暁闇

 空には、月もなければ、太陽もない。

 新月の後、ようよう太り始めた月は、夜の浅い内に没してしまう。まだ太陽の光線の届かぬ暁は、暗かった。

 露はそっと寝床から抜け出す。

 ひんやりとした室内で木綿の着物を身につけ、長い髪を後ろで一つにまとめ、姿見の中で背筋を伸ばす自分に、少し笑顔を作ってみせる。

 かつて大神の屋敷で働く女性たちには和服着用の義務があったのだが、今現在は、来客がない時の服装は自由となっていた。それでも露は毎日和服を着ている。もう習慣のようなもので、それを面倒と思ったことはない。

 まだ暗い中、大神家はすでに動き始めていた。

 部屋を出て、朝の掃除をしている者たちにあいさつをしながら、露はキッチンへと向う。


「おはよう」


 キッチンの扉を開けると、一人の女中が大鍋で出汁をとっているところだった。

 大神の家でには秀就と秀一以外にも常時二十名ほどの使用人や警備員が詰めている。食事は彼らの分も用意しなければならないし、朝のうちにある程度は昼と夜の仕込みも終わらせておくことになっているので、毎朝の食事当番は二人一組で受け持つことになっていた。

 妖の一族ではあるが、大神家では秀就が九十九学園の理事に就任したことを機に、十数年前から人間の活動時間と合わせた生活をしている。

 いや、下手な人間よりも、健全な時間帯で過ごしているかも知れない。


「露さん、おはようございます」


 笑顔で振り返った女中は、薄手のセーターとタイトなスカートに白いエプロンという姿だ。


「梨花ちゃん。今日はよろしくね。遅くなってごめんなさい」


 そう言いながら、壁にかけてあった自分用の割烹着に袖を通した。


「何言ってるんですか、私たちはローテーションですけど、露さん毎日なんですから、少しくらいゆっくりしてください」


 梨花はよいしょ! と掛け声をかけると大きな鍋を持ち上げ、出来上がった出汁を濾す。

 大神家で働く女中の中では、梨花は一番若い娘であった。化粧も派手だし、髪の毛もずいぶんと明るく染めているのだが、心根が優しく細やかな心遣いのできる娘だ。梨花と組んでの仕事は露にとって苦になるものではなく、むしろ楽しい作業である。


「それに最近は、奥の仕事だけじゃなくて、外との連絡を取ったり、色々忙しいじゃないですか……。ちゃんと、休めてますか? 実際露さんがいないと、この家回らなくなっちゃいますよ!」


 梨花の過大評価に露は笑って「大丈夫よ」と答えたものの、実は連日三時間ほどしか寝ていない。人間ほど規則正しい生活が必要というわけではないが、それでもある程度の休息を体が欲っしているような気がしている。いつもは目覚ましなどなくとも、誰よりも早く目覚めるのに、今日出遅れてしまったのは、疲れが溜まっているせいかもしれない。


「安倍さんのところの信乃ちゃんは……まだ?」


 少し落とした声で、梨花が聞いてきた。

 冷蔵庫から今日使う食材を取り出していた露の手が止まる。



 あの九十九学園の内覧会の日から二週間以上が経とうとしていた。

 あの日。

 学園にかけこんできた犬神サラの案内で、学園の理事たちが廃墟にたどり着いた時、安倍信乃は三匹の狼とともに、建物の外に出てきたところだった。


 ――無事だった!


 駆けつけた者の間に安堵が広がった。

 三匹の狼は灰と金と白……それぞれに違う毛色で、信乃はその内、大きくて真っ白な狼の背にしがみついていた。

 以前秀一が獣化した時、真っ白な美しい狼だったから、この白い毛並みの狼が秀一なのだろう。

 ……なんて立派で美しい雄の狼になったのだろうと、あの時、露の胸の中が驚きと喜びで一杯になったのを覚えている。

 秀一の成長に目を奪われて気づくのが遅くなったが、信乃にも、大きな異変が起きていた。

 

「信乃!」

「無事だったか……」


 駆けつけた秀就たち父兄の前で信乃は秀一の背からすべり降りた。

 露はその時はじめて、信乃の額にポッカリと開いた亀裂に気がついて、息を呑んだ。

 第三の目ともいわれるそれは、目というよりも、額に縦にできた裂け目といったほうがイメージに合っているかもしれない。その亀裂の真中に、自ら発光するルビーのような瞳がうかんでいた。亀裂は、その場にいた全員の見つめる前で、次第に細くなっていき、最後にピタリと閉じた。そして信乃の額はつるりとなだらかになった。しばらくはあの真っ赤な光が皮膚の中から透けて見えていたが、それも次第に暗くなり、小さくなり、そして消えていく。


「信乃!」


 ふらりとよろけた信乃に駆け寄ろうとした安倍泰造は、だが、すぐに動きを止めた。

 瞬く間に獣化を解いた秀一が、裸足のままアスファルトを踏みしめて、信乃を抱いて立っていたからだ。

 そぼ降る雨に濡れながら、意識をなくした信乃を抱き、一糸まとわぬ姿ですっくと立つその姿にはどこか神々しくて、ほんの暫くの間、立ち会っていた誰もが身動きすることすらできずにいたのだった。


 ◇


「そうね……」


 思い出の中から意識を戻して、露は手にしていた野菜類を流しの上に置いた。


「先祖返りの能力者は数が少なすぎてわからないところが多いから、なんとも言えないけれど、いっぺんに大きな力を使いすぎてしまったから、眠ることでエネルギーを補充してるんじゃないかっていう話なの。でも、もう二週間以上も眠り続けているから……」

「心配ですね……」


 とその時、露が割烹着のポケットに落としていた子機が、軽快な電子音を鳴らし始めた。


「はい、大神です。あ、安倍様……はい……ええ、そうですか……はい」


 大神家にかかってきた電話は、彼女がまず受けることになっている。露がこの家のスケジュールをすべて把握しているからだ。この家の主である秀就が直接電話を取ることはまずない。


「本当ですか! よかった……」


 泰造からの電話は、信乃が無事に眠りから覚めたことを大神家に伝えてくれるものだった。

 なんとなく察したのだろう、大量の卵を割りほぐしていた梨花の手が止まり、振り返って露を見ている。

 ぽちっとボタンを押して通話を切ると、梨花が「安倍様からですか?」と、すかさず聞いてきた。


「信乃ちゃん、目が覚めたそうよ。梨花さん、一人でも大丈夫かしら? 直接秀就様に、お伝えしてきたくて……」

「ええ、大丈夫ですよ! もう慣れましたし、多少いつもより味が落ちるのは皆さんに我慢してもらうってことで!」


 肩をすくめながらちろっと舌を出した梨花に、露はありがとうの気持ちを込めて軽く手を合わせてみせた。


 梨花の言葉に甘えて、キッチンを後にする。

 長い廊下の窓から見える和風庭園はまだ暗かったけれど、空の色が幾分青みがかって見えていた。

 露が部屋に訪れた時、秀就はデスクに向かって何やら書物をしているところだった。


「どうした? なにかあったのか?」


 こんな早朝に露が秀就の部屋を訪れることは珍しいことである。不測の事態が起きたのではと、秀就の腰が僅かに浮いた。


「いえ……、あの緊急事態ではないのですけど、少しでも早くお伝えしたくて……お部屋にいてくださって、助かりました」


 露が慌てて伝えると秀就は「そうか」と、ホッとした様子でもう一度座っていた回転椅子に深く腰を下ろした。


「今しがた、安倍様からお電話がありました。信乃ちゃんの意識が戻ったそうです」

「そうか……それは良かった」


 秀就の表情が和らぐ。

 一族の長である秀就は、滅多なことでその表情を崩すことはない。特に一族の者の前では、微笑を浮かべることすら稀である。

 だから今の表情は、おそらく秀就本人ですら気がついていないような柔らかな顔で、本当にたまにだけれども、露にだけ見せてくれるものだった。

 秀就につられて、自分自身の表情も崩れそうになるのを、露はとっさに引き締める。


「お見舞いは如何なさいますか?」


 努めて事務的な声を出す。

 秀就は窓の外に目をやり、少しの間考えてていた。


「そうだな……。露が行ってやってくれないか? 信乃ちゃんも、私が行くよりそのほうが嬉しいだろうし」

「秀一さんのことも、私から話してしまってよろしいのでしょうか?」


 秀就はわずかに眉尻を下げた。

 これは困った表情。

 もしかしたら、露以外の者には、この表情の微妙な変化を読み解くことは難しいかもしれない。


「お願いしてもいいかな……。泰造には一応伝えてあるんだ」


「わかりました」


 そう答えながら、露はそっとため息をつく。



 廃墟から帰ってきた秀一は、暫くの間片時も離れずに信乃に付き添っていた。

これでは秀一も倒れてしまうのではないかと、皆が心配し始めた頃、秀一は大神の家に戻ってきて、言ったのだ。


『父さん。露。俺は来年、九十九学園には入学しません。もっと力をつけたいんです。そして、信乃を守れるくらい強くなって、それから入学したいんです。それまでは、信乃にも会わないって、決めました。どうか、力を貸してください。お願いします』


 そうして、深々と頭を下げたのだ。

 秀就は九十九学園の理事である。

 他ならぬ理事の息子が学園に入学しないというのは、秀就にとっても苦しいところだ。なにしろ「なるべく学園に入学するように」と、皆に宣伝している立場なのだ。

 けれども、あれほど反発していた父に頭まで下げて「強くなるために稽古をつけて欲しい」と頼み込む秀一に、秀就はしばし考えあぐねた後で、言った。


「二年だ。二年猶予をやる。高校からは九十九学園に入学すること」


 言い渡された言葉に、秀一はもう一度深々と頭を下げた。

 あの廃墟の中で何があったのかはわからない。けれども、よほど考えることがあったのだろう。

 秀一が成長しようとしている。それはわかってやりたい。しかし。


「信乃ちゃんに、なんて言ったらいいのかしら……」


 思わず呟いた。

 返事を期待していたわけではなかったのだが、秀就は露を振り返ると「これは、先代に聞いた話なんだが……」と、語りだした。


「女というのは、生まれたときから女なのだが、男というのは、男になるのだそうだ」


 露は、今ひとつ秀就の言葉を理解できなくて、ぱちぱちと瞬きをした。


「秀一は今、子どもから大人の男になろうと、蛹の中で必死にもがいているところなんだろう。はたから見ると、それに何の意味があるのかわからないだろうが……。彼の中では意味のあることで、大きな変化が起きてるわけだ」

「はあ……」

「鷹揚に構えていればいいのさ。私にも、覚えがある。だから待っていてくれと、伝えてくれないか。信乃ちゃんのフォローを任せてしまってすまない」

「わかりました。信乃ちゃんのことは、ええ、私も心配ですから……」


 露は主に向かって一礼した。

「早いほうがいいでしょう。私は今日にも安倍様のお宅へ行ってまいります。あと、出かける前に、秀一様にも、信乃ちゃんが意識を取り戻したことをお知らせしてまいりますね」

「頼んだ」


 露は、秀就の部屋を辞すると、身につけていた割烹着を脱ぐ。

 木目の美しい廊下には、東雲色の光がすうっと差し込んでいた。

 群青の底から、夜が明けようとしていた。


 露は掃除を担当していた者を一人捕まえて、キッチンで梨花の手伝いをするように指示を出すと、自分自身は大神の結界内にある道場へと向かった。

 大神の家は、大山津見神社の裏にあり、周辺は強力な結界が常に張り巡らされている。その範囲はかなり広く、神社裏の大鳥居から、家屋敷はもちろん、裏山の一部にまで及ぶ。

 道場周辺も、結界内であり、大神家北西部に広がる木々の生い茂る林の中に位置していた。更にその背後には男岳と女岳という二つの頂を持つ霊山・多々良山があり、その山自体が、狼の一族の修練場でもあるのだった。

 こじんまりとした道場ではあるが、大神家のものなら自由に使用することができ、毎日毎日、誰かしらかが利用している。

 また、道場の周辺の林の中には小さな平屋の家が数棟点在しており、大神の一族の住まう集落になっている。

 だが今では、山を降り、人間の中に紛れ暮らす者の数のほうが多くなっていて、空き家となっている家も多いのが現状であった。


 あたりはすでに明るかったが、木立のなかに入ると霧が立ち込めていて、露の着ている木綿の着物をしっとりと濡らした。

 空気の冷たさに、指をこすり合わせてほうっと息を吹きかける。

 霧に覆われた空は、ぼうっと白く光ってみえる。

 その向こうには青空が広がっているのだろうが、今は見ることができない。今日は、良い天気になのだろう。この時期、天気の良い日ほど、朝は霧が発生しやすくなる。

 太陽は昇っているはずなのに、その場にはまだ夜の匂いが残っているようだった。

 木立の合間から小さな道場が見え始める。


「やあっ!」

「きえーーっ!」


 勇ましい掛け声が、道場の入り口の露にまで聞こえてきた。

 ガラガラと扉を開け、三和土たたきに草履を脱ぐ。

 玄関ホールから道場へ入るための入り口は開いたままになっていて、中の様子が直ぐに露の目に飛び込んできた。

 奥の二面に敷かれた畳の上では、空手の組手や柔道の乱取り、手前のフローリング部分では、竹刀や木刀を持った者たちが素振りなどを行っている。

 開いた扉の前で露は背筋を伸ばし、一礼をした。

 

「露さぁん!」


 とたんに、少し間延びした可愛らしい声が聞こえ、露は不覚にも「ひゃ!」と、変な声を立てて飛び上がってしまった。


「あ、びっくりさせちゃいましたか? すいません。おはようございまーす」


 露のすぐ左隣で、壁に背を預けて今にも飲もうとしていたかのように水筒を両手で持ち上げた少年が、ニコニコの笑顔を浮かべてこちらを見上げている。


「新太くん……」

「どうしたんですかぁ? こんな朝早くに露さんが道場に来るなんて、珍しいですねえ!」


 犬神新太。

 この少し甘えたようなしゃべり方をする、やたらに明るい笑顔の少年は、九十九学園内覧会での混乱の中、学園建設反対派から九十九学園側へ寝返ってきた少年だ。

 新太と共に、彼の父親である犬神史郎と、母親である犬神サラも、学園側の一員となった。

 彼らが狼の一族を離れた経緯は複雑で、犬神家よりも大神家に多くの関わりがあるために、今この三人は大神家預かりという処分になっている。

 特に犬神サラの立ち位置は微妙なものがある。

 今は犬神サラと名乗っているが、以前は大神サラという名前だった。

 彼女はフランスのルー・ガルーの一族から、日仏の友好のためにやってきた秀就の花嫁だったのだ。彼女と秀就はわずかな期間とはいえ夫婦であり、二人の間には秀一という子どもが生まれている。

 つまり、新太少年は秀一の異父兄弟ということになる。


 あの内覧会の行われた日。

 子どもたちは昼を過ぎても学内食堂へ姿を現さなかった。露も秀就も……天羽や安倍泰造もそれぞれに忙しかったこともあり、さして気にはしていなかった。どこかで、時間を確認することも忘れて遊んでいるのだろう。そのくらいの認識だったのだ。

 ところが、あれほど明るかった空が曇り始め、雷鳴までとどろき始める。それでも戻らない秀一たち三人に、ようやくなにかただならぬ事態が起きているのではないか? と思い始めた時、天羽翔がたった一人で学園に戻ってきた。

 そこでもたらされた情報に、学園の役員たちは、軽くパニックに陥った。

 学園建設反対派の出現。異界渡りと呼ばれる能力を持つ信乃の拉致。しかもたった一人で信乃を追いかけていったという秀一。

 その場にいた誰もが、心の奥底に、最悪な事態を予感したに違いない。すぐにも動きたいのに、情報が少なすぎて、動くに動けない。そんな中、九十九学園に現れたのが犬神サラだった。


「大神秀一の居場所、知ってます!」


 驚く秀就たちに開口一番そう言うと、自分について来いと言う。


「君のことは覚えている。サラ・ド・サヴォワだったかな?」


 落ち着いた口調で言ったのは初代校長への就任が決まっていた九鬼勝治だ。


「クキね……私もアナタ覚えてる。でも、秀一ピンチなの。昔を懐かしんでいるヒマは、ないわ」


 外国人特有の訛りはあるものの、サラの日本語は昔に比べれば格段にうまくなっていた。

 学園の役員たちは混乱の中、サラの言葉を信じるほかなかった。

 そして、駆けつけた廃墟の前で、三匹の狼と信乃を見つけたのだった。


 ◇


「新太くん、秀一さんは……」

「ああ、兄さんを探しに来たんですか!?」


 露は座ったままでいいのよとジェスチャーで伝えたのだが、新太は元気にぴょこんと立ち上がる。今年十歳になったという新太は、その年としては背が高いのだろうが、まだまだ子どもらしい体つきだ。

 

「残念です! さっきまでいたんですけど、まだ暗いうちに父さんと一緒に裏の山に行っちゃいました。しばらく帰って来ないと思います!」

「しばらく?」

「はい! テントも持っていったから、数日山ごもりですね」

「そう……なの」


 秀一に信乃のことを早く伝えたい。もしかしたら秀一も信乃の見舞いに行くといい出すのではないか? そうでなくても、ようやく目を覚ました信乃に伝言の一つくらい携えて行きたい、そう思っていた露は、平静を装いながらも、ついつい肩を落としてしまうのだった。


「ツユ!」


 どこか普通とは少し違うイントネーションで名を呼ばれ、ツユが振り返ると、金髪碧眼の女性が袴姿で立っていた。


「サラ……さま」


 露は思わず一歩後ろに下がる。


「ツユ……ワタシ、もう、あなたの主じゃない。様、いりません」


 決してうまくはないが、聞き取りやすい日本語だった。

 犬神サラ。

 秀一と新太の母だ。

 露は日本に来てすぐの、右も左も分からなかったサラの世話をしていた事がある。記憶の中のたどたどしい日本語から比べれば、ずいぶんと上達した。あの頃は、サラの気持ちを汲み取るのに、かなりの努力が必要だった。

 史郎とサラと新太。この三人を受け入れることに、大神の一族全員が諸手を挙げて賛成だったわけではない。

 まだ乳飲み子だった秀一を置いて家を出たサラと、彼女と共に姿を消した犬神史郎に対して、大神一族の者は一言では言い表せないような感情を持っている。

 そのうえ彼らは、九十九学園と敵対する組織にこれまで席を置いていたのだ。

 気持ちよく迎え入れろという方が難しい。

 しかし秀就は『今回の事件に於いて、史郎たち一家が秀一を危機から救ってくれた』ことを皆に説明し、一族を納得させた。

 一族だけではない。学園設立派のそれぞれの妖たちにも、理解をしてもらうために、彼は短期間に日本全国を奔走した。

 その結果大神家預かりとなった彼らは、それ以来大神の結界の中の一軒家を与えられ、道場で毎日稽古をしている。彼らは三人とも武道に秀でており、彼らに稽古をつけて貰いたがるものもポロポロと出て来ていた。

 大神家本家の屋敷で忙しく働くツユは、道場に赴くことはあまりないので、サラと二人で顔を合わせるのはあの事件以来だった。

 

「ツユ。会いたかった……。元気だった?」

「……はい。もっと早くに会いに来たかったのですが……忙しくて……」


 そんな言い訳をする自分を、露は苦々しく感じていた。

 忙しいのは間違いない。けれども、サラに一度も会いに来ることができないほどではないのだ。

 秀一の母であり、秀就の妻であったサラへのわだかまり。

 もやもやと心の奥でざわめくこの気持ちを持て余し、どうしたら良いのかわからなかったのだ。

 秀就も秀一も、サラが共に暮らすようになったというのに、何も変わったことなどないように見えた。露は秀一のあまりの変化の無さに驚いた。

 過去にこだわっているのは、自分ばかり……。そんな思いに囚われる。


「ねえサラ! 露さんに聞かないの?」


 新太が露の背後から半身を乗り出して、サラの顔を覗き込んでいた。この少年は、自分の母親のことを「サラ」と名前で呼ぶらしい。

 目をキラキラと輝かせた新太の表情を見たサラは、露の背後から顔を突き出す新太を睨みつけ、ちっと小さく舌打ちをした。


「何でしょうか?……サラ」


 露が敬称をつけずに名を呼ぶと、サラはぱっと顔を輝かせた。

 裏のない笑顔が眩しくて、露はそっとサラから視線を外す。

 使用人として感情は抑えているが、サラに言いたいことや問いただしたいことは、心の底にたくさんあったはずなのだ。

 なぜ史郎と駆け落ちをしたのか。愛し合ってしまったからだとしても、なぜ乳飲み子の秀一を置いていったのか。あまりにも無責任ではないのか?

 そして何故、学園建設反対派と行動をともにしていのか。

 もちろん、大神の追手から身を隠そうとしたら、身を寄せることのできる場所は限られてくる。選択の余地がなかったのかもしれない。でも……それでも『なぜ』と問い詰めたくなる自分がいる。

 慣れない日本で、すべての狼の一族の追手から身を隠し、子どもを産み育てたサラ。

 何の苦労もしなかったわけはないのだろう。

 それどころか、辛いことがたくさんあったに違いない。

 頭ではわかっているのに。

 なのに、露を見つめるサラの笑顔には、屈託がない。


『ツユ、ありがとう! 大好き』


そう言ってニコニコと笑っていた、まだ幼さの残るかつてのサラが、今のサラに重なった。


『日本大好き。来てみたか、たの!』


 そんな好奇心だけで、異国の地に飛び込んでこれる若さを、あの頃のサラは持っていた。

 たしかに、あの頃よりずいぶんと大人な顔つきになったが、露に向ける笑顔は、かつてのサラと変わらない。


「ねえねえ、どうして露さんは、秀一のお父さんと結婚してないの?」


 過去の思いに囚われていたからか、露はしばらく新太の言った言葉の意味を理解することができなかった。


「新太! ナァニイテルノ!」


 露よりも先にサラが反応した。

 よほどあわてたのか、何言ってるの、のイントネーションがかなりおかしなことになっている。

 新太に掴みかかろうとして、サラが身を乗り出すと、新太が露の周りをぐるりと廻るようにサラの手から逃れる。


「え?……え?」


 露は混乱の中にいた。


「だって! サラいっつも言ってたじゃないか! サラがいなくなったから、秀就と露は結婚できるって!」


 新太はサラの平手を躱すように走り回った。

 露の頭の中が、真っ白になる。

 サラはといえば、白い肌を真っ赤にして、目をキョロキョロと泳がせていた。


「ち……ちがうよ、ツユ……えっと……あ~。私ほら、こんな山の中で暮らすのは嫌だったっていうか……えっと……」


 しどろもどろに言い訳をするサラの声が聞こえる。

 

「サラ……まさか……」


 すうっと血の気が引いていいく。

 異国の地からやって来て秀就の妻となった女の子は、天真爛漫という言葉がピッタリと当てはまるような綺麗な女の子だった。露を気に入り頼りにしてくれたのが、嬉しくもあったが辛くもあった。

 ……だって、露は秀就のことを好きだったから。

 その辛さを、サラが気づいていたら?

 かあっと、頬が熱くなる。

 秀就との間に秀一という子をもうけながら、まだ乳離もしてない赤子を置いて、姿を消した。


 何故?

 何度露は心の中でサラに問いかけ続けたことだろう。

 問いかけただけじゃない。何度罵ったことだろう。

 そして、私がサラの代わりに……。

 

 押し殺していた自分の浅ましさを、サラが知っていたのなら……。

 頭の中で答えの出ない後悔がぐるぐると回り始めたときだった。


「言っておくけど!」


 サラのきっぱりとした声が聞こえた。


「私、秀就を愛せなかった。だって秀就、一族のため、こればっかり! これはホント。秀一は……もっと私、自分で面倒見たかった。なのに、秀一は一族の子ども。私が面倒を見れる時間、ほんの少しだけ。私なんて、いなくてもいいと思った。だから、逃げたかった。史郎が私を連れ出してくれた。だから私が家を出たのは自分のため!」


 かなりたどたどしい日本語ではあったが、露にサラの云いたいことは伝わってきた。


「ワガママだって、言われても仕方ない。秀一に、母親だと思われないのも、仕方ない。だって、全部本当。だから、秀一のお母さん、は、ツユだよ。あなたが、秀一を育ててくれた。でしょう?」


 確かに露は母親の代わりのように、秀一を育てた。彼をとても愛している。

 けれど……そもそも秀一からサラを奪ってしまったのは、自分自身の劣情だったのではないか?


「あとさあ、秀一から伝言を預かってるんだけど」


 押し黙ってしまった露に新太が再び声をかけた。


「俺はもうはもう、大人です。だって」


 新太の声に露は首をかしげる。

 新太も、露の前でこてんと首を傾げている。


「ああ、私も聞いた。自分はもう力もコントロールできるし、大人だって。だからもう、自分のことは気にしないで欲しいって」

「そんな……秀一さんはまだ、十三なんです……」


 露の声が、朝の道場の活気の中に力なく消えていく。

 秀一が大人になっていく。

 本当なら喜ばしいことなのに、途方に暮れ涙がにじみそうになるのを、頬の内側を噛み締めて、露は堪えていた。

 溢れ出そうになる感情になんとか蓋をして、露は道場を後にした。

 安倍信乃は東京都区内にある、とあるクリニックに入院している。

 日帰りで見舞いに行こうとすれば、一日がかりだ。グズグズしているヒマはない。

 大神家は、かろうじて関東地方と呼ばれる場所にあるのだが、都会とはかけ離れた場所で、最寄りの駅まで車で二十分ほどもかかる。

 露は駅まで家のものに送ってもらい、そこでいくつか買い物を済ませてから電車を乗り継ぎ、人工物であふれかえる東京都区内へと向かった。


 信乃の入院している岩倉クリニックは、病床が百以下の個人病院である。

 このクリニックの院長は妖の存在を知る数少ない人間であり、九十九学園建設の協力者でもある。

 本来妖は、小さな傷であれば、人間よりも高い治癒力によって、あっという間に再生することができる。厄介なのは、妖気をまとった傷であり、なかなか治療は難しい。そういった行き場のない妖を引き受けてくれる場所というのは、とてもありがたい存在だった。


 あの日以来……信乃は今日まで、全く目を覚まさなかった。

 外傷はすぐに治っていた。首にあった擦り傷も、胸にあった切り傷も、あっという間に治ったそうだ。

 それでも、信乃はこんこんと眠り続けていたのだ。周囲の者も、心配し始めていたところだ。

 季節は移ろい、吹く風も冷たさを増していく。

 クリニックの最寄り駅に降り立った露の長い髪を、吹く抜ける風が逆立てていった。

 都会に沈殿する淀んだ暖かさを、少しでも清浄してくれるような気がして、露はその冷たさを心地よいと感じた。

 流れのままに改札をくぐるのが嫌で、ゆっくりと足を動かす。

 電車から降りた人々は、大きな塊となってあっという間に駅という場所を後にしていく。

 群れだ。

 人というのは、群れで行動する生き物なのだな。

 と、感じた。

 駅前のロータリーに立ち、周囲を見回す。ビルの合間には。もうすでに「岩倉クリニック」という白地に青の文字の看板が顔を出していて、露は迷うことなく信乃の病室の前にたどり着いた。

 自分が信乃に伝えなければならないことを考えると、気が重くなり、クリーム色の引き戸の前で大きく深呼吸をしてから扉を開けた。


「露さん」


 衰弱しているのではないかと心配していた信乃は、身を起こし笑顔で露を迎えてくれた。


「もう、起きていて大丈夫なの?」


 飲まず食わずだったからだろうか、ほんの少しだけ頬がコケたような気がして、露は思わず信乃の身体を支えるように手を伸ばす。

 信乃は手で露の動きを制すると「大丈夫です」と言って笑顔を見せた。

 ここに来るまで、不安があったのだが、信乃の笑顔を見た途端にほうっと肩の力が抜けた。


「よかったわ。本当に良かった……ああ、たくさんお見舞いの品を預かってきているの!」


 露は持ってきた折りたたみ式のボストンバックの中身を信乃のベットの脇の棚の上に並べていった。


「えっと、これは秀就様から」


 やはり家長からのお見舞いの品は最初に渡さなければと、秀就に言付かっていた小さな包を渡す。秀就からと言いながら、これを見立てたのは露だ。今流行りのハーバリウムとかいう観賞用の瓶詰めにされた植物標本のようなものだ。水を変える必要もないし、病院に飾るのにいいだろうと考えた。


「これはお手伝いの梨花さんから、信乃さんが好きだった手作りのお菓子ですって」


 信乃は何度も大神の家に遊びに来ているから、使用人や警備の人間とも顔見知りになっている。特にお手伝いの梨花は年が近いこともあって、仲良くしていたようだった。

 お互い一人っ子であり、姉と妹(半分弟)のようなつもりだったのかもしれない。


「これは、警備員の方たちからで……それからこれは、私から」


 たくさんあったお見舞いの品がバックの中からなくなっていく。

 このバックの中に、おそらく信乃が一番欲しいであろうものは、入っていないのだ。


 ――誰からのお見舞いの品よりも、彼からの一言が、彼女には一番の励ましになるのだろうに。


 ついに空になったバックをしまい、露はベットの脇に腰掛けた。

 信乃がベットの隣りにある小さな冷蔵庫から出してくれた清涼飲料水を、一口飲み下す。

 さっきまでガサゴソと包みを開ける音や、お互いの声が絶え間なく聞こえていた病室に不意に訪れた静寂。

 言わなければならない。

 

「信乃さん……」


 露は信乃を見ることが出来なくて、うつむき、膝の上で握りしめたハンカチを見つめていた。


「秀一様なんですが、今修行で山にこもっていらっしゃって……私も会っていないんです……本当なら、彼からのお見舞いもお持ちしたかったんですけれど……それから……」


 本当なら、信乃が待っているのは、お見舞いの品などではなく、彼自身の姿だろう。

 そう思うと言葉が出てこなくなる。

 沈黙を埋めるように、風の唸りが聞こえた。

 信乃は窓の方向へ顔を向け、風を受けてざわざわと揺れる並木を見ているようだった。


「露さん」

「……はい」

「父からも、それから翔からも聞いてます。彼のこと」


 振り返った信乃は微笑を浮かべていた。頬がこけ、鋭い印象だった顔がふわりと柔らかくなる。


「翔は、ちょうど僕が目を覚ました時にこの病室にいてくれました。彼の持つ予感が働いたのでしょう。僕が目を覚ます少し前に、ふらりと病院に現れたそうです。それで、翔も秀一も九十九学園には入学できないけれど、私にはきっと入学するようにと……そう言ってました」

「翔さんも?」


 初耳の情報に、露の声が大きくなる。


「はい。天羽はもともと人里に降り、多数の中で暮らすことが苦手な種族です。内覧会に来てみて、やはり自分には学校というのは合わないみたいだと言ってました」

「そう、でも信乃ちゃんには入学しろって?」

「はい。おそらく秀一が側にいられるようになるまでは、あそこが一番安全だろうからと……」

「まあ……」

「それから、秀一のこともちゃんと聞きました」

「翔さん……なんて?」


 信乃は何かを思い出したのだろう。笑いを堪えるように、そっと

手の甲を口元に当てた。


「そのままです。秀一が、しばらく僕には会わないと言っているって。それで、そう言ってから翔が言ったんです。あいつがお前に会わないのは、怖いからとか、面倒くさいからとかじゃないぞ……って」


 そしてやはり、堪えきれないようにくすりと笑う。

 信乃の笑顔が眩しくて、露は目を細めた。


「信乃さん」


 背中を伸ばし、露は居住まいを正した。


「二年。秀就は秀一に猶予を二年与えました。どうか、二年彼に時間をください。彼を待っていてやって下さい」


 そう言って、頭を下げる。


「はい。承知いたしました」


 そう言った信乃は、窓から差し込む薄っすらと仄暗い光の中にいた。


『僕、いやだからね! 秀一と一緒にいるんだからね! 会えなくなるなんて、絶対イヤだからね!』


 露の脳裏に、初めて大神の家に泊まった時の、幼い信乃の泣き顔が思い浮かぶ。

 あの女の子が、今は笑顔で彼の帰りを待つと言う。

 なんて――なんてしなやかに、しっかりとした大人へと育っていくのだろう。

 秀一も、信乃も、そして翔も、三人が子ども時代の最後の縁に立って、今そこから飛び出して行こうとしているのだった。


 

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