蝕・イクリプス

観月

Innocent

異界

 朝のうちにたっぷりと水を撒かれたはずなのに、畑の土はすでに白く乾いていた。

 畑と道路の境界に立つ赤樫の古木は、照りつける日差しの中に小さい木陰を作ってくれている。樹齢何百年という幹から突き出した枝の上で、大神秀一は片手を額にかざし、家の脇から延びる一本道を眺めた。

 視線の先には、大きな赤い鳥居がある。大神の家へたどり着くためには、必ず鳥居の下をくぐるらなければならず、こうして眺めていれば、客人をもらさず確認できるのだった。


「センゾガエリノヒメが明日家に来る。仲良くしてやってくれ」


 昨夜、父親である大神秀就おおかみひでなりから聞いた言葉が、秀一は気になってしかたがない。


「センゾガエリノヒメ?」


 まだ九つの秀一は、その言葉の意味がよくわからなくて、まるで呪文のように繰り返した。


「強い力を持った子だ。お前と同じくらいの年だったと思うから、お父さんたちが仕事の話をしている間は、一緒に仲良く遊んでくれ」

? 俺だっては強いぞ? そいつ、俺より強いのか!?」


 ムッとしてたずねた。それなのに秀就は、


「会ってみればわかるんじゃないか? 明日来るんだから」


 思わせぶりにそんなことを言って、詳しいことを教えてくれない。

 はっきりしたことがわからない分、秀一はその「センゾガエリノヒメ」というのが何者なのか、ますます知りたくなってくる。

 もっと詳しいことを誰かから聞き出そうと思ったのだが、秀就の抱える大きなプロジェクトの会合を次の日に控え、一族の者たちは皆忙しそうにしている。

 自分の面倒をいつも見てくれているお手伝いの露も、長い髪を後ろで一つに束ね、木綿の和服の上に割烹着を着て、屋敷中を走り回っており、ひと休みする暇もないようだった。


「秀一さん、ごめんなさい。急なお話でなければ明日の夜でよろしいですか?」


 ようやく話しかけることができたのに、露からの言葉はそっけない。

 優しげな表情はいつもどおりだったが、露の気持ちが自分に向いていないことを秀一はひしひしと感じた。


「……わかったよ」


 不本意ながらもそう言うと、露はニッコリと微笑んだ。


「ありがとうございます」


 少し腰をかがめた露の手が頭の上に乗り、笑顔が近くなる。秀一はそれだけで、うっかり幸せな気分になってしまった。

 そのせいで「センゾガエリノヒメ」というのがいったいどんな子どもなのか、誰にも聞くことができないまま今日を迎えてしまった。

 だから秀一は、赤樫の木に登ったのだ。

 この木の上からなら、大神家へと続く一本道を見渡すことができる。ここにいれば「センゾガエリノヒメ」というヤツを、誰よりもはやく見つけることができる。そう考えたからだ。


 じいっと目を凝らす秀一の額から、汗がついっと滴り落ちる。

 赤樫の木は緑の葉が生い茂り、木陰をつくってくれていたが、風のない午後にはそれでも汗が吹き出した。

 近くの枝にとまった蝉が、じーわじーわと元気良く鳴き始め、更に暑さに拍車をかけている。

 木に登ってからだいぶ時間が経ったような気がするけれど、まだ目的の子どもの姿は目にしていない。

 さっき眼の前の一本道を通っていったランクルには、子どもがひとり乗っていた。

 しかし。


 ――アイツが「センゾガエリノヒメ」なわけはない。


 その車に乗っていたのは天羽家の当主とその息子で、子どもの名前はかけるといった。秀一と同い年の九歳で、翔のことなら、秀一は小さい頃からよく知っている。いわゆる幼馴染というやつだ。

 天羽家は、大神家と同等、もしくはそれ以上の格を持つ家柄だ。その天羽家の直系男子というだけあって、翔も高い能力を持っていたけれども、翔が「センゾガエリノヒメ」だなんて話は聞いたことが無い。

 それに翔だったら、秀就がわざわざ「仲良くしろ」なんて言うはずがない。

 枝に腰掛け、足をブラブラと揺らしながら、秀一が考えを巡らせていると


「秀一! なにやってるんだ?」


 と、足元から馴染みのある声が聞こえて、先程目の前を通り過ぎていった天羽翔がこちらを見上げて立っていた。

 変な柄のTシャツに、ステテコ。短めの赤毛はツンツンと立っている。

 天羽家の者たちは、体がずば抜けて大きいのが特徴だ。翔も、背の高さといい、筋肉の盛り上がった胸板といい、とても秀一と同い年とは思えない体つきだった。

 そのうえ無口で読書好きな翔のことを、秀一は密かにおじさん臭いヤツだと思っている。


「おまえなんでいっつもそんな変な柄のTシャツ着てるの?」


 秀一に言われて、翔はTシャツの胸のあたりをつまみ、そこへ視線を落とした。

 手と足の突き出た長方形の物体が、サングラスをかけて立っている。その下に「冷奴☆クールガイ☆」と印字されているから、おそらくそれは冷奴の擬人化なのだろう。


「知らないよ。俺の趣味じゃない。一族の男で、変な柄のTシャツばっかりおみやげに買ってくるやつがいるんだよ」

「ふうん」


 さらなるツッコミはしなかったが、秀一だったら、もしお土産でもらったとしても、あんな柄の服は着ないだろうと思った。


「で? 何やってるんだよ」


 翔も首を伸ばして秀一の視線の先を覗き込むようにしている。


「なあ……もしかしておまえ、センゾガエリノヒメって知ってる?」

「ああ、安倍さんところの子どもだろう? 俺たちの一つ上だって聞いたと思うけど……家から出たことがほとんど無いっていうから、俺は会ったことはない」


 翔の答えに、秀一は思わず枝からずり落ちそうになった。


「え!? おまえ知ってんのかよ!」


 自分の知らないことを翔が先に知っているというのが気に入らない。


「いや、昨日父さんに、安倍さんが子どもを連れてくることになったから、仲良くしてやれよ、って言われただけ。センゾガエリノヒメだから気をつけろってさ」


 よく聞いてみれば翔の知っていることも、それ以上のものではないらしい。


「気をつけろ……?」

「俺も、なにを? って聞いたけど、詳しい説明はなかったな」

「なんだよ、俺とたいして変わんないじゃん……あ!」


 鳥居の下を、一台の白い乗用車が通り抜けて来るのが目に映った。


 ――アレダ!


 秀一はそう直感する。

 一本道をどんどん近づいてくる乗用車に、秀一は全神経を集中させた。

 車の中に、人影が二つ。

 一つは運転席。大人。男。

 もう一つは、助手席。秀一より小さな身体の……。


「今通ったの、安倍さんちの車だな。子どもが乗ってたみたいだな」


 どうやら翔も気がついたらしい。


「なあ、今のって、女の子だったか? 男の子だったか?」

「さあ、そこまでは……」


 ヒメっていうのは姫じゃないんだろうか?

 姫というと、秀一の中ではフリフリのロングドレスを着て、長い髪にリボンをつけたおしとやかな女の子というイメージだ。

 長いドレスの裾をつまんで「おほほほ」とほほえむ姿が、頭の中にボワンと浮かぶ。

 けれどちらりと見えた子どもの横顔は、秀一の中のお姫様のイメージと合致するところが微塵もなかった。

 

 ――あれって、お姫様じゃなくって、王子様じゃねえ?


 秀一は大神家の門を入っていく白いセダンを見つめながら、そんなふうに感じていた。

 とにかくその「センゾガエリノヒメ」に会ってみないことには、なんとも言えない。

 秀一は、自分の身長の倍もある高さの枝から軽々と飛び降り


「いくぞ!」


 と翔に声をかけた。

 畑、苔を敷き詰めた和風の庭園、大きな瓢箪の形をした池にかかる石の橋……それらを通り抜け、大神家の正面玄関へと向かう。

 車寄せに秀一と翔が到着した時には、親同士はもう挨拶を済ませ、安倍家当主とその子どもは家の中へ入ろうとしているところだった。


「こんにちはっ!」


 家に入りかけた後ろ姿に向かって元気に挨拶をする。

 ちょっと驚いたような顔で振り返った安倍泰造は、秀一の顔を見るとすぐに笑顔になった。


「やあ! 秀一くんか。あと翔くんだね。二人とも大きくなったねえ」


 泰造の後ろを歩いていた子どもも、こちらを振り返った。色白でほっそりと小柄なところが、父である泰造によく似ている。


 ――やっぱりどこからどう見ても……近くで見れば見るほど、女の子には見えない。髪の毛だって短いし、半ズボンはいてるし。まあ痩せっぽっちだし、ぜんぜん強そうじゃないけどな。


 よほどジロジロと見つめてしまっていたのだろう。

 父の秀就の手が、秀一の頭にと乗った。


「秀一。そんなにジロジロ見たら、失礼じゃないか。まず自己紹介をしなさい」


 苦笑交じりに言われて、秀一はお手伝いの露からさんざん教え込まれていた自己紹介の言葉を思い出す。


「あ、ごめんなさい……えっと……。はじめまして! 大神秀一です。よろしくね」


 そう言ってペコリと頭を下げた。


『大きな声ではっきり、背筋は伸ばしてくださいね』


 露に教えられたとおりにできたはずだ。


「はじめまして。安倍信乃です。よろしくお願いします」


 眼の前の子どもが言った。

 安倍信乃。

 秀一は頭の中で、今教えてもらったばかりの名前を数回つぶやいた。


「天羽翔、です」


 翔のぶっきらぼうな挨拶を聞きながら、秀一は信乃にふと違和感を覚えた。

 姿勢よく、まっすぐに立っている。

 それはいい。

 だけど、なんというのだろうか……信乃の表情には、感情のようなものが感じられないのだ。

 さっきの挨拶にしたって、ニコリともしないばかりか、てんで棒読みだった。


「じゃあ、お父さんたちは話し合いがあるから、子どもたちで仲良く遊んでなさい。大神の結界から出ないように」


 秀就がそう言い、泰造を案内しながら家の中へと消えていく。

 父の言葉に上の空で返事をした秀一は、その時突然ひらめいた。


 ――目だ!


 そう思って、またじっと信乃の顔を覗き込むと、そのひらめきは確信に変わっていく。

 信乃の目は、不思議な目だった。

 横にすると目を閉じてしまう抱き人形のように、ただじっとくうを見つめている。

 いや、確かに信乃はこちらを見ている。その瞳には秀一が映っている。けれども、見られているという気がしないのだ。

 ガラス玉みたいだ。と思った。


「……ぶ?」


 遠くから翔の声が聞こえてきて、秀一は現実に引き戻された。


「え?」

「だから、何して遊ぶ? って、さっきから聞いてる」


 いぶかしげな顔で、翔がこちらをみていた。


「あ? あー。そうだなあ。なあ、おまえ、蝉取りできるか?」


 秀一は信乃に聞いた。

 秀一と翔はTシャツに短パン(翔はステテコ)というラフな出で立ちだったが、信乃は随分きちんとした服装をしていた。

 淡いブルーのボタンダウンの半袖シャツに、サスペンダー付きのきちんと折り目の付いたクリーム色の半ズボン。どこぞのお坊ちゃまか! というような服装だ。しかもクリーム色なんて、すぐに汚れてしまいそうだ。

 が、そうたずねられた信乃の瞳がカチリ、と動いた。


「できるよ。あんまりやったことはないけどね」


 そう言うと、首を少し横に倒し、秀一を見上げる。

 セリフは相変わらず棒読みだったが、その瞳には挑むような光が宿っていた。生気のない人形に、血が通った瞬間を見たようで、秀一はその変化にびっくりした。


「あー、っつうか、その服汚れても平気なのかよ」


 秀一は内心の動揺を気取られないように気を引き締めると、信乃の着ているクリーム色の半ズボンを指さす。


「僕の服のこと気にしてたの? 大丈夫。汚れてもかまわないよ。父は、僕が泥んこになるくらい外で遊んだって知ったら、かえって喜ぶかもしれないよ」


 話し出すと、印象が変わった。

 特に表情は変わらないし口調も平坦ではあるけれど、性格は思ったより勝ち気なようで、秀一は「面白そうだな」と嬉しい気持ちになった。

 ただ、どういうわけで「センゾガエリノヒメ」とよばれているのかについては、大きく疑問が残ったままだ。

 どこからどう見ても「姫」には見えないし、自分のことを「僕」と呼んでいるのだから、男の子に違いない。それに、秀就は力の強い子どもだと言ってたけれど、薄い身体で細い手足をした信乃に、秀一や翔よりも大きな力があるとは信じ難かった。


「あ、そだ。信乃はいくつなんだよ」

「いくつ?」

「年だよ年。俺と翔は同い年で、九歳だからな」


 翔からはひとつ年上だと聞かされたが、ずいぶんと小柄だから、もしかしたら年下ではないのか? そう思って確認をしたのだ。 

 だが意外にも


「僕は、このあいだ十歳になったよ」


 という返事がかえってきた。


「この間っていつだよ」

「八月十一日」


 今日は八月二十日である。


「ふうん。なったばっかじゃん。じゃあ、同い年でいいじゃん。んじゃ、蔵から虫取り網とカゴ、持ってこようぜ!」


 秀一は自分から聞いたにもかかわらず、信乃が歳上であるという事実はさっさと意識の外へ追いやることに決めると、先頭になって走り出した。


 ――そうして。


 その日の出来事は、秀一にとって生涯忘れられないものとなった。


 真夏の、真っ白な日差し。

 畑の周囲に植えられた木々。

 蝉の声。

 滴る汗。

 張り付くシャツ。

 揺らめく蜃気楼。


 三人は、蝉を見つけては捕まえて、カゴの中に入れていく。

 秀一が「よーい、どん!」と言ってから「おわり!」と言うまでに一番たくさん蝉を捕れた者が勝ち、という単純な勝負だ。

 捕っていいのは畑の中だけ。畑から出たら反則負け。

 畑の周囲を取り囲むように植えてある木々にはたくさんの蝉がとまっていて、獲物に困ることはない。三人ともその遊びに夢中になっていた。


 秀一たち大神家の一族の者は、鼻がきく。

 翔たち天羽家の一族の者は、予兆を感じる力がある。


 最初にそれに気付いたのは翔だった。


「秀一、なんだか嫌な感じがしないか?」


 木にとまるミンミンゼミを捕まえようとしていた秀一は、翔の声にふと集中が途切れた。


 ジジッ……!


 もうあと少しで捉えることが出来たのに、蝉は伸ばした網の先から逃げていってしまう。


「ああああぁぁぁぁ!」


 振り返って、翔を睨んだ。


「もう、なんだよ! 嫌な予感って! お前が負ける予感だろう! 俺もう少しであと一匹……」


 しかし秀一は、あたりに漂いはじめたただならぬ気配に、残る言葉を飲み込んだ。


「来る! 匂いがする……何か、来る!」


 秀一は鼻をひくつかせながら、あたりの様子をうかがった。


「信乃! 信乃ーーぉ! どこにいる!?」


 翔が大声で呼びかけたけれども返事がない。


「信乃おぉ! どこだぁ!」


 秀一も口元に手を当てて、大きな声で呼びかけた。


「しゅ……いち……」


 秀一の耳が信乃のささやきを拾った。

 声のする方向をたどると、広い畑のちょうど反対側の木陰に信乃が立っていた。

 ぞわり。

 秀一の全身の毛が逆立つ。

 なにか、とてつもなく恐ろしいことが起きようとしている。

 しかもそれは、信乃のいる方角からやって来ようとしていた。


「走れ! 信乃!」


 秀一の声に弾かれて、それまで固まっていた信乃が、よろよろと足を動かしはじめた。


「なんだこれ? この気配……」


 つぶやく秀一の額には、暑さのせいではない汗が吹き出していた。


「知るか。なあ、なんだか涼しくなってきたみたいじゃないか?」


 異変を察した翔も、腰を落とし、不測の事態に備えているようだ。

 秀一の耳がピクピクと動いた。思わず歯をむき出して、唸ってしまいそうになる。

 何かとんでもない異質なものが、信乃の背後から忍び寄って来る。

 信乃もそれを感じ取っているらしい。焦りからか、それとも恐怖からなのか、足がうまく動いていない。

 そんな信乃の様子を見て取った秀一は「そこの後ろのでっかい木に登ってろ!」と翔に一声かけてから、全速力で走り出した。


「わかった」


 翔は身体が大きく、おっとりしているように見えるが、普段の動作がゆっくりなためにそう見えるだけで、実は機敏で判断力もある。

 秀一の指示に迷うこと無く従い、持っていた虫取り網を投げ捨てて赤樫の大木を登りはじめた。

 秀一は信乃に向かって走りながら、信じられない光景を目の当たりにしていた。

 信乃の周囲の景色が変化していく。

 近づく気配は、異質な『モノ』などという生易しいものではなかった。

 耕された畑の土が、きゅうりやナスやトマトが、さわさわとさざめく黄金の光に飲み込まれていく。

 そしてその景色の向こうから、真夏の畑の中とは思えないような涼やかな風が、秀一に向かって吹き付けていた。

 風にそよぐのは、少し緑がかった黄金色の……稲の葉のような形状をしたもので、まるで収穫期の田んぼのようにさわさわと光る金の波が、こちらへ向かって押し寄せてくる。

 透けて見える立体映像が次第に濃さを増し、この現実の世界を飲み込もうとしている。

 信乃は幾度も躓きながら、異質な世界に追い立てられるように秀一に向かって走っていた。

 秀一たち大神家の一族は足が早い者が多く、全速力で走れば、子どもですらオリンピック選手並のスピードを出すことができる。

 一直線に走る秀一と、よろけながら走る信乃の手が繋がった。

 ただ風にそよいでいるように見えた金色の葉が、ざわりと意思を持つ。

 ぼやけていた景色がはっきりと色を持ち、踏みしめていたはずの地面が波打った。

 秀一は満身の力を込めて信乃を引き寄せると「よいしょお!」という掛け声をあげ、抱き上げた。

 信乃の足に巻き付いた金の触手が一本地面から抜けて、その途端にはらり崩れて消えていった。

 秀一は自分と大差ない体格の信乃を抱えながらも一切スピードを落とさない。

 普通の九歳の子どもにはとてもこんなことは出来ないだろうけれども、秀一は山津見の神の眷属である。その中でも誇り高い、大神の一族の棟梁息子なのだ。

 そのプライドが秀一の足を動かしていた。信乃を抱いた手がジンと痺れたが、絶対に離すもんか! と、歯を食いしばった。

 走る先には翔が待つ赤樫の大木がある。


「あれに登れるか?」


 秀一は信乃に聞いた。

 秀一の腕の中で信乃は首を伸ばし、目的の大木を確認している。


「どうだろう。あまり自信はないな。それに、あの木に登ったからって、逃げ切れるとは限らないんじゃないか?」


 秀一に抱きかかえられているくせに、信乃は恐縮した様子もなく、淡々とした口調で答えた。


「逃げ切れる! 異界の匂いが、あの木の上はしない。重なっているのは、この畑の地面に近いあたりだけだ」


 秀一はたどり着いた赤樫の木の下で、信乃を下ろした。

 けれども信乃は木に登ろうとはしない。それどころか


「助けてくれてありがとう。でも僕には登れないと思う。君だけでも逃げてくれよ」


 などと言い出し始める。


 ――せっかく助けようとしてるのに、ふざけるな!


 そう言おうとした秀一だったが、目の前にある信乃の青い顔と、ぎゅっと力の入った肩を見た途端、怒りがしゅんとしぼんでいった。

 信乃の肩に両手を乗せると、秀一を見上げた信乃に向かってニカッと笑いかける。


「そうはいくか。ちょっと待ってろよ」


 そうして、秀一は翔のいる枝まで登った。


「翔! 俺の手を握っててくれ! 」


 翔に一声かけると、つないでいない方の手を伸ばし、信乃へと差し出す。

 めいいっぱい伸ばしたものの、信乃が背伸びをしてもまだ秀一の手のひらを掴むことはできないようだった。


「翔! 力入れろ!」


 秀一はゆっくりと枝から腰を下ろしていく。最後には翔が一人で、秀一と自分自身の体重を支えていた。

 もう信乃の手は秀一の手に届くはずなのに、信乃は一向にその手をつかもうとしない。


「信乃! 何してんだよ! 早くつかめ!」


 そうこうしている間にも、金の波は信乃の直ぐ背後まで迫っている。


「僕が掴んだら、翔……支えきれなくなっちゃうよ」


 信乃の言葉を聞いた秀一の頭にカッと血が登った。


「ばっ……! お前、バカにすんなよ! 翔は天羽の男なんだぞ! すっげー力があんだぞ!」


 上を振り向いて、な? 翔? と声を掛けると、翔は黙ってうなづいた。


「秀一と信乃くらい余裕だ」


 翔の言葉に信乃はこくんとうなずくと、ようやく手を伸ばした。

 しかし、金のさざなみの先端は、信乃の履いている茶色のキッズ用サンダルを包み込み始めている。


「信乃! 早くしろよ!」


 サワサワサワサワサワサワ……。

 小さかった金のざわめきが大きなうねりとなっていた。

 ひっ!

 という小さく息を呑む音が信乃の喉からなって、秀一が覗き込むと、ひゅるりと伸びた数本の金の触手が信乃の足に絡みつこうとしている。


「ちっ……くしょう! 信乃!」


 もう、赤樫の木の周辺はすっかり金のさざなみに飲み込まれていて、その中から一本の大木が青空に向かって立っているのだった。真っ青な夏空の下に淀む空気は、ひんやりとした層を作っている。

 ザザザザザザザザザザッザッ……

 びっしりと金の触手に覆われた大地がうぞうぞと蠢動し、信乃の立っていた地面が盛り上がる。


「わ……あっ!」


 信乃はよろけながらも軽く伸び上がり、ジャンプするようにして、秀一の手を握った。


「翔。引き上げるぞ」


 力なら翔のほうが秀一の何倍もあるのだ。引き上げる作業は翔に任せて、秀一は信乃の手を離さないようにすることに集中した。


「いくぞ」


 翔の掛け声とともに、信乃の足が宙に浮き、絡まった触手がはらりと解けていく。

 少し高い位置まで引き上げられると、信乃は近くにあった枝に抱きついた。三人はそれぞれ枝の上に自分の居場所を確保してから、そろって木の下を覗きこむ。

 金色の草のような触手は、うねりながら大木に巻き付いていた。


「おかしい」


 その様子を見ていた信乃が呟いた。

 なにが? と秀一が尋ねる。


「今まで、異界を僕が引き寄せてしまうことはあっても、こんな風に追ってきたり、僕を捕まえようとすることはなかった。ただぼんやりとこの世界に重なって、しばらくすると、もとに戻る」

「え? これって、おまえの力なの?」

「そう。先祖返りと言われる力。異界に渡ることが出来る力」


 これがセンゾガエリノチカラ? 秀一は驚いた。これが信乃の仕業なのだとしたら、確かに桁違いだ。

 けれどもうつむいた信乃からは、意外なつぶやきが聞こえた。


「だけど、僕は出来損ないだ……」


 確かにそう聞こえて、出来損ないってどういうことだよと、秀一がツッコミを入れようとした時に翔の声がした。


「なあ、もう少し登ったほうがいいんじゃないか?」


 ひょいと下を見ると、うごめく触手は、確かにさっきよりも盛り上がっているように見える。


「いや……」


 秀一は、それでもためらった。

 いくら大木だといっても、先へ行けば枝は細くなる。一人ならまだしも、三人揃ってこれ以上登ることは心もとない。赤樫の木は桜の木などに比べて粘りはあるが、それでも折れる可能性が無いとはいえない。


「これだけはっきりしてるんだ。こちらからの攻撃が効くんじゃないか?」


 秀一の戸惑いを見て取った翔が言った。


「どうやって」

「俺が、雷鬼を呼び寄せようか。どうやら地表以外はまだ異界に飲み込まれてないみたいじゃないか? だとすれば、俺は呼べる」


 空に向かって翔が手を上げた。

 秀一は慌てて翔の腕をつかむ。


「ちょっと待った!」

「なんだよ」


 めずらしく翔の声に苛立ちが混ざった。


「いや、もしかするとこのままもとに戻れるかもしれない……。異界の気配が、薄くなってる」


 秀一はくんくんと鼻を鳴らした。

 ここで雷鬼なんて呼び出されて、暴れ回られたら、畑は大変なことになってしまう。できることなら雷鬼など呼び出さずに済めばいい。


 ――消えろ! このまま消えちまえよ!


 そんな秀一の祈りが通じたのかどうかはわからないが、しばらくすると、三人が固唾を呑んで見つめる先で、少しずつ金色のさざめきが薄くなっていった。

 それに合わせて、すっかり異界の景色に覆われて見えなくなっていた畑の実りが、金の草原の中から浮き上がりはじめる。

 そのまま、この世界のものとは思えない光景は、三人の見ている前で、ふいっと見えなくなってしまったのだった。

 むわっとした暑さが戻ってくる。


 ふうーっ!


 秀一が大きなため息をついた。


「もとに戻ったみたいだな」


 普段はあまり感情を表に露わにすることのない翔も、ほうっと大きく息をついていた。


「秀一は、異界の匂いがわかるのか?」


 一段低い枝から、信乃が秀一のTシャツの裾を引っ張っていた。


「あ? ああ、わかるよ。匂いっていうのか、気配っていうのか。今のだったら、あっちから異界がやってきて、この畑全体を覆った。けど、覆われたのは地面に近いところだけで、上の方にはこっちの世界が残ってた。……信乃は、自分の力なのに、わからないのか?」

「うん」

「翔は?」

「いや。どこから異界で、どこに向かえば現実にとどまれるかなんてことは、わからないな」


 翔は首をひねりながら言った。

 その言葉に秀一のほうが驚く。

 翔はとても強い力を持っているし、格でいえば大神家より天羽家のほうが上だと言われている。秀一としては、当然翔も自分と同じようにわかっているはずだと思っていたのだ。


「おまえ! すごいな!」


 信乃が、キラキラとした瞳で秀一を見上げていた。

 今まで無表情だった信乃に生気が灯っていた。その顔を引き出したのが自分だと思うと、悪い気はしない。

「おまえ」呼ばわりされたことには多少引っかかりを持ったが、まあ、子どもだから仕方がないか、と考えた。秀一自身はさんざん翔や信乃をおまえと呼んでいるうえに、秀一のほうが信乃よりもひとつ年下になるわけなのだが、都合の悪いことはストンと脳みそから抜けることになっている。


「なんだよ、信乃は異界を呼び寄せられるくせに、そんなこともわからねえんだ」


 と調子に乗ると、信乃は途端にうつむいて


「そうなんだ」


 と、唇を噛んだ。


「さっきも言っただろ?……僕はデキソコナイなんだ。過去の先祖返りの能力者は、異界を自由に呼び寄せたり、そこから怪物を呼び出して使役したりできたみたいなんだけど、僕の場合、まったくコントロールができてない。だから、いつ異界が近付いてこの世界とつながるかもわからないし……お父さんが言うには月の満ち欠けと僕のせいしんじょうたいが影響してるんじゃないかって言うけど。そう言われても、どうしたらいいかなんて、わからないし。だから……皆僕のことを怖がってるんだ」


 話しているうちにも、また信乃の瞳が、ガラス玉のように感情を現さなくなっていく。

 それが、秀一の心を波立たせた。


「へん、皆弱虫だな。異界なんて、ちっとも怖くねえよ」


 思わず強い口調で言ったのは、信乃を喜ばせたかったからかも知れないし、心の奥底で、怖いと思う気持ちがほんの少し隠れていたからかも知れない。


「怖くない? 本当に?…… だって、もしかしたら僕と一緒に異界に渡って、帰ってこれなくなるかもしれないんだよ!」


 うつむいていた信乃がきっと顔を上げる。


「こわくねえ! って、言ってんだろう!」


 秀一は秀一で、意地がある。怖いなんて口が裂けても言えない。


「俺はなあ。妖かしの中でも神使しんしである狼族を取りまとめる大神一族の長の子だぞ! 異界ごとき、怖がったりするかってんだ!」


 ぐるるるる、と、秀一の喉が鳴った。

 普通のものはこれをやると怖がるのだが、信乃は少し目を大きく見開いただけだった。


「おまえだって、怖くなんかねえだろ? なあ?」


 秀一は一段高い枝に座っている翔を見上げる。

 翔は一度瞬きをすると、軽く首を縦に振る。


「ほら見ろ。おまえのまわりのヤツは、みんな弱っちーんだよ。俺は匂いで異界とこの世界の区別がつく。翔だって、雷鬼を呼び出せる。異界なんか、全然怖くねえ。もし異界に渡ったって、そっちの世界で一番になってやるよ」


 秀一がそう言い切ると、信乃の目が今までで一番大きくなった。


「凄いね。今までそんなやついなかったよ。異界で一番? 僕もそんなこと考えたことなかった。あのさ、父さんがつれてきた女の子なんか、ほんのちょっと……異界がうっすら見えただけで大泣きしたんだよ。だから女の子なんて面倒くさいんだ。それに……僕だって、ちょっとはこわいのに……」


 秀一は胸を張ると、エヘンとばかりに鼻の下をこすった。


「なんだ、おまえも怖いのか? じゃあ、また異界が出てきたら、俺が助けてやるよ!」

「ほんとうか?」

「なんだよ、ウタガウのか? 本当だぞ」


 秀一はすっかりもとに戻った大地の上にぴょんと飛び降りた。

 翔もその後に続いて、木から飛び降りる。


「じゃあ、秀一は僕の守護者になってくれるのか?」

「守護者?」

「うんそうだ。先祖返りの能力者は、力を利用しようとする悪いやつに狙われることが多いんだって。だから、守護者が必要なんだって。父さんから聞いたんだ。もし、秀一が守護者になってくれるなら、僕の一番の守護者になって欲しい」


 まだ枝の上に座ったままの信乃が秀一と翔を見下ろしていた。


「ふーん」


 秀一は実際のところ、一番の守護者がどういったもので、どれほど深い結び付きを先祖返りの能力者とのあいだに結ぶのかということも、まったくわかっていなかった。だが、本来彼の持っているガキ大将気質が、信乃の言葉にいたく刺激されたのだ。


「一番の守護者ってのは、一番偉い守護者なのか?」


 そこが肝心なのである。


「もちろんだ。守護者の中のリーダーだからな……まだ僕には一人も守護者はいないけど……」

「よしわかった! 俺が信乃の一番の守護者だな!」


 信乃の喉がコクリとなった。


「翔は? 君も僕を助けてくれる?」


 信乃の視線が翔に移る。

 翔はしばらくじっと信乃を見つめると、静かに首を縦に振った。その瞳がわずかに黄緑色の光を帯びていた。


「信乃は、きっとその力をコントロールできるようになる……」


 予感の力を持つ天羽の一族である翔が、静かに言った。


「飛び降りろよ、信乃!」


 秀一が大きく腕を広げる。

 

「うん!」


 信乃は大きくうなずくと、勢いよくその腕の中に飛び降りる。

 それが、秀一と信乃の、長い長い主従の約束の始まりとなるのだが、まだこの時は、誰もその事に気づいてはいないのだった。


「しゅういち!」

「かけるー!」

「しのー!」


 三人を呼ぶ緊迫した声が聞こえ、振り返ると三人の父親たちが、慌てた様子でこちらへとやってくるところだった。

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