ここぞでうまくゆかずに終わったなら、通路を遮りはめ込まれた鉄格子の前で足を止める。
その向こう側に明かりはない。サイロのような丸い飼育スペースの中、設えられた天窓のからの月明かりだけが囲う鉄柵をぼんやり、浮き上がらせていた。
もしかするとそのそばをヒツジは歩くのではなかろうか。気にかかって視線を投げつつ、鉄格子にぶら下がる鍵の番号を合わせにかかる。引き開けて狭いそこをくぐり抜けるべく身を屈めた。提げていたライフル銃が引っかかってはた、と感じた気配に振り返る。
とはいえ先ほどから靴音は己のものだけしかなく、そこに誰がいるはずもなかった。だというのに振り返ったわたしはわたしへ退路の確保こそ肝心だ、と投げ、その意図こそ掴めず、つまりこれは誰のための忠告なのかと疑い、出ぬ答えにしっかりしろとライフル銃を改め体へ添わせなおす。
緊張しているせいか、それとも元より立てつけが悪いせいか、暗がりを進むわたしの平衡感覚は危うい。やがて目の前に丸く囲われた柵は迫り、その外側にワラを、内側にもいくらかのワラ山と水飲み場を置いたヒツジの住処は現れた。だがそれだけだ。肝心のヒツジこそ見当たらない。
探してわたしは右へ左へ視線を泳がせる。
盛られたワラと同化するようにうずくまる姿に、やがてようやく気づかされていた。
ヒツジだ。
毛刈りをしていないせいで、確実に一回り大きくなった輪郭が図鑑で見るそれとはまるで違う。ごわつく毛へワラ屑もまたぶら下げると、様子はどこかおどろおどろしくさえあった。
うかがい、見定め、わたしはなおさら慎重と歩み寄ってゆく。足取りはぎこちなさを極め、だからこそわけはない、ふっかけ証明してヒツジへ銃を持ち上げた。そのさい、カチャリ、と鳴ったなら、眠っていたと思われたヒツジの耳はクルリ、と素早く回転して、ピンと立つ。脇腹へねじ込んでいた頭をゆらり、抜き去った。
呼応してわたしはピタリ、足を止める。
前でヒツジは抜き出した頭を深く沈み込ませ、つけた反動でひと思いと立ち上がってみせた。とたん体は倍にも膨れ上がったようになり、重たげにゆすってヒツジはわたしへ振り返る。
向かってわたしは銃口を、急ぎヒツジへ突きつけなおした。
だというのにヒツジは研究棟にいたわたしを覚えている、といわんばかり、目指して歩み寄ってくる。柵へ体を押し付けると、離れた眼を剥き何をやねだって、懸命に鳴き声を上げた。
来るな。
わたしは唱え、しかしながら外しようがないなら今だ、と全身へ力を込める。
だがどうしてもだ。
どうしても引き金が引けない。
その触れそうな距離に撃ち損じなどあろうはずもなく、だからこそ今だと力を込めれば込めるほどだった。額へ汗は吹きへ出すと手は震え、息は上がって何もかもがままならなくなる。様子にそれもこれも、だ。わたしはただ、それもこれも、と思わされる。
それもこれも思いにもよらぬ臆病風が吹いたせいにほかならなかった。ズドン、とやったそのあとに、訪れるだろう沈黙こそが恐ろしい。それほどまでにコトもなく終わるだろうこの殺生は残酷で、伴う罪悪感を、むなしさを、まざまざと感じ取っていた。いや、そうもあっけなく殺してしまえるのは実に無防備とヒツジがわたしを慕っているためで、前にすれば可愛そうに、と言葉は漏れるほかなくなる。
銃はといえば反射的にかまえただけの物だった。
下ろしてただ途方に暮れる。
閃きに、目を見張った。
罪悪感なく手を下すには、だ。この哀れなヒツジをこれ以上ないほど満たしてやればいいのではないか。思いつきは斬新で、なら引き換えに死を要求したところで許されるような気がしてならなかった。罪悪感も和らぐと、引き金も容易に引けるのではないか。思えてならなくなる。
そう、部外秘の資料を失敬してきたのだ。いまさら何事もなかったように研究塔へ戻れるはずこそない。
決まった、と思えば体もすべらかと動き出す。手始めに鳴き続けるヒツジをなだめて頭へ手を伸ばした。撫でようと沿わせかけてヒツジに食らいつかれそうになったなら、つまり食いものが欲しいのだなと察して積まれたワラを掴み上げる。そのくたびれ加減から寝床用のものかもしれないと思ったが、ようし、ようし、でヒツジへ向かい差し出した。
食いつくヒツジは正解だ、と言わんばかり器用に動く唇を擦り合わせ、わたしの手から次々ワラを毟り取っていった。
なくなったところでライフル銃を柵へ立てかけ、わたしは抱えられるだけのワラを柵の中へ放り込んでやる。小山となったそこへヒツジはすぐさま頭を突っ込み、見下ろしながらわたしはそれこそ最期の晩餐だ、くれてやったわたしに殺されたところで恨みっこなしだぞ、と語りかけた。なら分かった分かったと相槌を打つように、ヒツジもまた頭を揺らしワラを食い続ける。
だが手を下すのはそうして腹いっぱいになった満足も頂点がいいのか、夢中になっている満足のただ中がいいのか、今度は頃合いが分からない。しくじれば薄まり始めた罪悪感こそ舞い戻りそうで、しくじれないなら迷うあまり決断できず、わたしは奮い立たせてライフル銃を掴み上げた。
詰めた息でヒツジの頭へ狙いを定める。
もう満足に食ったか。
のぞき込む照準越しに問いかけた。
なんだ、まだ足りないのか。
呆れて、そろそろいいんじゃないのか。欲張る様に閉口して返事を待つ。
だが望む答えこそ返ってこない。
気づいた事実にクソ、とわたしの方こそ吐き捨てていた。何しろそのワラは寝床用かもしれないのだ。命と引き換えの晩餐には、あまりにお粗末なものだった。
引き金に触れていた指を浮かせる。
その手でそうだ、とヒザを打った。
もっともこの閃きの違和感に気づくことができたなら、わたしはそこで引き返すことができたろう。だが浸潤は穏やかで、異変は異変を伴わずわたしを蝕み、近づきすぎたわたしに気づけるだけの冷静さは望めなかった。
うってつけのものがある。
ライフル銃を柵へ戻す。
わたしはこのために栄養剤さえ混ぜたのだ、とカートへ戻った。数分後、腕一杯にワラを抱えて柵の前に立ち、満を持して中へ投げ入れる。新しいワラは色さえ異なり見るからに上等そうで、選んだ素振りはなくともヒツジもそればかりを食い始める。
そうとも、食えば分かるはずだ。眺めてわたしこそ舌なめずりし、なら腹いっぱいまでだ、と心に決めた。
待つ間、立てかけたライフルの隣に腰を下ろす。柵へ背をもたせかけ、持て余した時間のまま空へアゴを持ち上げた。眺めて過ごせば時間は流れる速度を変え、埋めてまだかまだかの応酬はわたしの頭を埋め尽くす。
ならふと、この心持ちが何かに似ていることに気づかされていた。それは全くもって心地よい思い出というべきだ。包み込まれて小さく微笑み、しばしわたしはまぶたを閉じる。そこに出かける約束を交わしたあの日を、昨日のように思い出していた。
めかしこむ彼女はまだ美容院だ。表でわたしはそんな彼女をまだかまだかと待っている。
その角で黄色を点滅させて信号機は立っていた。傍らで待つ配達のバイクは軽薄なまでの赤で、やがて青に変わった表示の下を軽快に駆け抜けてゆく。その風に吹かれて揺れる小花にはオレンジ色の花弁に紫がついており、そんなバイクと入れ替わりだ、白いバンは向こうから現れていた。クリーニング屋のそれと行き違った通りの人影がちょうどと美容院の前にさしかかったところでついに、美容院の木戸は開く。店員に見送られて彼女は姿を現していた。
仕上がった髪の形に満足げな笑みを浮かべている。惹きつけられるままわたしは立ち上がっていた。
はずが、尻から這い上がる冷えに身を縮める。コンクリートゆえの底冷えだ。もう腰が鈍くうずくところまで染みこんできていた。堪えきれずまぶたを開き、どうやらいつしか眠り込んでいたことに気づかされる。
何てことだと思うより、もうこれ以上、座っている気になれなかった。それこそ自分が飼育塔に閉じ込められた獣のような気分になって身震いしながら立ち上がる。さあもういいだろう。その背をヒツジへよじり愕然とした。
当然だ。それは上等のワラなのである。だのにヒツジは今や労働とばかり、そこでつまらなさげとワラを食んでいた。様子は怒りさえ覚えるほどで、なるほどこれごときでは引き合わないと言っているつもりか。怒りが嘆きに変わったところで、そうも残酷なことを成そうとしている己自身に気づき、うろたえる。なら上等のワラは小さくするどころか罪悪感をまた一回り大きくさせ、もう手に負えない、言葉が全身を覆って塞いだ。
なくした手立てに柵の前を、わたしはひたすら行き来する。後戻れず、ましてや投げ出して帰るところこそないのだから狭間で目を血走らせると、現れるはずもない助けを求めてわたしはしばし何事かを呟き続けた。
もちろんそのときわたしの脳裏に、それでも成し得ることで秘かにほっ、と胸をなでおろす職員たちの顔が浮かんでいたなら事態はまた違う結末を迎えていただろう。本社からこの罪悪感を吹き飛ばすほどの待遇が与えられることを思い出せていたなら、振り払い成し得る力も湧いていたとしか思えない。
だが「それ」は異変という異変を伴わず浸潤すると、いつしかわたしを変質させ、わたしのフリを決め込みわたしへ「次」を突きつける。
全うしたいなら、見合うだけの罪滅ぼしを今すぐここへ。
追い立てられてわたしは辺りを踏み散らした。立てかけていたライフル銃を蹴り飛ばし、音にヒツジが頭を上げたところで我に返る。
まったく使えない奴だ。
ゆっくりワラをすりつぶすアゴの上、横に長い瞳孔をおさめた瞳ごし、吐きつけるのを確かに聴く。目の当たりにして後じさり、そんなわたしの前でとどめとヒツジは喉を震わせた。
それが合図だとしか思えないのは、もう末期だからだろう。
証拠にワラを食むのをやめてヒツジもわたしへ歩き出す。その歩みで何よりヒツジを心底、満足させるものがまだ残されていることを示してみせた。
だからしてヒヅメは柵の切れ目へ繰り出される。
気づいてわたしも誘われるようにそこへ手を伸ばしていた。
ヒツジの足は一度たりとも止まることはなく、止めさせないためにわたしもかけられた閂をするり、引き抜く。開けばゆう、とヒツジは柵を抜け出していった。慌てる素振りはまるでない。さも行く当てがあるかのように堂々と、通路の暗がりへ後ろ姿を紛らせてゆく。潜り抜けた鉄格子の向こうに背を浮き上がらせたのもつかの間と、それすら見えなくなったところで今度こそ、わたしの前から消えた。
こんな場所とおさらばできて、さぞ満足したことだろう。
見送りわたしは確信する。このうえない満足を与えたせいで膨れ上がっていた罪も消えると、これなら引き金は引けそうだと、立てかけておいたライフル銃へ手を伸ばした。見当たらずおや、と眉を跳ね上げたところでたちまち笑いに肩を揺らす。
もう堪えられない。
天へ向かいのけぞり笑った。
どうやらわたしが襲われる運命にあったのは罪悪感ではなく、あざけりだったらしい。そうして一体、何を始末するつもりでいるのか。ヒツジを逃がしたのは紛れもない自分で、いいさ、笑いながらでも今から追いかけるか、思うがその気力すらもう欠片もわいてこなかった。
わたしは顔へ手のひらを打ちつける。垂れた鼻汁ごとなでまわすと、ひたすら自分で自分を確かめた。だからむやみとここへ急いだ時、その根拠を疑ったのだと思い出す。可愛そうにと過った時、不安を覚えたのだと振り返った。それら異様な愛着はわたしをワラに固執させ、ハナから始末する気などなかったかのように安穏、眠り込ませている。
と、わたしは再び愕然としていた。
思い出だ。何しろそれは「わたしの記憶」ではない。
だとすれば誰の、一体どの職員のものだというのか。知らぬ女の顔にわたしは目を見張り、叫びそうな声を殺して奥歯を噛んだ。つまり哀れでみすぼらしいのは、まさにしてやられたこのわたしだと手遅れを知る。
ライフル銃は蹴り飛ばしたきり離れた所に転がっていた。
隠すためのワラにくれてやる予定などなく、だのに栄養剤さえ混ぜ運んだ理由こそ逃亡のための腹ごしらえだったなら、つまりくれてやる予定にあった弾は自らが食らうべく運び込んだ物なのか。
何しろ満足させてやったのだから、もう罪悪感など欠片もない。むしろ奪い取れるだけの権利を得たと確信している。
いや、混濁していないか。
だが今さら自分だけのものをより分けるなど泥から水をすくい上げるに近く、わたしは笑いながら腰を折った。
転がる冷えた銃身を拾い上げる。
それもこれもヒツジに近づきすぎたせいだと思うが、受けているだろう浸潤を後悔したところでそれもどこか他人事と実感はわいてこない。ただこれで我が社は、公となれば受けるだろう損害を回避できるはずだった。
考えながら背を柵に沿わせ座り込む。左足の靴を脱ぎ去った。
始末をつける。
当初の計画通り靴下も剥がして投げ捨て、銃身を両手で強く握りしめた。あてがって初めてアゴの下はこりこりと安定がないことを知り、銃口を咥えなおす。
どうしてこれほど簡単なことをすませるために、何と複雑な段取りをとってしまったのか不思議でならず、不思議なままが幸いと、遠ざかった引き金へ足先をあてがった。
満足したなら今度はこちらが満たされていい番だ。
めがけて飛び込むひと思いで、わたしは引き金を踏みつけた。
夜が二つに裂ける。
狭間を破裂音は駆け抜けていった。
追いつかれてヒツジは丘で足を止める。上下の唇を器用にうごめかせ振り返り、開いて長い舌を突き出し声を上げた。
ヒヅメを再び繰り出してゆく。
丘をあと戻ったりはしない。
鉄格子をくぐり抜けるさい振り返ったように、退路の確保こそ肝心で、そのまま下るほうがいいことをすでにヒツジは知っていた。
やがてその向こう、連なる山へ紛れ込む。
越えたところでふもとより這い上がる家々の屋根を見下ろした。そのいずれかに仲間が多くいることを、臭いとその能力で感じ取る。だからしてある日、住宅地の真ん中にひょっこり姿を現したヒツジの噂を聞きつけ何某が駆けつけたところで、その体から同じ臭いが漂えば慣れた手つきで誘う何某の餌を追うままトラックの荷台へ上がりこんでいる。扉が閉じられトラックが走り出そうとも落ち着き払い、残りの餌を食み続けた。
しかしそれは異変とも思えぬ異変を伴い浸潤すると、どこであろうと、誰であろうと、気づかぬうちに変質させる。凄まじさの理由は生命力を引き上げるためなされた操作のせいだとして、ヒツジであればなお「それ」に気づける道理はなかった。
ただトラックの荷台で揺られながら、そこで繰り返されている行為を暴かねば、と目を細める。台無しにして本社へ戻ればそれは類まれな成果と評価される予定にあり、それこそが己に課せられた
乗せてトラックは坂道を下る。
両側へ豪邸は建ち並び、さらに抜けて川を渡った。
黒い流れの向こうにやがてすたれて長らく経った工業地帯は広がると、錆びついたシャッターと鉄くずの放り込まれたドラム缶は迎えて連なる。三階建てのバネ工場前だ。そこでトラックはブレーキを踏んだ。
辺りには鉄と油の臭いが充満していたが、まだ仲間は生きている、と思える。
ヒツジには、死臭だけが嗅ぎ取れないでいた。
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