い切った。

「必要ならほかを当たって、ね」

 その言葉尻でいい子、いい子。頭を撫でて微笑む。なら崩れた髪ともあいまった、ヴィークはなおさら見知らぬ誰かへ姿を変えていった。その混沌が謎めく輪郭の中には、掴めぬナニカが揺れている。目を凝らすのはもうすでに吸い上げられているからで、ままに体の中から不思議と力は抜け落ちていった。抗う気持ちこそ、どうにも続かなくなってゆく。

 だいたいヴィークは飛びぬけて美人、でもない。しかしながらこうも周りを惹きつけて止まないのは、この笑みのせいで間違いなかった。安堵なのか郷愁なのか、ヴィークの笑みには食らった者の心を骨抜きにする不思議な力が備わっていて、魅力を越えたそれを「特別」と感じぬ者はいない。だからこそ惹かれたところで感じる「特別」に決して自分のものにはならないだろうこともまた意識させると、知っているかのようにヴィークは誰もを信者とかしずかせ、ねだるままにナンバーワンの名を手に入れていた。

 例外なくトキもその笑みの前に、頭もシモも萎えさせてゆく。

 伝わらぬはずもない。やがてヴィークは緩んだ腹の下から布団を一枚、めくり上げるようにして抜け出していった。

「それよりあたしが気になるのは」

 切り出す話題はテレビのチャンネルでも変えるかのようで、バンザイするように持ち上げた手で潰れた髪もまた束ねなおしてみせる。

「冷蔵庫の中身の方だわ。いつも空気ばっかり冷やしてて、あなた霞を食べて生きてるの?」

 その後ろ姿へトキはあごを引いて振り返る。

「今日は何か入ってるわよね」

 呼びかけられて身を起こした。

「忘れた」

 声は自分にもふて腐れて聞こえ、冷蔵庫のドアを開けたヴィークの「あ」と小さく開いた口を目にする。

「朝ごはん、作っておくから、食べたらちゃんと先生に診てもらってね」

 取り出したパックの賞味期限をなぞる目つきは真剣そのものだ。見せつけられてそこからトキは目を逸らした。うちにもキッチンへ並べ置いたちぐはぐな食材で何を作るつもりか。ヴィークはワンピースの袖をまくり上げる。

 それだけで着替えたようにまた雰囲気が変わるのだから、絶対だと思っていた。ヴィークには誘うようなそのワンピースよりエプロンの方が似合うに違いなく、着せたならすぐにも分かるはずだと思えたが、そのため脱がせようとしたところでまだ一度も成功していない。


 鏡に映った背中を眺めつつ、肩を回す。

 覚えた痛みに途中で投げ出し、トキは前へ向きなおった。そこにラップをかけられた皿は二枚、並べ置かれ、引き換えにヴィークは姿を消している。

 時刻は午前十時。

 病院などと、待たされるだけがオチだろう。後は日にち薬ということにしておいて、昨日の上着を探した。ヴィークが掛けたに違いないそれを椅子の背に見つけ、胸ポケットからあの紙切れをつまみ出す。片手に灰皿を探しかけ、捨てたことを思い出して見つけたリモコンでテレビのスイッチを入れながらキッチンへ向かった。

 だいたいこの紙切れを依頼人へ返すなど、それこそ無駄な労力だろう。そして踏み倒した依頼人も報復を避けて逃走の真っ只中なら、喋り始めたテレビの声を聞きつつコンロの火へ紙切れをかざした。

 朝のワイドショー番組のセットは明るい。だが喋るキャスターの表情はやけに固く、思わず気をとられすぎて指まで燃やしかけ、慌てて紙切れをシンクへ捨てる。

 燃え尽きるのを待ちながらペットボトルの水をあおった。思いのほか口の中の傷に染みたところで、似たり寄ったりのしかめっ面をするキャスターのわけを、読み上げられてゆくニュースから知る。

 それは今朝、起きた事件のせいらしい。昨日、乗った路線だ。走行中の列車火災だった。しかも火は、出勤ラッシュと混み合う車両内かららしい。何某が己が身に灯油を振りかけ火をつけた、というのだからショッキングとしか言いようがなかった。

 告げたキャスターが画面の中、後味悪げに現場を呼んでいる。応じて画面は空撮によるライブ映像へ切り替えられ、縮んだ街の路上にあふれだす救急車と人影を映し出した。動きの鈍さは、その多くが被害者だからだと想像できる。コトの大きさは一目で知れ、同時にますます映像から現実味だけが失せていった。

 視線を剥ぐ。

 燃え尽きようとしている紙切れへ残るペットボトルの水をかけた。

 ここまでが、あてがわれた整理の全てだ。終えたところで事務所へ報告に顔を出すことも業務のひとつなら、先もって一報入れておくべきだろうと廊下に投げ出されていた携帯電話を掴み上げる。

 とたん呼び出し音は鳴っていた。

 事務所からだ。

 タイミングの良さはどこかで見張っているかのようで、ご機嫌をうかがうために掛けてくるような相手でなければ何かあったのか。すぼめた口で耳へあてがい、すぐにも社長秘書、クマジリの声を聞かされていた。

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