Reunion

憧れの君

 例年より気温が低く、いつまで経っても春らしい陽気にならない。

 そんな年だった。

 今日の天気予報は最高気温十三度。

 ただ、それは下界での話で、山の上に建つ九十九学園周辺だと、そこから大抵マイナス二、三度と思っていて間違いはない。

 講堂の、開け放たれたドアからそよぐ風は冷たかったが、それでもどこか、春めいた匂いがした。


「もう少し、桜の花が頑張ってくれればなあ」


 誰かの声が聞こえた。

 一ノ瀬涼は、その声につられて、ドアから見える桜の木に目を向ける。

 今年はいつまでも冬が居座っていたから、まだ花は咲いていない。

 下界では桜が咲き始めたなんてニュースでやっていたけれど、ここは標高が高いせいで、周辺の開花時期よりも必ず数日は遅れる。今にも咲き出しそうに枝先の蕾は赤く膨らんでいたが、明日の入学式には間に合わないだろう。

 

「信乃! ちょっと配置を見てくれない?」


 大きな声が聞こえて、涼ははっと我に返った。

 今は明日の入学式へ向けての準備作業中なのだ。ぼやっとしている暇はない。

 ステージの上には「平成二十四年度 私立九十九学園高等科入学式」の看板がワイヤーで吊るされている。その下には演台やら来賓用の椅子が並べられていた。

 ステージの上に立って下を見下ろしているのは、生徒会長の六角凜ろっかく りんだ。白い面に落ちかかるサラサラとした黒髪を耳にかけながら


「看板の位置、曲がってない?」


と、ステージ下にいる生徒会書記の安倍信乃に向かって問いかけている。

 会場に緑色のシートを敷くという作業をしていた安倍信乃は、凜の声に手を止めて、ステージ上を見やった。


「問題ないと思いますが」


 信乃の声に凜はにっこりとうなずく。

 凜が微笑んだ途端、涼には彼女の背後に大輪の牡丹の花が咲き乱れるのを見たような気がした。凜は純和風な顔立ちで、西洋的な派手さはないが、どこか見たものを魅了する魅力を持っているのだ。

 一方、返事をした方の安倍信乃はといえば、まったくもって無表情である。


「誰か! カラーテープ持ってる? 一応バミっとこうか?」


 凜の声に、ステージ袖から一名の生徒が何本かのカラーテープを持って走り寄っていった。

 作業を中断していた信乃は、また緑のシートを床の上に広げる作業へと戻っていく。

 涼もまた、そんな信乃を横目で眺めながら、くるくると巻かれた緑のシートを広げる作業を開始した。

 明日。四月九日月曜日は、私立九十九学園の入学式で、初等科、中等科、高等科と、順番に一日のうちにすべての式が行われることになっている。

 教師陣は、初等科や中等科の会場設営を担当し、高等科入学式の会場設営は、生徒会役員を中心に生徒の手によって行われる事に決まっていた。

 今日はまだ春休みということもあり、生徒たちは私服で作業にあたっている。

 床を保護するためのシートを敷き終えると、今度は椅子を並べる作業へと移っていく。

 パイプ椅子はステージ下に格納されていて、それが引き出されると、今まであちこちに分かれて作業をしていた生徒たちが、一斉に群がった。

 涼が椅子を受け取るための列に並んでいると、ぽん、と背を叩かれた。振り返ると、安倍信乃がちょこんと首を傾げてこちらを見上げている。

 涼は身長158センチである。高一男子のなかではおそらく一番背が低いのだが、安倍信乃は涼よりももっと背が低い。

 背は低いが、短髪でボーイッシュな彼女は、今日のようにパーカーにジーンズなんて格好をしていると、少年と間違われることもしばしばだ。


「涼くん。生徒会役員でもないのに、手伝いに来てくれてたんだな。ありがとう」

「いえ、いいんです」


 涼はピシッと背筋を伸ばした。

 実はこの小柄な先輩に、涼は憧れている。尊敬6に憧れ3。そしてほんの少し交じるのは、春先のピンク色にも似たふわふわと甘い感情だ。

 岩手の山奥に住んでいた涼がこの学園に入学し、ホームシックになっていたときに、優しく声をかけてくれたのが安倍信乃だった。

 いじめなんていうほどの陰湿なものはなかったけれど、田舎から出てきた彼は「お前、しゃべり方変だよね」なんて言われるだけで傷ついていたのだ。言葉を投げかけたものは、涼が傷ついているということにすら気づいていなかっただろうけれど、必死で訛りが出ないように気をつけていた彼にとってはショックな言葉だった。


『しゃべり方に、変だなんてことはないと思うぞ。私は涼くんの話し方は、温かみがあって素敵だと思うのだが?』


 と信乃が言ってくれたのは、涼が傷ついていることに気がついたからだと思う。なんてことのない一言だけれど、声をかけてくれた事自体が、涼にとってはありがたかった。

 その後、涼は訛りを気にするのをやめた。

 ただ、涼が方言全開で話し始めたところ、周囲の者が彼の言葉を理解できなくなってしまった。

 例えば、皆で裏山に散歩に行った時のこと。『あ!げぁらごだ!』と、おたまじゃくしを見つけて沼の中を指さしたが、誰もわかってくれない。『げ……?』と言ったきり、友達は困ったような表情を浮かべていた。『げぁらごだよ。めげなぁ。びっきのわらすだぁ』と説明したのだが、誰一人として涼の言葉を理解したものがいなかったのである。

 意味が通じないのではしょうがないので、以後言葉には気をつけている。ただ、イントネーションばかりはどうにもならなかったし、信乃に暖かみがあると言ってもらえたので、あまり気にしないことにしたのだった。

 安倍信乃という先輩は、小柄だし、饒舌なわけでも自ら人の前に出ていくタイプでもないのに、存在感があり周囲から一目置かれる、そんな人だった。

 そのあこがれの先輩が涼の前でくすりと笑った。

 その途端、涼の心臓はドキドキを通り越して、バクバクと音を立て始める。

 何しろ信乃の笑顔は、レア中のレアなのである。


 ――今日、手伝いをしてよかった!!!


 神様など信じていないにもかかわらず、思わず手を組んで『神様ありがとう!』と叫びたくなってしまったほど、涼のテンションは上がりまくった。


「けど君、そういえばまだ高校生じゃないんじゃないか……自分自身の入学式の準備なのに……?」


 そうなのだ。明日は涼の入学式でもある。ただ、春休み中に内部からエスカレーター式で進学するものは、高等科の寮に引っ越しも済ませてあり、そこではすでに先輩たちとともに過ごしているので、今日入学式の準備があることは知っていたのだ。


「いえいえ!! どうせ俺、なんにもすること、ねかったから! お役に立てたならいいんですけど……」


 ぴしっと直立不動で答える涼に、信乃は「助かるよ」と言うと、パイプ椅子を手に離れていった。

 それから涼は黙々と作業を続けながら、憧れの信乃や、美しい凜の様子を眺めて、なかなかに幸せな時間を過ごすことができた。

 涼は、安倍信乃程ではないが、和風美人の凜にも憧れている。ちびでぽちゃっといている自分の容姿にコンプレックスを持っているので、美しい人を見ることが好きなのだった。恋だの告白だの、彼氏になりたいだの、そんなことは微塵も思っていない。こうやって、声をかけてもらえるだけで、いや、眺めているだけでも幸せなのだ。

 作業を終え、生徒会長である凜の最終チェックの後、手伝いに出た者たちは生徒会からペットボトルのお茶をもらって解散になった。

 ほんわかと幸せ気分に浸りながら講堂を出ていこうとした涼は、受付の長テーブルの前に佇む信乃を見かけた。

 最後にあいさつをしていこうかな?

 そう思って、信乃の方へ一歩足を踏み出した時、目に入った彼女の横顔に、思わず足が止まった。

 信乃はテーブルの上に用意された、父兄に配るための資料を一部手に取り、眺めている。その信乃の横顔が、今にも泣き出しそうだったのだ。

 手元の資料はどうやら新入生の名簿のページで、その上を信乃の指がなぞっている。

 挨拶をしようとしたはずなのに、涼はどうしても声をかけることが出来なくて、信乃に背を向けると、ただ無言でその場を離れたのだった。


 涼の頭の中からは次の日になっても、あの泣き出しそうな信乃の横顔が離れずに、ずっと居座り続けている。

 おかげで入学式当日だというのに、心の中は灰色だ。

 そのうえ涼たち中等部からの持ち上がりのものは、学生服も別に新しく購入する必要はない。それはそれで助かるのだが、どうも新鮮味に欠ける気はする。

 去年から引き続きの古い学生服を身に着け、これだけは新しい、高校生指定のスクールバックを肩に担いで、学校へと向かった。

 寮の玄関から、一歩踏見出し、ふうっと息を吐きながら空を見上げる。高等科の入学式は初等科と中等科の後だから、もう空気はだいぶ温まっていた。

 今年は、ずうっと冬を引きずったようなお天気だったが、今日は水色の空に、ぷかぷかと白い雲がうかんでいる。


 学校に到着すると、高等科の昇降口には人だかりができていた。

 新入生の組分けのプリントが、入り口に張り出されているのだ。

 涼は昨日行われた入学式の準備の際に確認していたので、プリントに群がる一団を横目に昇降口の中へと入っていった。


「よう、涼!」


 背後から声がかかって、涼は立ち止まる。

 振り返ると、黒い服の一団の中から、友人の長野響が走り寄ってくるところだった。


「お前、張り紙見なくていいのか?」


 涼は、響が近づいてくるのしばしの間、立ち止まって待っていた。


「うん。俺は昨日生徒会の手伝いに出たから、そこで組分けは確認したんだ」

「まじで手伝いに行ったのか!?」

「え……だって、信乃先輩も凜先輩も喜んでたよ」

「まあ、そりゃそうだろうけどさ、お前本当に信乃先輩のこと好きだよね……」

「わあぁあぁ!」


 涼は思わず響の口に手を伸ばして、塞いだ。


「ちょっと! こんな人がいっぱいいるとこで、言わねぇでよ」


 だいぶ目線より高いところにある響の顔を見上げて睨んだ。慌てたために、変な訛りが出てしまった。

 響は、顔面偏差値的には平均点かそれ以下なのに、身長だけはそこそこある。ぽっちゃりちびの涼にとってはうらやましいことこの上ない。


「え! それって秘密にしてたのかよ!」


 と、響はまったく悪びれる様子はなかった。

 別に秘密にしているわけではないけれど、誰が聞いているのかもわからない場所で、おおっぴらにする話題ではないだろうと思う。そういうところ、響にはデリカシーがない。

 頬を膨らませて、校舎内に入っていこうとすると「ごめんごめん!」と、響が追いかけてきた。


「そういやあさあ、何人か見たことのない名前もあったよな」


 それは、涼も気がついていた。

 ほとんどは持ち上がり。でも、高校からこの学園に入学する、という者も学年に十数名はいるという話だ。


「高校からは、人間も入学するんだよね」

「だよな……」


 中学と高校の一番の違いはそこだ。

 九十九学園は人外のための学校だけど、高校からは学年で二名だけ、人間の生徒を受け入れることになっている。


「なあ、響って、人間と話したことある?」

「……うーん。ないな」

「俺も……」 


 涼は岩手の山奥出身であり、響は長野県の山奥出身である。

 人もあまり入ってこないような山奥で、ひっそりと暮らしていたのだ。

 涼も響も、もともとは、名前すら持たないちっぽけな妖だった。

 学園の関係者が、そういった小さな妖たちにもくまなく声をかけてくれたおかげで入学することができたのだ。

 入学するには名前が要るわけで、涼自身に名前を考える権利が与えられた。

 一ノ瀬涼なんていうなかなかかっこいい名前だが、実は、近隣に住む人間の中に一ノ瀬という姓が多かったからそれを真似ただけだし、名前の方は涼が水辺を好む妖しだったのでさんずいの付く名前にしただけなのである。

 響も似たようなもので……いや、それ以上にいい加減で、人間が「長野県」と呼ぶ地方に住んでいたから「長野」という名字にしたらしい。


「あ! そういえば保健室の岩倉先生は人間だったんじゃない?」

「ああ、そういえば! 忘れてた!」


 そんな会話をしながら、二人は高等科の校舎三階の一年教室へと入っていく。

 教室に入ると、それぞれの机と椅子には名前が書かれていた。九十九学園では出席は五十音順で、涼は窓側の前から二番目だ。

 響は長野だから、涼から遠い席であるはずなのに、何故か隣に腰を下ろす。


「ちょっと、響の席、そこじゃないよね」

「まあ、先生が来たら自分の席に着けばいいんじゃないか?」


 響はクラスの中にいた友達に「おはよー」と笑顔で挨拶しながら、ニコニコと誰のものかもわからない席に座っていた。


「そこ誰の席だよ?」


 二人は背もたれの後ろの、ネームプレートに差し込まれた名前を確認した。


「大神……秀一……?」


 聞いたことのない名前だった。

 おそらく今年から入学してくる生徒に違いない。

 でも、涼には大神という名字に心当たりがあった。

 特に東日本で大きな力を持つ妖しの種族に、そんな名前の一族があったはずだったと記憶していたのだ。


「へー。中学にはいなかったな」

「うん。新しい友達だね。大神って……もしかして……あの大神?」

「え? 涼、知り合い?」


 涼はガクッと肩を落とした。

 

「多分、この学園の理事にも、大神一族の長が入っていたはずだよ。響、知らないの?」

「へえええー! そうなんだ」


 響は机についていた肘を上げると、机自体は他の生徒のものと何も変わらないというのに、感心したように眺め回した。


「……別に、その机の格が高いわけじゃないんだけど……」


 しょうがないやつだなあ。と小さくため息を付いて、涼はクラスを見回した。

 ほとんど見知った顔の中に、緊張した面持ちの見たことのない顔がいくつか見える。多分今年から学園に入学することになった生徒たちだ。

 と、ちょうど教室の後方の入口から、生徒が一人、教室の中に入ってきた。何気なく涼はその生徒の顔を確認する。

 

 ひゅ!


 息を呑んだ涼の視線が、今入ってきたばかりの少年の上で固まってしまう。

 

 ――かかかかかか! かっこいいいい!


 涼の、美しい顔好きセンサーど真ん中に引っかかるような、綺麗な顔立ちの男子だった。昨年度まではこんな美形の男子生徒は学園にいなかったので、今年から入学してくる生徒ということで、間違いない。

 こんな綺麗な男子生徒がいたら、絶対チェックしているはずだ。

 

「外……人?」


 つぶやきが思わず漏れた。

 堀の深い顔立ち。光に透けそうな茶色い髪の毛は、ふわっと優しい癖がある。触ってみたらきっとサラサラとして気持ちがいいに違いない。瞳の色も薄い。とても西洋風な顔立ちなのに、眉はキリッとしていて、精悍な雰囲気を彼に与えている。そのせいだろうか、意外と学生服が似合っている。

 あんまり夢中になって彼の顔を見上げていたものだから、すぐ目の前に彼がやってきているのにすら、涼は気が付かないでいた。

 涼と響の前までやってきた男子生徒は、眉をハの字にして、困ったような表情をしている。


「あ、もしかしてこの席か!」


 響はそう言うと、弾かれたように立ち上がった。


「ああ……。どうやらそこが僕の席らしい……いや、すまない」


 涼は、お互いに恐縮して謝り合う響と男子学生をぼんやりと見上げていた。

 男子学生はチラリと涼へと視線を向け、机の上に真新しいスクールバックを置くと、片手で自分の口元を覆った。


「ええっと……なんというか……僕の顔に、なにか付いてるかな……?」


 困ったように、口元をおおった手を何度か往復させ、顔になにかついていないか確かめているような動作をする。


「あーっ、違うよ。気にしないでやって!」


 ぼうっとしてしまった涼の代わりに響きが答えていた。


「なんつーか、こいつ。多分あんたに見とれてんの」


 二人の会話は、耳に入ってくるのだが、意味を理解するための脳みそが、開店休業状態だ。


「悪いやつじゃないんだけど、ちょっと、何ていうか、きれいな顔したやつが好きなんだって」


 響の説明に、目の前の美男子学生が僅かに頬を赤くした。


「きれ……い?」


 面食らったようにぱちぱちと瞬きをする。

 

 うわあ!


 涼はいま、感激に打ち震えていた。

 べっこうあめみたいにとろりと甘い瞳! それを取り巻く茶色の長いまつげ。


「ああ……こいつのことはいいから……おれ、長野響」


 そういって響が手を差し出す。


「ああ、僕は大神秀一だ。よろしくな」


 秀一は差し出された響の手をしっかりと握り、絵に描いたようなスマイルを浮かべた。


「俺っ! 俺俺っ!」


 出遅れてはならない。涼が慌てて二人の手の上に自分の手を重ねる。


「オレオレ詐欺か」


 ボソリと響が呟き、大神秀一がぶっと小さく吹き出した。だが、秀一の顔面に夢中になっている涼には二人の会話など届いていない。


「俺っ! 一ノ瀬涼!」

「ああ……」


 大神秀一の視線が、改めて涼へと向けられる。

 

「なあ、秀一。君、外人なのか!?」


 聞いた途端にスパーン! と、涼の後頭部が景気のいい音をたてた。


「いでな! 響! なにすんだあ! 本気で殴ったな!」


 殴られたところをさすりながら響を見上げるが、あまりの痛さに涙までうかんできそうだった。あまりのびっくりしたものだから、思わずなまってしまった。


「あほ! 失礼な質問だろが!」

「……え? なんで?」


 涼と響のやり取りを聞いていた秀一がうつむいて肩を揺らしている。

 どうやら笑いをこらえているらしい。

 堪えているつもりなのだろうが、ぶぶ……という堪えきれない破裂音が聞こえている。


「いや、別に構わないんだけど……」


 笑いの発作がようやくおさまってきたらしい秀一がコホンコホンと咳払いをしながら言った。


「僕は、ハーフだよ。生んでくれた母親が、フランス人なんだ」


 涼は、いたく感動してしまった。

 何しろ涼は、日本の中でも、岩手とこの九十九学園くらいしか知らないのだ。それ以外の場所になど行ったことがないのである。


「スゲー……」


 と呟いたものの、心の中でフランスって、どこだっけ? と、首をひねっていた。

 外国になんて少しも興味を持っていなかったが、今日寮に帰ったら地図帳を開いて確認しよう! と、固く決意したのだった。

 その後、すぐに担任の教師がクラスにやってきたので、秀一とそれ以上の話をすることができなくなってしまったけれども、ちらりと隣に目を向ければ、すごくかっこいい級友を眺めることができる。

 ……とても幸せな高校生活がスタートしそうな予感に、涼の心の中は自然と浮き立ってくのだった。

 入学式の式場では、隣同士ではなかったけれど、横を向くと五つほど右の席に秀一の凛々しい姿が見えた。

 この人外たちが通う学園には、人間離れした美形も結構多くて、涼にとっては楽園なのである。

 講堂の新入生の席についた一年生たちは、背後に先輩方や父兄、脇には教師と生徒会役員、正面に来賓たちに囲まれて、皆ピシッと背筋を伸ばし、緊張した面持ちだ。

 生徒会役員が並ぶ席に会長の六角凜と、書記の安倍信乃を見つける。ちょうど生徒会役員が真横に見える席だったらしく、右も左も美形に囲まれ、涼にとっては最高の入学式である。

 六角凜は今日も艶やかで美しい。

 それから、安倍信乃。彼女は魅力的ではあるのだが、秀一や六角凜に比べれば、どちらかと言うと平凡寄りな顔立ちだ。体格だって、細身ではあるけれども女性らしさを併せ持つ凜や、制服の上からも逞しい胸板を見て取ることのできる秀一などと比べると、ヒョロヒョロとしていて、背も低い。

 けれども、どんな美形に囲まれている時でも、涼の目は一番に信乃に吸い寄せられてしまうのだった。

 今日までの一年間。同じ学園内にいるとはいえ、高校生と中学生では、なかなか会うことができなくて寂しかった。中等科と高等科では寮も別々になってしまう。だけど、これからは信乃が卒業するまで、同じ学校に通うことができる。また頻繁に信乃を目にすることができるのかと思うと、素直に嬉しい。

 それは恋という感情に似ているのかも知れないが、恋と言うにはあまりに未成熟な……多分に憧れという要素を持っていて、涼自身でも、自分自身の感情になんと名をつけたらいいものか戸惑っている。

 とにかく四方を美形に囲まれ、幸せ気分に浸りながら、ときおり信乃を盗み見ていた涼の目が、ふと違和感を覚えた。


 ――!? 信乃先輩。こっち見てる!?


 いつも一方的に眺めるだけの信乃が、じいっとこちらを見ていることに気がついたのだ。

 式が始まったにもかかわらず、予期せぬ事態に、キョロキョロとあたりを見回し、不審な動きをしてしまう。


「ん、んんっ!」


 涼の怪しい動きに、隣りに座った生徒が小さく咳払いをした。

 涼は肩をすくめて背筋を伸ばす。しかし、また少しするとそうっと首を伸ばして、信乃の様子を確認してした。

 信乃は相変わらずじいっとこちらを見ている。

 涼は試しにこそっと首を動かしてみたが、信乃からの反応はない。どうやら自分に向けられた視線ではないと判断すると、ちょっと落ち着いてきた。

 一体、何を見ているのだろう? 

 式は粛々と進んでいく。

 国歌斉唱、校歌斉唱。入学生の点呼と入学許可。それに引き続き校長式辞に、来賓挨拶、祝電披露。

 この「入学式」というものは、人間の学校で行われるものと、ほぼ同じ内容なのだそうだ。

 将来、人間の中に紛れて暮らしていくためにも、妖の者たちがこういった経験をしておくことは、とても重要なことらしい。要するにこの学園は、人間のしきたりを学ぶ場でもある。

 とはいえ、まだ若い涼たち新入生にとっては、重要なんて言われても実感はわかないし、退屈この上ない。式の進み具合よりも、こちらを見つめたまま微動だにしない信乃の視線のほうが、気になるのである。

 いつもなら胸をときめかせて聞き入るはずの、六角凜による在校生代表の言葉すら耳に入ってこないうちに、終わってしまった。

 壇上で挨拶を終えた凜が、来賓に会釈をし、降壇する。

 信乃の視線はその間もブレることがなかった。壇上へは一瞥もくれず、じいっとこちらを見つめたままなのだ。


 ――なんだろう? 何が信乃先輩の視線の先にあるんだろう?


 その答えがわかったのは、在校生代表の言葉に続く、次の「新入生宣誓」のときだった。

 司会をする先生の声が代表者の名を告げる。


「新入生宣誓。代表、大神秀一」


 ざわり。

 講堂内がざわついた。

 いや、けっして本当にざわついたわけではない。誰一人として声を発しているものなどいない。講堂内は水を打ったような静けさで、立ち上がり壇上に向かう秀一の衣擦れの音まで聞こえてくる。

 けれど、気配を察することに長けている妖しの者たちには、講堂内に立ち上り始めた不穏とも取れるような空気の流れを、みな感じ取っているに違いない。 

 涼だって、驚いている。

 思わず一瞬、信乃の視線について感じていた、モヤッとしたものすら忘れてしまったほどだ。

 この学園の高等科は、一応申し訳程度の入試が行われる。新入生代表で挨拶するということは、その試験においてトップの成績だったということだ。

 今まで「新入生代表」に選ばれてきたのは、悲しいかな高校から入学してくる人間の生徒だった。

 九十九学園に入学してくる人間は、かなり厳選された高い能力を持つものばかりだからだ。なにしろ、この学園に進んだ人間には、彼らの望む最高の教育が約束されているうえに、妖との繋がりを手に入れることができるのだ。目指していた超難関校を蹴ってでもこのマイナーな学園に入学してくる意味があるらしい。

 そんな理由から、この学園に入学してくる人間は、医者や政治家を目指す者や、大企業の御曹司であったりする。

 けれど。今壇上に向かっている「大神秀一」は妖である。

 主に東日本で確固たる勢力を持つ山津見の神の眷属、狼の一族を束ねるのが「大神」だったはずだ。

 そして、高校から入学してくる妖であるということは、今まで学校に通ったことなどないはずだ。

 その生徒が新入生代表になる。

 もともとプライドが高く、好戦的なものの多い妖であるから、初の妖の新入生代表に、皆が興味津々で「大神秀一」とは一体どれほどの人物なのか? と、色めき立つのも致し方のないことかもしれない。


 ――秀一くん、すごく優秀なんだな。でもこれで、この学校の生徒全員に目をつけられちゃったみたいなもんだから、これから先大変だろうなあ……。


 優秀とはかけ離れた涼としてはそんな程度に考えて、またふと信乃に視線を戻した。

 すると、信乃の顔は、もうこちらを見ていなかった。

 あれ? と、不思議に思って信乃の顔の向く方角を確認する。

 講堂のステージの上。

 そこには、演台の前で宣誓文を読み上げる秀一の姿がある。

 涼はまた、信乃へと視線を戻す。

 そしてまた演台の上へ。

 それを何回か繰り返すうちに、壇上では秀一のスピーチが終わっていた。

 ピシッと背筋を伸ばして礼をして、自分の席へ戻ってくる秀一は、涼から見ても惚れ惚れしてしまう。

 その姿を見ながら、ちらりと時折り視線を動かして、信乃の方を確認する。

 信乃の瞳の動きを見て、涼は確信した。

 信乃の視線を捉えているのは、間違いなく「秀一」だった。




 一見日本人とは思えないような顔立ち。はっきりとした大きな目は少し目尻が下がっていて、男らしい彼の顔に甘味をプラスしている。その瞳も髪色も、日に透けると琥珀色になる。

 あんなに綺麗な上に、頭もいいなんて。

 運動神経はまだ未知数だけれど、あの体格であるし、狼の一族なのだ。まったく苦手ということはないはずだ。いや、絶対できるに決まってる。

 そんなのって……


 ……美味しすぎる。


 美形好きの一ノ瀬涼にとっては、これ以上ないような観察対象である。

 なのに、ウキウキとした気持ちの中に、わずかに陰りがある。

 入学式での、信乃の視線だ。

 吸い寄せられるように秀一を見つめていたあの視線。そしてあの表情。

 信乃の笑顔は珍しいとはいえ、見たことがないわけではない。そう頻繁に見ることができないので、見ることができた日は、ラッキーな気持ちになる。

 けれど昨日から信乃は、ときどき涼の知らなかった表情をするのだ。まるで……泣き出す寸前みたいな……。

 などと自分の考えに没頭していた時「一ノ瀬涼!」と、名を呼ばれた。


「はいいっ!?」


 びっくりして、大きな声で返事をして立ち上がる。


「高校生活第一日からボケッとしているとは、ずいぶん余裕だな!」


 クラス担任の言葉に、周囲からクスクスという笑いが起こった。

 入学式後の学活の時間であり、気がつけば、担任が一人ひとり名前を確認しながら点呼している最中だった。

 涼は頭を掻き、ちらりと教室の後ろを振り返る。

 そこには、今日参列した保護者がずらりと並んでいて、岩手から日帰りで入学式へやって来た涼の母親の姿もあった。目を大きく見開いて口をへのじに曲げ、肩をすくめている。不自然なほどに大げさな動作で、きっと本当に怒っているわけではないのだろう。その証拠に、涼が小さく舌を出して頭を下げてみせると、呆れたような笑顔になる。

 そんな失敗もあったが、その後は滞りなく学活の時間が過ぎていき、無事に高校生活第一日が終わった。


「起立」

「礼」


 今日の予定はすべて終了し、保護者も生徒もここで解散となる。遠方からやってきた保護者の中には寮に一泊していくものもいるようだが、それはほんの一握りだ。涼の母も、このまま岩手にとんぼ返りする事になっている。

 涼は母親を校門まで見送ろうと、一緒に教室を出た。しばらく廊下を歩き、階段まで差し掛かった時、下の階からからこちらへ真っすぐに登ってくる、安倍信乃を見つけた。


「先輩!」


 声を掛けると信乃はすぐに近くへやってきて、軽く母親に会釈をした後、涼へ話しかけてきた。


「涼くん……あの……君のクラスの大神秀一は、まだ教室にいるかな……」

「はい! まだいたと思いますよ。……母さん、ちょっと待っててね」


 涼は母をそこに残し、信乃を案内するために一年壱組の教室へ取って返した。大半の生徒と保護者は教室を後にしてしまっていたが、大神秀一とその両親らしい人物の姿は、まだ教室内に残っていて、涼はほっとする。


「秀一! お客さんだよ!」


 涼の声に、秀一と、彼と話をしていたオールバックの厳しい顔をした男性と、淡いピンクのスーツ姿の女性が一斉に振り返った。


「信乃ちゃん!」


 厳しい顔をした男性……おそらく秀一の父親……の顔が、安倍信乃を見つけると一気に破顔した。


「やあ、久しぶりだなあ。生徒会の役員をしているんだって? また、秀一のことをよろしく頼むよ」


 優しげな顔をした女性も、信乃に向かって頭を下げている。

 けれども、信乃の返事はなかった。返事がないばかりか、まるで固まってしまったかのようにピクリとも動かない。


「じゃあ、失礼するよ。ああ、見送りはいらない」


 信乃の様子を不審がるでもなく、秀一の父親らしい人物はポンポンと信乃の肩を叩くと、母親らしい女性を伴って一年壱組の教室を出ていった。

 自分のことをハーフだと秀一は言っていたが、彼の両親はふたりとも日本人ど真ん中といった顔立ちだ。そのことも、気になったのだけれど、涼にはもっと気になってしかたのないことがあった。

 信乃の表情だ。

 昨日、入学式のパンフレットを指でなぞりながら見せていたあの表情。入学式で、秀一を目で追いながら見せていたあの表情。

 泣きたいのを堪えているような、そんな顔で、ただ黙って大神秀一を見上げている。

 先に動いたのは秀一だった。


「先輩……。お久しぶりです」


 きれいに両手を脇にそろえて、秀一が一礼するのを、固まったまま眺めていた信乃の表情が、揺らいだ。

 

(あ……信乃先輩、泣く?)


 そう思った瞬間、秀一が動いた。


「涼くん! ありがとう、また後で寮の方で!」


 それだけ言うと、ほとんど信乃の肩を抱くようにして、教室を出ていってしまう。

 秀一が一礼してから二人が教室を出ていくまでは、あっという間の出来事で、涼はあっけにとられて二人を見送るしかできなかった。


「うーん。残念だったな、涼」


 思いがけないほど耳の近くで聞こえた声に飛び上がる。

 振り返ると真後ろに長野響が立っていた。

 彼の両親は入学式に来なかったらしい。両親の見送りもなく、教室内にとどまっていたようだ。


「あれは、どう見てもワケありカップルだね……」

「何だよその、ジジ臭いフレーズ。うん。まあでも確かにね、俺もそう思う」


 涼が二人の消えていった方角を見つめながらそう言うと、響はちょっと間をおいてから「あれ、意外とダメージ受けてない?」と呟いた。


「へ? ダメージって、なんで?」

「へ? だっておまえ、信乃先輩のこと好きだろう?」

「うん好きだよ! しかもさ、秀一もかっこいいよね! あの二人が並んでるところをこれからも見られると思ったら、萌えるよね!」


 しばしの沈黙が流れた後、響のため息がガランとした教室に響いた。


「あー、涼はそう言う感じ? それでいいわけなんだ……」

「あああああっ!!」


 大切なことを思い出して、涼が叫び声を上げると、響が目を丸くしてのけぞる。


「な、急に大声出すんじゃねえよ!」

「俺、母さんの見送りまだだった! じゃあね、響! また後でね!」


 これから楽しい高校生活になりそうだな。

 お母さんは怒ってるかもしれないけど。

 

 涼は、全力で走り出した。

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