駆引

 天井に埋め込まれたLEDライトが、室内を仄かに照らし出していた。

 八畳ほどだろうか。部屋はそれほど広くはなく、タイル張りの床と壁は鼠色だった。

 ライトの真下はそこそこ明るいが、部屋の隅々まで照らし出すほどの光量は無いようで、タイルの色とあいまって、全体的に仄暗い印象だった。


 まるで、洞窟の中にいるみたいだ……。


 次第にはっきりとしてくる意識の中で、信乃はぼんやりと思った。

 体がだるい。

 足音が近づいてきて、そちらに顔を向けようと思った矢先に、一人の少年の顔がぬっと視界の中に現れた。


「目が覚めた?」


 近づいてきた少年は、声をかけながらベットの脇においてあった椅子に、腰を掛けた。

 どうやら信乃は、この薄暗い部屋の中央に設置されてたベットの上に、寝かされているらしい。

 ゆっくりと首を巡らせ、少年の姿や表情をじいっと眺めた。


「信乃ちゃん。身体痛くない?」


 昔からの知り合いででもあるかのように気さくに話しかけてきた少年を、けれども信乃は知らない。だから、聞いた。


「君、誰?」


 隣りに座る少年の胸の高さがちょうど信乃の目線の高さだった。

 少年は前かがみになり、信乃の顔の前に己の顔を突きつけてくる。


「僕は、八尋弓弦」


 顔と顔の間の距離は三十センチほどしか離れていないだろうか。やけに近い。が、嫌悪感はなかった。記憶をいくら攫っても、この少年とは初対面なはずなのに、なぜだか近親感を覚えるのだ。


「似てるでしょう? 僕たち」


 そんな気持ちを察したかのようなような弓弦の声に、信乃はコクリと頷いた。

 そう、この弓弦という少年は、姿形が信乃とよく似ている。信乃は十三歳の女子としては小柄な方だから、八尋弓弦は、もし同じくらいの年齢だとすると、男子としては極めて小柄なはずだ。年下ということも考えられるが、こうして目の前にいる少年からは、幼さの欠片も感じられなかった。

 よく似ているが、自分と弓弦では目の印象が違うかもしれないと信乃は思った。

 奥二重のためにパッチリとした目というわけではないが、黒目がちな大きな瞳の信乃に対し、弓弦の黒目はかなり小さい。小さい上に上の方に寄っていて、いわゆる三白眼と呼ばれる相貌だ。

 それと、信乃にはないものが一つ。

 薄い唇の右側……向かって左側の下のあたりに小さなほくろが一つ。


「それにね、僕たち誕生日も一日違いで凄く近いんだよ。とても他人とは思えなくない? 君と僕は表と裏。二人で一つって感じ?」


 そう言ってニコリと笑うと、弓弦の印象は多少柔らかくなった。だが、話している内容はかなり気色が悪い。

 弓弦と会話をしながら、信乃は少しずつ周囲の様子を探っていった。

 自分の左手には、ドアがある。足元の方にも一つ。窓が見当たらないかわりに、視線を巡らせていくと、右側には大きな鏡が見えた。ブラックミラーとでもいうのだろう。この部屋を暗く映し出している。

 信乃はふと、その黒っぽい鏡の脇に、一人、男が立っているのに気がついた。

 全身黒尽くめで、気配すら感じさせずに壁際に控えていたために、今まで気づかなかったのだ。

 大きいけれど、引き締まった体つきといい、微動だにせずまっすぐに立つ姿勢といい、只者ではないように思える。弓弦のボディガードなのかもしれない。穏やかな顔立ちだけれど、左の頬にある傷跡が、その穏やかさを殺してしまっていた。

 周囲を確認し終えた信乃が起き上がろうとすると、ジャラジャラという金属音が聞こえ、ずっしりと首に重みを感じる。そっと触れてみると、首には硬くて太い首輪のようなものがはめられていて、そこから鎖が伸びていた。


「ゴメンね。君を逃がすわけにはいかないんだ。暴れると傷ついちゃうから大人しくしててね。鎖には余裕があるから、この部屋の中は自由に歩けるし、おトイレもほら、そこにあるからね」


 信乃は眉をひそめてみせた。普段から、あまり表情をつくることは得意ではないし、自分では確認することはできないが、成功していれば不機嫌そうな顔に見えるだろう。


「こんなのしてたら、扉が閉まらないんじゃないか?」


 トイレを睨みながら信乃の発した質問に、弓弦が小さくぷっと吹き出した。


「信乃ちゃん、いい度胸だね。そこは我慢しなよ」


 ふん、と信乃は鼻で返事をすると、ベットを降りてトイレに向かった。首が重くて、すごく歩きにくかった。


「え? いまするの?」


 多少あわてたような声を出した弓弦に、信乃はちらりと振り返って一瞥をくれると「する」と短く答え、再びトイレに向かって歩き出す。


「ちょ……ちょっとまってよ……って、ま、いっか」


 なにが待ってで、なにがいいのかわからなかったが、弓弦は一人で慌てて一人で納得したらしい。

 信乃は、トイレに入ると周囲に視線を走らせた。

 個室の中は、洋式のトイレが一つあるだけで、それ以外にはほとんどなにもない。小さな棚に予備のトイレットペーパーが一つと、ウエットシートが置かれている。手洗い場もなければ芳香剤も掃除道具も見当たらなかった。予想はしていたが、窓もない。

 とにかく背に腹はかえられない。

 トイレの入口が少しばかり開いていようが信乃は気にしないことにした。まあ、排泄なんていうのは一種の生理現象なわけで、妖であれ、口からモノを入れれば、出てくるのは当然である。特に信乃や秀一たちの種族は、かなり現実世界に近いところに存在している。

 弓弦がどういった種族なのか知らないが、恥ずかしがることもないと判断した。

 信乃はヒダヒダのスカートを持ち上げて洋式のトイレに座ると、さっさと用を済ませた。

 ちょっとスッキリとして、幾分気分も上向きになる。

 だがトイレから出ると、見たことのない中年の男が、いわゆる苦虫を噛み潰したような……顔をして、立っていたのだった。

 信乃は、トイレを出たところで立ち止まり、新しく加わった男をじっとみつめた。

 イタリアンな香りのするスーツに身を包み、白髪交じりのオールバックに鼻の下の口ひげ。何よりも周囲を威圧するような空気が男の周囲を取り巻いていて、一度見たら忘れない……そんな存在感を持っていた。

 中年男は信乃を一瞥すると、弓弦を振り返る。


「弓弦、安倍信乃が目を覚ましたら、すぐに連絡をしろと言ってあったはずだ」


 声はそれほど特徴的ではなかった。一般的な中年男性の声である。まあ、見た目の存在感が在りすぎるので、期待値が大きかったのかもしれない。


「父さん、すいません。今、目を覚ましたばかりなんです」


 弓弦は椅子から立ち上がり一歩後ろに下がって、男のために場所を空けた。

 男は再び信乃に向き直ると、上から下へ、そして下から上へ、何度か視線を往復させる。 

 

「君が、安倍のところの娘か……」


 信乃がキュッと唇を結んだまま返事をしないでいると


「まあいい。私は八尋尊、弓弦の父だ」


 と自分から名乗り、先程まで弓弦が座っていたパイプ椅子に腰をおろす。


 信乃はトイレのドアを背にしたまま、戻ることも男に近づくこともできずにいた。自分も名前を名乗ろうかと思ったが、自己紹介するまでもなく、こちらのことはわかっているようなので、やめておく。


「色々聞きたいことがあるんじゃないのかい?」

「聞いたら答えてくれるのか?」


 信乃の答えを聞いた尊の口元は小さく歪み、微笑んでいるようにも見える表情になる。


「なるほど、気の強いお嬢さんだ」


 パイプ椅子がギシッ……と軋み、タイル張りの部屋の中にやけに大きく響いた。


「まあ、立ち話もなんだ。君もそこにかけたらどうだい?」


 尊が指し示したのは、先程まで信乃が横になっていたベットの上だ。

 信乃は尊から目を離さなようにしながら少しずつ近づくと、尊と向かい合わせになるようにベットの端に腰を掛けた。


「なにが聞きたいか、言ってごらん」

「……あんたの目的はなんなんだ」


 尊は腕を組み、幾度か小さく頷いた。


「先祖返りの姫君。君には知る権利があるかもしれないね」


 尊の口調は穏やかだったが、無理やりこんな地下に押し込めた上に首輪をはめて自由を奪われたのだ、到底緊張を解くことはできないし、信用するなんてとんでもない話だ。けれども、話すことは嘘ばかりではないかもしれないし、話すことで、なにか解決の糸口が見つけられるかも知れない……。


「私たちは、君の父上とは考え方が違ってね。人間の中に紛れて生き永らえようなんていう気持ちは、毛頭ないんだよ。人間が増えすぎ、地球上から闇が消えていこうとするのなら、神である我々が間引いてやればいいまでじゃないか」

「神?」

「人間から見れば、我々妖のものは、神にも等しい存在ではないかい? じっさい神の使いとして、または神本体として崇められているものたちも多い」

「ありきたりな考え方だな。神だの妖だの、単なる名前じゃないか。しかも、その名をつけたのは、人間だろう? 笑えるな。で? それがどうして僕を人質にとらなくちゃいけないんだ? ずいぶんゲスな神様だな」


 そう指摘した途端、信乃の頬が鳴った。

 頬を打たれた勢いで、信乃はその場に倒れ込む。

 熱い頬に手を当てて、倒れたまま尊を睨みつけた。


「ほんとのことを言われたら殴るんだな。僕を人質にとってどうするんだ? 学園開校の阻止でもしようというのか? あ……うっ!」


 尊が、信乃の首輪から伸びる鎖に手を伸ばし、鎖ごと信乃を引き上げる。


「おまえを躾る時間は充分にあるぞ。学園開校への横槍。それも楽しみの一つではある。それにしても今日は幸運だったよ。弓弦には、学園の周辺でひと騒ぎ起こせばいいと指示していたが、君をここに招待することができたとはね」


 片手で信乃を縛める鎖を引き上げながら、尊のもう一方の手が信乃の顔をあおむけさせた。

 あまりの苦しさに、信乃は喉奥でケホケホとむせた。


「我々が欲しいと思ったのは、君自身だよ。阿部信乃。だから我々の目的はもうすでに達せられているのだ。君の持っている異界渡りの力。あれはなかなかに魅力的だ」

「……!」


 鎖から尊の手が離れて、信乃はベットの上に崩れ落ち、肩を揺らしながら激しくむせた。

 尊たちの目的は、信乃にとっては予想外なものだった。

 幼い頃から先祖返りの姫だの、異界渡りの能力者だのと大層な呼び名を付けられていたが、その力が何かの役に立ったことなど、これまでただの一度もない。

 そのくせあの力のせいで周囲の人々からは敬遠される。

 欲しいという者がいるなら、熨斗をつけて譲ってやりたいような力だ。


「あれは……あの力は……」


 少し治まってきた呼吸の中から、信乃は声を絞り出した。


「あれは、なんだね?」

「あれは……僕の自由にはならない。僕を捉えたところで、僕にさえコントロールできないのに、あの力を扱えはしないと思うけど」

「ああ、いいんだよ」


 さっきまでの嵐のような激昂が、まるでなかったかのように、尊はとても優しげな表情をした。


「まだ君はほんの子どもじゃないか。これから覚醒するということもあり得るだろう? 我々としても、先祖返りの”姫”として、大切に預からせてもらうよ」

「大切に?」


 信乃は勇気を振り絞り、抗議の意味を込めて、自分の首から伸びる鎖を持ち上げてみせる。


「ああ、済まないねえ。お姫様に傷でもついたら大変だからね、行動は制限させてもらうよ。今は首だけだけど、もし暴れるようなら手枷足枷も準備しなくてはいけないね。我々としても、そうならないように願いたいのだが……」


 信乃は横を向いて鎖から手を離した。

 平静を装いながらも、心の奥底では今自分が置かれている状況への恐怖がじわりと広がり始めていく。

 灰色の箱の中で。

 この男は、いつか信乃が覚醒するかもしれないと言った。信乃自身が目的なのだといった。

 単なる人質ならば、交渉次第でここを出る糸口が見つかることもあるかもしれない。

 けれど、信乃自信が目的であるということは、事態がどう動こうと、信乃をここから解放する気など、さらさらないということだ。

 いままで自分にとって親しかったものたちと二度と会うことができないかもしれない。

 黒い恐怖に飲み込まれて、叫び出して、泣きわめいてしまいたくなる。

 信乃は喉を鳴らして口の中にたまった唾液を飲み下した。それと一緒に広がり始めた恐怖も心の奥底に押し込めようとする。


 ――落ち着け。僕が目的だということは、僕が壊されたり、殺されたりすることは無いっていうことだ。


 そう自分自身に言い聞かせる。


「もし……」


 それでも、ようやく発した言葉は情けなくも声がかすれていて、信乃はもう一度つばをコクリと飲み込んだ。


「もし僕が覚醒したとしても、あんたたちになんて協力しない。そうは思わないか?」


 八尋尊はニッコリと、優しげにすら見える笑顔を浮かべた。今となっては、その笑顔が、逆に信乃の心を氷つかせていく。


「ああ。もちろんもちろん。だがね、世の中にはいろんなやり方があるんですよ、姫。恐怖で支配する。痛みで支配する。心を壊してしまう。要は力の器であるあなたがいればいいのですから……。ああ、面倒な労力をかけなくとも、薬を使うという手もあるのです」

「く、すり?」

「ええ、薬です。我々は人間とは違って、個体個体や種族によっても効く薬というものが変わってくるのですけれどね。蓬だったり、菖蒲だったり、銀だとか鉛に反応するという種族もあるそうですね。そうそう、西洋の有名な妖は大蒜が苦手なんだとか。……あんがいそんなものが我々にとっては毒だったりするのですよ。なに、時間はたっぷりありますから、ひとつひとつ試していくことも可能です。口から摂取したのでは効き目がなくとも体内に直接取り入れることで効果のある物質もあるらしいですし。一日一つで……一年あれば三百六十五種もの毒を、体験することができますよ。貴女にピッタリのものが見つかるといいですねえ」


 信乃は震えそうになる指先をギュッと握り込む。

 八尋尊という男は、恐ろしい話になればなるほど、信乃が怯えを見せれば見せるほど、嬉しげな笑顔になっていく。ゆっくりと、丁寧に説明しながらその目は、信乃の顔をじいっと見つめているのだ。そうして、どんどん笑顔を深くしていく。


「ただ残念ながら私も忙しい身でね。あなたにかかりきりになってあげることはできないんです。でも心配することはありません。そこにいる弓弦……実はあれにもあなたと似た力があるんです。力は弱いのですがね。弓弦があなたほどの力があれば問題なかったのですが……あれにあなたの世話は任せてあります。私よりも、あなたの力については理解があると思います」


 尊は笑顔のまま席を立ち、ポンと、信乃の肩に手を乗せた。信乃は体中の毛が逆立つのではないかと思ったが、なんとか飛び上がることも、声を上げることも、堪える。


「では、ゆっくりと寛いでいてください。次に来るときには、貴女のためのとびきりの別荘を用意してまいりましょう。ここは、あの学園に近すぎますからね」


 たったひとつの外へと通じるドアに向かいながら、尊は弓弦へちらりと視線を向ける。


「任せたぞ」


 弓弦にかけた言葉は、今までとはうってかわり、鋭く、威圧するような口調だった。


「はい、父さん」


 弓弦の方は父のこういった態度に慣れているのか、いっこうに気にした様子もなく、返事をする口元には微笑すら浮かんでいる。


 パタン。


 部屋から尊が出ていってしまうと、がっくりと項垂れた弓弦から「ふう……」という大きなため息が聞こえた。


「ねえ、あんたバカ?」


 うなだれた姿勢のまま言った。しばらくの沈黙の後、弓弦はガバッと顔を上げると、ツカツカと信乃に詰め寄ってくる。


「あの人、相手が感情を見せれば見せるほど喜ぶって、わからない?」


 眉を吊り上げる弓弦を見つめがら信乃が考えていたことは「顔が、近い」ということだ。なにしろ弓弦と信乃の顔の間は十センチほどしかない。つばまで飛んできそうで、信乃は少し身体を後ろに反らせた。


「感情的だと言われたことは、今までなかったが……」


 そう反論すると、弓弦はまたもやがっくり肩を落とし、手のひらを上に向けながら肩をすくめた。お手上げ、とでも言う意味だろうか。何にしろ日本人にはあまり縁のないジェスチャーだ。


「ニコニコ笑ってたって感情を隠すことはできるでしょ。表情の動きが少ないからって、感情的でないということにはならないよ。だいたい、泣きわめくようなやつなんて問題外だよ。あんまり感情を見せないあんたみたいな奴が、ほんの少し見せる変化。それこそがアイツの大好物ってわけ。憶えておくといいよ。でさ……」

「弓弦様!」


 いままでまるで置物のように壁に張り付いて立っていた男が初めて声を上げた。

 弓弦はちいさな瞳孔で男を見上げると「来た?」とたずねる。

 男は周囲を気にするようにあたりを見回して頷いた。


「わかった。行って……。あいつがどれほどのものか……お楽しみだね。アイツのために配置された父の直属の奴らがいるよね」

御先みさきが配置されていますね」


 その名を聞くと、弓弦はピクリと眉根をよせた。


「あの男……。まあいい、奴なら大神秀一なんか、敵じゃないよね。ってわけで…………手を貸してやって?」


 弓弦は、顎を何度もさすりながら言った。


「わかりました。では、当初の指示通りに動きます……」


 それだけ言うと、男は弓弦に向かって静かに一礼をしてから部屋を出ていった。

 弓弦は男が部屋から出ていくのを見届けると、先程まで尊の座っていたパイプ椅子に腰を下ろす。


「信乃ちゃん。ここからは提案。さっきの会話で気がついているかもだけど、大神秀一が君を助けようとして、ここまで追ってきた」


 どくん。

 信乃の心臓が大きく跳ねる。今まで味わったことのないような感情が溢れ出す。喜びと、恐怖がないまぜになったような……なんとも落ち着かない気持ちに襲われて、胸が痛くなってくる。

 助けに来てくれた。その事自体は嬉しくないわけはない。けれども、こんなに早く助けに来るということは……。


「彼は……一人なのか?」

「そのとおり」


 信乃は自分の体を抱いた。そうしなければ震えだしそうだったからだ。

 秀一は強い。

 けれどやはりまだ、大人になりきれていない子狼なのだ。

 それに、彼はいまだに自分自身の変身をコントロールすることができていない。

 獣化して信乃に傷を負わせて以来、彼は自分が変化することを望まなくなった。だからあの日からずっと、秀一は狼の姿になったことがない。普通なら、もう自由に変身できてもいい年齢なのにだ。信乃が何を言おうと、秀一の心に届かない。

 そんな状態で、敵だらけの建物に一人で乗り込んでくるなんて、無鉄砲にも程がある。

 八尋尊は、信乃には利用価値があるから生かしているのだろうが、秀一は?

 そこまで考えて、目の前がすうっと暗くなった。


「ねえ、助けてあげようか?」


 弓弦の言葉に、信乃は自分の腕を掻き抱いたまま顔を上げた。


 ――助ける? だと?


「聞こえてる? 助けてあげようか? って言ってるの」

「……なぜだ?」

「なぜ? そうだなあ、君に貸しを作りたいんだよね。いい? これは大きな貸しだよ? 僕もただでは済まないもんね。きっと父さんにボッコボコにされるよ。そのかわり、いつか君は僕に力を貸してくれる。これでどう?」

「力を貸す?」

「そう、異界渡りの力があるでしょ」


 信乃が返事をしないでいると、弓弦は小さく舌打ちをした。


「聞いてなかったのか? 、だよ」


 信乃は、首を横に振る。


「あんたも、あんたの父さんも、僕を見誤ってる。異界渡りの能力者だの、先祖返りだのと言われてるけど、僕自身に操ることができない上に、それほど大層な力じゃないんだ」


 弓弦は人差し指を信乃の前に突き出して、それを横に振った。


「いやいやいや……以前、かなり大きな異界渡りを起こしたことがあるよね。何年前だったかな。大神の家でさ、学園開校に向けた話し合いのあったときだよ。たしかあのとき、信乃ちゃんは大神の家に初めて行ったんじゃなかったっけ?」


 弓弦が信乃の顔を覗き込んだ。


「どうして、知ってるんだ」

「ほらほら、信乃ちゃん。表情に出すぎだよ。……どうして知ってるかって? そりゃ、あの時その場にいたからだよ。侵入者の騒ぎがあったでしょ?」


 弓弦の顔がにやりと歪む。


「まさか」

「ビンゴ。あの時大神家に潜入してたのが僕と、さっきまでここにいた男で、犬神史郎ってやつ。……ってことで、あの時を記念すべき第一回の異界渡りとしようか。僕はあの時の異界渡りを君の力として父に報告してるからね。父は君に大きな期待を寄せてるってわけ」

「犬神?」


 信乃はその言葉に引っかかりを覚えた。犬神家といえば大神家との関わりが深く、九十九学園設立にも関わりのある一族だ。


「ああそう、犬神史郎。気になる?」

 

 そう言って、信乃を見下ろす弓弦の視線は得意げだった。


「犬神家が裏切ってるわけじゃないよ。彼は一族のはぐれものだよ。一族から身を隠すために、こちらサイドに助けを求めてきたのさ。僕の世話係。で、話を戻そう。僕はね、この異界渡りの力について父からの命令と自分自身の好奇心から、いろいろと調べてるんだ。君も興味があるだろう?」


 ドウン! と派手な音が何処かから聞こえた。


「……っと、時間がないか。とにかく、僕にも君と同じ力があるんだ」

「……ま、さか?」

「第一回のときもさ、はじめに異界を引き寄せたのはたしかに君だったけど、僕の力も無関係ではない。異界渡りを見てみたかったし、こっそり君に力を貸していたってわけ。その結果金色のどでかい化け物を呼び寄せ、現実界まで引き上げた。君だけの力でも、僕だけの力でもできなかっただろうね。でね。君と僕は二人で一つなんじゃないかっていう、仮説に辿りついたわけ。僕たち姿かたちも、こうしてみるとよく似てるだろう? 赤の他人なのにさ」


 弓弦は、呆然としたままの信乃の返事は待たずに、話を進めた。


「君が生まれたのは一九九五年八月十一日、月齢14.5。で、僕の誕生日は同じ年の八月十二日で月齢が15.5。この力というか、異界からの干渉は月の満ち欠けに多分に影響を受けるみたいだから、まんざらでもないと思う。過去の文献でも、異界渡りの能力者は満月に生まれる事が多いって書いてあるよ」


 期待を込めた眼差しが、信乃を見つめている。

 

「秀一を、助けてくれるのか?」

「Yes」


 弓弦の首がゆっくり大きく縦に振られた。 


「わかった……でも……具体的にはどうしたらいいんだ? それに、どうやって秀一を助けてくれるんだ?」


 何処かでまた大きな音がした。静かだった建物の中に、尋常では無いような大音量が時折鳴り響く。


 ――秀一!


 信乃は無意識に指を組んでいた。


「まあ、僕への協力については後日改めて。時が来たら連絡する。今は時間もないしさ。で、ここからの脱出についてだけどね……異界渡りを起こしてあげる。僕が力を貸してあげるから。絶対うまくいく! で、混乱に乗じて脱出。今日十月四日はおあつらえ向きに月齢15.3の満月だよ!」


 ガーン! ドン! ドン!


 何かが打ち破られるような音。それに続くのは銃声だろうか。

 今までになく近い。


「うーん。タイムリミットか……ごめんね信乃ちゃん。ま、なんとかなると思う。任せて任せて!」


 弓弦はニヤニヤしながらつぶやくと、信乃を左手で抱き寄せた。信乃からはよく見えないが、右手には何かを握って、信乃の首に突き立てている。


「なにをす……」


 信乃がみなまで言い終える前に、部屋のドアが派手な音を立てて、蹴破られた。

 メコリと変形し、半分外れかけた扉の向こうに、服はビリビリとあちこち綻び、金色にも近い薄い茶色の髪は乱れ、目ばかりらんらんと輝かせた秀一が立っていた。


「秀一!」


 信乃を見つけた秀一が、こちらへ一歩踏み出す。

 信乃を捉える弓弦の腕に力がこもった。


「動かないで!」

「……!」


 弓弦の持つ何かが信乃の首にぐいっと僅かに食い込むのを感じた。

 チクリとした痛みに、信乃は思わず声を上げそうになったが、必死でこらえる。

 自分の叫び声が、秀一に隙きを作ってしまうかも知れないと思ったからだ。

 ピンと張り詰めた空気が流れたのは、僅かな時間だった。

 荒い息遣いで、目をギラギラと光らせた秀一は、まったく躊躇を見せずに、弓弦に踊りかかったのだ。

 信乃は覚悟を決めてギュッと目をつぶった。


 バサバサバサバサ……ッ!

 耳を覆いたくなるような羽ばたきの音が聞こえた。ハッとして目を開けると、秀一は真っ黒な鳥に群がられ、その場にしゃがみこんでいる。


「まったく……なんとか間に合いましたね」


 バサバサという羽ばたく音の中から苛立ったような声が聞こえた。


「あのまま屋上に誘い出すつもりだったのに、いきなり地下に向かうんですから……」


 部屋に烏が充満している。羽ばたく烏たちのなかから、低く硬質な声が響いていた。

 舞い飛ぶ烏が一つにまとまりヒトガタらしいものを作り出す。

 秀一に群がっていた鳥は、次々とヒトガタに吸収されていった。黒い塊の中から頭をかばうような姿勢で転がる秀一の姿が見え始める。


「秀一!」


 短く呼んで、駆け寄ろうとした信乃を、弓弦の手が更に強く抱きすくめた。

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