内覧会

 建物の中に足を踏み入れた途端、真新しい匂いに圧倒される。


「臭い」


 秀一は思わず一歩後ずさった。

 鼻の良い秀一にとって、建物の中にこもる匂いは、かなり強烈な刺激だったのだ。


「出来たばかりなんだから、しかたのないことだ。だんだんにこなれるだろう」


 後ろからやってきた秀就ひでなりが秀一を追い抜き、正面の玄関から中等部校舎内へと入って行った。

 ずらりと並んだ来客用の濃紺のスリッパに履き替え、今まで履いていた靴は、入ってすぐのところに広げられたブルーシートの上に置く。

 今日は、来年度から開校が決まっている私立九十九学園の、内覧会なのだった。

 近い将来学園に通う予定の生徒と、その父兄のために、学園内のすべての施設が開放されており、自由に見学できるようになっていた。

 学園には初等科、中等科、高等科、の三つの棟があり、それぞれの中央昇降口には、真新しいスリッパが、来客を待ち構えていた。

 昼には、食堂での給食試食会も開催される予定となっている。

 試食会の時間は決められているが、それ以外については、時間内であれば好きに校内を見て回ることが可能なのである。


 秀一は、今年で十三歳になった。もし来年度からこの学園に入学するとすれば、中等科二年に入ることになる。

 父親の秀就が理事に就任することが決まっており、入学しないわけにはいかないのだろうが、彼自身にまだその実感は湧いてきていない。

 何しろ生まれてこの歳になるまで、学校などというものに通ったことがない。家族や知り合いにだって、学校に通ったなんて者はいないのだ。

 ただ、入学したくないわけではない。むしろ、この学園に入学することを楽しみにしていた。

 理由の一つは、この学園が全寮制であるということだ。

 全国各地から人非ざるものたちが集まる「私立九十九学園」は、日本国内では唯一無二の学園であり、すべての生徒に入寮が義務付けられている。

 中にはそれを危惧する声もあったというが、今の秀一にとっては、それこそ願ったり叶ったりの制度だ。


「秀一さん、上履き……」

「わかってるよ……」


 後ろから声をかけてきた露に、秀一は眉根を寄せながら答えた。わかりきったことを指摘されて、答える声に自然と棘が交じる。


「秀一、何だその態度は」


 先に校舎内に入っていた秀就が振り返り、秀一の態度をたしなめる。


「べつに……」


 秀一は視線を下へ向けたまま上履きを荷物から取り出すと廊下へぱん、と音を立てて置いた。

 力が入っていたのだろう。自分でしたこととはいえ、秀一自身も音の大きさに、実は少しばかり驚いたのだ。ただ、その驚きを、周囲に気取られるのは恥ずかしくて、平然とした様子を取り繕う。それがいけなかった。


「秀一……」


 振り返った秀就の声に、怒りの色がこもる。

 秀一の心のなかに立ったさざなみが、次第に大きくなっていく。

 最近はいつもこうだ。父にも、そして露にも、ちょっとしたことで苛立ち、反抗的な態度を取ってしまう。


 ――俺が何をした。少しばかり大きな音をたてて上履きを廊下においたくらいで、なぜそんな怒ったような声で呼ばれなくちゃならない?


 そんな暗い思いが、胸の中にジワリと染み出す。

 露も露だ、と思う。


「上履きに履き替えるのなんて、いちいち言われなくてもわかってるんだよ」


 と秀一が言えば、申し訳なさそうに「あ、ごめんなさい」と謝る。


「露! 謝る必要はない」


 と秀就が言えば「あ、すいま……」と謝りそうになり、慌てたように口に手を当てる。そんな露の様子にすらイライラしてくる。

 昔はそうじゃなかった。

 露の柔らかな笑顔が好きだった。

 なのに、今はその笑顔にすら苛立ちがつのる。


「親父の言いなりかよ」


 だからそんな憎まれ口をきいて秀一は横を向く。

 こちらへ近づいてくる秀就に


 ――ああ、これは手をあげられるかもしれない。


 と秀一が覚悟を決めたところで、背後から声がかかった。


「こんにちは」


 低い声だった。

 秀一が振り返ると、そこには赤毛のソフトモヒカンが印象的な大きな身体の少年が立っていた。


 天羽翔。


 彼は秀一と同じ十三歳であるにも関わらず、すでに大人の雰囲気を纏っていた。声変わりも終わったらしく、低くて深い声色をしている。ゆったりめの薄手のセーターにジーンズという服装も、彼を更に大人っぽく見せていた。流石に今日は、いつもの変な柄のTシャツは着ていない。


「ああ、翔くんか!」


 そんな翔の姿に秀就が感嘆の声を上げた。


「いやあ、すっかり大人っぽくなったねえ。うちの秀一と同い年とは思えないなあ」


 おそらく悪気があったのではないのだろうが、秀一には父の言うことがいちいち癪に障る。


「父さん。俺、翔と校内を見てくるから」


 そう言って、秀一は翔の隣に立った。

 秀就は何かいいかけたが、翔の後ろから校舎の中へと入ってきた天羽高志の姿を認めると、笑顔を浮かべた。

 父親同志が笑顔で握手を交わし、軽い挨拶をはじめる。それと一緒に、その場に漂っていた険悪な空気が消えていった。


「おう、秀一くんか。君も大人っぽくなったなぁ!」


 高志は、背中にたっぷりの陽の光を浴びながら、大きな体に似合わない人懐っこい笑顔を浮かべていた。


「ああ、やっぱり君たちか……」


 今度は校舎の奥から声がかかり、一同の視線がぐるりと校舎内へと向けられる。


 とん。とん。


 階段の踊場から小さな足音とともに姿を表したのは、ひだの付いたスカートに三本線のセーラーカラーという、この九十九学園の制服を着込んだ、阿部信乃だった。

 信乃の声に反応し、その場にいた全員の視線が上を見上げた。誰のものかはわからなかったが「おお」と言うかすかな感嘆の声が、真新しい校舎に響いた。

 ここにいる全員が、安倍信乃のスカート姿というものをはじめてみたのである。

 信乃は、しんとしたその場の雰囲気にたじろいだのか、歩みを止める。


「な……なんだよ」


 と言いながら、気圧されたように、少し上体を後ろに反らした。何しろそこにいた全員の視線が、今や信乃の上にじいっと注がれていたのだ。


「あ……いや……」


 と声を上げたのは秀就だ。なんとか取り繕うとしたらしいが、続く言葉が出てこないようだった。

 固まったその場の雰囲気から真っ先に抜け出したのは、露であった。


「まあ、信乃さんすごくお似合いです!」


 手をたたきながら、飛び上がらんばかりの勢いで、満面に笑みを浮かべている。

 露と信乃はずいぶんと年の差はあるのだが、何度も信乃が大神の家に遊びに来る間に、かなり親しくなっている。


「でも制服って、まだ販売が始まってなかったんじゃありませんか?」

「ああ、女生徒向けの制服のモデルというものを頼まれたので、一足先に手に入れたのだ。すかーと、というものは足がスースーするな。今の時期はいいが、冬になったら、この下にズボンの着用は許されるのだろうか?」


 露に答えながら、信乃はトントンと階段を降りてくる。

 一段降りる度に制服のひだが揺れた。

 そこから伸びるほっそりとした足を、今までみたことがなかったわけではない。短パンを履くことも多かったから、信乃の生足なんて、別に見慣れているはずだ。

 なのに、スカートのヒダからそれが伸びていると言うだけで、なんだか別のもののように秀一には思えて、なかなかそこから目が離せないような、それでいて見てはいけない物を見てしまったような気分になっていた。


「ああ、本当に似合うぞ信乃ちゃん!」


 次いで正気を取り戻した高志が言うと、翔も頷いている。


「確かに。制服というものも、なかなか良いものだな」


 秀就の表情にも、笑顔が戻っていた。


「本当、私も一度着てみたかったわぁ!」


 露はついに階段下まで降りてきた信乃の制服に手をかけ、じっくりと見分していた。セーラーカラーをめくってスカーフがどうなっているのかを見てみたり、制服の生地を揉んで手触りを確かめたりしている。

 秀一は気恥ずかしさが先に立ってしまい、結局一言も信乃に声をかけることはできなかった。


「信乃ちゃん、お父さんはどこだい?」


 高志が問いかける。

 信乃は高志に、泰造は早めに学園に入り、学食の試食会の準備の手伝いに入っていると告げた。


「いや、それじゃあ私たちも手伝いに行かないといけないな」


 大人三人は、少しあわてたように校舎内へと入っていく。


「お前たちは、自由に見学していなさい。試食の時間になったら学食にくるんだぞ!」


 と最後に振り返りながら言ったのは高志だ。早足で去っていく大人たちに、子どもたちは並んで手を振った。

 大人三人の後ろ姿が小さくなっていく。


「秀一、お前何かあったのか?」


 胸の前で左右に手を振りながら、信乃が言った。

 秀一の両隣に立つ翔と信乃は前を向いたままだったが、彼らの注意が自分に向けられていることを、秀一は痛いほどに感じていた。


 ◇


 所々に筋のような雲が伸びる青い空。秋だというのに、太陽の光は、突き刺さるように降り注いでいる。

 秀一と翔と信乃の三人は、陽の光を避け、校庭の隅の鉄棒と呼ばれる器具の周辺で会話をしていた。

 鉄棒とフェンスの間には桜の木が植えられていて、ちょうどよい影を落としてくれている。

 秀一は鉄棒の下で腰を下ろし、翔は鉄棒により掛かるようにして腕組みをしている。信乃は鉄棒を握りしめ、押したり引いたりしながらその感触を確かめていた。


「ガキだな……」


 普段口数の少ない翔の一言が、秀一の心にぐさりと刺さる。


「そんなことはわかってるよ。でもさ、俺をガキ扱いしてんのは父さんと露の方だろ? 言ってくれれば俺だってさ!」

「気持ちよく祝福できると?」


 その時、信乃が急に地面を蹴り、腕の力で鉄棒の上に身体を引き上げた。


「てか信乃! お前その格好で回る気か!」

「ああ、下に短パンは穿いてるぞ」


 言うが早いか、信乃は鉄棒に腹を当てたままぐるりと一回転して、また元の位置に戻った。


「うわぁぁぁぁああ! そういう問題じゃねえ! やめろ、なんだかやめろ! 心臓に悪い!」


 秀一は自分の顔が赤くなるのを感じて、手をじたばたと動かしながら大声で信乃を制した。


 とん。


 鉄棒から手を離し地面に着地した信乃は、不思議そうに首を横に傾げながら、慌てる秀一へ真っ直ぐな視線を向けてくる。はじめて出会った時と同じ、ガラス玉のような瞳だ。


「なぜだ」

「なぜだと!?」


 そう聞かれて、答える言葉が見つからず秀一は口をパクパクとさせたが、それを見ていた翔が「そこは、秀一と同感だな」と、ひとこと言ってくれたことで、信乃は納得したようだった。


「でだ、秀一はおじさんが露にプロポーズしているところを見たと」


 信乃に言われ、秀一は「ぐ」と詰まる。


「まあ、ありえない話じゃないな」

「遅いぐらいだな」


 顔を見合わせて、そう感想を述べる信乃と翔の言葉に「まじか!」と、秀一は思わず声を上げた。


「気付いてなかったのか?」

「それであの反抗的な態度というわけだな」


 二人に指摘され、秀一は再び「ぐ」と、喉に何かが使えたような声を上げた。


「で? 露さんはなんて答えたんだ?」

「……てない」

「てない?」

「だから……聞いてない!」


 秀一の両側から、同時に「ふう」と息を吐く音が聞こえた。


「あのな、自分の親父のラブシーンなんか、見たくねえんだよ! それに、親父も露も、その後ぜんっぜん態度変わんないんだぜ? 露もいつもどおりだし、親父も普段はあんなクソ真面目っぽい顔してるしさ。俺には何の相談もねえし!」

「あれじゃないか?」


 翔がぱっと顔を上げた。


「露さんがプロポーズを断った。だったら態度が変わらなくっても変じゃないだろ?」


 翔にしては珍しく話に乗ってきたが、その答えは秀一の納得の行くものではなかった。


「俺だったらそんなの無理。よくわからんけど、平気な顔していられるなんて、信じられない」

「そうかもしれないが、それが大人というものじゃないのか? だいたい振られたからと露を解雇したり、態度を変えたりするような男なのか? おまえの父親は」


 そうたしなめるのは、信乃だ。この二人は、まるで示し合わせたように秀一の痛いところをついてくる。


「……やめだ。こんな話。もう、面倒くせえ!」


 秀一は尻を叩きながら立ち上がり、大きく伸びをした。

 青い空にはオレンジ色に色づきはじめた桜の葉っぱがくっきりと浮かび上がっていて気持ちがいい。

 こんな辛気臭い話をしているのなんて、もったいない。


「ちょっと、その辺探索しよう」


 秀一の足はさっさと校門へと向かっていた。


「あまり遠くには行けないぞ?」

「昼までに帰れる範囲だな。それより、敷地内から出てもいいのか?」


 背中に二人の声がかかる。秀一は歩みを止めずに振り返った。


「だいじょーぶ、だいじょーぶ。大体この山一つ、ぜーんぶ学校の持ち物なんだろ? だったら、この山の中だったら学校から出たことにならないだろ?」


 翔と信乃は、お互いの顔を見つめ合い、そうしてちょっと肩をすくめると、少し走るように秀一を追いかけてきた。

 広大な自然。

 などという言葉があるが、山奥という場所はそのイメージに反して、意外と人の歩ける場所は少ない。

 九十九学園周辺もその例にもれない。学園への道路は整備されてるが、そこから一歩外れれば鬱蒼とした林の中なのである。

 よほど山歩きに慣れたものでなければ、道を外れたら最後、あっという間に方向感覚を失ってしまうだろうし、遭難ということも、ありえない話ではない。

 実際、県道まで後数メートルというところで、近くの集落のお年寄りが息絶えていたなどという事件も報告されている。

 昔からそういう話は絶えることがなくて「狐に化かされた」などと言われることも多いが、当の狐としては不本意極まりない話だろう。


『まあ、狐が化かすこともまったくないとは言わないけど、半分くらいは人間が勝手に遭難してるだけだよ。安倍家をはじめ、もともと狐族だったものは、今は山を降り街中で暮らしているやつらが多いんだ。人間の姿のままで一生を終えるものも少なくない』


 というのは、信乃のコメントだ。




「しっかし山奥だな」


 そう言ったのは、秀一で


「そうか? それほどでもないだろう?」


 と答えたのは翔だ。

 

 天羽は山の神として古くから人間たちの間で崇め奉られてきた一族である。

 中部地方のとある村に、天羽山という小さな山がある。その山の中腹に、天羽山本体を御神体とする天羽神社があり、その神社より先は一般の人間の立ち入ることのできない、禁足地になっていた。

 神の領域と言われるその場所で暮らしてきたのが、翔の先祖たちである。彼らは周辺の村人たちに、神域天羽山に住む神の一族とみなされてきたのだった。

 天羽の一族の特徴は、まず第一にその大きな体だろう。

 秀一たち狼族や信乃たち狐族の仲間たちは人間形に変化すれば、ほぼ一般の人間と変わらない容姿になることができた。だが天羽は、本来の姿を隠し人間の形になっても、かなり目立つ容姿なのである。

 体格ばかりでなく、肌や髪の色が突飛な場合も少なくない。翔の場合、肌の色は一般的な肌色だったが、髪の色がめったにお目にかかれないほど赤い。

 今の時代は髪を染めてるものも多いし、体格も昔の日本人とは比べ物にならないほど良くなっているから、天羽の一族が下界に降り人間に紛れることも、なんとか可能になっている。しかし昔は、なかなか難しいことだったに違いない。

 下界に降りた彼らを見た人間が「鬼」だの「天狗」だのと、彼らを称したのは、無理からぬ事だったろう。

 非常に長命。そして何故か女性がほとんど生まれないという、妖しのなかでも、独特な種族である。そのせいなのか、今でも天羽山の奥で、人とほとんど交わること無く、ひっそりと暮らしている。



 新設される学園は、こうした人非ざるものが通うための学校である。ひと学年たった二クラスの、初等科から高等科までエスカレーター方式の全寮制の学校というのは、なかなかに特殊ではあるのだろうが、表向きは学校教育法に規定された学校法人の設置する普通の学校ということになる予定だ。

 

「うちは、東京の住宅街の中にあるからな」


 信乃の家族は、人間たちの間で拝み屋として生計を立てている。都会育ちの信乃は、物珍しげに道路脇の斜面と、その先の藪を眺めていた。


「秀一の家にはときどき遊びに行ったが、あそこは人里離れているとはいえ、ここまで山奥という感じではないからな」


 大神家は山間やまあいにあるものの、大山津見神社裏の大鳥居から大神の屋敷までは、開けた平坦な土地である。鳥居から先は結界が張られていて、人間の目には林が見えるだけなのだが、人外の者が結界の入り口を抜けると、その先には大神一族の住む里が姿を現す。里の背後には山があるが、大神の者の手が入っており、深山ではなく里山なのである。


 今三人が歩いている道路は広く真新しいが、その道の両側は入山を拒むように木々が生い茂り、太陽の光の届かぬその場所は、ほの暗く肌寒い。


 ガサガサ……ッ。


 物音がして、三人が歩みを止めた。

 左手の藪の中だ。


「クマ……かな?」


 翔が言った。


「クマ! いるのか!」


 信乃の瞳がらんらんと輝きはじめる。


「信乃、動物園じゃないんだぞ。こんなとこでクマと乱闘なんて、親父に知れたら怒られる」


 秀一が言うと、信乃がちょこっと首を横に倒した。


「なんだ、やっぱりおじさんのことは、怖いんだな」


 などという嫌味に、秀一の心拍数は一気に跳ね上がった。


「怖くなんかねえよ! 面倒くさいだけ! こんな日に騒ぎなんて起こしてみろ? あのクソ真面目な親父にまたネチネチ嫌味言われんだぜ。そんで、ガキとか思われんだぜ。ほんっとうざい……。お前、うちの親父、あれでけっこうねちっこい……」

「まあ、クマは本当にいるだろうから、信乃は俺たちの間にいたほうがいいな」


 秀一の愚痴をきっぱりと無視しながら、翔が信乃を挟むような位置に立った。「そうだな、ありがとう」と答える信乃も、秀一の怒りなどどこ吹く風だ。


「お前ら! 俺の話ぜんっぜん聞いてないな!」


 と怒る秀一の肩を、信乃はなだめるようにポンポンと叩いた。

 けれどすぐ信乃の視線は、秀一の後ろの藪の中へと向かう。

 

「あ、あんなところに……!」


 何かを見つけたらししい信乃は、走り出す。


「あ! てめぇ! 信乃! クマが出るって翔に言われたばっかだろうが! 一人で行くな」


 自分の力を操ることのできない信乃は実戦となるとてんで役に立たない。力をコントロールできていないのは秀一も翔も同じだったが、その上安倍家の人間は、人の中で過ごすことを選んだ時点で、本来の姿を晒すことをタブーとしてきた一族でもあり、種としても戦闘の能力が低い。自らが主となって戦うというよりは、補助的役割や、用意周到な罠や策略を用いた闘いを好む種族である。

 本来の姿は狐であり、その戦い方が、ずる賢いという人間のイメージに繋がっていったのかもしれない。

 ずんずんと藪の中へ入っていく信乃を、秀一と翔の二人は慌てて追う。

 一瞬、木々の影に信乃の姿が消えて、二人は足を早めた。

 藪の奥で追ってきた二人を振り返り、信乃は手にした紫の実を、顔の前で揺らして見せてた。


「木立の間から見えたんだ。これ、木通あけびか?」

「いや、多分郁子むべだな」


 答えたのは、山奥に住む翔だ。

 だが郁子むべなら秀一も知っていた。大神家の広大な庭には、木通あけびの木もあれば、も郁子むべの木もあるからだ。

 木と言っても、木通や郁子は蔓性の低木であり、それ一本で天に向かって伸びていくことはなく、周囲に木々に絡まりながら紫の実をたわわに実らせる。


「食えないのか?」


 信乃の声には、長年の付き合いがあるからこそ分かる程度の、かすかな落胆の響きが混じっていた。


「食える食える」


 秀一は信乃の手から片手の中に収まってしまいそうな小さな郁子の実を受け取ると、手でその柔らかな果肉を割ってやった。

 中からとろりとした膜に覆われた種が現れる。木通あけびは真っ白な胎座の中に種が埋もれているが、郁子は黄緑がかったゼリー状の胎座の中に小さな黒い種がある。その様子は、少しばかりカエルの卵を連想させた。


木通あけびと似たようなもんだよ」


 秀一は割った郁子むべを信乃にわたしてやりながら自分自身も郁子むべをもぎ取った。


「けっこうなってるんだな」


 翔も、その小さく柔らかな実に、手を伸ばしている。

 信乃は手渡された実をしばらく眺めたあと、恐る恐るゼリー状の胎座ごと、黒い種を口に含んだ。


「ん!」


 切れ長の目が大きく見開かれ、わずかに頬に赤みがさした。


「ほんのり甘いだろ?」

「んっん……ほんとら……」


 信乃の小さな口がむぐむぐと動いている。

 秀一は自分も種を口に含むと、その甘味を味わって、早々にぺっと種を吐き出した。

 信乃の方はさんざん口をもごもごさせた後にようやくぺっ、ぺっ、と種を吐き出している。


「お、美味しいけど、口が疲れるもんだな」


 郁子は種が多い。丁寧に食べようとすると時間が掛かるし、確かに相当口が疲れる。


「そんなもん、口ん中入れて、適当に味わったら吐き出すんだよ。信乃みたいにきれいに食べてたら、時間がかかってしょうがないじゃないか」

「えー、もったいないじゃないか!」


 信乃はそう言って、もう一つ郁子を力任せにもぎっている。

 ハサミでもあればよかったのだが、なかなか苦労しているようだ。爪を立てて、なんとかもぎり取ると、満足げな顔になる。

 多分、今の信乃の顔を見て、満足げな顔だと気づくものは数少ないだろう。出会ってから五年。相変わらず信乃の表情の変化は小さいが、秀一と翔は、そこからいろいろな感情を読み取れるようになっていた。出会った頃よりは、信乃のほうでも多少は表情が豊かになっているのかも知れない。

 秀一は(彼から見ると)嬉しそうに郁子の種を口に含む信乃の様子を、なんということはなく眺めていた。秀一の助言を無視し、相変わらず丁寧にむぐむぐむぐむぐとやっている。

 この五年で、秀一はもうすぐ170センチに届こうかという身長になっていた。翔は秀一よりも縦にも横にも大きく育っている。太っているというわけではなく、天羽という一族は骨格自体がゴツくてガッシリとしているのだ。

 二人と比べると、信乃は小さい。とにかく小さい。並べば頭の天辺は秀一の肩と同じくらいの高さだったから、つむじを見下ろすことができてしまうほどだ。

 今までそれほど意識したことはなかった。それなのに、今日はなぜだか、そんな信乃の小ささが気になってしかたがなかった。

 あの、ヒダヒダとしたスカートというモノがいけないのかもしれない。

 あそこから伸びる足が、あんなに華奢に見えるなんて、知らなかった。

 体格だけでなく、食べ方もぜんぜん違う。秀一や翔は郁子の種を口に含んだらすぐに吐き出してしまうのに、信乃は長い間むぐむぐと口の中で種を転がしている。吐き出される種だって、秀一たちのものは、ベチャッとまとまったままなのに、信乃の口から吐き出されたものは丁寧に舌で胎座を削ぎ取られて、パラパラっと地面に転がった。


 こん。


 軽く頭をげんこつで小突かれ、はっとして振り返ると斜め後ろに翔がいる。


「目が、やらしい」

「気配を消して近づきやがって! お前のほうがやらしいわ」


 頭を片手で抑えながら翔に食ってかかったとき、周囲の異変にはじめて気がついた。

 気配をより感じようと動きを止め、神経を集中させる。異変の漂ってくる方向を探るために、顔を左右に振ってみた。

 まず、強く感じたのは臭いだった。

 強く感じたといっても、それは熊などの野生動物が出るかもしれないからと、いつもより周囲に気を払っていたからこそ気がついたくらいの、微かな臭いだ。

 

「……血?」

「血?」

「ああ、匂わないか? 翔?」


 秀一に促され、翔は周囲を見回しながらくんくんと鼻を鳴らした。


「いや、俺は秀一ほど鼻はよくないからな……でも……確かに、なにかよくない感じがする」

「……だろ?」

「だな。実はさ、今日は朝から嫌な感じがしてたんだよな」

「早く言えよ、そういうことは」

「いや、秀一に付き合って、親父に小言を言われるくらいのものかと思ってたんだが……」


 秀一と翔はすばやく視線を交わした。


「信乃!」


 二人の様子に気づかずに郁子に手をのばしていた信乃は、秀一の呼びかけの鋭さに振り返った。

 信乃は腕の中に収穫した郁子を抱えている。


「なんだよおまえ! そんなに食うの?」


 秀一が驚いて尋ねると信乃は「食べないよ。お土産にしようと思ってさ」と答えた。


「あー、お土産……お土産ね……」


 都会育ちの信乃には珍しいものなのだろう。

 信乃には翔のような予兆を感じる力も秀一のような飛び抜けた感覚もないのだから仕方がないのだけれども、秀一は緊張感のなさに脱力する。


「どうしたんだ?」


 不思議そうに尋ねる信乃に「こっちに来い!」と、秀一は手招きした。


「なんだよ」


 首を捻りながらも、信乃は素直に二人のそばまで戻ってくる。


「血の臭がする」

「血?」

「そっちの方角だ」


 秀一は三人のいる場所より更に奥の藪の中を指で指した。

 秀一の指し示す方角には、よく見なければ気づかないほどの細い獣道が伸びていて、先に進むことができるようだ。


「獣の臭いもするから、もしかしたら動物が死んでるのかもしれないけど……。どうする? 行ってみるか?」


 秀一がたずねると、翔と信乃は一度お互いに顔を見合わせてから、こくりと一緒に頷いた。

 その時確かに、危険を知らせる漠とした予感のようなものはあったのだ。

 けれど、秀一も翔もそれなりに高い能力を持っており、クマに襲われたとしても対処できる、という自信が彼らにはあった。

 それに、三人のいる場所がまだ学園の目と鼻の先……敷地内であるということが、警戒心を鈍らせていたのかもしれい。内覧会という常とは違う状況に、浮かれていたのかも知れないし、ちょっとした冒険心も、心の何処かにあったのかもしれない。

 つまり三人は、学園に帰ることより、その先に足をすすめることを選んだのだった。


「信乃、俺と翔の間にいろよ」


 秀一はそう言うと、細い獣道へと分け入って行く。

 秀一、信乃、翔の順番で一列に並び、ガサゴソと獣道を辿っていくと、あっという間に少し開けた場所に出た。

 小さな沢が流れている。

 秀一はそこで歩みを止めた。

 広い場所へ出たけれど、周囲は薄暗かった。木々に囲まれていることももちろんだが、陽も陰り始めていた。つい先程まであれほど青かったのに、梢の間から見える空はすっかり灰色に変化している。

 

「クマだ!」

「え? クマ?」


 信乃と翔が秀一の影から顔を覗かせた。


「ああ、クマが……死んでる……?」


 信乃が見たままをつぶやいた。

 小さな沢の流れのそばに、一頭の大きなクマが倒れている。

 しかも、クマの死骸の下には血溜まりが出来ていた。

 食物連鎖のてっぺんにいるはずのクマが、血を流して倒れている。それは、常ならありえないことだろう。

 秀一と翔はソロリソロリとクマに近付いていった。


「ここで待ってる」


 信乃は近づくことをためらい、獣道の出入り口のあたりに立ち止まったままだった。


「わかった。確認だけしたら、すぐに帰ろう」


 雲行きも怪しくなってきているし、時間ももう昼になろうとしている。それぞれの両親も心配しているかもしれない。

 ここに長居をするつもりはなかった。

 ただ、どう見ても目の前のクマの死骸は異常だったし、大人に報告するためにも一度確認をして、それから戻ろう。その時秀一はそんなふうに考えていた。

 近づくと、血の臭が強くなる。秀一だけでなく、翔も、信乃さえも、その臭いを感じているはずだ。

 近くで見ると、クマの首には、パックリと開いた傷があった。

 食いちぎられたという感じではなくて、鋭い刃物――しかもかなり大きなもの――を使って一太刀で切られた、そんな傷だった。そこからまだ血が流れ出している。

 それ以外の外傷はさっと見たところ確認できない。

 誰かがクマを殺した。しかも、たった今! たったの一撃で!

 こんなことができるのは獣ではないだろう。もちろん人間にだって、不可能に近いのではないか?……こんなにスッパリときれいに首のみを狙ってクマを殺せるような人間が、いるだろうか? もしいたとしたら、その者はかなりの手練である上に、刃物を持って歩いているような人間だということになる。

 しかし人間でないとするなら、何者がクマを殺したというのだろう。

 妖しの者?

 もちろんこの山の中に、今日は人外の者たちがわんさかと集まっているわけだが、内覧会へやってきた者が、こんなことをするだろうか。

 気がつくと、秀一の背中には冷や汗が吹き出していた。

 帰ろう。

 そう言おうとした矢先、背後で短い悲鳴が上がり、周囲から複数の気配が立ち上る。

 クマの上にかがむようにしていた秀一と翔が振り返ると、周囲はもうすでに、十人ほどの黒い服を着た者たちに取り囲まれていた。

 全員が黒の服を着ているが、揃いというわけではない。ジャケットを羽織っているものもいれば、タンクトップのものもいる。ワークパンツのものもいればジーンズのものもいる。

 性別も姿かたちもてんでんばらばらだ。逞しい体つきのものが多いが、中には痩せているものもいるし、手足の長いものや、猫背のものもいる。

 その一人ひとりから、殺気に満ちた空気が立ち上っていた。

 自分たちを取り囲む者たちに一通り目を通した秀一は、彼らの中に一人だけ、秀一たちと同じくらいだと思われるが混じっているのに気がついた。

 色白のほっそりとした少年で、体格は信乃とほぼ同じ。ショートボブの髪型も似ているため、顔を見なければ、一瞬信乃が立っているのかと思ってしまうほどに、その少年と信乃はよく似ていた。

 けれども、と秀一は思う。

 目が、違う。

 少年の目は、黒目が小さくやや上に寄っていた。いわゆる、三白眼と呼ばれる相貌である。それと、口元にあるホクロが印象的だ。

 その少年の斜め後ろに、大きな体の男が立っていて、腕にぐったりとした信乃を抱えていた。

 男の足元には、郁子の実がコロコロと転がっている。


「誰だ、お前ら」


 秀一と翔は無意識のうちに背中合わせになった。


「やあ、はじめまして。大神秀一くんと、天羽翔くんだよね」


 小さな声で、少年が言った。つぶやくようなかすれた声だった。

 どうやら一番年若いように見えるこの少年が、ここにいる者たちのリーダーであるらしい。


「僕は八尋弓弦。憶えておいてね。ああ、僕たちが誰かという質問だったよね。まあ、なんていうか、学園建設反対派っていえばいいのかな? 人間と手を取り合って、人間の中に溶け込んで、陽の光の中で生きていく……っていうの? ありえないよね」


 少年の口元は笑っているように釣り上がっていたが、じいっと秀一と翔を凝視する瞳は笑ってはいない。

 会話の間にも、二人を取り囲んだ者たちは、ジリジリとその環をすぼめていた。


「そのクマはとても役に立ってくれたよ。君たちの気をそらしてくれたし、クマの血の臭いは、僕たちの気配を消してくれただろう?」

「殺したのか?」 


 秀一は聞いたが、弓弦はひょいと肩をすくめただけで、それには答えなかった。


「じゃあ、僕はもう行かなくちゃ。先祖返りの能力者は頂いていくね?」


 それだけ言うと、弓弦は踵を返して、獣道の向こうへと消えていく。信乃を抱いた大柄な男も、その後に続いた。


「待てよ!」


 秀一は後を追う。

 地面を蹴り、取り囲む大人を飛び越えて、その向こうに消えようとしている少年と、信乃を抱きかかえた男へ一直線に飛びかかろうとした。が、周囲を取り囲んでいた内の一人が、跳躍した秀一の前に移動しながら腕をひと振りする。その手の中には大人の腕ほどの釜のようなものが握り込まれていた。

 勢いに任せて飛び出していた秀一は慌てて身体を反転し、地面に転がる。


「秀一!」


 秀一に一呼吸遅れて動き出した翔が、低い姿勢のまま突進して、秀一に向かって鎌を振り上げた男に体当たりをした。翔のタックルを躱すことのできなかった男は、その場に崩折れたが、一息する間もなく、周囲を取り囲んでいた者たちが、一斉に翔めがけて踊りかかった。


「翔!」


 慌てて身を起こし、翔に群がる敵に向かおうとした秀一に、翔の声が届く。


「信乃を追え! 俺は大丈夫だ! 信乃を!」


 瞬間、秀一はもうすでに小さな空き地から離れ、獣道を信乃の臭いを頼りに走り抜けていた。

 迷いはなかった。

 今まで経験したこともないほど、頭に血が上っている。

 どくん、どくんと、こめかみのあたりの血管が脈打っているのを感じた。頭の中は真っ白で、おそらくその時秀一は何も考えず、ただ本能の命じるまま、突き動かされるように林の中を走り抜けていった。

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