試練

 ようやく地下で信乃へとたどり着くことができた。

 それなのに、追ってきた御先真珠が変化へんげした無数の烏に突き回され、秀一は身を縮こまらせて、耐えることしかできない。

 折れていない方の腕を振り、薙ぎ払ってみるものの、烏たちはまったく堪えた様子はない。手応えはあるのに、すぐにまた秀一を突き回し始める。


――こいつら、不死身なのか!?


 秀一が暗澹たる思いにとりつかれた時、その声は聞こえたのだ。


『秀一くん。カラスの実態は一つだ。よくある分身の変化へんげだ。本体を倒すことができれば、全てが消える』


 狼族にだけ聞こえる仲間の”声”だった。

 この建物にたどり着いてから、何度もこの”声”には助けられている。

 秀一はもうすっかり、この姿無き声を信用していた。

 この敵だらけと思えた建物の中に、仲間がいる。

 その思いは、萎えそうになる秀一に新しく力を送ってくれた。


 ――本体を倒せばいい。それはわかった。けれど、どうしたら……。


 絶え間なく突き回され、思考力も無くなっていく。

 

 ガツン!


秀一は頭の天辺に、かなりの衝撃を覚えた。カラスの嘴とは全く違う。この一発で気を失うのではないかと思うような大きな衝撃だった。

 

 一体何だよ!


 と腕の隙間からあたりを見回すと、すぐそばに拳銃が一丁落ちている。

ばっとそれを右手でつかみ、腹の中に抱え込んだ。


 武器は手に入れた!

 でも、どうしたらいい?

 一体どうしたら?


 その時、烏に変化した御先の声が聞こえた。


「さあ、手も足も出ない……かな? もう少し頑張ってもらわないと、張り合いがないな……」


 はっとする。

 周囲は羽音で覆われていて、全ての気配がその中に溶け込んでしまっているようだけれど、神経を研ぎ澄ませれば、いろいろな気配を感じ取ることができる。


 音? 匂い? 気配。気。

秀一はゆっくり身を起こした。

意識を集中させていくほどに、身体に感じる痛みと、湧き上がる恐怖は、遠くなっていく。

 己と、敵。

 喰うもの喰われるるもの。

 喰われるるもの喰うもの。

 それ以外の全てを、自分の意識からシャットアウトする。

 本物の銃を握るのははじめてのことだったけれど、そっくりなおもちゃなら幼い頃持っていたし、ドラマやアニメの中でも見たことはある。どう扱えばいいのか、想像はついた。


 撃てる。


 そう自分に言い聞かせる。

 折れた腕が利き手でなかったのは幸いだ。

 なるべく高い位置でしっかりとグリップする。本当なら両手で握ったほうがいいのだろうが、折れてしまった左手を持ち上げることは出来なかった。

 トリガーに人差し指をかけると、弾丸が発射された際の反動に備えようと、身体が自然に前傾姿勢になった。

 これで玉が出なかったら終わりだ。銃弾が装填されていることを祈るほかはない。

 秀一は軽く目を閉じて気配を探った。

 腹の底から大きくゆっくりと呼吸をしながら、己の感覚だけをたよりに、標的を探る。

 上行を続けていた銃身が動きを止めた。

 ぴんと腕を伸ばし、研ぎ澄ました意識が無数の烏の中から、たった一羽を捉えていた。


「当たれ!」


 祈りが言葉になって、迸り出た。


 ガウン!


 ピンと伸ばした腕は、銃弾が発射された際に起きる反動を吸収し切ることができず、肩を支点に大きく跳ね上がる。身体も後ろへと弾き飛ばされそうになったが、目をぎゅっとつぶり、歯を食いしばって堪えた。

 ふと気づくと、あたりを埋め尽くしていた羽の音がしない。

 ゴクリ。と聞こえたのは、自分自身が生唾を飲み込む音だ。つばを飲み込んだのに、喉は渇いてからからだった。

 ゆっくりと目を開ける。

 すると、自分の直ぐ側で腹から血を流し、怒りに燃える目でこちらを見つめる御先真珠の姿があった。

 御先の薄い唇から、くっと苦悶の声が漏れる。

 どうやら、秀一の放った銃弾は、御先真珠の腹を掠めたらしい。ただ、致命傷ではないのかもしれない、出血もそれほど多いようには見えない。

 妖しである御先のことだ、このくらいの傷はすぐに治癒してしまうかもしれない。


「よくやったな、大神秀一」


 突然聞こえてきた声へと秀一は首を巡らせた。

 その声は御先でも信乃でも弓弦の声ではない。もちろん秀一の声でもない。

 でも、秀一はこの声を知っている。

 この声に、何度も助けられている。

 声は、信乃と弓弦の後ろにある階段の上の方から響いてきた。


 トン。トン……。


 一歩ずつ、ゆっくりとした足取りが、地下へと降りてくる。

 秀一のいる場所からは声の主の姿を見ることがなかなか出来ない。

 秀一の心臓がトクトクとせわしなく動き始めていた。


 ――誰なんだ?


「犬神。犬神史郎……」


 秀一の直ぐ側で、御先真珠の、地を這うような暗く低い声が聞こえた。まるで、秀一の疑問に答えるかのようなタイミングだった。


「裏切ったか……犬神!」


 御先口から迸り出た言葉は、震えながら次第に大きくなった。

 

 トン。


 ついに階段を一番下まで降りきり、壁の影から男が姿を現した。

 地下階に降りきったところで足を止め、くるりと秀一の方へと身体の向きを変える。

 どことなく愛嬌のある黒い瞳が、秀一を捉えていた。短く切り込まれた黒髪。逞しい身体と、頬に走る三本の傷。


 ――この人が?今まで助けてくれていた人?


 知っている男ではなかった。今まで会ったことのある狼族の男に、こんな人はいなかった。

 ではなぜこの男は、自分を助けてくれたのか?

 仲間が現れたことで、ほんのすこし緊張の糸が緩み、秀一は、唐突に現れた味方をぽかんと見上げていた。

 ただ、その間にも、奥の地下室からは犬たちと虚無のぶつかり合う恐ろしげな音が聞こえてきている。地下室から溢れんばかりの野犬だったが、数だけであの虚無という化物に、対抗できるとは思えない。

 この世界に顕現した黒い化物が、秀一たちのいる廊下に姿を表すのも時間の問題だろう。

 一番地下室の入口近くにいる秀一はその気配に気を配りつつ、犬神史郎と名乗った男と、御先真珠を窺っていた。

 動けずにいた秀一に小さな笑い声が聞こえた。

 御先真珠だった。


「なるほど……」


 そう言いながら軽く数度うなずいた。

 腹をかばって前かがみだった姿勢はもう元に戻っており。すっと背筋を伸ばして立っている。

 すでに銃創はふさがったのだろう。彼の着ている黒いスーツは血の色も目立たないため、ほとんどダメージを受けたようにはみえない。

 はやくも彼の唇には、微笑が戻ってきていた。


「なるほど、狼の”声”か。ならば彼が屋上ではなく地下に真っ直ぐに向かったことも、不思議ではない。あなたが誘導していたわけだ……犬神史郎。あなた、我々を……いえ、弓弦様を裏切ると? あなた、弓弦様が幼い頃からそばに仕え、我が子のように……我が子以上に共に過ごしてきたのではないでしょうか? 弓弦様に、どれほど信頼されていたか、わからないわけではないでしょうに……。大神秀一があなたに縁のある人物とはいえ……あなたにとっては、邪魔なのではありませんか?」


 御先の目は、ただ真っ直ぐに犬神史郎に向かっていた。顔に微笑を張り付けたまま、目の奥には憤怒の炎がチラチラと燃えている。

 秀一はちらりと弓弦へ目を向けたが、彼の顔には何の感情も現れていなかった。

 ただ、興味津々に成り行きを見守っている、そんな表情だ。弓弦からは、史郎に対する怒りも、裏切られたことへの悲しみも感じ取ることが出来ない。

 秀一は、そんな三人を気にしながらも、少しずつ動き始めた。

 目をキョロキョロと動かし、どうしたらこの場から逃げ切れるのか? 不意に訪れた静けさの中で必死に考える。

 と、少し先に座り込んでいた信乃と目があった。

 目が合ったけれど、やはり二人共動くことができない。

 一見穏やかに見えるこの場に吹き荒れる『気』を、二人共感じていた。この中で不用意に動けるようなものがいたら、よほど鈍感な人物だろう。

 

「どれほどあなた、弓弦様に目をかけていただいていたか、わかっているのですか……?」

「感謝している」


 史郎の答えを聞いた御先から、殺気が溢れ出た。

 秀一ですら一歩後ろに下がりたくなったというのに、殺気を向けられた史郎は、飄々とそれ受け止め、眉一つ動かさなかった。

 御先が動いた。

 立ったままの姿勢から大きく跳躍し、史郎に向かって鋭い蹴りを繰り出す。

 史郎はすうっと身体をずらした。風に揺れる柳のようなしなやかな動きだった。

 史郎の背後にストっと降り立った御先が、脇を締め拳を構えると、振り向きざま構えた拳を史郎に向け繰り出す。

 その時だった。

 

 タタタタタタタタッ!


 地下室に流れる緊張感を破るように、階段の上から走ってくる足音が聞こえた。

 大勢ではない。おそらくは一人。人間の足音のようで、軽快な足取りで駆け降りてくる。

 一体誰が? と、全員の視線が階段の上へと向かう。拳を繰り出していた御先の動きも止まった。


 タンッ!


 最後に勢いのある足音を響かせたかと思えば、史郎と御先の間に男の子が一人、立っていた。


「おっまたせー! この建物にいた妖魔は全部縛り上げて屋上においてきたよ! 犬は皆、下の階に向かって走って行っちゃってさあ~!」


 現れた少年は、この場の状況に全くそぐわない底抜けに明るい声で言った。

 秀一よりも一回り小さい体。肌の色や堀の深さにコーカソイドらしさがあるが、髪の色や瞳の色は日本人に近い暗い色合いで、全体的には秀一よりはモンゴロイドの特徴も併せ持っているように見える。外国人っぽい日本人。そんな感じの顔立ちをした少年だ。


「なるほど、犬神新太。今回の作戦はあなたとサラには知らせていなかったはずです。まあ、父親の史郎があなた方を組織に残したまま裏切るわけはありませんね。馬鹿な男だ、犬神。サラと別の男との間にできた子どもを助けようなんて……」


 サラ。

 その名前に、秀一ははっとして、目の前に降り立った少年をまじまじと見つめた。


「サ……ラ?」


 呆然と呟く。

 その名前は知っていた。

 一度も見たことのない人だけれど。

 写真すら見せられたことのない人だけれど。

 名前だけは教えられていた。

 

 ――お前の母親の名前は、サラというのだ。

 そう教えてくれたのは、父の秀成だった。

 では、この犬神史郎という男と、犬神新太という少年は誰だ?

 解けない問題を前にしたときのような苛立たしさと混乱が秀一を襲う。

 脳細胞が、一斉に活動を休止してしまったようで、考えがまとまらない。いや、答えはもう出ているのに、感情が認めようとしていない。


「あったり~! 母さんは、この場所を九十九学園側に伝えに走ったよ。だから、もうすぐ学園側の応援がここにたどり着くんじゃないかな? 形勢逆転だよ?」


 秀一の混乱をよそに、得意げに話す少年の表情には、この場にそぐわない曇のない笑顔があった。

 秀一にも喜ばしい情報のはずなのに、頭の中にみっちりと密度の高いスポンジが詰まってでもいるようで、まったく感情が動かなかった。

 だから、自分の後ろに迫る気配にも、全く気づけないでいたのだ。

 秀一だけではない。その場にいる全員が、気づいていなかった。

 階段から降り立った少年と、彼のもたらした情報に注意が向かっていた。

 御先は小さく舌打ちをして、屋上へ目を向けた。

 弓弦はじっと史郎を見つめていた。

 信乃も、新しい登場人物に束の間、目を奪われていた。


 だからその時、つい先程までこの地下に響いていた、野犬の唸り声や吠える声が、全く聞こえなくなっていることに、誰も気づいていなかった。

 信乃の目が、秀一へ向けられて、そして、その表情が凍りつく。

 そのとき秀一は、自分の身に起きたことを、すぐに理解することができなかった。


「逃げて!」


 そう叫んだのは信乃で、彼女の目は大きく見開かれたまま、秀一の後ろを凝視していた。

 続いて起きた信乃の悲鳴を聞きながら、秀一は自分に起こっていることを、ようやく理解する。

 背後に迫っていた虚無が、自分を飲み込もうとしているのだ。

 巨大な黒いスライムは、野犬をたいらげ満足したのだろうか、もともとそう素早くはなかったのだが、さらに動きは緩慢になっているようだ。もちろん、この不可解な生き物に満腹という概念があるのかどうかはわからない。

 野犬に襲いかかったときのように、もう少し勢いよく攻撃してきたのなら、あるいは秀一も虚無の動きに気がついたのかもしれなかったが、じわじわと染み出すように地下室から這い出した虚無は、音もなく床を這い、秀一の足に絡みつき始めていた。

 はっとして、とびのこうとしたが、足を上げることもできずにバランスを崩し、虚無の中に倒れ込みそうになる、

 秀一の足は、くるぶしのあたりまで、虚無の黒く半透明な身体の中に浸っていた。

 秀一は腕を振り、周りの空を掻きながら、倒れそうになる体制をなんとか立て直す。


「しゅういち!」


 信乃が名を叫びながら、秀一に手を伸ばし駆け寄ろうとたが、近くにいた弓弦が信乃の身体をしっかりと抱きとめ、阻止している。


「信乃! 来るな! 俺ならなんとかするから……逃げないと!」


 反射的になんとかする・・・・・・と言ったものの、秀一の頭の中に妙案などない。

 秀一の足は、地下室から染み出した粘液のようなものに絡め取られているが、あの黒いアイスクリームのような本体は、まだ地下室から姿を現してはいない。いや、この染み出した粘液のようなものも、虚無の本体であるのかもしれないのだが。とにかく地下室からだらりと染み出したものに足を取られて、一歩も動けない。

 モウセンゴケに捕まった虫になったような気分だ。簡単に逃れられそうに見えるのに、全く動けなくなり、焦りばかりが深くなっていく。


「来るなあ!」


 信乃の叫びに秀一が振り向くと、秀一の背後では、地下室の入り口からどす黒い小山が少しずつその姿を表し始めていた。

 先程まではただ炭を溶かし込んだ黒っぽいスライムの塊のようだった虚無は今、その身の中に千切れた犬の残骸を閉じ込めている。

 秀一は思わず、果物がごろっと入ったゼリーを思い浮かべてしまった。


 黒かった虚無は、今では赤黒く染まって見える。


「異界の扉を閉じる! お前、力を貸せ!」


 信乃が自分を抱きとめている弓弦に向かって言った。その途端、信乃の額が明るい朱色に輝き始める。

 おそらく信乃は完全にその力をコントロールするコツを掴んだのだろう。

 しかし弓弦は首を立てには振らなかった。


「信乃ちゃん、落ち着いて? 今更異界の扉を閉じても……」

 

 その間にも、くるぶしが浸るくらいだった虚無の粘液は、秀一のふくらはぎを包み込み始めている。

 秀一は足をあげようとしたり、身体を捻ったりするのだが、一ミリも動かすことができない。


「弓弦様、ここにいては危険です」


 御先が声をかけたが、弓弦は「少しだけ待て」と指示を出した。

 御先は虚無に神経を向けたまま、弓弦の背後に回る。


「秀一くん!」


 史郎と、新太という名の少年は、近づけるギリギリのところまでやってきて、秀一に声をかけてきた。


「変身するんだ! 人間の姿のままでは飲まれるぞ!」

「はやく!」

「そんなこと言ったって……!」


 確かに、狼の姿になれば人間の姿でいる時の何倍もの力が出せる。力だけじゃない。瞬発力も、妖力も、人間でいるときの比ではない。力に、己の妖力を乗せることで、この呪縛から逃れることも可能かもしれない。虚無からははっきりと妖気を感じることができる。だから、こちらにそれを上回る妖気があればいいのだ。絶対とは言い切れないだろうが、賭けてみる価値はある。

 けれど……秀一が狼の姿になったのは、信乃と出会ったあの晩一度きりなのだった。秀一はいまだに自分自身の意思で変身をしたことがない。

 普通の狼族なら、十を超えたあたりで少しずつ自らの意思での変身を体験するものだ。

 普通より、ずいぶん遅い。そんなことはわかっている。

 けれど……。

 自分の力が誰かを傷つけてしまうかもしれない。そんな思いが、秀一に変化することに対する恐れを抱かせた。


「兄さん! 何をしてるの! 早く!」


 新太が焦ったように喚いている。

 

 ――兄さん?


 ああ、やっぱりそうなんだ。この非常時だというのに、秀一の頭の中は新太の発した言葉でいっぱいになってしまった。

 サラという名前。

 秀一の母親は、フランスから来たルーガルーの一族の娘で、名をサラと言った。……そう教えられた。

 秀一の知っている母親の情報はそれだけだった。

 どうして自分の前からいなくなったのかすら、秀一は知らない。

 一度だけ父に尋ねたことがある。その時秀就は


「父さんが至らなかったんだ。お前には苦労をかける」


 と言った。それでもう、秀一は次第に母について聞くことをやめてしまった。

 なんにも知らず、知らされず……。

 自分が情けなく思えた。

 幼い頃から、みんなにかしずかれて、自分が一番だと思って育ってきたのに、何一つ自分できることなんて、ありはしない。

 力を使うことも出来ず、露と父を理解してやることもできなくて、本当の母親だって、自分を捨てて、こうして新しい家族を作っている。……信乃すら、守れない。

 足元が、ぐずぐずと崩れていくような感覚だった。

 蝕まれていく。そうして、無力になってしまう。

 いや、はじめから無力だった。

 自分が気づいていなかっただけ。


「早くしろ協力しろ! 異界を……閉じないと!」


 信乃の声が聞こえた。

 信乃は、秀一を助けようとしてくれている。


「聞いて信乃ちゃん? 今異界を閉じたら、秀一を助けられないよ。虚無はこちら側にもう渡ってきてしまっているからね。秀一を助けられないどころか、こっちの世界に虚無が何体も放たれることになるんだよ」


 弓弦がいきり立つ信乃の肩を揺さぶっていた。


「じゃあ……じゃあ……どうすれば……」

「呼び出すんだよ。虚無をも凌駕する魔物を。そいつに虚無を一掃させ、異界へ戻らせるんだ。できるかな?」

「ぼ……僕……が?」

「そうだよ信乃ちゃん。秀一を助けたければ、やり遂げないといけないよ。できるよ、君なら。僕の力も貸してあげる。特別だよ。そのかわり、いつか僕に力を貸して? 約束だからね」


 信乃と弓弦が向かい、手のひら同士を重ねていた。ゆっくりと指が絡まり合っていくと同時に、二人の額が強く輝き始める。


「わかった。八尋弓弦。約束する」


 信乃はゆっくりと、噛みしめるようにして、弓弦に言った。

 その声を聞きながら、秀一は次第に足を這い登ってくる得も言われぬ感触に、歯を食いしばっていた。

 じわじわと自分の足が朱殷色のゼリーの中に埋まっていく。

 と同時に、足に激痛が走る。

 ゆっくりゆっくり、次第に強くなっていく力。ぎゅーっと足に力が加えられていく感触。プルプルとゼリーのようでありながら、蹴散らそうとしてもまったくビクともしない。それどころか、秀一の足を押しつぶそうとしてきたり、ねじ切ろうとするように、じわーっといろいろな角度から力が加えられているのを感じる。

 足を踏ん張ってその力に抵抗してみる。全く動いていないというのに、秀一の額には玉の汗が浮かび上がり始めていた。


「くっ……は……!」


 苦悶の声が漏れる。


「兄さん! 変身して!」


 新太の声も、次第に大きくなっていた。


「僕のせいだ……僕の。秀一はあの日以来、一度も変身しないんだ……」

「信乃ちゃん! 集中して探すよ!」


 つぶやく信乃に弓弦の檄が飛んだ。目をつぶった信乃の額が強く輝き始める。


「魔物……魔物……虚無より強い……どこにいる?」

「近くにいなければ呼びかけるんだよ。信乃ちゃん、君、虚無とは別の魔物を、知ってるだろう? 全く知らない魔物を呼び出すのは難しいけど、君あいつの波動をもう知ってるじゃないか。そいつなら、多分呼び出せる。それに、操れる可能性が大きい」


 弓弦が信乃を導いた。

 その間にも、虚無は確実に秀一を飲み込んでいく。動きが緩慢になっているとはいえ、もう秀一の腹のあたりまでが虚無の中に埋まっていた。

 そしてついに、秀一の足が床から持ち上がった。

 そのまま赤黒いアイスクリームの先端まで持ち上げられ、そこからズブズブと内側へと引きずり込まれていく。


「まずい!」


 史郎の身体が、目にも留まらぬ速さで変化し、彼がいたはずの場所には、通常の狼よりももっと大きな体躯の灰色の狼が「ウルルルルル……」と、唸りをあげながら出現していた。


「兄さん、力を開放して! 一度変身できたなら、絶対できるはずだよ! そのままじゃ、喰われる!」


 そう言うと、新太も父の史郎に続いて獣化した。灰色狼より、だいぶ小さな金色の狼が、全身の毛をブワリと逆立てながら虚無に向かって吠えた。

 新太がいくつなのか秀一にはわからないが、秀一よりもずいぶんと幼く見える。見た目だけだと、まだ小学生ではないかと感じた。けれど新太はその年齢でありながら、自分自身のパワーを制御することができているらしい。

 秀一は唇を噛みしめる。口の中に血の味が滲んだ。

 一族の後継者として、文字通り下にも置かない扱いを受けて育ってきた自分。

 そんな秀一だからだろう、父の秀就は、必要以上に厳しかった。今でこそ、反発することもあるが、秀一の方でも、父に対しては尊敬と憧憬の念を持っている。

 甘える対象としての親はいなかったけれど、秀一には露がいた。

 露のことは大好きだ。でも、心の何処かで本当の母というものに惹かれていた。そして想像の中の母は、秀一だけのものだった……。

「父」も「母」も、そして「力」も持ち合わせる弟。

 お門違いだとわかっていながらも、自分の中に沸き起こる痛みをどうすることもできない。


 秀一がそんな思いにとらわれている間にも、二匹の狼は連携して、虚無に立ち向かっていた。

 齧り付き、絡め取られそうになるともう一匹がそこへ飛びかかる。飛び掛かったり飛び退いたりしながら秀一を助け出そうとしているのだが、虚無の方では、まったく意に介した様子はない。

 しかも、背後の地下室から、他にも何体かの虚無が廊下に這い出してきていた。

 ゆっくりと、しかし確実に。新たな獲物に向かって集まり始める。


 信乃は目をつぶったまま辺りを探るように頭を振った。

 こちらの世界の映像をシャットアウトして、彼女と弓弦にしか見ることのできない、もう一つの世界を見ているのだろう。


「もう一体? 僕が会った……魔物?」

「そうだよ。黄金の……輝けるもの。古い資料によると金の勇魚いさなって呼ばれてるみたいだね」

「金の、勇魚いさな……」


 信乃が呟いた途端、額の輝きはさらに増し、盾に亀裂が入った。皮膚が裂ける。

 その様子に、秀一ははっと正気に返った。


「信乃……!」


 虚無にもう肩まで浸かり、その力で身体をねじ切られそうになりながら、秀一は信乃の名を呼んだ。

 縦に入った額の細い亀裂の中から、真紅の光があたりを照らす。

 そして……その亀裂が大きく開いた。

ポッカリと空いた亀裂の中、それ自体眩しい光を放つ真紅の瞳が中央にあった。


「見つけた! 輝けるもの……金の勇魚。来い! 再び僕のもとに!」


 信乃が、叫ぶ。

 真紅の瞳がギョロギョロと動いていた。


 空気が大きく動き出す。

 どこからともなく涼やかな風が吹き、地下に充満した生臭い淀みを次第に薄めていく。

 明かりがあるものの、全体的に冷たく薄暗かった地下が金色に輝き始める。

 どこが……光っているんだ?

 秀一は、周囲に視線を走らせた。


 キーーーン。キュウーーーーン。


 という、甲高い音がまるで耳鳴りのように聞こえた。

 虚無がその動きを止めた。

 秀一の身体は、虚無の力が緩んだために、幾分楽になる。

 涼やかな風は、先ほどまで信乃が囚われていたあの部屋から吹いて来る。秀一は唯一動かすことのできる首を巡らせて、そちらへ目を向ける。地下室の方角がぼんわりと金に輝き始めているのを、目の端で確認することがきでた。

 そして、現実の風景に重なるように、薄っすらとあの幼い日に見た金の草原が向こうからこちらに近づいてくる。

 地下室の方向の、斜め下の方角。


 ――巨大な、金に輝くもの!


「弓弦様! いくらあなたの命令でも限界です! 失礼」


 御先が信乃から弓弦を引き離し、抱き上げた。


「信乃ちゃん! 後はできるよね! 秀一! 早く変身しないと、虚無ごと輝けるものに飲み込まれるよ? 僕がここまで協力したんだから、無駄にしないでよね!」


 弓弦は御先の腕の中で脱力し、なすがままになりながら声を立てて笑っていた。


「それから、約束も忘れないでよね? その力、いつか貸してもらいに行くからね!」


 笑いながらひらひらと手を振る弓弦を抱いた御先は、もうすでに地下階から姿を消していた。

 上の階の方から「がんばってねー」という弓弦のくぐもった声が、小さく響いて聞こえた。

 そして……。

 廊下の奥の、地下室の方向から、金色の淡い光が近づいてくる。

 それに伴って、今まではっきりとしていた地下の廊下や壁がうっすらとかすみ始めた。

 秀一にはなんとなく感覚で異界の近づいてくる方向と、現実の残っている方角が感知できる。


「そうだ! 輝ける者、その黒い化物を……虚無を全部飲み込んで異界に連れ戻せ!」


 信乃が拳を握りしめて叫んでいる。

どんどん薄くなっていく現実の世界の映像。それと入れ替わるように濃くなっていくのは、今まで見たこともない世界の景色だ。

 まるで異界に現実が飲み込まれていくような感覚。

 異界渡り。

 異界に渡って帰れなくなった者たち。

 そんな噂話と、未知の感覚への恐怖が秀一を襲う。


 ――怖くなんかない!


 そう、自分に言い聞かせる。

 金の巨大な、平べったい楕円形をした何かが、近づいてくる。

虚無たちが、不規則に右に左へと動き始めた。今まではじわじわとだが、確実に秀一たちの方へと向かってきていたのだ。どちらの方角へ行ってらいいのか、戸惑っているようにも見える。

 地の底から近づいくる金の鯨は、背中にそれ自体がほのかに発光する草のような触手をびっしりと生やしている。

 見つめる先で、楕円の先端がぱっくりと開いた。

 口のようなものなのかもしれない。


「うそだろ……」


 秀一は痛みも、焦りも、恐怖も……すっかり忘れて呟いていた。

 すでに廊下と地下室を隔てていた壁すら見えなくなっている。今この空間は、現実よりも異界に近いものになっているのかも知れない。

 秀一のいるところから後ろにひとかたまりになって、押し合いへし合い右往左往している虚無の群れ。虚無の群れは確かに黒い大地の上に乗っているように見える。が、その黒い大地の中を、まるで泳ぐように近づいてくる巨大な魔物が、透けて見えている。

 

「信乃逃げろ! こんなのに飲み込まれたら……!」


 秀一の声が聞こえないのか、信乃は陶然として、地のそこから浮上してくる魔物を見つめている。

 二匹の狼は虚無へ向かって唸りをあげてはいたが、ジリジリと上階へ向かう階段の方へと後退し始めていた。

 金の勇魚は浮上し、口とおぼしい空間の中に虚無を飲み込み始める。あまりに近づきすぎているために、もう輝ける者の全体の形を、秀一は見て取ることができなかった。

 奥の方から飲み込まれていく虚無と、虚無を飲み込みながらこちらに近づいてくる金の大きな口を、秀一は眺めていた。まるでスローモーションのように見えた。

 あっという間に虚無を腹の中に収め、最奥にいた秀一を捉えている虚無を飲み込もうとしたところで、信乃の叫びが響く。


「ソイツは飲み込んじゃ、ダメだ!」


 信乃の第三の目が、輝けるモノをギロリと睨んでいた。

 叱られたのだと認識しただろうか、輝けるものは少し下の方に潜った。

 異界は映像として重なっているけれど、足元には現実の廊下の映像もまだ残っている。

 半透明な床の下に金色に光る草原がじわりと広がっているように見える。


「あんたら! 信乃を連れて逃げろ!」


 秀一は階段の下でしっぽを下げてうろうろしている二匹の狼に向けて言った。

 秀一の声を理解したのだろう。一度動きを止めた灰色の狼が、信乃めがけて走り寄ってくる。


 信乃だけでも、助けてくれ!


 祈るような気持ちだった。

 けれど信乃は、自分に向かってくる狼に向かって「くるな!」と一喝する。

 そしてあろうことか、虚無に飲み込まれている秀一へ向かって走りだした。躊躇なく虚無に近づき、手を伸ばしてくる。


 何をしようとしている?

 信乃は何故逃げない?


「ずっと一緒だって、言った! 秀一が虚無に飲み込まれて死ぬなら、僕も一緒だから!」


 伸ばされた信乃の指先が、虚無に触れる。

 信乃も、飲み込まれてしまう。


「やめろぉ!」


 秀一の中で何かが大きく弾けた。

 自分は守護者である。信乃を守ること。それが自分の役目なのだ。自分のために信乃が傷つくなんて、許されるわけがない。

 変化は、あまりにも一瞬のことだった。

 かつて経験した、身体の奥底からふつふつと何かが湧き上がるような感覚も、二度目の今となっては、それほどの不快感を感じなかった。メキメキという自分自身の身体が作り変えられていく音も、あまりに一瞬のことで、気がつけば秀一は狼の姿にかわり、虚無の中から踊りだしていた。

 信乃のガラス玉のような二つの瞳と、真っ赤に輝く一つの瞳が、飛び上がる秀一を見つめている。


 ――信乃!


 狼族ではない信乃に、変化してしまった秀一の声は届かないはずなのに、信乃はまるでその声を聞いたかのように両手を大きく開くと、狼の姿となった秀一の首のあたりにしがみついた。

 妖気を乗せた足で、虚無を蹴りつけ、大きく跳ね上がり、虚無の中からすっかり抜け出した秀一は信乃をその身体に張り付かせたまま、全力で駆けた。

 秀一の首元で信乃の声がする。

 

「輝ける者、虚無を残らず連れて……行け!」


 下の方に沈んでいた輝けるものは、信乃の声にすばやく反応する。地の底から浮上すると、最後に一匹残っていた虚無を吸い込み、再びズブズブと地下に潜っていった。

 真っ暗な地底の国に、どんどん遠のいていく金の光。それとともに、地下室に重なっていた異界の景色自体が遠のいていく。

 後にはただ闘いの残骸が、今度こそ本当の静寂に包まれた地下の空間に、投げ出されたままになっていた。

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