Deadlock
酸鼻
しんと静まり返った地下室。
床に転がる秀一のとなりには、先ほどまでこの部屋にいなかった人物が佇んでいた。
黒い長髪を後ろで一つにまとめ、嫌味なほど隙きのないスーツ姿で、片方の足に重心を預け、足元にうずくまる秀一を感情の灯らぬ瞳で見下ろしている。
「
弓弦は小さく呟いた。
ずっと大音量にさらされていた耳の奥が、ふいに訪れた静寂のせいで、キーンという音を立てている。
御先はゆっくりと首を巡らせ、地下室の中を隅々まで確認すると、最後に大神秀一の上に視線を止めた。
「まったく……、屋上へおびき出そうとしたのに、何故か一直線に地下へ向かうものだから、少し慌てましたよ……」
線の細い整った顔立ちからは想像し難い、地を這うような低い声だった。
「秀一!」
信乃の叫びに、指先がピクリと震えたものの、そこにうずくまる秀一はすでにボロボロだ。
身につけた服は擦り切れ、破れ、あちらこちらに誰のものともわからない赤黒いシミをこびりつかせている。
服だけではない。
破れた服の下の皮膚もすりむけて、あちこちから血が滲んでいる。明るい色合いの髪も、艶をなくしてボサボサと、あちこちで絡まり合っていた。
起き上がる気配はない。
「秀一! 秀一!」
それでもようやく信乃の声に、小さくビクリと肩を揺らした後、両腕を床につけ、力を振り絞るように身を起こした。
ぐるぐると唸り声を上げながら、ゆっくりと顔をあげる。想像以上に力のこもった眼差しは、見下ろしている御先真珠を睨んでいた。
「秀一!」
身を乗り出した信乃に引きづられ、弓弦は前方に転がりそうになる。慌てて力を込めて、信乃を引き戻した。
「ちょっと!」
そう言うと、信乃の首から伸びる鎖を短く持ち、さらにぐいっと引き寄せる。
「信乃ちゃん、大人しくしてくれない?」
首輪からつながる鎖を引かれ、信乃は「ぐっ!」と苦しげな呻きをあげた。
「まあったく、人質の意味なかったよね。大神秀一、僕が信乃ちゃんにナイフを突きつけても、ちっとも躊躇しないんだもんなあ」
弓弦は咳き込む信乃を引きずり、ベットの上に引き上げた。
部屋にぽつんと一つ設えられたベットは、病院でよく見かけるような、愛想のないものだ。それでもベッドヘッドと足元にはスチール製の白い柵があり、弓弦は手際よくベッドヘッドの柵へと、信乃の鎖を短く固定した。
これで信乃は、ほとんど身動きを取るれなくなる。
地下室の入口近くでは、身を起こそうとしていた秀一の背中を、御先が力を込めて踏みつけた。
その様子を見ていた信乃が、鎖が短くなったことも忘れて思わず前のめりになったせいで、ゲホゲホと咳き込む。
ヒューヒューという、苦しげな呼吸の中から、それでも信乃は声を絞り出し、秀一の名を呼んだ。
床に這いつくばったままで、ぐぐぐぐぐっ、と唸りをあげて御先を見上げる秀一は、どこか獣じみていた。それでもまだ理性が残っているのだろうか、狼に変化するような兆候は見えない。
一方、秀一を踏みつけにしている御先の唇には、絶えず微笑がうかんでいた。
「……くっ!」
秀一が床に手を付き、満身の力を込めて起き上がろうとした。胸が僅かに浮き上がる。しかし、背中に乗った御先の靴底に力がこもり、更にきつく床の上に押し付けられてしまう。
「やめて……っ!」
信乃が、悲鳴のような声を上げる。
「弓弦様、どうしますか?」
腰に手を当て、はじめて主である弓弦を見た御先が言った。片方の眉が、きれいに跳ね上がる。
「もうちょっとそのまま踏んどいてよ」
御先を横目で見ながら、弓弦は命じた。
そして、這いつくばる秀一へと目を転じる。
「やあ、秀一くんはじめまして。僕は八尋弓弦。来てくれて嬉しいよ。」
弓弦は自分のサラサラとした黒髪を弄びながら自己紹介をした。手にしたナイフがチラチラと揺れる。
少し間をおいたが、秀一から返事が返ってくることはない。
弓弦としても、返事を期待していたわけではなかった。
その言葉によって、秀一の燃えるような怒りの矛先が御先から自分へと変わっていくのを感じた。視線の強さに、怒りの激しさに、ぞくりと背筋が震える。それは快感というものとよく似ていて、弓弦にとっては快感以上に甘美な感覚だ。
「やっとこっち見てくれたね。さっきから御先ばっかり見つめてるから、僕、ちょっとばかり妬けちゃったよ。そうだなあ……君のこと、どうしようかなあ?」
「離せ! 秀一にもしものことがあったら、絶対絶対、ぜったいに! 協力なんてしないからな! 僕も死んでやるんだからな!」
秀一に話しかけたのに、叫ぶ信乃が煩わしくて、弓弦は手にしていたナイフを信乃の胸へ突き立てた。
セーラー服を切り裂き、先端が信乃の肌に触れるくらいの力加減だったが、信乃は「ひっ」と声を上げ、おとなしくなる。
そのことで、弓弦のいらだちはいくぶん収まった。
「そうだなあ……」
秀一をどうしてやろう……。
「もう少し痛い思いをしてもらおうかな? 方法は御先に任せる。でも、殺さないでよね」
弓弦の指示を聞いた御先はくくくっと喉の奥で笑った。
「殺さずに……ですか?」
御先の左の眉が、また、きれいに跳ね上がる。
岬がこの表情を見せるときは、相手を下に見ているときだ。
弓弦は長い付き合いの間に、それを知っていた。岬は主であるはずの弓弦に対しても、時折このような表情を見せる。信乃を黙らせて少し落ち着いていたいらだちが、またふつふつと湧き上がる。
「なに?」
声が尖った。
「あなたも甘い。こんな犬一匹、生かしていて何の意味が?」
「僕に口答えするの? 御先真珠。その意味わかってるよね?」
御先の瞳が弓弦をみつめた。口元に浮かぶ微笑はそのままで、表情は一ミリも変化していない。ただならぬ緊張感が、しばしばを包んでいたが、御先はしばらくすると弓弦から視線をそらした。そしてまた、足元の秀一を見下ろす。
「滅相もありません。ただ、この犬がいささか私の癇に障るので……」
御先の靴の踵がグリグリと秀一の背中を抉り、靴の下からうめき声が上がった。
「ちくしょう……、おまえら……ぜってえゆるさねぇ……!」
御先に足蹴にされているにもかかわらず、必死に強がる秀一がおかしくて、弓弦はクスクスと笑った。
「確かに、この考えなしの直情型大型犬には苛つくものがあるかもしれないね。でもそのくらいの余裕、あるでしょ? 御先。それに、利用価値がまだあるから生かしてるんだよ。ね? 信乃ちゃん?」
弓弦がベットの上で顔色を無くしている信乃を振り返った。
目が合うと、信乃はキッと弓弦を睨みつけてくる。
「お前の考えてることなんか、ミエミエだからな!」
弓弦は顔をのけぞらせ、声を上げて笑った。
「わかるかもしれないけど、わかったからと言って、君に耐えられるかなあ? 御先。やっちゃって!」
弓弦の命に、御先の踵にさらに力がこもっていく。
灰色の箱の中に、苦痛を耐えようとする秀一のうめき声が響いた。
秀一をさんざん踏みつけにした御先は、ぐったりとした秀一の髪を掴んで起き上がらせると、数回平手打ちをくらわせた。なすがままだった秀一だったが、数度目の平手打ちで派手に吹き飛ばされると、身体を回転させ、なんとか壁にまともに当たるのを回避する。
床に崩れそうになりながらも歯を食いしばって顔を上げ、自分を張り飛ばした相手を見上げた。
殴られた頬はみるみる腫れ上がり、彼の顔を歪ませていった。唇の端が切れて、血が流れてだす。日本人離れした整った顔立ちが、今では見る影もない。
けれども当人は、腕で軽く口元を拭うと「へ……っ」と小さく笑った。ひどい顔だったが、目にはまだ力がある。
「まだそんな余裕があるんですね……」
だがその表情は、御先の嗜虐心を煽ってしまったらしい。
御先は秀一に近づくと、鋭い回し蹴りを繰り出す。尖った靴先が当たれば、平手打ち以上に大きなダメージを食らうはずだ。
秀一はとっさに避けた。御先の靴先が、秀一の髪の先を掠めていく。
「秀一!」
暴れる信乃を、弓弦は背後から羽交い締めにした。
「暴れたら、君が傷つくんだってば! どんなに頑張っても、アイツにきみの手は届かないよ。ほら、首がすりむけてきちゃったじゃないか……」
「うるさい、離せ! この、悪趣味! 鎖をはずせ!」
信乃が後ろを振り向くと、至近距離で目と目が合った。
その間にも、御先と秀一の激しい戦いが再開していた。見つめ合う二人の耳に、打撃音や息遣いが、聞こえている。
「信乃ちゃん。秀一を助ける方法が一つだけあるじゃん。君の力を使ってごらん?」
「だから……僕には使えないって……」
弓弦は軽くため息をつく。
「御先! そいつの腕へし折っちゃって!」
弓弦がイライラと言い放ったと同時に、ベキッと言う音がした。それに続いて秀一の短い悲鳴。
「な……っ!」
信乃の目が大きく見開かれる。秀一を振り返ることもできずに、固まっている。
弓弦は信乃の黒い瞳をじいっと覗き込みながら語りかけた。
「僕も力を貸してあげるよ。ね? 神経を集中して、第三の目を使うんだよ。僕たち以外に持ってるやつはいないんだ。君には他の誰にも見えない物が見える。今、異界がどこにあるか。感じるでしょう?」
しばらくそうして見つめ合っていると、信乃は瞬き一つしなくなった。弓弦の姿が写っているが、信乃の瞳は弓弦を通り越して、常人では見ることのできない何かを見つめているはずだ。
「今日は満月だから、近いはずだよ。ね? ほら!」
ささやくような声で弓弦が信乃に語りかける。
「僕も感じる。君が近くにいてくれると、いつもよりもはっきりとその在処を感じられる。引き寄せるんだ」
「引き……寄せる?」
「信……乃……!」
だらりと力の抜けた腕をもう一方の腕で抱え、床に転がる秀一が、最後の力を振り絞って信乃に呼びかけたが、信乃がその呼びかけに応えることはなかった。
「無駄だよ秀一。信乃ちゃんは第三の目を開いたんだよ。まあ、君たちにはわからないだろうけどね。今彼女は、君たちには見ることの出来ない世界を見ているんだ。君を助けるためだなんて、ちょっと妬けるけど、いいよね、どうせ君はもうすぐいなくなるんだから……」
御先の靴先が、秀一のみぞおちを蹴り上げる。もう秀一には抵抗する力も残っていなかった。
「御先、あなたも見ているといいよ。最後に本格的な異界渡りが起こったのは一世紀以上前だっていうから、これから始まるのはまさに”世紀の瞬間”ってやつだよ」
弓弦が二人に説明をしている間にも信乃の額のあたりがぽうっと鮮やかな赤い光を放ち始めていた。
「見える。僕にも見える……信乃ちゃん! 呼ぶよ!」
小さな四角い地下の部屋の中に、かすかな風が吹き始めた。
御先が風の吹いてくる先を見極めようと、目を細めて顔を上げる。
秀一も、ただならぬ雰囲気を感じたのだろう。床に転がったまわずかに身体を起こそうともがいた。
弓弦はうっとりと、自分自身の額が熱を持ち始める感覚を味わっていた。
これまで何度か異界を引き寄せたことはあっても、ここまではっきりと、この世ならざる世界を感じることはなかったし、こんなふうに額に熱を感じることもなかった。
「来い! この世界に異界の魔物を導き出せ!」
弓弦の叫びと同時に、灰色のタイル張りの壁が、黒っぽく光り始める。
黒い光……。
目の前に広がりはじめたそれは、黒いセロファンで覆われたような世界だった。
地下室の、入り口とは反対側の壁に、うぞうぞと黒く蠢くものが、映像のように見え始める。
「虚無!」
御先が鋭く叫んだ。声には、彼がめったに見せることのない、驚きの色が滲んでいて、弓弦の気分を高揚させた。
「虚無ね。最初に呼び出す魔物としては上等なんじゃないの? まあ、このまま地下にいたら、僕たちも危ないけどね」
弓弦は信乃の首輪を外した。
「信乃ちゃん、行くよ。呼び出した相手が虚無じゃあ、コントロールは難しい。このアジトは廃棄かな」
信乃の額の輝きはすでに消えていたが、彼女はまだ放心状態にあるようで、焦点の合わない瞳で、ぼんやりと目の前の光景を眺めている。「信乃ちゃん?」と声をかけながらペチペチと頬を叩いていると、御先の舌打ちが聞こえた。
「冗談じゃありません、弓弦様。虚無とは喰らうもの。知性など無いと伝わっています。敵も味方も見境なく、飲み込んでしまう。もう少し扱いやすい魔物を呼び出して頂けませんかね?」
早口でそう言うと、ヒュウッと、指笛を鳴らした。
御先の指笛に呼応して、何かがこの地下の部屋へと近づいてくる気配がした。
息遣いと、無数の小さな足音。
それは、上の階の方からこの地下へ向かってどんどんと近づいて来る。
一方、地下室の中では、異界の景色がますますはっきり姿を表し始めていた。
入り口と反対側の壁は、異界のビジョンと重なり、もともとあった灰色のタイルは、ほとんど見えなくなっていた。
そのかわり、どこまでも続く黒い物体の群れがそこに出現している。
その群れの一体一体は、コーンのないアイスクリームのような形をしていた。
人の背丈もある巨大なアイスクリーム。しかし、ぶよぶよと蠢くそれは、スライムの中に炭を練り込んだように黒く、とても、美味しそうには見えない。
よくよく見れば大きさもまちまちで、平均すれば成人男性の背丈ほどなのかもしれないが、中にはもっと大きいものや、その半分くらいの小さなものもある。
虚無と呼ばれる化け物たちは、群となってこの地下室に重なり、広がり始めていた。
「本当に、こいつをこちらの世界に呼び出すつもりですか」
御先は、いつでも地下室を後にできるように、入り口の方向へと身体をずらしていく。不敵な笑みをたたえ続けてきた御先だったが、眉間にはわずかに縦じわが寄っている。
これ以上無いほどに見開かれた信乃の視線の先には、今にもこちらの世界に現れ出ようとする一体の虚無がいた。
この場にいた全員の視線がその虚無に釘付けになっていた時、地下室の入口から、ガウガウと唸りをあげながら、野犬の群れがなだれ込んできた。
野犬の群れは、入口近くに立つ御先をきれいに避けながら、彼の足元に群がりこの世に存在するはずもない魔物に向かって激しく吠え立て始める。
「お前たち、虚無を足止めしろ!」
御先が、なだれ込んだ野犬に命じた。
異界の景色はまだソフトフォーカスをかけた写真のように、その輪郭はふんわりとしている。
御先の命令に応じて、犬たちは次々に虚無へ飛びかかるが、虚無はまだこちらの世界にはっきりとは重なっていないらしく、野犬の群れは勢いよく、反対側の壁や、ベットに激突しながらキャウン! と、情けない声を上げた。
しかし次の瞬間、飛びついた一匹の犬が虚無の先端に齧りつくことに成功する。
映像の世界から抜け出した一体の虚無が、この世界に実像となって現れてた瞬間だった。
ようやく実体のある黒き魔物に齧りついた野犬は、牙を容赦なく食い込ませて、首を振る。もしも人間の腕だったら、食いちぎられているのではないかというほどの勢いだ。
けれども、甲高い悲鳴を響かせたのは、虚無に食らいついている犬の方だった。
ベキッ!
という固いものをへし折ったような音がして、犬の胴体はあらぬ方向へとねじ曲がっている。
クーッ、クーッ……
という悲しげな鳴き声とともに、犬は生きたまま虚無の中へと取り込まれていった。
その様子をカッと見開いた瞳に映していた信乃が、数回口をパクパクと開閉した。まるで酸欠の魚のように。大きく口を開いて、何事かを叫ぼうとしてはまた閉じる。
そして大きく息を吸い込むと、ついに叫んだ。
「止めろお!」
ようやくほとばしり出た声は、裏返りかすれていた。あっという間もなく、信乃は弓弦の手を振り払うと、虚無に向かって走りだしてしまった。
「信乃!」
「信乃ちゃん!」
重なったのは、秀一と弓弦の声だった。
信乃の名を呼びながら、引き留めようと弓弦が手を伸ばす。
折れた腕をかばいながら、転がっていた秀一が、雄叫びとともに起き上がる。
このまま信乃が虚無に突撃したら……あの黒い物体に取り込まれてしまう。
ほとんど同時に動いた秀一と弓弦だったが、先に信乃に届いたのは、秀一の方だった。
体ごとぶつかり、信乃に体当たりをする。よろけてそのまま倒れそうになった信乃を、腕を伸ばした弓弦の手が掴んだ。掴んだ信乃の手を引き寄せる。
「虚無に食われたくなければ、起き上がって走るんだな!」
信乃を抱え、虚無から距離を取るように後退しながら、弓弦は床に転がり痛みにのたうつ秀一に言った。
「秀一!」
信乃の伸ばした手は、秀一には届かない。
今や地下室は地獄のような光景と化していた。
一体、また一体と、現実世界に渡ってくる虚無の群れが、その場にいた野犬の群れを、バリバリとたいらげ始めたのだ。
生きたまま咀嚼されていく恐ろしい音と、あたりに充満する血の匂い。そして、助けを求めるかのような犬の細い鳴き声。
「待てこの!……ちくしょう……」
呻く秀一を置いて、弓弦は信乃を引きずりながら地下室を出ていく。
虚無を警戒しながら、その後に御先真珠が続いた。
階段下付近には、つい数分前に秀一に倒されたのであろう男たちが、転がっている。
「しゅういちぃぃ! 離せ! 離せってばぁぁ!」
信乃が弓弦の腕の中で喚いていた。
「秀一が死んだら、僕も死ぬ! お前たちに僕を自由になんて、できるもんかぁ!」
弓弦一人では感情を爆発させた信乃を引きずっていくことが困難になって、御先も手をかそうとするが、本気で抵抗する人間を取り押さえるのは、大人二人がかりでもなかなか大変なことだった。傷つけてはいけないとなれば、なおさらだ。
「まだ死んでない……」
背後から聞こえた声に、信乃の動きがピタリと止まる。三人が声のした方へと視線を向けると、折れた左腕をかばいながら壁により掛かるようにして、大神秀一がそこに立っていた。
「しゅういち!」
信乃の声に、喜びの色が混じっていた。
「よお信乃。まだ……死んでねえよ……」
「うん」
弓弦と御先の手を逃れ、信乃が秀一のもとへと走リ寄ろうとする。が数歩走り出したところで
「来るな!」
という秀一に叫びにビクリと止まる。
「あの黒いバケモン、犬どもをたいらげたら、こっちへ来るぞ。どうにかできないのか?」
秀一はちらりと背後を見るような仕草をした。
後ろに見えるあの地下室から、虚無はまだ這い出してきてはいなかったが、地下室の中で、恐ろしい地獄絵が繰り広げられている気配は、はっきりと届いてくる。
「まったくしつこい男ですね……」
御先の姿が、崩れ始めた。まるで砂でできた人形がパラパラと崩れ落ちていくように。そして、崩れた先から、一羽、また一羽と黒い烏が秀一をめがけて飛び立っていく。
秀一も、自分に向かってくる走烏の群れに向かって走り出した。
「逃げろ……信乃だけでも!」
叫びながら秀一は黒い鳥の群れに突っ込んでいく。
「バカなやつ……」
黒い烏に覆われていく秀一を見つめながら、弓弦はつぶやいた。
「バカなんかじゃないぞ!」
信乃が、弓弦をきつい瞳で見上げた。
「やめろ!」
信乃はしゃがみ込み、そのへんに散らばるものを拾い集める。
ちょうどその辺りは、秀一が地下へ降りてきた時に待ち構えていた敵と一戦を交えた場所だったらしく、数名の意識をなくして倒れている者たちと、彼らが携帯していた武器などが散らばっていたのだ。信乃は両手いっぱいにそれらを拾い集めると、立ち上がり、翔んでいるカラスの群れへ向かって投げつけ始めた。
しかし、烏の群れはいっこうにダメージを受けた様子もなく、秀一をついばみ続けている。
「弓弦! アイツの弱点は?」
ふぅふぅと肩で息をしながら信乃は弓弦を振り返る。
首を傾げて、早く答えろというように、小さく眉間にシワを寄せていた。
暫くの間、弓弦はあっけにとられてピクピクと動く信乃の眉間のシワを眺めていたのだが、どうにもこうにもおかしくて、現状を忘れて笑いだしてしまう。
「信乃ちゃん、それ……僕が答えると思ってるの? ほんと、面白い子だよね」
笑いすぎて、涙が出そうだった。
ドウン!
「!」
突然の銃声に、弓弦は現実に引き戻される。何が起きているのか、一瞬判断ができなかった。
銃声は烏と秀一のいる方向から聞こえてきて、驚いた弓弦と信乃が、そちらを向いたときには、もうすでに黒の群れは跡形もなく姿を消していた。
そのかわり、ひざまずき目をつぶったまま、折れていない方の手で拳銃を握りしめている秀一と、その直ぐ側で脇腹を押さえながら、やはり跪いている御先真珠がいた。
「くっ!」
御先真珠が短くうめいた。脇腹を押さえた手には赤いものが見える。
そして、この場にいなかった第三者の声が聞こえた。
「よくやったな、大神秀一。御先の分身は、よくあるタイプの変化だ。やつの本体はひとつ。そいつに攻撃を当てることができれば、幻影は消える。一度コツを掴めば、見破ることはたやすい。特に俺たち狼族は……視覚以外の感覚を使えば、どうということもなく本体を見破ることができる」
声は、弓弦の後ろの、上階へと続く階段から聞こえてきた。
トン。トン。トン。トン。
落ち着いた足取りで、何者かが階段を降りてくる。
「犬神。犬神史郎」
もともと低い御先の声が、更に低くなった。
「裏切ったか……犬神!」
大きな体躯、短めの丈の黒のジャケットに黒のワークパンツ。そして左の頬に残る三本の傷跡。
一歩づつゆっくりと階段を踏みしめながら降りてきたのは、これまで弓弦の側近として仕えていた、犬神史郎だった。
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