第一部 3
鏡といえば洗面台の一枚だけだ。
見えず、少し離れてトキは立つ。ひねった頭で己が背中を確かめた。
肩甲骨の間よりやや下か。湿布は白目を剥いて貼りつけられている。その効果か、単に半日経ったからなのか。もうあからさまな痛みは薄れると、剥がしてもよさそうに眺めた。
鏡を当てにしているのだから左右が逆だ。しばし混乱してのち端をつまむ。引っ張り剥がせばその下から、聞いていた通りの痣は顔をのぞかせていた。
作り上げたのはいうまでもない。クソ野郎の飛びヒザ蹴りだ。それは鉄板でも仕込んでいたのかと思うほど強烈な一撃だった。おかげでトキの頭へも「だいたい」と言葉は巡る。だいたい相手は多くても四人だと聞かされていたはずだった。
教えた事務所はトキの勤め先、すたれて久しい工場街外れの、汚水も流れる川べりに二階建てと建てられたプレハブ仕立ての警備会社だ。そこはずいぶん前から二重帳簿をつけると、公にできぬ雑踏整理という名のトラブルシューティングを請け負っていた。それは社長が望む活動のひとつでもあり、証拠にアルバイトの肩書を持ちながらもトキは一度として、交通整理駆り出されたためしがない。
そんな依頼は紹介で舞い込むのがもっぱらだった。この活動を知る唯一の社員、秘書がヒアリングを行い、トキたちのようなアルバイトへ依頼を振り分ける。内容は常にトラブルシューターが一人で整理できるこじんまりしたもので、唯一、新人が入った時だけは先月のように二人で当たることがあった。いずれも長く続けるための安全策らしい。しかしながら新人との一幕は、最初から一人でも問題ないほど慣れた一部始終でもあった。
比べたなら昨日は紙切れ一枚、預かりに行くだけと、なんら難しいものではなかったはずだ。しかも紙切れは胡散臭い窓口でこしらえた借用書で、輪をかけ預かりに行く紙切れはその複製と価値などなく、どう扱おうがかまいやしない気楽ささえあった。
そう、事態の根本的解決を望むなら複製させた、いや先方の名誉のためにも言い換えるなら「複製を許した」原本を所持する輩の元へ赴くべきで、しかしながら心当たりに挙がったローン会社こそ一人で片付けられるような団体になかったなら、差し当たってを解決すべく昨晩トキは、おこぼれを預かるような金融会社の窓を見上げたのだった。
戻した視線で、電線に切り刻まれた雑居ビル、その三階を目指し階段を上る。辿り着いた事務所前でパイプ椅子に腰かける何某の一瞥を食らい、午後八時過ぎ、中へ案内され、腰を落としたそこでシャツのガラばかりが目につく男とひざを突き合わせた。
さてはて、話すも何も通じる相手でないのだからこうして足を運ぶことになっているわけで、すなわち手間は省くに限り、「ありもしない借用書で金をせびるのは犯罪だ」と、トキはのっけから警察への通報をちらつかせている。なら「ありますよ」とウソ臭い借用書は持ち出され、手に取り依頼人の名前があることを確かめた。ついでに「確かに本人の字だね」くらいは言ってやったはずである。それからソファより立ち上がっていた。
突拍子のなさに相手はしばし、目を瞬かせていたようだ。
前においてきびすを返せばその背へ「ちょっと、あんた」と声はかけられ、知ったことかとドアへ足を繰り出したとたん「おいこら、待たんか」とその声は豹変している。ノブを握ったところで「そいつを押さえろ」と怒号は弾け、背にドアを引き開けていた。
この地点ですでに確かめ終えていることといえば、同席していた一人は雪駄履きで、我関せずと隅でパソコンをのぞき込んでいたもう一人は身軽さとは縁遠い巨漢であるとうことだろう。そして檄を飛ばす輩こそ先陣を切って追いかけてきた試しはなく、最後、四人目はいまだ何も知らず表でパイイプ椅子に座っているはずだった。
案の定、開いたドアの勢いにも、そこから吹き出す怒号にも、四人目はただ驚き立ち上がっている。
みぞおちめがけ体当りを食らわせた。
弾き飛ばされた壁で「く」の字と頭をもたげる体をかわし、階段を駆け下りる。
追いかけ事務所からは雪駄履きと肉の二人が飛び出し、ついに倒れ込んだ四人目ともつれあっていた。
そうして上げた声を背に、踊り場を反転する。
ならそれは次の踊り場へ差しかかろうかという時だ。通り過ぎたばかりの二階でドアは開く。すかさず「きさまか」と声は上がり、靴音をそこに重ねた。
勢いに振り返らずにはおれない。
瞬間、風をまとって気配は過る。何某のヒザはそのとき背へめり込んで、衝撃にしなった体を踊り場の端まで吹き飛ばされていた。ままにいっとき方向を見失い、肩を掴まれ振り向かされる。前へ拳は広がると、避けたつもりの視界はぶれ、三階から押し寄せる靴音を束で耳にしていた。
まさか一階もじゃないだろうな。過るのは最悪でしかなく、冗談じゃない、で吹き飛んでいた頭を体ごと振り戻す。
襟を掴む腕を切った。
狭いのだから距離などない。
必死なのだから痛みも失せたきりだ。闇雲が相当と相手へタックルを食らわせる。押し倒されたというよりも登りの段差に足を取られて相手は倒れ、なだれ込むようにその上へのしかかった。拍子に立ち上がりで頭を打ちつけたらしい。相手の動きは直後に鈍り、抵抗していた体もふい、と手ごたえをなくす。
光景に、見上げた位置で事務所の二人が「お」と声を上げていた。
捨て置きトキは身をひるがえす。残る階段をじれったくも刻んで駆け降り、一階のドアを横目に雑居ビルから飛び出した。喘ぐように裏道を走り抜け、並ぶ自販機の角を折れたところでテールランプの連なる表通りへ転がり出る。
時刻は午後八時半を回った頃か。辺りは行き交う人であふれていた。紛れるだけで最悪は避けられるに違いなく、弾む息を押し殺して乱れた襟を整えなおす。どうしても早くなる歩調をなだめすかしてスクランブル交差点を粛々、渡った。
そうして初めて振り返る。
灯り続ける青信号に人が無尽蔵と押し出されていた。そこに野郎どもの姿は見えず、なら向こうも同じだろうと思えばとたん、昇っていた血が引いてゆくのを感じ取る。伴い背中はとてつもない主張を始め、だとしてまっすぐ自宅へ戻ることこそはばかられた。
人波に押されるまま、ちょうどと滑り込んできた電車に乗り込む。背もたれなど使えやせず、輪になった線路を二周半、二時間足らずを立ったままでやり過ごした。
やがてすっかり顔ぶれの変わった車両から降り、タクシーを拾う。右だの左だの運転手を操り走らせ、つけてくる車両がないと分かったところで何度も人の顔を盗み見る手元の危うい運転手に別れを告げた。
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