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N.river

 コンクリートのうちっぱなしである。その寒々しさを強調して飼育塔は、研究塔から不便としか思えないほど遠く離れてもいた。

辺りに建物はない。緩やかなカーブを描く山々が、見える限りを取り囲むように遠く連なっているだけだった。

 ただ中にある丘の中腹から見回し、わたしは一息つく。

 まだ誰も気づいていない。

 一人ごち、その目を再び目指す飼育塔へ向けた。

 ここでのわたしの役割は「助手」ということになっている。もぐりこめたのは他の部署がたいそうな工作を行ってくれたせいで、それはもう二カ月も前の話だった。そのとき飼育塔はといえば研究塔のそばにあり、丸太づくりの外観がお菓子の家かと思うほど可愛らしかったことを思い出す。

 そこに積み重ねた研究成果を蓄えて、ヒツジはたったの一頭、飼われていた。入れ代わり立ち代わり世話する研究員たちの姿はほほえましく、ヒツジをひどく丁寧に扱うありさまはヒツジこそ彼らのアイドルと言わんばかりで、それは産業スパイとしてもぐりこんだわたしの立場に違和感を覚えさせるほどに和やかな光景だった。

 ともかく、我が社とここが「それ」を操作すべく始めた研究に行き詰まったことが同時期だったのは、互いの方向性も手順も似通っていたせいだろう。おかげでわたしの起用もこのうえないタイミングだったのだ、と振り返る。何しろわたしのもぐり込む二日前、ここはついにタブーを破るとヒツジを媒体とした実験に踏み切ったのだ。

 その成果を確認するまでしばらく。

 成功したものの、だからこそ歓喜は続いていない。恐れた通りまもなくヒツジはそうも容易く扱えるものでなくなって、数日のうちにも飼育塔は遠ざけられると、そうしなければならぬほ職員たちもまた「それ」に追いつめられていった。つまるところ現状を打開せんと「それ」に持たせた繁殖力が、凄まじ過ぎたのである。

 一度、浸潤されると、素早く深い「それ」に気づくことは難しい。剥がすどころか「それ」が己のものなのかそうでないのか区別できず、混濁の果てにあの妄想は訪れると、すでに犯されたと自覚ある職員たちなど口々に「己とヒツジのさかいが曖昧になってゆく」と言いさえした。一方で、さかいがなくなりつつあるからこそヒツジへの愛着はなおさら増すと、異常なまでの執着をみせつけ、繰り出す奇行で他の職員をパニックへ陥れている。

 一部始終をわたしは本社へ報告している。引き換えに与えられた指示が、研究資料の持ち出しとヒツジの処分、この二つだった。

 丘を登る。

 飼育塔を目指し、再び電動カートのアクセルを踏み込んだ。

 目立つヘッドライトを消したせいで包み込む闇には背負う義務感が滲み出し、いや使命感で張り詰めていると言った方がしっくりくるか。潰されまいと両肩を張ってわたしは前方を睨みつけた。

 カートの荷台では使う予定にあるライフル銃が、さきほどから鈍い音を立て揺れている。隠して上へはレシピ通り、栄養剤を混ぜ込んだワラを山とかぶせていた。だが双方はハナからこのたくらみに乗り気でない様子だ。もう何度目か、ここの職員はもう愛着に振り回されるがままヒツジを持て余すと飼育塔を遠ざけるばかりで、この期に及んで何ら手を下せなくなっているじゃないか、なだめて言い聞かせている。代わりにわたしがヒツジを始末したところで、そんな彼らこそほっとするに違いなく、わたしはといえば全うした指示に本社から見合うだけの待遇を得て全てが丸く収まるのだ、とも話しかけ続けていた。

 だがひとつ、だ。

 ここには一つだけ、妙な点が残っている。

 何しろライフル銃を隠すべくワラをかぶせたところで、この時間帯にワラを補填する業務などありはせず、膨れ上がった愛着の果てに今や限られた餌やりの時間は争奪戦だ。無断で飼育塔へ向かう理由が餌を与えるためだった、などと通りはせず、知っていてなぜワラを選んでかぶせてしまったのか。説明できない。

 他に使い道があるのだろう。

 どこかでそう予感していた。

 そのためにも栄養剤さえ混ぜ込むと、山と積み込み、なだめすかしてわたしは飼育塔を目指し丘を登る。登るうちにもやがて次第に「他の使い道」などと、自分はどうかしているとしか思えなくなった。

それこそわたしも浸潤されつつあるせいに違いない。だとすれば早急に手を打つべきで、しかしながらわたしはそのことについて深刻にはなれず、放置しておけるこの緩み切った危機感こそ浸潤の影響に違いないとだけ心に留めおく。

 乗せてカートは頂上へたどり着いていた。

 斜面が途切れ、がらんどうの闇へ飛び出しかけたところでブレーキを踏む。

 前のめりとなった体を押し戻し、背後へ振り返った。

 遥か眼下、長らく辿ってきた闇越しに研究塔の灯りは見え、あいだを追い来る人影だけが見えない。この時間帯なら大丈夫だと目をつけたことに間違いはなかったのだ。わたしは胸をなでおろした。

 このまま頂の向こうへ回りこめば研究塔から私の姿は見えなくなるだろう。わたしは再びカートを走らせ、斜面が下りへ変わったところでヘッドライトを点ける。

 その眩しさに瞳孔が絞れるまでしばらく。

 光の底からぽつねん、と浮かび上がってきた薄ら白い塊へ目を凝らした。

 まるで公衆トイレだ。

 過らせたとたん「急げ」と急き立てる声を聴く。素振りはさもわたしのもののようで、違うなら即座に誰だ、とわたしはカートのブレーキを踏みつけそちらへ注意を傾けた。

 だが浸潤は穏やかで、異変は異変ともくみとれず、己が意識へ潜れば潜るほど混濁してゆくとそれこそ顕著な兆候だ、とゆっくりわたしはカートのハンドルを握りなおす。

「ヒツジを始末しに行くんだぞ」

 その触り心地で混じりけのない自分だけを切り取ると、目的を耳から改め己への中へ刷り込みなおした。

 もう公衆トイレなどと言えなくなった飼育塔の壁際へ、静かにカートを添わせ動力を切る。

 かつては近づくに当たり防護服の着用が義務付けられていたこともあったが、それも気休めだと分かって以降、誰もが白衣や普段着のまま出入りしているありさまだ。コトが終わればその足で街へ紛れるつもりでいるのだから、わたしもそのままの恰好でカートの荷台へ回り込んだ。積み込んできたワラをかき分けてライフル銃を掴み上げ、虫のたかる門柱灯を前に尻ポケットからIDカードを抜き出す。セキュリティーのスリットはその下にあり、挿入しながら周囲へくまなく視線を走らせた。

 ロックの解かれる音だけが鈍く響く。

鋼鉄製の扉がゆっくり左右へスライドしていった。

奥からワラと独特の動物臭はあふれ出し、だとして死臭だけが嗅ぎ取れず、わたしは「まだ生きているぞ」と咄嗟に唇を弾く。ままにひっそり暮らすヒツジの姿を脳裏へ浮かべ、しかしながら久方ぶりに訪れる輩の物騒なこの企みに可愛そうに、と言葉を過らせた。

 いや、と目を瞬かせる。

 同情するなど論外だ。

 わたしはヒツジに近づき過ぎていることを自覚した。

 全開となった鉄扉に、灯る作業灯が進むべく通路を奥へ伸ばしている。飼育塔がここへ移動してから訪れるのは初めてだったが、構造に変更がないことは確認済で、臭いにはもう慣れるしかなかった。

わたしは最初、一歩を踏み出す。己の靴音で空間を満たし、時間が時間だ、ヒツジも眠っているなら好都合じゃないか。あんがい重いライフル銃を抱えなおして笑ってやろうと頬を持ち上げた。

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