子どもたちが外で遊んでいる間、大神家の応接間では、近々創設することが決定している学園についての話し合いがなされていた。

 どっしりとした調度品に彩られたに二十帖ほどの広さの洋屋には、コの字型に長テーブルがおかれ、それぞれに二名ずつが腰を下ろしている。

 四名の男性と二名の女性で、そのうち三名は秀一と信乃と翔の父親である。

 部屋に入って左側の長テーブルには信乃の父親である安倍泰造あべたいぞうと翔の父親である天羽高志あもうたかしが腰を下ろしていた。

 銀縁眼鏡をかけ、ほっそりとした色白で、背筋をぴんと伸ばした泰造と、スーツを着ていても隠すことのできないボディビルダーのような体格で少しばかり猫背気味の高志が一つのテーブルに並んでいる様子は、なかなかに違和感のある光景だった。

 彼らの頭髪も、まるでオセロのように対照的だ。

 烏の濡れ羽色のサラサラとした髪の泰造に対して、高志の毛髪は、一筋の混じりけもない真っ白な銀髪であり、短かめに刈り込まれ一本一本がツンツンと立っている。風が吹いてもそよりともなびかなそうな剛毛だ。

 正面の長テーブルには秀一の父親である大神秀就おおかみひでなりともう一人、さきほどの天羽高志をも凌駕するのではないかという大きな体躯の初老の男、九鬼勝治が出窓を背にして座っている。

 九鬼という男も、天羽高志に負けず劣らずの、巨躯であった。顔に刻まれた皺からそれなりの年であることは察せられるが、背筋はピンと伸び、眼光鋭く、老いているという印象はない。

 向かって右のテーブルに座るのは、女性二人である。

 キュッと髪を結い上げ、紺鼠色の絽の訪問着姿を身につけた六角芙蓉ろっかくふよう

 芙蓉の隣で緑がかった緩やかにうねる黒髪を揺らし、水色のオーガンジーに大輪の白い花がプリントされたワンピース姿で、長いまつげを瞬かせているのは鳴海灯なるみあかりだ。

 和と洋。この女性二人も対照的ではあるが、どちらも甲乙つけがたい美しさを持っていた。

 ここに集まるものたちは皆、人に非ざるものたちである。

 妖怪・妖かし・魑魅魍魎。

 そんな言葉で人々に恐れられている者たちだった。


「では、新しく設立する学園の名前ですが、私立九十九学園ということで、異議は?」


 家主である秀就が立ち上がり、議事の進行を担当している。


「いいんじゃないか? 九十九っていうのは、数が多いっていう意味もあるし、産めよ増やせよ……じゃないが、我ら妖かしの者共は、今やレッドデータブックに載ってもおかしくないという有り様だ」


 高志がのんびりとした口調で賛同する。


「わたくしもいいと思いますよ。九十九というのは付喪神、というのにも通じますし。付喪神は我ら妖かしの者の中では、どの種族からも中立ですからね」


 六角芙蓉の言葉に、その隣の鳴海灯が長い髪を揺らめかせながら頷いた。

 どうやら、皆その名前に賛成のようだった。彼ら妖しの者たちが、表向きの名前などというものに、こだわりをもたないということも、異論の出ない理由の一つであったかも知れない。


「しかし、嘆かわしいものだ」


 秀就の隣で眉根を寄せ、腕組みをしている九鬼勝治が、嘆息とともに吐き出す。


「我ら闇に生きる者共が昼日中、人間どもの世界で学校などというものに通うようになるとはなぁ」


 身体の大きな九鬼は、声も低い上に大きくて、喋る度に部屋の空気がビリビリと震えている。


「仕方がありませんよ、九鬼さん」


 安倍泰造が眼鏡を押し上げ、九鬼に視線を向けた。


「この世界では、私たちが住んでいた闇というものが、どんどん駆逐されていっているのです。今までのように、闇に紛れ……人間と関わらずに……もしくは敵対して暮らしていくことは不可能に近い。情けなかろうが、嫌であろうが、生き残ろうと思うのならば、闇ではなく影くらいの場所には出ていかなければ。それこそ昔話の中でしか存在できなくなってしまいますよ」


 ふうううぅぅぅぅう。

 九鬼は大きく息を吐き、ゴリゴリと頭を掻いた。


「わかっているのだがな」


 それきり黙ってしまう。


「それでは、学園の名前は九十九学園で決定ということに。まあ、まだ学園設立までは何年かありますから。どうしてもという案がある場合はご提案ください」


 そう話をまとめた秀就に、反論するものはない。

 小さな間の後に、天羽高志が手を上げた。


「俺んとこは山奥だし、あまり人間との関わりの深くない種族だ。人間への根回しの方はどうなってるんだ?」

「それは……私ですね」


 安倍泰造が身を乗り出した。


「私ども安倍、土門、御門といった一族たちはもう長いこと、人間の間で、人間たちの中に溶け込んで暮らしてまいりましたから……。私は拝み屋などという商売を人間相手にしていますが、顧客には政財界に顔のく方もいらっしゃいますよ。彼らはこの学園設立の良い協力者となってくださっています」

「わたくしどものお客様にも、そういった方はいらっしゃいます」


 泰造の向かい側に座った六角芙蓉が軽く手を上げた。

 

「わたくしどもは、東北の山奥で旅館を経営しておりますけど……こじんまりとした高級旅館というやつなんです。あちらこちらのお偉いさんがお忍びでいらっしゃいます。根回しは十分してありますわ。それに彼らの方でも、わたくしたちの特殊な能力は喉から手が出るほど欲しいものですもの。力のある方ほど、貪欲で……更なる力を欲しがるものですよ」

「学園設立を機に、裏でこの国の人間の上層部と手を組み、生きながらえる。我々は彼らに極秘裏に力を貸し、その見返りとして生きていく場所を確保する、というわけだ」

「言葉にすると、情けないことこの上ないな」

「なに、こちらから利用してやる。そのくらいの気持ちでいればよいのですよ」

「厄介なのは、彼らは入れ替わるということか。せっかく繋いだと思った縁がふいっと消えたりする」

「ま、人間は寿命が短いし、トップに座る時間も短いし……」

「でも……その分ルートが出来てしまえば、こちらの思う壺ではないかしら? 次にトップに座った人間を、はじめから思うままに操れるわ」

「とにかく、初めてのことですから、やってみなければわからないというのが現状ですわね……」


 本日の議題についてあらかた議論し終えた頃合いになると、木綿の和服に割烹着姿の使用人が、コーヒーとお茶菓子をそれぞれの客人の前に運び、応接室の中は和やかな雰囲気となっていた。


「あとこれは、それぞれの種族で周知を徹底してもらいたいのですが、我々妖怪だの魑魅魍魎と呼ばれる種族は、人間の比ではないほど子ども……次世代の者たちが少なくなっているのが現状です。日本全国から入学者を募っても、一学年二クラスか……三クラスがやっとというところでしょう。学園設立に反対の者もいますしね。該当年齢の子どものいる種族は、強制とは言わないが、原則として子どもを学園に入学させてもらわないと……」

「まあ、そこが難しいところだなあ。我々の妖しの者共は、他人から強制されることを嫌う傾向がある。規則なんかも、受け付けない奴らも多いからなあ」

「ある程度、入学できる年齢に幅をもたせることも考えたほうが良いのでは?」

「横の連携が苦手ですからねえ」

「寮の整備もきちんとしてもらわないと……。我ら海の同胞たちは、棲家から通うということは不可能です。彼らが寛げるような水辺の整備も併せてお願いします」

「鳴海さん、もちろんです。陸のものも全国から集まるわけですから、全寮制になる予定ですよ。水辺についても、もともとあった沼を利用して……整備もすでに進んでます」


 こうしてコーヒーをすすりながらの雑談は、きちんと議事進行される会議中よりも話が弾むようだった。

 鳴海灯は、秀就の答えに頷きつつ微笑んだ。


「六角さんのところは、お子さんが三人もいらっしゃるとか」


 会話は、それぞれのプライベートなことへと及んでいく。


「ええ、私の産んだ子は一人ですけどね。人間の男との間にできた子どもで、その子も人間なの。人間でも、入学はできるかしら? ああ、あとの二人は、私と同じ雪女族の子よ。血がつながってるわけではないけれど、子どもとして育てているの」

「へえ、人間のお子さんがいらっしゃるのですか」

「そうです。雪女というのは、生まれるものではありませんからね。とても寒い雪の晩に、ふとした歪みの中から自然に出現するものななんですよ。雪女から生まれるのは、不思議なことに人間だけなんです。まあ、ちょっとした能力を持っていることも多いのですけど、本人すら気づかないほどの小さな力の場合が多いですねえ」

「人間の入学枠については、今検討中です。少数ではありますが、我らに協力してくれる将来有望な人材を数名ずつ入学させることになるでしょう。将来的に増やすにしても、最初のうちは極少人数で、と考えています。六角さんのところのような訳ありの息子さんは、それとは別の特別枠というのもありかもしれませんね」


 答えたのは、今回の会議の議場を提供し、議長役も務める大神秀就だ。


「ああ、そのことなんだが……」


 秀就の隣りに座る大きな体の九鬼勝治が茶菓子のクッキーを口に放り込みながら発言したときだった。

 応接室へと近づく足音が聞こえだした。

 ドドドッと、音を立てて近づく足音は、客人への配慮など微塵も感じられない、かなりあわてた様子であった。

 部屋の中の者たちは動きを止めると、廊下へと注意を向けた。


 バタン!


 大きな音を立てて、勢いよく扉が開く。

 部屋の中にいた六人は微動だにしなかったが、威圧感を持った気が、一斉に開いた扉の向こうに向かった。

 六名の視線に晒された侵入者は、ビクリと肩を震わせると、思わず一歩後退する。

 もしこの者が狼の姿であったのなら、耳を伏せ、尻尾を足の間に挟み、身を伏せてしまっていたことだろう。


「も……申し訳ありません。が!……何者かが我らの結界内に侵入しました!」

「なんだと!?」


 秀就が立ち上がる。立ち上がった勢いで、椅子が後ろに倒れた。


「どうやら侵入者は少人数のようなのですが、今、警備の者たちが手分けをして追跡しております」

「どこの一族の者かはわかるか?」

「向こうも気配を消している様子ですので、まだはっきりとは……。ですが、大神家周辺は特に強い結界が張られております。この結界内に気配を消して忍び込むとなると、かなり格の高い種族か……もしくは……」

「同族か……」


 大神秀就の瞳がぎろりと動き、開いた扉の前に立ったままの男を見た。秀就は九鬼たち客人がいる手前、同族、としか言わなかったが、結界を破ることができるとなると、同族の中でも大神家本家の内情に詳しいものに限られてくる。この家屋敷にかけられた結界には、出入りするための鍵のようなものがあるからだ。それは、大神家の中枢に近いものしか、知るはずのないものである。


「おそらくは」


 部屋への入口の前で気を付けの姿勢で報告をしていた男は拳を握りしめ、下を向いた。

 ざわりと、部屋の中の気が揺れた。


「ま……まあ、なんてことかしら。理事である大神様一族が一枚岩ではないというわけ?」


 鳴海灯なるみあかりが口元を手で覆った。目を見開き、いかにも驚いたというような顔をしている。


「きちんとしていただかないと、困りますわ」


 その声には、いくぶん嘲笑の色が滲んでいた。


「種族としては、まとまっている。だが、一人二人の造反者は出る。鳴海さんのところなどは、一度も顔も出さない種もいるじゃないですか」


 秀就横目で睨みながら灯に応じた。


「海の中の種族を、陸の者と同じに考えないでほしいわ。こちらは陸より自由が効く分、差し迫ってはいないのよ? 私が理事として名を連ねているだけでも、ありがたいと思って欲しいものだわ」


 秀就の視線を受け止めた灯の口元は微笑むように弧を描いていたが、瞳には鋭い光が灯っている。


「あらまあ、あなたのような小者で、ありがたがれですって?」


 秀就と灯のやり取りを聞いていた六角芙蓉がそう言い放つと、それまでやわらかな微笑を浮かべていた灯の表情が険しいものに変わる。大きくぱっちりとしていた目がすっと細められ、ゆらりと芙蓉を睨んだ。


「待たんか!」


 鼓膜がキーンとするほどの大声だった。

 秀就ひでなり芙蓉ふようあかりも、睨み合うことを忘れ、そこにいた全員の目が、声を発した九鬼勝治へと向かう。


「今、種族同志で争っているときか? 我々は、手を携える時であろう? 反対派がいるのも、わかりきったこと。奴らに踊らされて、中から崩れるおつもりか?」


 秀就の隣で腕組みをした九鬼は、先ほどとはうってかわり、静かな口調で問いただした。


「九鬼さんの言う通りだ。一人二人の造反者のために、我々がいちいち仲違いしてたんじゃあ、敵の思う壺だぜ」


 続いて、天羽高志ののんびりとした声が、その場の空気をふっと弛緩させた。


「……そうですね。すみませんでした」


 と毒気を抜かれた秀就が頭を下げ、鳴海灯も


「私も大人気なかったわ……。海のものである私がこの山奥まで来るのは、ちょっと大変なのよ。気力も、力も万全とはいかなくなるの。そのせいでカリカリしてたわ」


 と肩から力を抜いた。

 その表情には、柔らかさが戻ってきている。


「わたくしも、配慮が足りなかったようね」


 六角芙蓉が最後に詫た。


「まったく、こんなことだから我ら妖かしの者たちは滅びに瀕しているのだ……」


 九鬼がぼやき始めたところで


「すいません!」


 と、それまで黙っていた安倍泰造が声を上げた。

 泰造は、この部屋に集った面々の中では、一番小柄で色白で、弱々しくさえ見える男であった。彼よりも、女性である六角芙蓉や鳴海灯のほうが、よほど貫禄があるようにみえる。しかし泰造は、皆の注目にもまったくひるむ様子はなかった。


「子どもたちが心配です。秀一くんと翔くんがついていてくれるから大丈夫だとは思いますが、もし賊に狙われれば、信乃には自衛の手段がありません」


 その言葉に、ざわりと場の空気が緊張を孕んだ。


「先祖返りの姫君か……!」


 泰造の子どもである安倍信乃は、先祖返りの力を持っている。 

 妖したちの間で、それは有名な話だった。

 昔は、先祖返りと言われる異界へ渡る力を持ったものが、途切れることなく存在していたのだ。しかし今現在確認されている先祖返りの能力者は、安倍信乃たった一人になってしまっていた。

 異界を感知する力。異界を引き寄せる力。そこから魔物を引き出す力。

 信乃はまだ、その力をコントロールできずにいるが、敵に狙われる可能性は大いにある。

 その場にいた者たちが顔を見合わせた。

 

「様子を見てきたいのですが……」


 そう言って泰造が立ち上がった時、バタバタと、新たな足音が聞こえてきた。


「し……信乃様が!」


 開きっぱなしの扉から、スーツ姿の警備員がもう一人姿を現した。よほどあわてているのだろう、報告する声が上ずっている。


「どうしました!?」


 すでに立ち上がっていた泰造は、長テーブルに手をついて身を乗り出した。


「異界渡りです! 大神家の敷地内の畑で……どうやら信乃様が異界渡りを! おそらく秀一様と翔様もご一緒かと思われますが、あまりに異界の気配が濃く、我々には近づくことが……」


 バァアァァーーーン!


 けたたましく響く破裂音。


「今度は何事だ!」


 九鬼が吠え、天羽高志が椅子を蹴り倒しながら立ち上がった。高志はそのまま廊下へと走り出て行く。

 秀就もすぐにそれを追うように走り出したが、部屋の出入り口で立ち止まり、一度後ろを振り返った。


「安倍さん! 子どもたちの方はあなたにお願いする! 私は天羽と裏手へ向かう!」


 そう叫びながら、もう秀就は高志と並んで全力で走り出していた。

 秀就が天羽とともに、大神家北側にある裏口に到着すると、そこには数名のスーツ姿の警備員がすでに集まっている。

 彼らは秀就の姿を認めると、軽く会釈をしたが、すぐにまた扉の外へと注意を向けた。

 あたりには、焦げ臭い匂いが立ち込めている。

 現場の指揮官らしい男が、秀就の隣にすっと近づき、現状の報告を始めた。


「駐車場に停まっているランクルの後ろに侵入者は身を隠しています。駐車場の向こうの林の中にもすでに警備員三名を配置。取り囲んだところです」


 秀就は説明を受けながら、細く開いた裏口のドアから駐車場の様子をうかがった。

 むうっとした熱気が秀就を包むと同時に、異様な匂いが更に強くなり、彼の敏感な鼻を刺激した。

 のぞいた先には、もうもうと黒煙をあげている乗用車が一台見える。

 先程の爆発音の正体はこの車だったのかもしれない。

 黒煙を上げる車以外にも、そこには数台の車が停まっていた。その中に一台の四輪駆動車があり、警備員たちの視線は、そこに注がれている。


「うわ、ウチの車だ……」


 天羽高志がつぶやいた。


「敵は、爆発物、及び銃器を手にしています」


 まるでその報告に呼応するかのように、パン! パン! という銃声があたりに響いた。


「なるほど、で? 何人だ?」


 そう問いながらも、秀就の目は、食い入るようにランクルを見つめている。その影に隠れている賊を透視しようとしているかのようだが、いくら妖しとはいえ、大神の一族にそこまでの能力はなかった。


「それが……どうやら一人のようです」


 現場の指揮官は気まずげにうつむく。たった一人に翻弄されている自分たちを恥じたのだろう。


「では、一気に捉えろ。なるべくなら生け捕りに。本来の姿になれば、たった一人の射つ鉄砲玉くらい躱せるだろう」


 秀就からの指示に、指揮官は「はっ!」と顔を上げると、無線で林の向こうにいる仲間に作戦を伝えた。


「大神家では、随分と人間の作った機械を取り入れているのね」


 鳴海灯なるみあかりの声が聞こえた。灯につづき、六角芙蓉ろっかくふようの姿も見える。


「好むと好まないにかかわらず、人間と関わり合っていると、使わないではいられなくなりますよ。私のとこなんて、旅館を営んでいるから、普段の生活は人間と一緒。まあ、使用人は人間ばかりですしねえ」


 二人の背後から、ゆっくりと歩いてくる九鬼勝治の姿もあった。


 その間にも、警備員たちはそれぞれが配置につて、賊襲撃のための準備を、着々と進めていた。


「では、作戦を開始する。スタンバイ……」


 いよいよ侵入者の捕獲がはじまる。

 全員が口をつぐんだ。

 周囲の空気がきゅうっと引き締まり、緊張感が高まっていく。

 秀就はすっと背筋を伸ばし、腕組みをしたまま扉の外を見つめていた。


「GO!」


 その場にいた五名の警備員が消え、細めに開かれていた扉が、突風にでも煽られたかのように勢いよく開いた。


 バアン!


 黒い旋風つむじかぜが、勢いよく開いた扉をすり抜けて、駐車場の一点に向かって飛ぶ。その先には、天羽高志が運転してきた大きな四輪駆動車があった。

 駐車場の向こうの林の中からも同じものが、飛び出してくる。


 ドウン!


 耳の痛くなるような爆発音とともに、車が吹き飛んだ。と同時に、様子を見守っていたものの中から、息を呑む音が聞こえた。

 爆発炎上する大きな四輪駆動車のまわりに、何頭かの狼が、苦しげな鳴き声を上げながら転がっている。


「何だとっ!」


 秀就が拳を握りしめ、唸る。

 ランクルが爆発すると同時に、影から飛び出した何かが、灰色の残像を残し、大神家の屋根へと駆け上がっていった。

 爆発を免れた狼(警備員)たちは、灰色の侵入者を追かけて行く。


「やはり狼か!?」


 天羽高志が駐車場へ飛び出す。

 無残にも爆発炎上する己の車を一瞥し「ちくしょう!」と言い捨てると、彼もまた影の後を追って行った。 

 一方、つい先程まで警備員たちのいた裏口の扉付近には、彼らが身につけていた衣服が、あちこち裂けた状態で散らばっている。


「露! 露はいるか!」

「はい、ここにおります」


 近くで様子をうかがっていたのだろうか、秀就の声に長い髪を後ろで一つに束ね、和服に割烹着をつけた女性がすぐに姿を現した。


「露。負傷者の手当を頼む。侵入者はこの家を飛び越えて、表側に回っていったようだ。天羽が追っていったが、子どもたちも心配だ。私も後を追う」


 顔を上げた露の瞳と秀就の瞳が瞬間視線を結び、すぐに離れた。


「承知いたしました」


 一礼し、露は負傷者の手当へと向かう。


「わたくしも手伝わせていただこうかね」


 六角芙蓉が進み出て、露の隣に並んだ。鳴海灯もその後に続く。

 秀就はその場を彼女たちに任せ、踵を返すと足早に正面玄関へと向かった。


「大神! 侵入者は狼一族の者だな? 心当たりはあるか?」


 大声をあげながら九鬼が追いかけてくる。彼をよく知らないものが聞いたら、怒鳴られているのではないかと思うような声であるが、彼の場合声がただ単に大きいだけであり、これが通常の話声なのである。

 九鬼との付き合いの長い秀就は、もちろんそれでたじろぐようなことはなかったが、すれ違う家の者たちは身を縮こませながら、廊下の壁に張り付くように道を空けている。


「狼一族は、学園設立の方向でまとまっています。大神はもちろん、犬神も真口も大口も……一族の同意と協力は取り付けていると報告がありました。組織だってこのようなことをするとは思えない。ただ……先程も言ったように……一族からはみだした、はぐれ者までは把握してません」


 話しながら、秀就と高志と勝治は次第に足早になり、もう最後はほとんど走るようにして、正面玄関から家を出た。

 外に出た途端にむわっとした空気が顔を打つ。

 庭を通り抜け、その先の畑へと向かうと、瞬く間に汗が吹き出してくる。

 そこには、安倍泰造と天羽翔がいた。二人の足元には三匹の狼が、落ち着かなげにうろうろとしている。


「なんだ……これは? いや、これが?」


 秀就の喉が、思わずゴクリと鳴った。

 庭を抜けた先に広がっているはずの畑には、黄金色の草原のようなものが重なり広がっていて。その向こうからは、真夏とは思えないようなひんやりとした空気が流れてきている。


「異界渡りです」


 靴先を異界に踏み入れるようにして立っていた安倍泰造が、秀就を振り返った。


「おさまってきたところですね。異界はだいぶこの世界から離れていっています。もう、畑に足を踏み入れてもあちらの世界に飲み込まれてしまうことはないでしょう。すいません、今回あまりにも異界の気配が濃くて。何もできずにいました。これほど濃く異界が現実に重なった様子は……私もこれまで見たことがありませんね。……一体何があったのか。子どもたちがこちらの世界に留まっていてくれるといいのですが……」


 話している間にも、異界の光景はどんどんと薄れていき、夏の太陽に青い空、青々とした夏野菜が、薄れゆく金の景色の中にくっきりと浮かぶ。

 気がつくと、それまでまったく聞こえなかった蝉の声が戻ってきていた。


「信乃ー! 秀一くん! 翔くーん!」


 泰造は子どもたちの名前を呼びながら、畑の中へとどんどん入っていった。


『秀就様』


 三匹の狼が、きちんと一列に並んで、秀就の前にかしこまった。

 今秀就に聞こえている”声”は、この狼たちから発せられるもので、狼族の間でしか聞き取ることのできない”声”だ。

 狼に変身すると、人間の声を発することはできなくなるが、この独特な声で仲間同士なら意思の疎通ができる。

 狼族以外のものが見れば、秀就が三匹の狼の前でぶつぶつと独り言を言っているように見えるだろう。

 

『大神家の庭にも、一名の賊が入り込んでいたようです。我々が追っていた賊は、このあたりに隠れていたもう一名の賊と合流し、異界の中へと逃げていきました。我々も追おうとしたのですが、あまりにも異界の気配が濃く……』

「取り逃がしたか……」

『申し訳ありません』

「もうひとりも同族か?」

『いえ、違うと思われます。庭に潜んでいた賊は……子どものようでした』

「こども?」


 霊的な声を使って秀就に話しかけていた一番大きな一頭が、しゅんとうなだれる。


「わかった。後で詳しく報告を上げてくれ」


 秀就は三匹を置いて、幽かに異界の気配の残る畑の中へと、足を踏み入れた。


「おまえたちは、早く人間に戻って服着とけよ!」


 最後に残っていた天羽高志が三匹にそう声をかけながら、秀就の後を追って行く。


「信乃!」

「秀一!」

「翔ー!」


 口々に子の名を呼ぶ彼らは、もうすでに父親の顔になっているのだった。

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