入学

 春の遅い年だった。


 天へと伸びる杉の木立の向こうには、しんと冷えた夜空がある。

 静かな闇。その闇の中に、仄かな明かりがぽつんと灯っていた。


 大神秀一は、畳の上で座している。

 真夜中と早朝の狭間のような時間帯。道場にはまだ誰も姿を現していない。

 深く息を吸い、そして吐き出していく。繰り返すごとに気が落ち着いていき、自分を取り巻く気配がはっきりと見えてくる。

 静かだと思っていた道場の周辺から、小さなざわめきが、耳に届き始める。

 そよと吹く風。揺らめく梢。ささやかな虫の声。そして、蠢くなにかの気配。夜に生きるものの気配。

 それらにゆっくりと五感を傾けてから、秀一は一つ礼をすると立ち上がった。

 ストレッチで体をほぐし、充分にほぐれたところで、ゆっくりと蹴りの練習を始める。前蹴りの下段、中段、上段。後ろ蹴りの下段、中段、上段。横蹴り、回し蹴り……。蹴りの種類だけで膨大な量がある。あまりスピードはあげず、型に忠実に繰り返していると、じんわりと汗ばんでくる。

 蹴り技が一通り終われば突き技。

 もうすっかり身についていて、考えることもなく体が動いていく。頭の芯が空洞になっていくようなこの時間が、秀一は好きだった。


 シュ……、シュ……


 足が畳の上を移動するたびに小気味良い音がした。


 ダン!


 踏み込んだ足の音が、誰もいない道場に響く。

 と、その時、背後に気配を感じて秀一は動きを止めた。


「……翔?」


 そう呼びかけてから振り返ると、そこには近頃忙しさのために会う機会の少なくなった友が、扉に背を軽く預け、腕組みをして立っていた。

 翔はジャージ姿だった。

 もし学校にいれば十人中十人が生徒ではなく教師と間違えるに違いない。まだ十五とは思えない貫禄を持っていた。

 翔の家は、秀一の家から直線距離で200キロほども離れている。

 翔ほどの高次な妖であれば、その程度の距離は大した問題ではなく、ひと飛びで超えられる距離ではある。だが通常、それをあえて行うことはない。今まで突然、なんの前触れもなく、翔が秀一の前に姿を現すことなど、一度もないことだった。


「一人で……来たのか?」


 訝しみながら声をかけると、返事の代わりに飛んできたのは、鋭い蹴りだった。

 手加減などない。

 とっさに両手で受けたが、その重たさに、弾き飛ばされそうになる。


「何を……!」


 振り上げた足の向こうで翔がにやりと哂った。

 片足を上げたままだというのに、ふらつきもしない。


「……餞別」

「!」


 どういう意味だと、問いただす間もなかった。

 振り上げていた翔の足が下り、身体が沈んだと思うと、くるりと反転しながら後ろ回し蹴りが繰り出されてくる。

 あまりの速さに動きは全く見えなかったが、とっさに体が動き、蹴りを受け止めた。

 一呼吸の間もなく、翔はなめらかな動きで次の攻撃へと移っていく。


「く……っ!」


 完全に出遅れた秀一は防戦一方だ。

 幾度も重たい攻撃を受け止めるが、これでは埒が明かない。

 突きや蹴りの間から見える翔の表情は至って冷静で、焦りもなければ笑みもない。徹底して無表情で、そこから翔の真意を図ることもできない。

 けれど、疑問や迷いを抱えたままで、この男に勝つことなどできない。

 いや、迷いなどなくても、全力だったとしても、おそらく互角かそれ以下なのだ。

 そんな事を考えていたら、軽い蹴りの後に、鋭い回し蹴りが飛んできた。

 頭の中が一瞬で沸騰し、何も考えられなくなるような、蹴りだった。

 秀一は片手で蹴りを捌き、相手の懐に入りながら胸ぐらをつかみ、そのまま投げ技へと持ち込んだ。翔は投げ飛ばされながら、くるりと後ろに回転し、膝を立てた状態で起き上がる。

 派手に飛んでいったのだが、ダメージを受けた様子はない。

 秀一が腰を落とし、構える。

 胆が据わった。


「いくぞ」

「応」


 短いやり取りの後、動いたのは二人同時だった。


 シュ、シュ……っと、畳と素足の擦れる音。ドンッ、という鈍い音。そして二人の息遣い。それらの音だけが、静かな道場に鳴り続ける。

 激しく、そして静かな闘いだった。

 見る者もいない、勝ち負けもない。止まってしまったかのような時間の中で、二人は黙々と拳を交えていた。


 そして……。


「おはようございまーす。誰かいますかー? 鍵空いてたんだけどー!」


 という、間の抜けた明るい声が聞こえてきたときには、二人はハアハアと荒い息を吐き、起き上がることはおろか、腕一つ持ち上げられないような状態で、道場のど真ん中に仰向けになっていた。


 ◇


 その後翔はシャワーを浴び、さっぱりとした顔で秀一の部屋にいた。

 汗まみれになったジャージはクリーニングに回されたため、大神家から貸し出されTシャツにスウェットパンツというスタイルになっている。大神家のストックの中から一番大きなサイズを選んだのだが、ほんのすこしズボンの丈が短いようで、足首からはすね毛がチラチラと見えていた。


「お前、スネ毛も赤いんだな」


 翔の髪の毛は、滅多にお目にかかれないほど真っ赤な色合いをしている。

 翔はリラックスした様子で秀一のベットに腰を掛け、布団の上に後ろ手をついていたが、秀一の言葉に小さく笑顔を見せた。


「スネ毛だけ黒かったら変だろう。そういうお前だって、スネ毛も薄いじゃないか」


 そののんびりとした様子に、秀一の方では多少イラッとした思いがこみ上げてくる。


「お前……今日俺が入学式だってわかってやがるのか!」


 何が悲しくて早朝から、起き上がれなくなるほど組手をやらされなくてはいけないのだ。


「ちっ……まだ乾いてない……」


 秀一は琥珀色の髪の間に指を滑らせ、湿った感覚に舌打ちをした。


「ほっときゃ、乾くだろ」


 のほほんとした声が指摘する。襟のホックを止めながら、秀一は今にもベットの上に寝転びそうなほど身体が斜めになっている翔を睨んだ。


「殺っとくんだった……」


 かなり本気の殺意を込めたつもりだったが、翔の方はブハッと吹き出し、大笑いしている。

 ムカッとはきたが、よくよく考えると、翔が声を立てて笑うなんて、滅多にお目にかかれるものではない。ずいぶん長く友達をやっているが、そういえば記憶にない。珍しいものを見れたという驚きで、笑われたというのに、逆に怒りが和らいでしまった。


「まあ、さ」


 翔は崩れかけていた体を起こし、少し前かがみになって秀一を見上げてきた。


「お前が学園に入ると、なかなか会えなくなるしな」

「お前は九十九学園には入る気はないのか?」

「……入るつもりなら、もっと早く入学してたさ……」


 翔は秀一から視線を外し、窓の外へと目を向けた。

 道場にいたときはまだ真っ暗だったが、今はもうすっかりあたりは明るくなっている。


「俺は……どうも人混みは好かないな……。親父や理事会の了承は得ている。あの学園の意味は理解しているつもりだし、協力も惜しまない。ただ、あの学園に入るということは、強制的なものではないはずだ。俺みたいなものが認められているということで吸収できる不満もあるかも知れないだろう。……というのは、後付の理屈だが。つまり、そういうことだ」


 わからなくはない。

 秀一はもともと人の上に立つことが嫌いではない。幼い頃から、上に立つものとして育てられてきたし、自分自身、そうあろうとし続けてきた。

 しかし、友人である天羽翔という男は、違う。

 それなりに能力もあり、器も大きいくせに、徹底して、傍観者に収まりたがる。

 確かにあの学園に通うということは、彼のような男には、面倒ばかりなのだろう。

 もったいない……。そんなふうに思ったりもするのだが、その感覚を押し付けるつもりはない。


「だから、信乃を頼む」


 思いがけない言葉に、秀一は動きを止めた。

 振り返り、翔を見下ろす。


「守護を、おりるつもりなのか?」

「おりはしないさ。この身に変えても……その気持はある。だが、常に側にはいてやれない」


 すでに二年間も、信乃は一人であの学園にいる。

 まだ半人前だった秀一にとって、自分自身を磨くためにそれは必要な時間だったし、後悔するつもりはない。

 その間に信乃を守る学園という施設があったことは、幸運なことだったと思っている。

 だから、これからは……。


「俺はもう、信乃から離れるつもりはないな」


 決意を込めて、そう言った。

 差し出される大きな手。


 信乃を襲った学園建設反対派の動きは、その後沈静化している。

 小さな小競り合いはあっても、大きな事件に発展したケースは報告されていない。

 それでも、あの八尋弓弦という男が、この先全くアクションを起こさないとは考えられない。彼が何を考えているのかはわからなかったが、信乃の力を欲していたことだけは、間違いないだろう。時間の流れのゆったりとした妖であるから、のんびりと周囲を固めているのかも知れない。

 それに……弓弦の力は未知数だ。信乃と同等の力を秘めている可能性もある。そして、あの男の傍らには、御先真澄がついている。その先には弓弦の父親尊がいる。

 いつか……。秀一だけでは、食い止めることができない事態が起きるかも知れない。秀一が倒れるようなことになるかも知れない。

 差し出された大きな手に、秀一は己の手を重ねた。


「けど、俺一人の手に余る事態になったら、よろしく頼む」


 重ね合わせた手に、ぎゅっと力がこもり、立ち上がった翔にぐいっと引き寄せられる。秀一は思わず翔のほうへ倒れ込みそうになった。


「その時は、翔んで行く。それまで頼んだぜ、相棒」


 思った以上に耳元近くで声がした。深く低い声が力強く外耳道をくぐり抜け、鼓膜を震わせる。


「じゃあな」


 ポンポン、と背中が数度軽やかに叩かれて、やってきた時と同じ唐突さで、翔は部屋を出ていった。


「ななななななな!」


 秀一は、思わずささやきかけられた耳を両手で覆った。


「何しやがるんだ、ばかやろう! ゾッとしたじゃないか!」


 こそばゆさにかっとなり、ドアを開けて翔を追ったが、部屋の先の廊下に、もう翔の姿はない。ただ、翔の笑い声が、秀一には聞こえたような気がした。

 気配すら残らぬ廊下をしばらく見つめ「全く、なんなんだよ……」と、独りつぶやく。

 そのまま部屋に戻ろうかと思ったが、廊下の向こうからパタパタと近づいてくる足音が聞こえて、その場にとどまる。廊下の先を眺めていると、視界に現れたのは露だった。

 露はいつもの和服に割烹着姿ではなく、今日は淡いピンク色のスーツ姿だ。腕時計を気にしながら、少し走るようにしてこちらへやって来る。

 腕時計から顔を上げた露が、秀一の姿を見つけたらしく、ニコリと笑いかけてきた。


「秀一さん、そろそろ出発したほうがいいと思うのですけれど……準備はできていますか?」


 落ち着いていて、そつなく何でもこなす印象の露だが、今日はどことなくそわそわとした様子を漂わせていた。

 いつも無造作に後ろに一つに束ねている髪をアップにしており、洋装であることと相まって、全体的にいつもと違う雰囲気だ。


「そういう髪型も、似合いますね」


 秀一が言うと、目に見えて露の顔は赤くなった。


「洋服なんていつも着ないから、なんだか足元がスウスウする感じなんです……変じゃありませんか?」


 露は自分自身の服装を確かめるようにうつむいた。


「いいえ、とても似合ってます」

「嫌だわ……今日の主役は私じゃないんですから……からかわないで下さい」


 そう言って、顔の前で手を振った。

 いつも落ち着いている露の慌てた仕草が面白くて、秀一は笑った。


「少し待っていて下さい」


 秀一は露を廊下に残したまま一度自室に戻ると、用意してあった九十九学園指定のスクールバックを手に取る。

 詰め襟学生服を身に着け、学校指定のバックを肩から下げた自分の姿が、部屋の姿見に映っていた。数秒間、鏡の中自分自身と見つめ合う。普段と違う衣装を身に着けただけで、見慣れたはずの自分自身が、別人にでもなったかのように感じる。


「……っと、時間がないんだった……」


 ふいに沸き起こった微妙な違和感を隅へ追いやり、自分の格好を最後にざっと確認すると部屋を後にした。


「いつでも出発できます」


 準備を整え、部屋を出てきた秀一を見上げると、露は眩しそうに目を細めた。


「なんだか、いつもの秀一さんじゃないみたい……。あ、ハンカチは持ちましたか? ええっと……あとは……」


 ためらいなく近づいてきた露は、学生服のポケットをパンパンとは叩きながら確認している。


「大丈夫です」


 ハンカチの心配をされるほど子どもではないつもりなのだが、露にとってはいつまでも……もしかしたらこれからもずうっと……秀一は『こども』のままなのかも知れない。

 仕方ないと、秀一は露にされるままになっていた。

 いつの間にか、露は秀一よりもずいぶんと小さくなってしまっていて、今ではもう見下ろせるほどだ。いや、もちろん露が小さくなったわけではなくて、秀一の身長が、それだけ伸びたのだ。

 持ち物の確認をして、顔を上げた露の目と鼻の頭がほんのりと赤くなっている。


「今から泣いていたんじゃあ、入学式にはタオルを持っていかないといけないんじゃないですか?」


 指摘されて、露は「いやだわ!」と言いながら、目頭を指先で拭った。


「父さんが待ってます。行きましょう」


 秀一は露の背中を押して、歩き出した。

 大神家の玄関では、スーツを着込んだ秀就が待っていた。

 秀就のシャツは、ほとんど白と言っていい色合いなのだが、よく見るとほんのりとピンクがかっている。露のスーツと色味を揃えたのかも知れない。


「忘れ物はないか?」


 秀就にも忘れ物のチェックをされて、秀一は嗤う。

 必要なものはすべて宅配で学校の寮へ先についているはずだ。今日持っていくものは、中身が空っぽの、学校指定のスクールバックくらいなもなのだ。忘れ物をするほうが難しいのではないかと思うのだが、秀就や露は、それでも心配なのだろう。


「さっき、露にも確認してもらいましたよ」


 そう秀一が答えると、秀就は納得したように頷きながら、玄関を出て、裏の駐車場へと向かった。

 学園へ行くには、公共の交通機関ではかなり不便である。

 乗り換えが多い上に、学園のある山の上まではバスが一日に数本しか走っていないのだ。今日は秀就の運転で学園に向かう予定になっている。

 三人が駐車場につくと、そこには数名の大神家に仕えている者たちの姿があった。今日この家を出ていく秀一を、見送りに来てくれたのだろう。


「兄さん!」


 見送りに来てくれた顔のなかには、犬神新太と史郎、それにサラという三人の姿もあった。


「新太……見送りに来てくれたんだ……」

「もっちろんだよ! 兄さんがこの家を出ていっちゃうなんて、信じられないよ!」


 異父弟である新太が、秀一の前に飛び出してきた。


「俺も! 俺も高校生になったら、学校ってところに行く! ね? いいよね?」


 そう言って新太が振り返った先には、新太の父の犬神史郎と、母のサラがいた。サラは秀一の産みの母でもある。


「何をしに行くところなのか、ちゃんとわかっているのか?」

「遊びに行く場所じゃないのよ」

「わかってるよ! 勉強とかっていうのをやるんだろう? ちゃんとできるよ!」

「……できるのか……?」


 疑わしいとでも言った目つきで、史郎が新太を見下ろしていた。


「当然だよ! 俺だってちゃんとわかってるんだからな!」


 新太はえっへんとばかりに腰に手を当てて胸を張る。

 楽しげに遣り取りをする史郎たちの家族と自分の実の母である犬神サラに対して、心が波立たないといえば嘘になる。

 何処かに、史郎とサラと新太、という三人の有り様を、羨ましく思う気持ちもある。

 けれどその気持は、今となっては、ほんの小さなさざなみ程度のもので、それに飲み込まれたり、振り回されることはもうない。

 だから、素直に笑うことができる。


「頑張れよ。まあ、新太が入学する前の年に僕は卒業するけどな……」


 秀一が指摘してやると、案の定新太は


「え! うそ! どうして! 詐欺だ!」


 と騒ぎ始めた。そんな新太の様子に、周囲の者たちの顔も笑顔になる。


「秀一さんお気をつけて」

「休みには帰ってきてくださいね」


 いよいよ車に乗り込むと、見送りの者たちが口々に声をかけてきた。


「秀一! ガンバってね!」


 ちょっと訛りのある日本語が聞こえた。サラだ。


「今度、信乃ちゃんにも会わせてね! それから、寮に入っても、毎日鍛錬するよ!」

「もちろんです、師匠」


 不思議なもので、秀一はサラにに対して『母である』と感じたことはなかった。それよりも、武芸の腕の立つサラは、この二年間秀一の師匠であった。

 

「みなさん、お世話になりました」


 窓を開け、そこに集まってくれた人たちに思いを込めて礼を言う。


「行ってらっしゃい」

「頑張って!」

「お気をつけて!」


 車が発車して、手を降ってくれる人たちの笑顔が、遠くなっていく。

 駐車場を出た車は、鳥居までの一本道を走っていく。

 右手に、今まで暮らしてきた、大神の屋敷。

 美しく整えられた日本庭園。

 幼い日に異界渡りを体験した畑と、そこに佇つ赤樫の巨木。


 ――さようなら。


 誰にも聞かれないように、心の奥で、自分を育んでくれたすべてのものたちへの別れを告げる。


「父さん、母さん」


 秀一が呼びかけると、車内に緊張感のある空気が流れた。


「あの……いま……秀一さん……」


 助手席に座っていた露が、恐る恐るといったふうに後ろを振り返った。


「今、母さんって……」

「はい、母さん……」


 露は、感極まってしまったようで、口を数度パクパクとしたが、言葉を発することはできないようだった。

 あの内覧会の事件の後、秀就と露は婚姻を結んだ。

 けれど、秀一はその後も露を母とは呼ばなかった。わだかまりがあったわけではない。父の妻になったのであって、自分との関係に変わりはないと思ったからだし、いまさら母などと呼ぶのが恥ずかしかったからでもある。

 でも何故だろうか。ふいにこの人を「母」と呼びたくなったのだ。


「なんと言うか……独り立ちというわけではないのでしょうが、この家を出ることになったので一応言っておきたくて……これまで、ありがとうございました」


 ぽろり。

 ついに露の瞳からは涙が溢れる。

 露は慌ててバックから取り出したハンカチで目頭を拭っていた。


「いつでも、帰ってきていいんだぞ」


 と秀就が言う。


「今日家を出たばかりなのに……」


 そう受け流しながら秀一は


(自分はもう、大神の家には戻らないかも知れない)


 と、心の奥底で、そっと決意していたのだった。


 ◇


 九十九学園では、一日のうちに初等科から高等科までの入学式が執り行われる。

 高等科は最後と決まっていたから、秀一たちはその分ゆっくりと学校へ向かうことができた。

 秀一がこの学園の門をくぐるのは、今回で三回目である。

 一度目は内覧会。二度目は入学試験。そして今日の入学式。

 初めてこの学園を訪れた内覧会の日を、秀一は一生忘れることはできないだろう。自分自身の小ささ、無力さを、嫌というほど味わった。いい思い出ではないが、だからこそ今の自分がある。

 あの日までの秀一は、根拠のないプライドの塊だった。テレビで見たアニメのヒーローのように、どんなピンチに陥ったとしても自分は切り抜けることができるのだと、絶対誰にも負けたりしないのだと、無邪気に信じていた。

 けれど結局、自分ひとりの力で信乃を助けることなんてできなかった。それどころか、助けようとした信乃や、翔、史郎、新太たちがいなければ、死んでいたに違いない。

 だからこの学園は、今の自分自身を生み出してくれた場所でもある。

 そんな感慨を胸に、学園の門をくぐった。 


「秀一さん、それじゃあまた後で」


 露の……母の声が聞こえた。


「はい。では後ほど」


 秀一は両親に一礼すると、昇降口に張り出された指示に従って、自分のクラスとなる一年壱組へと向かう。

 組分け表と一緒に張り出されていた高等科校舎の見取り図によると、一年生は三階、二年は一階、三年は二階の教室が割り当てられているらしい。それと、各階にはそれぞれに特別教室があり、また、校舎の一番西側には、学生の立ち入りを禁止するエリアまである。

 まだ新しい建物には木材がふんだんに使われていて、森の香りがした。木材の色味は濃く、そのせいだろうか、新しいのにどこか薄暗い懐かしさを感じる。

 内覧会のときに秀一をたじろがせた、真新しい建材の強烈な匂いも、今はもうこなれて感じることはない。

 制服は男子生徒は詰め襟、女子は三本のラインの正統派セーラーであり、木造の校舎と相まって、一昔前にタイムスリップしたような雰囲気が醸し出されていた。

 立ち話をする生徒たちをすり抜け、階段を登り、少し歩くと、目的のクラスを見つける。

 一年壱組。

 秀一はガラガラとドアを開け、教室の中へと入っていった。

 中等科からの持ち上がりの生徒が多いからなのだろう。もうすでに仲の良いグループというものがあるらしく、生徒たちはあちこちに小さな塊を作っている。

 九十九学園の出席番号は五十音順になっているらしく、秀一は椅子の背と机に貼られた名前のプレートを確認しながら、自分の席を探した。

 と、その時前方でひゅっと息を飲む音がした。

 顔をあげると、一人の男子生徒があっけにとられたような顔つきで、こちらを見ている。秀一の知っている顔ではない。周囲を見回したが、どうやらその男子生徒が見つめているのは、やはり自分自身で間違いないようだ。

 こんな知り合いいたか?

 秀一が怪訝に思っていると、視線の先のその男子生徒が呟いた。


「外……人?」


 その言葉に秀一は思わず吹き出したい衝動を覚えたが、なんとかこらえた。

 自分の外見が日本人離れしていることは、秀一も知っている。けれども、今まで大神家から外に出ることがなかったせいか、見た目について指摘されたり、騒ぎ立てられたりするようなことはなかったので、この男子生徒の反応は、なかなかに新鮮だった。

 秀一を外人と呼ばわった生徒は、一番廊下側の前から二番目の席で、椅子に横向きに座り、目を見開き口をあんぐりと開けたまま、こちらを凝視している。小さくて白くてモチッとしているから、秀一は思わず汁粉の中に入っている白玉を連想してしまった。男子ではあるが、可愛らしいという言葉が似合うような気がする。


「あ、もしかしてこの席か!」


 ぽっちゃり男子の隣の席で、彼と向かい合うように横向きに座っていた生徒が、ぴょこんと立ち上がる。彼が座っていた椅子の背のプレートには『大神 秀一』と書いてあった。


「ああ……。どうやらそこが自分の席らしい……いや、すまない」


 せっかく楽しげに会話をしていたところを邪魔してしまったようで、秀一としても心苦しかった。だがその生徒が席を譲ってくれたので、秀一は自分の机の上に、担いでいた真新しいスクールバックを置いた。

 その間も、秀一を『外人』と呼んだ生徒は、ぼんやりとした感じで、ずうっと秀一の顔ばかり見つめているのだ。

 目が点、という表現がぴったりくる。

 秀一が動くたび、それを追って、彼の視線も追いかけてくる。

 さすがに気恥ずかしくなって、秀一は自分の顔を片手で覆った。


「僕の顔になにか付いてるか?」

 

 と尋ねたのだが、それでもまだその男子生徒はパカっと口を開いたままこちらを見上げているばかりだ。まるで、ネジの切れてしまったゼンマイ人形のようで、少しばかり心配になる。


「あー、違うよ。気にしないでやって!」


 さっきまで秀一の席に座っていた生徒の方が答えてくれた。


「こいつは、きれいな顔をしたやつが好きで、多分あんたに見とれてんだよ!」


 と言うのだが、秀一は自分の顔を綺麗だと思ったことはなかったから、どう答えて良いものやら面食らってしまう。

 礼の一つも述べたほうがいいのだろうか?

 そう思ったが、それも違う気もする。第一、高校生男子に「きれい」という言葉は、褒め言葉足り得るのか?

 秀一が返答に困っていると、立っている男子生徒が手を差し出してきた。


「俺、長野響」

「ああ、僕は大神秀一だ。よろしくな」


 差しだされた手を握りしめ、笑顔を向ける。


「俺っ! 俺俺っ!」


 つい今まで、ぼけっと秀一を見上げていた白玉っぽい生徒が、急にワタワタと動き始めた。


 ――なんのスイッチ入った!?


 男子生徒の勢いに押されるが、頬を紅潮させながら目を輝かせてこちらを見上げる様子は、けして気分の悪いものではない。


 ――こいつは、案外かわいいかもしれない。白玉。うん、白玉で間違いない。


 秀一は心の中で、この生徒のことを白玉と呼ぶことに決めた。


「オレオレ詐欺か」


 と響が白玉にツッコミを入れているが、その言葉は彼の耳には届かなかったらしく、相も変わらず一心に秀一の顔面を直視している。悪い気はしないが、目のやり場に困ってしまう。


「俺っ! 一ノ瀬涼! なあ、秀一! 君、外人なのか!?」


 その言葉を聞いた響の行動は素早かった。涼の後頭部を平手で勢いよく叩いたのだ。


 スパーン!


 というあまりにいい音がして、秀一は笑いながらも、思わず白玉を心配してしまった。

 その後、響と涼の二人は、秀一の前で見事な掛け合い漫才を披露してくれて、秀一は無事に九十九学園ではじめての友人を得ることになったのである。

 そうこうする間に、教師が教室に姿を表し、生徒たちは慌てて自分の席へと戻っていった。

 最初の時間はSHRショートホームルームで、入学式についての説明だった。

 私語は慎むように、入学式というものが終わるまで、勝手に動いたり、勝手に喋ったりしてはいけない。教師の指示に従うように。

 集団生活を初めて体験する秀一のような生徒のために、懇切丁寧な説明がなされていく。

 秀一は背筋を伸ばし、黙って教師の言葉を聞いていたが、心の中では『人間って、面倒くさいことしてるんだな』などと不謹慎なことを考えていた。

 翔がこの学園に入学しないという道を選んだのは正解だったかも知れないと思う。この窮屈な団体行動は、彼にとっては苦痛以外の何物でもないはずだ。

 秀一だって、なにが悲しくてみんなと一緒に一列になって、入学式とやらに参加しなくちゃならないのか、今ひとつわけがわからない。

 今後、人間の中に紛れていくために、人間と同じような経験をするというのが大切なのだということらしいが、どれほどの重要性がこの行為にあるというのだろうか。

 妖ならば、そう思わないものはいないのではないかと思うのだが、何しろ九十九学園の大半の生徒は、中学生からの持ち上がりである。すっかりこういった行事には慣れているらしい。いざ入学式が始まると、皆文句も言わずに、ぴしりと男女一列ずつに並び、行進して講堂の中へと入っていく。

 入学式が行われる講堂には、すでに二年生や三年生の先輩たちに教師たち、父兄が椅子に座っていて、拍手で新入生を迎えてくれた。

 秀一は一年壱組のみんなと列を作り、まるで見世物のように、新入生のために用意された席まで歩いていく。アヒルの雛にでもなったようで、死ぬほど恥ずかしく思いながらも、そんなことはおくびにも出さずに胸を張って行進をした。心のうちでは『――これも修行だ、これも修行だ……』と、自己暗示をかけるように唱え続ける。

 父兄の席に緊張した面持ちで座る露と、その隣で腕組みをして座っている秀就の姿は、すぐに見つけることができた。

 この講堂の中に安倍信乃もいるのだろう。

 多分。意識を集中すれば、見つけることはたやすいのだろうが、秀一は敢えてそこに並ぶ在校生の列から信乃を探し出そうとはしなかった。

 与えられた席に座ると、すぐに入学式が始まる。

 この入学式において、秀一には新入生代表という大きな役割があり、手の中には、その時に読む原稿が用意してある。

 粛々と式は進んでいく。

 

「新入生宣誓。代表、大神秀一」


 進行を務める教師が秀一の名を呼んだ。

 秀一は「はい」と、大きく返事をして席を立つ。

 歩き始めると、自分を追うたくさんの視線を感じた。

 教師、正面、そして来賓に会釈をし、壇上へと上がる。

 演台の上に用意してきた紙を置き、一礼して顔を上げた時、秀一の目は、真っ先に信乃の姿を捉えたのだった。

 信乃を見つけるつもりなど、毛頭なかった。それどころか、この大役が終わるまでは、あえて信乃のことは意識の外に置こうと努力していたはずなのに。

 信乃は、在校生の席ではなく、左隅に用意された生徒会役員用のパイプ椅子に腰を掛け、じいっと秀一を見つめている。

 どくどくと、心臓が音を立て始める。

 一瞬絡んだ視線を、秀一はすぐに外した。

 心のうちにできたざわめきを落ち着けるために、一度深呼吸をすると、マイクに向かってわずかに身を乗り出した。

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