約束

 結局賊は取り逃がしてしまったものの、今回の事件での学園創設推進派の損害は、さしたるものではなかった。

 車が何台か大破してしまったが、替えはいくらでもあるし、負傷した警備員の怪我の程度も、軽症といえる範囲のものだった。

 何しろ今日、大神家には、力のある種族の長たちに加え、先祖返りの能力者までも存在していたのだ。その内の誰かが傷つけられたり、人質にでも取られていたら、大変な事態になっていたはずである。

 帰る足を失ってしまった客のために、迎えを呼んだり大神家の車で送り届けたりと、いらぬ手間がかかってしまったことはしようのないことで、全員を見送ると、暮れ始めた空に、丸く黄色い月が輝き始めていた。

 

 そう、客人はみんな帰ったはずなのである。

 ……が、大神家にはまだ安倍信乃が一人残っていた。父親である泰造は妻に迎えに来てもらい、すでに大神家を辞しているのにだ。


「信乃、帰らないのか?」


 父親を見送り、大神の屋敷内へ戻ってきた信乃へ秀一はたずねた。


「今日は満月だ」

「え?……ああ、そうみたいだな」

「満月の日には、異界が近くなる」

「へーそうなのかよ?」

「秀一は、僕の守護者になってくれるって言ったじゃないか? また、昼間のように異界が近くなった時にそばに居てくれなかったら、どうやって守ってくれるつもりなんだ?」


 つまり信乃は、異界の近づいている満月の夜が不安だから、秀一のいるこの大神家に泊まるというのだった。

 守護者になるということをそこまで深く考えていなかった秀一は「はあ?」と素っ頓狂な声を出したのだが、父親の秀就がぎろりと秀一を睨んだので、慌てて口をつぐんだ。


「秀一。お前は信乃ちゃんの第一守護者になるという契約を結んだそうじゃないか。大神家の当主たるもの、軽はずみな約束はしないものだ。また、約束をしたのなら、果たさねばならない。おまえはいつか、父さんの後を継いで大神家の当主になるのだから、信乃ちゃんを守ると約束したのなら、自分の出来る限りのことはしてみるんだな。信乃ちゃんのお父さんとも話し合って、今日だけは信乃ちゃんを家で預かることにした」

「わかった」


 父に諭されて、秀一は大きく首を縦に振った。

 別に信乃が急に泊まることに驚いただけで、嫌だったわけではない。いや、むしろいつも大人にばかり囲まれている秀一にとって、友達が宿泊する、というのはうれしいことだ。

 それに「約束を果たしなさい」と父に言われることは、自分が父に少しは近づいたような、そして認められたような感じがしてうれしい。


『信乃を守る』


 言葉にしてみると、それはなんだか誇らしくも思えてくる。


「さあ、遅くなってしまいましたから、お食事にしましょうね」


 露の声に、秀一は信乃と一緒にダイニングルームへと向かった。

 大神の家は、何もかもが洋風な作りになっている。

 ダイニングルームのつやつやと磨き込まれたフローリングの上には、真っ白なダイニングテーブルとダイニングチェアが置かれているし、テーブルの中央には大きな白磁の花瓶に美しい花々が活けられている。出窓には格子のデザインのガラスが嵌め込まれていて、たっぷりひだの寄ったレースのカーテンが、優雅な雰囲気を醸し出していた。

 テーブルの上では美味しそうな食事がホカホカと湯気を立てながら、家人が席につくのを待っている。

 その日はいつもより遅い夕食だったから、料理を目にした途端、秀一の腹はギュルギュルと音を立てた。

 

「うちとはぜんぜん違う」


 信乃が秀一の隣の席につくと、きょろきょろと周囲を見回した。


「そう?」


 信乃の隣に腰掛けた秀一も信乃と一緒に部屋を見回してみたが、秀一にとってはいつもと同じ、別に何も変わり映えのしない室内だ。


「うちは畳で、正座してご飯を食べる」

「大神の家も、昔は和風だったんだがね」


 声に振り向くと、子どもたちに遅れて秀就がダイニングに姿を現したところだった。


「この家はね。秀一が生まれる少し前に建て替えたんだよ。秀一の母親がフランス人だったからね、彼女のために洋風な家にしたんだ」

「秀一のお母さんは? ご飯を食べないの?」


 信乃の問に、おひつからご飯をよそっていた露の手が止まった。

 秀就は困ったような笑みを浮かべている。


「母さんはいない!」


 秀一はそう言うと、露の差し出した茶碗をもぎ取るように受け取った。


「いただきます!」


 白いご飯を口の中へとかきこみ始める。それから、口の中へ詰め込んだ大量のご飯をごっくんと飲み込むと、箸をテーブルの上に置き、不思議そうに首を傾げている信乃の目を見つめ返した。


「俺は母さんに会ったこともないし、見たこともないし、全然知らない」


 そう言ってから秀一は、立ち働く露に視線を移した。


「ゆっくり食べてください。ハンバーグもご飯も、おかわりがありますからね」


 秀一と目のあった露は、少し困ったような微笑を浮かべている。


「俺には、露がいるもん。母さんはいなくても平気」

「そうだな。露がいてくれると、父さんも安心だな」


 秀就も箸をとる。

 二人の言葉に露はほんのりと頬を赤くした。


「そうか……」


 信乃はそんな三人の様子をしばらく眺めていたが、何やら小さくうなずくと、箸を取り「いただきます」と手を合わせた。

 ご飯を食べ終えると、秀一と信乃はリビングでテレビアニメを見た。

 その間に風呂が沸いたらしい。


「ちょうどいいお湯加減ですから、入ってしまってください。信乃さんのタオルと着替えは、脱衣場のかごに用意してありますので」


 使用人の一人が、ソファーでゴロゴロしている二人に声をかけた。


「信乃! 一緒に入ろうぜ!」


 風呂に入る準備を整えた秀一は、ウレタン製の大きな水鉄砲を二本抱えている。

 しかし信乃は、そんな秀一をじとっと横目で見つめ、にべもなく言った。


「僕は一人で入る」


 まさか断られると思っていなかった秀一は、一瞬言葉を失った。

 何しろ幼い頃から何人もの使用人にかしずかれて育ったので、拒否されるということに慣れていない。

 予想していなかった信乃の返事に、あっという間に頭に血が上る。

 

「なんでだよ!」


 信乃はかっかとする秀一を前にしても、まったく態度を変えることはなかった。

 感情のこもらない冷たい視線をちらりと投げかけると、ふいっと横を向く。


「僕は秀一と一緒にお風呂に入るほど、子どもじゃないよ」


 信乃は横を向いたまま、そう言ったのである。

 悪気があったわけではないのだろうが、その言葉は火に油だった。

 ついに秀一の頭の中で、ぼふんと何かが爆発した。


「なんだと!」


 漫画だったら頭から湯気が出てたうえに、怒りマークがコマいっぱいに描かれていたかもしれない。

 秀一は肩を怒らせて喚いた。


「わかったよ! ばーか。あ、おまえちんちん小さいんだな! べーだ。オレ一人で入るから、かってにしろ!」


 思いついた悪口を片っ端から言ってみた。

 もっと決定的にスゴイワルクチをたくさん言ってやりたかったのだが、秀一の頭のなかに浮かんできた単語はそんなものしか無くて、それもまた秀一の悔しさに拍車をかける。

 何かを言い返そうとする信乃に反撃のすきを与えずに、走るようにして風呂へと向かった。


「ふんだ、バカ信乃!」


 誰もいない風呂場で、信乃への悪態をつきながら水鉄砲で遊んだのだが、あまり面白くなかった。

 ちぇ、と知らず知らず声に出してしまう。


「翔だって、家に泊まったときには一緒に風呂にはいったぞ! こどもだって? 一つ年上だからって、大人ぶっちゃってさ、ふんだ」


 怒りの冷めやらぬ秀一は、風呂からあがると信乃と顔を合わせること無く、そのまま自分の部屋へと戻ってしまった。

 信乃には来客用の寝室がすでに用意されていたし、別に困ることもないだろう。

 そう考えて、ベットの中に潜り込む。

 部屋の電気を消すと、窓の外には、まあるい月が見えていた。


『今日は満月だ。秀一は、僕を守ってくれるんだろう?』


 ふいに、信乃の顔が浮かんで、少しだけ後ろめたい気持ちになる。

 満月というのは、妖魅あやかしたちに力を与えてくれるものである反面、危険なものでもあるのだという。

 異界が近くなるからなのか、力が発動しやすくなり、なかにはコントロール不可能に陥る魔物も少なくない。

 特に秀一たちのような狼の一族は、昔から月の影響を多く受けると言われている種族だ。ホラー映画でだって、たいてい狼男が変身するのは満月の夜だ。

 実際、年若い狼人間が、初めて本来の狼としての姿に変身するのも、大抵は満月の晩なのだそうだ。


「俺もいつか、狼になれる時がくるのかなぁ……」


 秀一はベットの中でカーテンの隙間から差し込む月明かりを眺めながら独り言ちる。

 とろとろとした眠りに誘われ、いつの間にか秀一は夢の中にいた。

 母の夢だった。

 秀一は母親の顔を覚えていない。けれど、こうしてときどき母親の夢を見る。

 母は、狼族の友好のためにフランスからやって来たルー・ガルーの一族の女性だったというから、露とにているわけはないのに……それでも夢で見る母は、いつも露の顔をしている。

「お母さん」と呼ぶと、露と同じ顔をした母は「なあに?」と返事をしてくれる。


「お母さん、見ててね! 俺、あの大きな木のてっぺんまで登れるようになったんだよ!」


 夢の中には、いつの間にか、今日登ったあの大きな赤樫が一本立っていた。

 てっぺんまで登って、得意になって見下ろすと、母親は大きな灰色の狼と一緒に、こちらに背を向けて、大神の結界から出ていこうとしているところだった。


「待って!」


 木の上から叫んだけれど、振り返りさえしない。

 秀一の視線の先で、後ろに一つに縛った黒髪が解けて金色に輝き始め、緩やかなウェーブを描きながら、広がっていく。

 金色の豊かな髪を揺らした……一人と一匹はどんどん秀一から遠ざかり、大きな赤い鳥居の下をくぐって行ってしまう。


「待って! お母さん!」


 後を追いかけようとするのに、体が動かない。


「待って! 露!」


 叫びながら目を覚ますと、そこは仄暗い自分の部屋だった。

 寝る前に入れていたクーラーはいつの間にか止まっている。

 閉め切ってあった部屋は、むんとした空気が充満していて、着ていた寝間着はじっとりと湿っていた。

 秀一は身を起こすと、ベット脇の出窓を開けた。

 田舎の夜は涼しい風がそよいでいる。

 庭からは、池に流れ込む水音がサラサラと聞こえて、時折り「かこん」と鹿威しが鳴った。

 ふう、と秀一は大きく息を吐き、フローリングに足をおろす。

 気がつくと、喉がからからだった。水を飲みに行こうと、裸足のままキッチンへと向かうことにする。


 ヒタ、ヒタ、ヒタ……


 しんとした廊下に月明かりが落ちて、その中に浮かび上がるのは自分の影だけだった。

 しかし、もう誰も居ないのではと思ったキッチンには、思いがけず明かりが灯っていた。

 キッチンへ入るためのドアはガラス張りで、中の様子が見えるようになっている。

 女のお手伝いさんが二人、何やら作業をしているようだ。

 忙しそうに立ち働いている女性の横顔が見えた。

 一人は露だった。思いがけないところで露を見つけた秀一の胸の中に、じわりと温かいものが広がる。

 露のあの笑顔を見ているだけで、寝苦しさも、さっき見た嫌な夢も、安堵の中に溶けていくような気がした。


「露さん、明日の準備も終わりました」

「ありがとう。こちらの片付けも終わったわ。どう? 一服してから上がらない? 今日のお客様から頂いたチョコレートがあるのよ」

「わ! いいんですか?」


 そんな声が聞こえてくる。

 キッチンへ入りそびれた秀一は、いっそのこと引き返そうかと思った。けれどその時聞こえてきた会話が、秀一の動きを止める。


「ねえ露さん、結婚、そろそろなさらないの?」

「え?」

「知ってるんですよぉ!」


 お茶の用意をしている若いお手伝いが「くふふふふ」と笑った。


「先日真神の一族の方から、お見合いのお話があったのでしょう?」

「やだ……どこまで噂が流れてるのかしら……」


 露のため息。


「私なんか、もうおばさんなんだし、放っておいてくれればいいのに……」


 話し声を聞きながら、秀一は頭の芯がぼうっと痺れたような感覚を味わっていた。


 ――露が嫁に行く?


「なに言ってるんですか。露さんおきれいだし、いいお話だって聞きましたよ。あ、それとも……どなたかいい人いるんじゃないんですかあ?」


 秀一は思わず自分の胸を抑えていた。うまく呼吸が出来なくて、胸が苦しかった。

 これ以上この話を聞いていたくなくて、キッチンに背を向けると、ふらふらとその場を離れていく。

 長い廊下。

 窓ガラスの向こうには、洋風の家とは不釣り合いな和風庭園。

 しん、と蒼い月影がフローリングの床に落ちる。

 秀一は、腹の底から何かが湧き上がってくるような感覚に、思わずその場にしゃがみ込んだ。


 ぐぅ!


 目が回る。頭の中がガンガンと音を立てはじめる。


 誰か!


 助けを求めて見上げた先には、銀の月が浮かんでいた。


 どくん!


 心臓が大きく跳ねる。体全体で、その鼓動を感じた。


「なんだ……これ?」


 世界が歪んでいってしまうのではないかと思うような、不快。不快なものが、胸の奥に集まって、黒いとぐろを巻いているのだ。


「あ……あ……ああっ! だれか……助けてっ!」


 自分自身ですら知らなかった奥深いところから、何かが湧き上がってくる。抑えなくちゃいけないと思うのに、その勢いに秀一はなんの抵抗もできずに飲み込まれていく。


「秀一さん? どうしました?」


 露の声が背後から聞こえた。


「秀一さん!? 誰か! 秀就様を……呼んで! 残ってる一族の者を何人かこちらに回してちょうだい! それまでは私が……!」


 秀一の耳に、露の叫びは意味のある言葉として届いていなかった。

 メキメキと、自分の体が発する音が骨を伝い、耳骨を震わせ、増幅された振動は脳を直接震わせる。

 身体が……捻じれる! 砕ける!

 かろうじて残る秀一の意識が一抹の恐怖に包まれる。


「しゅ……いち?」


 小さな声が前方から聞こえて、秀一であったものの目が、そこに立つ小さな人影を捉えた。

 秀一が貸したトレーナーを着込んだ信乃が、目をこすりながらそこに立っている。

 そして、秀一を見つけると、ぽかんと口を開いて、目を見開いて……。


 ぐ……ぐ……ぐ……ぐ……


 何の音だ? 唸り声?

 だが次の瞬間、それが自分の発した唸り声だと気づく。





「しゅういち?」


 獣の前に佇む子どもはわずかに首を傾げながら、誰かの名を呼んだ。

 獣の瞳が動き、ぐぐぐ……っと震えるような唸りを上げ、そして跳躍した。



 それが、秀一としての意識が残る、最後の記憶だ。


 ◇


 自分自身を見失ってしまってから、どれほどの時間が過ぎたのだろうか。

 少し前から目は覚めていた。けれどあまりにも身体が重くて、起き上がる気になれないでいる。目を開けることすら億劫で……だから、赤い瞼の裏を見つめている。

 空気はじんわりと暑いけれど、風がそよぐと涼しくも感じた。

 昨夜、意識を失う前に最後に見たのは……信乃だった。

 少し眠たげな瞳。どうしたんだ? とでもいうかのように、ちょこっとかしいだ頭。サラリと黒髪が揺れて……。

 そして……?


 ――信乃?


 パチリと目を開くと、目の前には覗き込むようにこちらを見下ろしている、当の信乃の顔があった。

 秀一は起きたばかりのぼんやりとした頭で、ぐるぐると包帯の巻かれている、信乃の首や腕を目で追った。


「信乃? 怪我したのか? 痛いのか? 誰にやられたんだ? 俺が……」

「秀一くん! 目が覚めたのかい?」


 信乃の後ろには、何故か安倍泰造の顔がある。

 ――彼は信乃を置いて帰ったはずではなかったか?

 頭の中をクエスチョンマークが跳ね回っていた。

 ぐるりと首を巡らせて、間違いなく自分の部屋のベットの上で寝ていることを確認する。

 あたりは明るい。

 人工的な明るさではなく、夏の太陽の眩しいほどの光が、部屋の中に満ちていた。

 泰造は、朝になって信乃を迎えに来たのだろうか。


「覚えていないのかい? 秀一くん」


 泰造が近づいてきて、信乃の後ろから心配げに秀一を見下ろした。


「秀一、目が覚めたのか」


 カチャリと開いたドアから姿を表したのは、父の秀就だった。


 ――なんだって、みんなして俺の部屋に集まってくるんだ?


 そう思ったところで、秀一の脳裏に昨夜の景色が、くっきりと蘇ってきた。それは、匂いや触感まで伴うような、はっきりとしたイメージだった。


 フローリングの長い廊下は銀色の月に照らされて、夜だというのに異様な明るさだった。

 その輝きの中に、ひとつ影が落ちる。

 影の形を、秀一は覚えている。

 獣のような四足の影は、自分自身から伸びていた。影からつながる己の腕はフローリングを踏みしめ、真っ白な獣毛に覆われていて……。


「俺っ!」


 勢いよく跳ね起きた。


「思い出したか、秀一」


 秀一は父を見た。


「おまえは昨夜生まれて初めて本来の姿を取り戻したんだ。ただ、まだ自分自身でコントロールは出来ていないな?」


 秀就の言葉をどこか遠くで聞きながら、秀一は、華奢な体を包帯でぐるぐると巻かれている信乃へと視線を移す。


「俺がやったのか? 信乃のこと、俺が……」


 意識のないうちに、誰かを傷つけてしまったのではないかという恐れが、掛布を握る手を震わせてた。

 信乃を守ると言ったのに、その自分が……他ならぬ自分自身が……信乃を傷つけたのか?

 すうっと血の気が引いた。

 朝の光が眩しすぎて、目眩がする。

 じっと秀一を見つめる信乃の目は凪いでいたけれども、信乃の痛々しい姿を見ていることが苦しくて、秀一は信乃から目をそらした。


「そうだ、秀一。お前は本来の狼としての体を取り戻した。しかし、己をコントロールできず我を忘れてしまった」

「そんな……」


 いつかは覚醒するのだと思っていた。


「若い狼にはよくあることだ。そのせいで人狼というものは、人に嫌われ恐れられる。ただ、今の秀一は、信乃ちゃんにとっても危険な存在だ。少し距離をおいたほうがいい……」


 覚醒には個人差があるから、幼い頃から狼化を繰り返すものもいるし、なかなか本来の姿にならずに成長するものもある。

 感情と理性の制御のうまいものほど、人間の姿のままでも自由に力を扱えるし、狼の姿になっても自分を失うことは無く、意識を保ったまま最大限の力を引き出せるのだという。

 覚醒した事自体は喜ばしいことだったが、狼と化した間のことを少しも覚えていなかったということは、大きなショックだった。

 大山津見の眷属である狼族の中でも、最も格の高い大神家の跡取りであり、そんじょそこらの輩になんて負けないと思っていた。もし覚醒することがあっても、自分自身を失ったりしない。そのはずだと信じていた。

 その自分が理性をなくし、よりによって信乃を傷つけた。

 秀一は布団を握りしめる自分の手を、呆然と見つめた。


「やだよ!」


 途端に暖かな重みが、秀一に飛びついてきて、はっと我に返る。


「僕、いやだからね! 秀一と一緒にいるんだからね! 会えなくなるなんて、絶対イヤだからね!」


 秀一は飛びついてきた信乃を上に乗せたまま、ベットの上にひっくり返ってしまう。


「信乃……」

「信乃ちゃん……」


 泰造と秀就の声が重なっていた。


「ヤダ! 秀一は僕の友達なんだから……それに、一番の守護者になってもらうんだから……ずっと一緒にいるんだから!」


 秀一の首筋が暖かく濡れてる。

 秀一はおそるおそる腕を上げ、泣きついている信乃の背中に腕を回した。片方の手で信乃の真っ黒でサラッとした髪の毛に触れ、もう片方の手は、ポンポンと規則的なリズムで信乃の背を叩いてやる。

 あの信乃が泣いている。あまり感情を映さないガラス玉みたいな瞳から溢れてるのは、間違いなく少し塩辛い涙だ。

 やだやだと、だだっこのようにぐずりながら泣いている信乃を、大人たちは引き剥がそうとはしなかった。

 暫くの間そうしていたら、腕の中で、信乃の泣き声が次第に小さくなっていく。ふと気がつくと、耳元からはすうすうと、小さな寝息が聞こえてきた。


「すまないね、秀一くん。信乃は、昨夜一睡もしてなかったんだよ」


 ぐったりと重くなった信乃を、泰造が抱き上げた。

 秀就に呼ばれた露が部屋へとやってきて、目を覚ました秀一に気分は悪くないか? どこか、体におかしいところはないか? と、心配そうに聞く。

 大丈夫だと答えると、嬉しそうに笑って「今日はお赤飯を炊きましょうね」なんて言っている。いつもと変わらない笑顔がそこにあった。

 いくら狼に変化できたと言っても、秀一はちっともめでたい気分なんかじゃないのに……。 

 けれど、いつもと変わらない露の笑顔に、秀一の中にあった黒いしこりのようなものがふわっと解けたように感じた。


「ねえ露。お嫁に行くの?」


 ほとんど無意識に、秀一はそう尋ねていた。自分の言葉に自分がびっくりしたくらいだ。

 いつもと変わらない露の態度に安堵して、思わず口をついて出た質問だったのだが、その途端に、部屋の中の空気がビシリと凍りついた。

 沈黙を破り、ゴホン、ゴホン……! と、咳き込んだのは秀就だった。

 露は秀一を見た後、咳き込む秀就を見つめ、また秀一に向き直ると、静かに微笑んだ。


「露は、どこにも行きません。秀一さんが大人になるまで、露はお嫁にいかないと決めているのです」


 しずかに、けれどきっぱりと、露は言った。

 

「では、信乃さんを、お部屋に寝かせてまいりますね」


 露は泰造から信乃を受け取ると、いつもと変わらぬ笑顔で一礼し、部屋を出ていった。

 露が出ていく様子を眺めながら、秀一は心の中に暖かいものがじんわりと広がっていくのを感じていた。昨夜から心の内にできていた冷たいささくれが、すうっと消えてなくなっていく。


「秀一くん、聞いて欲しいんだ」


 泰造からの声に、秀一は緩んでいた頬を引き締めた。


「あの……俺、信乃を傷つけちゃって、ごめんなさい」


 頭を下げる秀一に、泰造は静かに首を振ってみせた。

 部屋に残っているのは秀一と泰造と秀就だけで、一体どんな話をされるのか秀一には見当もつかなかったけれど、背筋を伸ばして居住まいを正す。

 その間に泰造は、秀一の部屋にあった椅子をベットサイドに持ってくると腰を掛け、秀就は二人から少し離れたところにたち、壁に軽く寄りかかるようにして腕を組んだ。

 少しだけ、泰造は何かを考えるように顎を撫で、そして、話し始めた。


「信乃はね、友達がいないんだよ。私たちあやかしは、子どもの数が少ないということもあるけどね、それだけじゃなくて、あの通り信乃はほとんど笑わないし、少しばかり変わっているだろう?」


 秀一は泰造を上目遣いで見上げながら、ゆっくりと頷く。変わっているという言葉が何を指すのかはよくわからなかったけれど、たしかにあのガラス玉みたいな目は、見るものを落ち着かない気分にさせるかもしれない。


「少し前にね、友達になれるのじゃないかと思って、遠い親戚の……年の近い女の子を数人、家に呼んだんだよ。でも、信乃はお人形さんとか、おままごとといったことに、まったく興味を示さなかったし、それどころか異界渡りを起こしてね……。今日のような本格的なものじゃなかったんだ、ほんの少し、異界がうっすらと見えたって程度だったんだけどね、遊びに来ていた子たちは怖がってしまってね。で、信乃が言ったんだよ。女の子の遊びは好きじゃないし、女の子もすぐメソメソするから嫌いだってね」

「俺だって、友達だったら女の子より男の子のほうがいいけどな……」

「確かに君はそうだろうね。まあ、それで、今度は男の子を数人家に呼んだんだ。だけど男の子たちには、お前は女の子なんだから、女の子と遊べばいいじゃないかって、言われたらしいんだ」


 泰造の言葉を聞いた秀一は、ぱちっと一度瞬きをした。

 しばしの間。

 そして


「ええぇっ!」


 秀一は、自分の声の大きさにおどろいて、思わず口を手で抑えた。

 けれども、好奇心のほうが勝ち、口から手を離すと泰造に質問する。


「信乃って……男の子じゃないの!?」


 秀一の言葉に、泰造と秀就は思わず顔を見合わせた。

 秀就は、やれやれというように、額に手を当てて首を振っている。


「父さんは、先祖返りの姫が来るから仲良くしなさい、と言わなかったか?」

「言ったけど……信乃って、全然女の子みたいじゃないじゃんか。それに自分のこと僕って言ったし……、だから俺、センゾガエリノヒメっていうのはお姫様のヒメじゃなくて、なんか、そういう言葉があるのかと思ったんだ。なんで、アイツ自分のこと僕って言うの?」


 女の子なら、自分のことを「わたし」とか言って、スカートはいたり、髪を伸ばしたり、かわいいプリントのシャツを着たりしてるもんじゃないのか?

 秀一の勝手な想像とはいえ、まるででたらめなわけではない。今まで会ったことのある女の子の外観から導き出されたイメージである。  

 信乃の姿には、女の子に結びつくようなものが一切なかった。

 外見だけではなく、性格も秀一の知る女の子のイメージからはかけ離れていた。


「うん、それはね」


 泰造がそっと秀一の方へ身体を乗り出して語りかけてくる。だから、秀一も真剣に泰造の語る話に耳を傾けた。


「男の子たちが帰った後に、信乃が言ったんだよ。僕は男の子になりたいって。男の子になったらお友達ができるかな? ってね。それまでは信乃も自分のことを「わたし」って言ってたんだけどね、それからは絶対自分を「わたし」って、言わなくなっちゃったんだよ。それで、僕はもしかしたら、秀一くんとだったら友だちになれるんじゃないかと思って、昨日は君たちに会わせるために信乃をここへ連れてきたんだ。信乃はお友達が出来てとても嬉しかったんだろうねえ。家に帰りたくないなんてわがままを言ったのは、初めてなんだよ。あんなに大泣きすることも、今まで無かったと思うよ。信乃が君に女の子だと自分から言わなかったのは、そう言ったらまたお友達でなくなってしまうと思ったからかもしれないね」


 泰造の言葉を聞きながら、秀一は出会ってからこれまでのことを思い出していた。自分自身を「僕」と呼ぶことを除けば、たしかに女の子だとしても違和感はないかも知れない。

 翔が実は女の子だった、なんて言われても絶対信じられないけど……。と考えて、笑いそうになってしまった。

 秀一の頭の中に、あの変なTシャツにスカートをはいて、頭にリボンを結んだ翔の映像が、ぼわんと思い浮かんだのだ。

 緩んでしまいそうになる頬を引き締めるのに、秀一はかなりの努力をしなければならなかった。


「信乃には異界渡りの力があるだろう。まだ彼女自信もコントロールが出来てない。だから、彼女のその力を知った者は、どうしても力だけじゃなくて、信乃のことも怖がってしまうんだ。もし異界に渡ってしまったら……。君も、昨日怖い思いをしただろう?」


 秀一は昨日渡った異界の風景を思い起こす。

 真夏だというのに、涼やかな風。生き物のように蠢く金のさざなみ。あの正体はわからなかったけれど、巨大な生物の一部なのではなかったかという気がする。

 驚いたけれども、怖かったわけじゃない。

 秀一にははっきりと現実への扉を感じることが出来た。もし異界に残ったとしても、もし魔物が出てきたとしても、そんなのちっとも怖くなんか無い。絶対やっつけられる。

 今朝起きて、信乃を傷つけてしまったと知ったときのほうが、その何倍も怖かったんだから。


「怖くないよ」


 泰造が秀一の瞳の奥を覗き込んでいる。


「ちっとも、怖くなんかないよ!」


 しっかりと目を見つめ返しながらそう言うと、泰造は眼鏡の奥で微笑んだ。


「そうか……。じゃあ、これからも信乃と仲良くしてくれるかい?」

 

 秀一は大きくうなずいた。




 それから秀一は着替えをして、午前中は一人で蝉取りをして過ごした。

 虫取りかごを二っつ首からぶら下げて、何匹もの蝉を捕まえると、二つのかごの中に交互に押し込める。

 それぞれに十匹程度のミンミンゼミやアブラゼミを押し込めてから家に戻ると、まだ信乃は夢の中だった。


「そろそろお昼なので、信乃さんを起こしてきてあげてください」


 台所から出てきた露が顔を出した。


「わかった!」


 秀一は玄関に靴を揃えてスリッパに履き替え、首から虫かごを二つ下げたままゲストルームへと走る。かごが跳ねる度に、ジジ……ッ! と、蝉が鳴いた。

 そうっとゲストルームのドアを開けてみると、薄暗い部屋のベットの中で、信乃はまだすうすうと寝息を立てている。まっすぐ上を向いて寝ているのが、なんだか信乃らしいと秀一は思った。

 広い額に落ちた少し長めの前髪を指先で払ってやると、眉間にしわが寄る。まつげがほんの少しだけ震えるけれど、目をさますことはなかった。

 こうしてよく見ると、たしかに女の子っぽい顔立ちかもしれない。

 白い頬が、触れたら消えてしまいそうなほど頼りなげに見えて、どきりとする。だからわざと元気な声を出して、遮光カーテンを勢いよく開いた。


「信乃、起きろよ! もう、お昼だぞ!」


 夏の太陽が部屋の中に濃い影を落とす。

 ううんと唸る声がして信乃が光から逃れるように寝返りをうった。


「しゅ、いち?」


 まぶしげに目を細めてこちらを見ている。


「こっち来いよ信乃!」


 大きく開け放した窓から、暖かい空気がむわっと部屋の中に流れ込んできた。


「今日も、いい天気だぞ!」

 

 呼びかけると、信乃は裸足のままペタペタと秀一の隣へとやってきた。髪の毛が一束ぴょこんと飛び出している。眠たげにゴシゴシと目をこすっていたけれど、秀一の首から下るかごに目を留めると、ようやくしっかりと目を開いた。


「蝉?」


 信乃が虫かごの中を覗いた。

 かごの中では、時折「ジジッ! ジジッ!」と、蝉が短い声を上げたり、思い出したようにバタバタと大騒ぎをしたりする。


「昨日の蝉はどっか行っちゃったからな。もしかしたら異界でとんでるかもな」


 異界を翔ぶ蝉を想像して、思わず笑った。笑いながら二つのかごの内、一つを信乃に手渡す。


「逃がすぞ。セミは取るのも楽しいけどさ、集めたセミを逃がすときも楽しいんだよな」


 信乃は手にしたかごの中で蝉が暴れる度にビクビクしながらも、真剣な顔でかごを開こうと格闘していた。

 秀一が手本を見せるようにかごの留め具を外し、パカっと開いてみせる。セミたちはジジジジと不平不満を漏らしながらもバタバタと飛び立っていく。

 信乃も、秀一を真似て、かごを大きく開いた。


「翔んでけ!」


 信乃の手にしたかごからも一斉に蝉が飛び出していく。びっくりしたのか、羽ばたきもせずにかごからまっすぐに落下した蝉も、地面につく前に羽を広げ、空へと消えていった。


「信乃、また遊びに来いよ」


 ニッカリと笑ってみせる。

 信乃は相変わらずの無表情だ。

 だけど……。


「遊びに来てもいいのか?」

「うん。昨日はゴメンな」


 秀一は包帯の巻かれた信乃の首を指差した。信乃は秀一の指に誘導されるように少しだけ下を向いて、自分自身の体を眺めた。


「ううん。全然平気だよ。秀一は僕を咥えてあちこち走ったけど、僕のことを噛み殺そうとはしなかったんだよ。それでね、僕が怪我しているのを見たら、大きなベロで舐めてくれたんだ。それから僕を抱えて、眠っちゃった。真っ白な狼は、すごくもふもふだった」

「も……もふもふ!?」

「うん」


 ――もふもふってなんだ? かっこよかったとか、そういうんじゃないのか? 


 まあ、信乃が無事だったのだから、そんなことはどうでもいいのだ。もし信乃の命にかかわるような事態になっていたら、自分だってただでは済まなかっただろうし。と気を取り直す。


「俺もまだ、自分の変身をコントロールできないし、また、満月の晩には記憶なくしちゃうかもしれないし……」

「そんなの! 気にしないよ!」


 被せるように信乃が言った。


「俺、信乃の第一守護者なんだろ?」


 秀一の言葉に、信乃はぶんぶんと首を縦に振る。


「だったら、ちゃんと信乃のこと護れるように強くなんなきゃならないだろ。まだ俺、全然ダメだし。ちゃんとさ、強くなったら絶対そばにいて、守ってやるって!」

「約束か?」

「約束だ」

「そっか……」


 二人ははうつむいて、小さな沈黙が流れた。


 くううぅうぅぅ。きゅるるるぅ……。


 信乃の腹から、やけに長い腹の虫が聞こえて、秀一ははっと我に返る。


「御飯だから、信乃を起こしてこいって言われてたんだ! はやく行こう!」

「待って……僕まだ寝間着だよ」


 信乃の声を聞きながらも、秀一は回れ右をして、部屋のドアを開けた。


「先に行ってる! あ、それから信乃! 女の子でも、友達だからな!」


 なんだかちょっと恥ずかしくなって、後ろを向いたままでそう言う。その言葉を聞いた時の信乃の顔を見れなかったことはちょっと残念だけど、自分だってきっと赤い顔をしているだろうと思う。


 ――こんな顔を見られるなんてゴメンだ。


 信乃を置いたまま走り出す。

 廊下の先からいい匂いがしてきて、秀一の腹もきゅうううううう、と、情けない音を立てていた。

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