――彼は×××だよ

 翌日、十一月十九日水曜日。猪狩は約束通り、定食屋にはいなかった。

 私はいつもの日常へと戻り、一人でランチを終えることができた。

 会社に戻るといつものように植西と取り巻きがやってきて、なんだかごちゃごちゃ言っていた。私はイヤホンをつけて聞こえないフリをする。

「ねえ、昨日はどうだったのぉ?」

「一月さんったらとんだアバズレよねぇ」

「会社帰りに男の人と待ち合わせしてたのよぉ? 信じられるぅ?」

 その男を家に連れ込もうとしていたのは誰だ。

「ねぇ、今日は猪狩くんのこと、わたしに譲ってくれるぅ?」

 植西が私の顔を覗き込み、媚びるように甘えた声を出した。

 近付くな、気持ち悪い。

 私は、話題を終わらせるため簡潔に言った。

「もうあの人は来ませんよ」

「えぇ? どうしてぇ? もしかしてあのあと喧嘩したのぉ? 信じられない!」

 何故か植西は怒っているようだ。

「あんないい人を怒らせてるなんてぇ! やっぱり一月さんって無愛想よぉ! 嫌な女!」

 取り巻きがそうよそうよの大合唱。

「わたしが猪狩くんのこと狙ってるの知っててそういうことをしているのぉ? いい加減にしなさいよぉ! 同僚としてわたしのこと応援したらどうなのぉ!?」

 は? 植西が猪狩を狙っている?

 植西の言葉に、私は思わず眉をひそめた。

 あの、あの軽薄なナンパ男の、どこに、狙う要素が?

 猪狩にいいところが一つでもあったか? 少なくとも私が見る限りではなかった。ただの一つも。

「あらぁ、なぁに、その顔? とぼけないでよぉ」

 植西が取り巻きに言う。

「猪狩くんって、本当に格好良くて気が利いて優しいのよぉ。一月さんにはもったいないわぁ。昨日なんて、缶コーヒー何本もご馳走してくれたのよぉ」

 缶コーヒー数本で釣られるとは随分安い女だな。

 植西は、取り巻きたちに『猪狩がいかにいい男か』について語りだした。

 その間に、植西の言葉を一つ一つ否定していくこととしよう。

 まず、猪狩が格好良いという意見。少なくとも私は、猪狩を格好良いとは感じない。猪狩が何か格好良い行動をしたか? いや、していない。

 次に、気が利く。気が利く人間は『殺人事件』の話題など出さない。特に食事中。

 最後に、優しい。猪狩が植西に優しいのは、私の情報を聞き出したいがためのものだ。そんな表面上の優しさなど評価に値しない。

「……そういえば、植西さんはなんて答えたんですか?」

 ふと疑問に思ったので、私はイヤホンを取り、言葉を発した。

「なにがぁ?」

 植西が、話を途中で遮られて不服そうに聞いた。

「猪狩さんに訊かれましたよね? 植西さんは、殺人犯が目を抉り取る理由、なんて答えたんですか?」

 猪狩のナンパの目的は『犯人が目を抉り取ったのは何故か』という意見の交換だ。ならば当然、私だけでなく植西にもその話題を振っているはずである。

 植西は、この『殺人犯』の話題を振られておいて、猪狩をこんなに高く評価しているのだ。ならば、何かご機嫌を取るような言動でもされたのだろう。

 しかし、私の言葉に、植西は顔をしかめた。

「はぁ? 一月さん、一体何を言っているのぉ? 意味がわからないわぁ。猪狩くんがそんなデリカシーに欠ける話するわけないじゃないのぉ」

 ねぇ? と取り巻きに同意を求める植西。

 ……え? 猪狩は、そんな話をしていない? どういうことだ?

 それでは、猪狩の『ナンパの目的』に矛盾が生じてしまう。もしや、植西のような馬鹿そうな女の意見など参考にならないとでも思ったのだろうか? それとも、あの『ナンパの目的』はまったくの嘘? では何故猪狩は今日、定食屋に来なかった? 猪狩の本当の目的は何だ?

 休憩終了のチャイムが鳴る。

 植西たちは、私を異端者でも見るような目つきで見つめたあと、自らのデスクへと戻っていった。

 私は一人、腑に落ちない顔で仕事を続けた。


   ◆◆◆


 さて、今日の仕事は終わりである。

 終業時間から数時間経過したいつもの時間、私は一人帰路についた。

 ――はずだった。

 会社の前には、猪狩が植西と取り巻きに囲まれて立ち話をしている姿があった。

「……………………」

 何をしているのだ、あの男は。

 猪狩が、私の姿に気付き、手を上げて声をかけた。

「やあ! 一月ちゃん!」

 呼ぶなよ。

 猪狩が、植西や取り巻きを無視するように、私の元へと小走りでやってきた。

「お仕事お疲れ様! コーヒー……は、いらないんだったね」

 猪狩は、昨日植西がいたときと同じように、コートのポケット部分にヘルメットを吊り下げている。どうやら、私以外と話をする時は、ヘルメットではなく猫を被るらしい。

「……どうして、ここにいるんですか?」

 私は短く問う。

 猪狩は笑顔で答える。

「君の昨日の返答に興味を持ったからだ。もっと君と話がしたい」

「もう私の前に現れない、という話は?」

「俺の昨夜の言葉を正確に思い出して欲しい。『もし君がこの意見交換を承諾するなら、俺はもう君をランチに誘うようなことはしないよ』と言ったんだ。『ランチには誘わない』……つまり、『帰りに偶然出会うこと』はこの言葉に逆らっていない」

「戯言を」

 私は吐き捨てるように言って、猪狩を睨んだ。

 と、植西たちが、私と猪狩の間に割って入った。

「ねぇ、猪狩くん、こんな無愛想で嫌な女放っておきましょうよぉ。今日はみんなで飲みに行きましょぉ?」

「あはは、困ったなあ。まだ水曜だよ?」

「もう水曜、よ。あ、そうだわぁ。わたしたち、毎週金曜はみんなで女子会してるのぉ。猪狩くんも一緒にどぉ?」

「『女子』会なんでしょ? 俺は参加できないよ。邪魔になってしまう」

「邪魔だなんてそんなぁ!」

「それに俺、金曜の夜は仕事の予定が入っているんだ。申し訳ないけど、丁重にお断りさせてもらうよ」

 猪狩が、植西や取り巻きたちと、駅へ向けて歩き始める。

 私はどうするべきか迷い、先を歩く猪狩たちの後を追うように歩いた。

 私は、猪狩たちについていっているのではない。『偶然』帰り道が同じなのだ。

 すぐに駅へ向かわず、どこかで時間を潰すことも考えたが、面倒だった。どうしてこの男から離れるためだけにそこまでの時間と金と労力を払わなければならないのだろう? このまま直帰するのが、一番簡単な方法だ。早く家に帰りたい。

 先を行く猪狩と、植西、ウィズ取り巻きたちは、なにやら楽しそうに会話している。ところどころ、取り巻きたちが「格好良い」だの「素敵」だのと言っているのが漏れ聞こえる。

 猪狩のどこが格好良くて素敵なのだろうか? 甚だ疑問である。

 しばらく猪狩たちを観察して考える。

 ……ああ、なるほど。顔か。

 私はあまり注目していなかったが、どうやら植西たちにとって、猪狩の顔は好みの部類らしい。

 顔が良ければ、多少変な格好でも、多少軽薄な性格でも、多少不審でも関係ないということか。

 植西たちらしい馬鹿で呆れた判断だ。

 それとも、猪狩は私との関係を『ナンパしただけ』だと明かしていないのかもしれない。だからこそ、植西たちは猪狩の不審さを知らないのだ。

 植西たちにとっては、顔が良くて、気さくで、話しやすくて、コーヒーをご馳走してくれる気遣いと、少しの優しさがあれば、それだけで十分『紳士』に見えるのだろう。

 おめでたいことだ。


 駅に到着すると、猪狩は女たち一人一人の名前を呼び、別れの言葉を口にしていた。

 付き合っていられないので、私は先に改札を抜けホームへ入った。

 私が電車に乗ってすぐ、猪狩が慌てて電車へ駆け込んできた。その直後、扉が閉まり、電車は走り出した。

「ああ、君を見失うところだった。危ない危ない」

 いっそ見失えばよかったのに。

 昨日と変わらず、私は座席に座り、猪狩は立っていた。


 最寄り駅に到着すると、私は猪狩を無視しながら、昨日と同じ道を歩いた。

 猪狩も私の後ろを歩き、ついてくる。

 しばらく、猪狩は何も喋らず、私も何も喋らなかった。


   ◆◆◆


 不意に、猪狩の声が通りに響いた。

「怒ってる?」

 私はその言葉を黙殺する。

「……やっぱり、怒ってるんだ。ごめんね。ちょっと強引だったね」

 猪狩が『大きな独り言』を言う。

「本当は、昨日、あれきり会わないつもりだった。けれど……、惜しい、と思った。たったあれだけのやり取りで君から離れるのは、惜しい」

 猪狩の言葉に、私は応えない。

「勘違いしないで欲しいのは、俺は君に対して興味はあるが好意はないってこと。俺は純粋に好奇心で君に関わっている。今後も君に対して好意を抱くことはないよ。……少しは安心してもらえたかな?」

 私が警戒していることを、どうやら猪狩は察知しているようだ。単純に空気が読めない男、というわけではないらしい。

 それとも、こういう『気遣い』にこそ、植西たちは好意を抱いたのかもしれない。

「その様子だと、俺の問いかけに、君は答えてくれないのかもしれないね。けれどそれは、実に、もったいない。時間の無駄遣いだ。さくっと会話してさくっと別れるのがお互いのためというものだ。時間は限られている。人生は短い」

 お前の都合など知ったことか。

 私に答える気配がないにも関わらず、猪狩は言う。

「そうだなあ。導入程度に、君と植西ちゃんの関係を聞いてもいいかな? 少なくとも好意的ではないことは見ていればわかる。どうして君たちは仲が悪いんだい?」

 植西? どうしてここで植西の名前が出てくるんだ?

 もしかして、猪狩は私ではなく植西が目当て……? いや、違う。植西が目当てなら、わざわざ私を仲介せずとも、直接植西と会えばいい。植西は『その気』なのだから。

「別に植西ちゃんに好意があるわけじゃないよ」

 思った通り、猪狩は否定した。

「さっきも言ったが、興味はあっても好意はない。それに、俺の興味の対象は『一月ちゃんと植西ちゃんの関係』であって『植西ちゃん個人』ではない。従って、植西ちゃんの気持ちに俺は応えられないし、応えるつもりもない」

 きっぱりと言う猪狩。本人の知らないところで振られている植西を、随分と間抜けに感じた。まるで道化である。

 いい気味だ。

「一月ちゃんは、植西ちゃんのこと、やっぱり嫌いなの?」

 『やっぱり』とはなんだ。

 しかし、猪狩の言う通り、私は植西に対して好意的ではない。

 あの女は、私にとって『決定的』な障害物だ。

 今すぐにでも、排除の必要があるほどの。

「……一月ちゃんと植西ちゃんの関係が、俺の出現でより悪化しているのは見ていればわかる。けれど、そのことを俺が知っていてもどうしようもない。俺がこのまま君に会い続ければ、植西ちゃんの悪意がより強くなるだけ。俺がそのことを植西ちゃんに注意すれば、悪意が陰湿化するだけ。俺がもう姿を現さなければ、悪意は明確な敵意へ変わるだろう。かと言って、俺が植西ちゃんの気持ちに応えないことは今宣言したばかりだ。……どう進んでも、詰んでいる」

 そこまでわかっているのなら、早く私から離れればいいのに。猪狩がいなくなれば、あとは時間が解決してくれる問題だ。……植西が執念深くなければ、であるが。

「たぶん、俺が関わったところで、事態は好転しないだろう。俺にできることはない。運命を変えることはできない。俺は……無力だ」

 猪狩の声は、どこか寂しげだった。

「けれど、それは『何もしなくていい言い訳』にはならない。俺は運命を変える努力がしたい。力になりたい。こんな筋書きは間違っている! 間違っているんだよ」

 たとえ、既に手遅れだとしてもね。猪狩はそう付け加えた。

 ……猪狩の言っていることは支離滅裂だ。意味がわからない。何をそんなに熱くなっているのだろう?

「…………あー、ごめん。少し感情的になってしまった。こんなことを言っても、君には、きっと届かないんだろうね」

 その通りだ。私には猪狩を理解することなどできないし、理解したいとも思わない。

 運命を変えたい? 力になりたい? 誰がそんなことを頼んだというのだ。そんなもの、私は望んでいない。

 どうして私の周りには、私を放っておいてくれる人間がいないのだろう。

 大きなお世話だし、迷惑だし、煩わしい。

 私が求めているのは、そんなことではない。黙認、静観、無関心。それだけで十分なのに。

 それとも……猪狩は、植西と同じように、私にとって『決定的』な障害物なのだろうか?

「頭を冷やすよ。もう少し別のことを話そう。そうだな……」

 猪狩は、話題を考えるために少し黙った。

 そのままずっと黙っていればいいのに。




 ――そう思い続けて十数分が経過した。

 猪狩が黙ったまま言葉を発しない。なんだ、あの男、黙ることもできたのか。

 それにしても、話題選びにどれだけ時間をかけているのだろうか。もうマンションに到着してしまうのだが……。

 気になった私は、そっと後ろを振り向いた。

 そこに、猪狩はいなかった。

「………………」

 いないのかよ!

 どうやら、私が気付かないうちにどこかへ消えてしまったらしい。

 頭を冷やすために話題を変えるのではなかったのか。そのまま帰るとはどういう神経をしているのか。

 ここまで歩いてきた私の労力が、無駄になってしまった。

 ……まあ、いい。あんな男、いないほうがいいに決まっている。

 私は、猪狩が隠れて見ていないことを確認して、暗い路地へと進路を変えた。このまま猪狩を撒いて、家へと帰ってしまおう。

 私は少しだけ早足で、その場を離れた。

「あの」

 ここで、誰かが私に声をかけた。

 猪狩かと一瞬身構えたが、どうやらそうではない。

 道の先に、コートの上にカッパを着た、風変わりな格好の男が立っていた。

 猪狩よりは少し低い位置に頭があり、カッパのフードを被っている。身長は百七十センチ程だろうか? 体重は、身長の割には重そうだ。年齢は三十代半ばほどに思えるが、顔は影になっておりよく見えない。コートの上から、膝下まである透明なカッパを着ている。左手にはA4ノートが楽々入りそうな大きさの鞄を持っている。鞄の口についているチャックは開けられており、すぐに中の物を取り出せる状態だった。

 私は眉をひそめて、足を止めた。

 どうしてこうも邪魔が入るのだろう。なんだこの男は? 雨でもないのにカッパなど。しかも、声をかけてきた。黙って道を歩けないのだろうか?

「あなたは僕の同志ですか?」

 男は言う。言っていることの意味がわからない。

「あなたは僕の同志ですか?」

 男が繰り返す。

 私は男を無視して、道を引き返そうとした。別にこの道を通らずとも、家には帰れる。別の道を使おう。

「違うんですね?」

 男が言って、ごそりと動いた。持っている鞄に右手を入れ、引き抜く。その手には、何かが握られている。

 あれは――見慣れた道具だ。手に持つシルエット、街灯を反射する側面、鋭い切っ先。あれはまさしく――包丁。

 男は、包丁を手に、私へと迫ってきた。

「…………!」

 流石に驚き、私は男へ背を向け走って逃げ出した。

 叫び声を上げれば、誰か来てくれるかもしれない。この際猪狩でもいい。妥協しよう。いや、しかし、来ないかもしれない。以前はどうだった? 誰も来なかったのでは? いや、考えていても仕方がない。声を、声を上げることが先決だ。

「だ……れか……!」

 喉が引きつり、うまく声を出せない。こんな時に限って、窮地に限って、うまく体が動かない。そういえば、喉だけじゃない、足、も、もつれ、て

「あっ!」

 ずざあっ! と私は転んだ。こんな時に限って、足がもつれてしまった。後ろを振り返ると、包丁を持った男が、私のすぐ、後ろに

「――誰か来て!」

 私はようやく、声を上げた。しかし、もう、男が、目の前、に、

 包丁が、私、に、

 振り下ろされ――……






 がごんっ!

 と、何かが男の頭に当たった。

 私の背後から来たその飛来物は、重く硬質な音を立てて地面へと転がった。

 それなりの衝撃があったらしく、包丁の男はよろめき、頭を押さえている。

 地面へ目を向け飛来物を確認すると、それは――缶ジュースだった。

「よっしゃ! クリティカル!」

 声がして、その方向――包丁の男とは反対の方向へ振り返ると、そこではヘルメット姿の猪狩がガッツポーズをしていた。

「………………」

 一瞬、何を場違いなことをしているのかと軽蔑しそうになったが、

 なんのことはない。猪狩は――私を助けたのだ。

 私を一度見失い、それでも探して、襲われそうになった私の叫び声を聞きつけ、急いでここまでやって来て、そして、包丁を振りかぶる男へと缶ジュースをぶつけたのだろう。

「な……なんだお前は!」

 包丁を持った男が、猪狩を睨み激昂する。

「お前は……お前は同志じゃない! 同志なら、僕を理解して協力してくれる! なのに、お前は邪魔をした!」

「んー? ちょっと何言ってるかわかんないんだけど」

 猪狩はへらへらと笑いながら、頭に乗せていたヘルメットを取り、地面に置いた。

「殺してやる!」

 男が、私から猪狩へと標的を変える。

 そして包丁を手に、猪狩へと向かっていった。

 猪狩は、ポケットに入れていた右手を男に見せた。いや、正しくは、右手に持つ物を見せた。

 それは――またしても、缶ジュースだった。

 包丁の男と猪狩には、まだ二十メートル以上の距離がある。男が、缶ジュースを見て、また投げつけられるのかと身構え、一瞬足を止めた。

「せーのっ!」

 猪狩は、缶ジュースを投げた。

 包丁の男へ向けて、ではなく、空へ――上へ、向かって。

「!?」

 私と男は、一瞬思考が停止し、空へ投げられた缶を目で追った。

 一瞬のあと、視線を元に戻す。猪狩のいた場所には、目印のように黄色いヘルメットだけが残っていた。

 そう、気付くと、猪狩はヘルメットの地点ではなく、包丁男へと駆け出していた。黒いコートと黒い髪が、暗闇に同化するようになびいた。

 がおんっ! 缶ジュースが、鈍い音を立てて地面へ激突する。

「このっ!」

 男が、距離を詰める猪狩へ向けて、勢いよく包丁を突き出した。

 猪狩は怯まない。

 正面から突き出される包丁を、速度を落とさず、首を少し傾けることでかわす。猪狩の頬、左目の下に包丁が薄く傷をつけた。

 そして勢いそのままに、猪狩は左拳を男の腹へ叩き込んだ。

「がはっ!」

 男は喧嘩慣れしていないようで、その場でふらりと傾いた。

 猪狩は男に暇を与えず、男の左肩と頭を掴み、もう一度、腹へと左膝を打ち込んだ。

「っ…………!」

 声も出せない程の衝撃に、男は膝をつく。右手から包丁が零れるように落ちた。

 しかし、猪狩はそれでも許さず、男を蹴り倒し、右足のかかとを鳩尾へと振り下ろした。

「あが……っ!」

 男が、息を詰まらせる。

 そんな中、猪狩は

「……ふうっ」

 と、息を吐いた。

 男を見下ろしながら、猪狩が言う。

「一月ちゃん、怪我は?」

「……大丈夫です」

 私は、助けてもらったお礼を言うこともできず、ただ猪狩の問いに答えた。実際、怪我なんてしていなかったし、していたとしても転んだ拍子にできた擦り傷程度だ。

「そうか」

 猪狩は、包丁を持っていた男を踏みつけながら、目を逸らさず、片手をこちらへと差し出した。

「じゃあ、貸して」

「えっ?」

 猪狩の言葉の意味を理解できず、思わず間の抜けた声を出してしまう。

「スタンガン、持ってるんでしょ? 貸して。それとも、今日は持ってないの?」

「………………」

 私は、黙った。

 何故、この男は、私の所持品を把握している?

 そして、やっと思い至る。猪狩がここへ来た時点で、走って逃げればよかったことを。

「……あー、すまない、誤解を与えるような言い方をしてしまったが……」

 猪狩が、躊躇いがちに男から目を離してこちらを向き、取り繕うように補足を始める。

「俺が最初に声をかけた時、君は鞄を体の近くに引き寄せ、鞄に手を入れていた。その様子を見て、俺は『鞄の中に俺を無力化する道具が入っている』と推理した。それは、警察に通報するための携帯電話だったり、防犯ブザーだったり、警棒だったり、催涙スプレーだったりするだろう。その中で俺が直感的に想像したのが、スタンガンだった。特に深い意味はないよ。ただ、あの人気のない通りでも十分に効果を発揮するのは、きっとスタンガンだ。そう思っただけ。持っていないなら、それでいい」

 今からでも、走って逃げてしまおうか? 猪狩はこの包丁男のそばを離れられないはずだ。こんな危険人物を、むざむざ野に放つ真似はできないだろう。どころか、猪狩は男から目を離すことすら躊躇っていた。そうだ、逃げるなら、今が、最大にして最後のチャンス――!

 私は、鞄を体の近くに引き寄せ、じりじりと立ち上がった。


   ◆◆◆


 ああ、邪魔をされた。

 道行く女――もちろん同志ではないことを確認した――から目を拝借しようとしたところ、どこからともなく男がやって来て、僕を殴った。

 邪魔をされた。男は今、僕を踏みつけて遥か頭上から鷹のように睨んでいる。

 体重を傾けて鳩尾を踏み潰されているせいで、僕はうまく息ができず、ただ男を見上げることしかできない。

 落とした包丁を拾うことも、いや、男の足をどけることすら、できない。

 男はなにやら女と会話している。

 しかし、そんなことどうでもいい。僕は捕まるわけにはいかないのだ!

 同志を、同志を見つけなければならない。そのために、目を抉り取り、目を愛でなければならない。

 早く目を、僕に目を! そうして、同志を見つけたら、互いに収集した目を見せ合うのだ。同志と一緒に、大好きな目を見つめる。これほど幸せなことがあるだろうか!

 女が立ち上がり、しばらく黙ったあと、鞄から何かを取り出し男に渡した。

 男はそれを受け取り、僕と視線を合わせるように屈んだ。

 手には、プラスチック製で、先端に小さな金属の角がついた黒い物体を持っている。夜道で暗いせいか、なんなのかはわからない。

 男が、僕の顔を掴み、顎を持ち上げ首筋を露出させた。

「…………っ!」

 僕は、息を呑んだ。

 恐怖からではない。僕は、間近で、見たのだ。

 男の、黒い目を。

 その瞳は、墨を落としたようにどこまでも黒く、僕たちの頭上に広がる宇宙のような深淵さを湛えていた。どこか影のあるその目は、無機質に僕を見下ろしている。僕に『嫌悪』も『孤独』も感じさせない。その代わり、『好意』も『共感』も与えてくれなかった。この男は同志ではない。しかし、それでも、男の眼差しに、僕は期待を抑えられなかった。彼なら、僕を理解してくれるかもしれない。彼なら、新しい同志に! 仲間に! 友達に! そんな淡い期待を抱いてしまう。しかし、男の目は無慈悲なまでに僕を見下ろす。ああ、きっと、そんな期待になど応えてくれはしない。けれど、僕は――

 ――この男の目が、欲しい。

 男が、僕の視線に気付き、まばたきをする。

「……俺の顔に、なにか?」

 男は微笑んだ。

「お前、俺の目が欲しいのか?」

 男の言葉に、僕は精一杯の肯定を返した。言葉を発したり、首を動かしたりすることは難しかったが、きっと伝わったことと思う。

「そうか」

 男は、僕の様子が可笑しかったようで、くつくつと笑った。

「もし、俺を殺すことができれば、お前に俺の目をあげてもいいよ」

 男の言葉に、僕は目を見開いた。

 それは本当だろうか? だとしたら、僕は、この男を殺さなければならない。今すぐにでも!

 なんとか右手を動かし、包丁を探す。そこに、すぐそこに落としただけのはずなんだ! 包丁で男を刺し殺し、目を譲ってもらわなければならない! 包丁はどこだ!

 男は、僕を踏みつける足に、さらに力を加えた。

「……俺を殺すのと、お前が檻の中で死ぬのは、どちらが早いかな?」

 男は嗜虐的に笑い、僕の首へ、右手に持つ黒い物体の金属部分を押し付ける。

 カチリとスイッチの入る音とともに、目の前で閃光が弾け、僕は意識を暗闇へ落とした。

 ただ、恐ろしいほどに綺麗な黒い目と、体を走る激痛だけが、意識に焼きついた。


   ◆◆◆


 私は結局、猪狩へとスタンガンを渡した。

 逃げてもいいはずだった。しかし、私は逃げなかった。今更逃げても意味はないと思ったからだ。猪狩には名前も職場もバレている。今逃げても、どうせこの男は翌日になるとあっけらかんと職場の前にいるに違いないのだ。

 それに……曲がりなりにも『命の恩人』だ。猪狩は私を助けたのに、私が猪狩を見捨てていては示しがつかない。

 なにより、『借り』を作りたくなかった。

「スタンガン、ありがとう」

 猪狩が私へスタンガンを返す。

「あの……助けていただいてありがとうございました」

 私は猪狩に礼を言った。最低限の礼儀だと思ったからだ。

 しかし、猪狩は苦い顔をした。

「いや……悪かった。こんな事態を招いたのは俺のせいだ」

「え?」

「そもそも俺が君をマンションまで送るようなことをしなければ、もっと言えば俺が途中で君を見失わなければ、この男とは遭遇しなかった……、かも、しれない」

 それは……たしかに、元を正せば、そうだ。

 では、猪狩は自分の失態の穴埋めをしただけ、ということか。

「猪狩さん、そもそもどうして私を見失ったんですか? 昨日一度通っているし、そこまで入り組んだ道でもなかったと思うのですが」

「えっと……非常に言いにくいんだが……」

 猪狩が、私から目を逸らした。

「……道すがら自動販売機を見つけて、どの飲み物を買おうか迷っていたら、見失った」

「………………」

 ものすごくくだらない理由が出てきた。

 そんな、そんなくだらない理由で、私は殺されかけたのか。

 いや……しかし、たぶん、私が猪狩を撒こうとしなければ、もっと早く助けに来ただろうが……。

「しかも、二択で迷った末に、二缶とも買うという贅沢をしたのに、投げつけたせいでベッコベコだよ……」

 猪狩は地面に落ちて放置されていた缶を拾った。たしかに、缶は凹んでいて飲み辛そうである。

「一本いる?」

「いりません」

「だよね……」

 猪狩は、凹んだ缶をコートのポケットに収めた。

 ついでに、地面に置いていたヘルメットを拾い上げる。

「さて……警察に通報でもしよっか」

 そして包丁男を座らせて、電信柱へもたれさせると、

「おっと! こんなところにタネも仕掛けもない手ぬぐいが!」

 猪狩が、ポケットからするりと、長い手ぬぐいを取り出した。

 思わず私は言う。

「普通ハンカチじゃないんですか」

「手ぬぐいは便利だ。ハンカチのように手を拭いたり、汗を拭ったり、汚れを取ったりできる。しかし、ハンカチにはできないようなこともできる。首からかけたり、傷口へ巻きつけて止血したり、こうして不審者の手足を縛ったり。手ぬぐいとはハンカチの上位互換なのだ」

 軽口を叩きながら、包丁男の両手を電信柱の後ろに回し、器用に手ぬぐいで縛る猪狩。

 そして、男の手足が届かない位置に、落ちていた包丁を置いた。

「……この男が、連続殺人事件の犯人、ということになるんでしょうか?」

 私は、猪狩へ聞いた。

「んー……」

 猪狩は携帯を取り出して、少し考えたあと、言った。


「――彼は模倣犯だよ」


「……え?」

 私の反応を無視して、猪狩は携帯で警察に通報し始めた。

 模倣犯? この包丁男が? 真犯人ではなく? 何故猪狩には、そんなことがわかる?

 状況だけ見れば、この包丁男が連続殺人事件の犯人である。

 暗い夜道、人気のない通り、手には包丁、返り血を浴びてもいいようにカッパ着用、おかしな言動。どうみても『偶然その場にいた一般市民』ではない。それに、この男は私に襲いかかってきたし、猪狩相手には『殺してやる』とまで言っていた。

 なのに、この男は連続殺人犯ではない、と?

 いや――連続殺人の模倣犯、か。

 しかし、模倣犯として考えるには、偶然が過ぎるのではないだろうか?

 ここは『この男は連続殺人犯である』と考えたほうが自然だ。

 なのに、何故猪狩は『模倣犯だ』と断言できる?

 もしかして――


 ――猪狩は真犯人を知っている?


「よし、通報完了! 匿名での善意の通報ということにしておいたよ。警察と関わるのは面倒だからねえ」

 過剰防衛だって言われると厄介だし、と猪狩。

「……じゃあ、警官が来るまで、ここで見張っておく、ということですか?」

 私は訊いた。

「いや、そんな面倒なことはせず、模倣犯を放置して帰るよ。住所は伝えてあるし、問題ないでしょ」

 縛られて動けず気絶中、とはいえ、殺人犯を放置するのか? にわかには信じがたい神経だ。

「もちろん、心配なら君一人でこの模倣犯を見張っているといい。俺は帰るけどね」

「……どうして私がそんなこと……」

「捕まえたのは俺だが、最初に目をつけられたのは君だ。責任を感じない?」

「感じません。帰ります」

「そっか。なら放置して帰るってことで問題ないね」

「………………」

 そう言われるとそうなのだが……。

 ……まあ、いいか。

「それじゃあ今日はここで解散ということで。お疲れー」

 猪狩が私へ背を向け、駅へと歩き出す。

「ちょっ、ちょっと待ってください!」

 私は急いで猪狩を呼び止めた。

「どうしてこの男が模倣犯だと思ったんですか!? 普通に考えれば連続殺人犯じゃないですか!」

「んー……それはまた明日話そう」

 猪狩は取り合わず、そのまま帰ろうとする。

「猪狩さん! 逃げるんですか!?」

「おっと、人格攻撃かな?」

「茶化さないでください!」

「今度は論点のすり替えだァ」

「猪狩さん!」

 猪狩は足を止めて、振り返る。

「模倣犯かどうかは警察が判断してくれる。早ければ明日の朝にでもニュースになるだろう。ただ、俺はこの男が『模倣犯だろう』と『アタリ』をつけているだけだ。素人了見だからアテにしなくていいよ。君が『今日捕まえた男は連続殺人犯だ』と思うなら、そう思っていればいい。どのみち真偽はニュースとして報道される」

「で、でも、私はあなたの『模倣犯だろうというアタリ』の根拠が聞きたいのであって……」

「だから、それは明日話すと言っているだろう? 焦って聞くことでもない。……ああ、それとも、こうしようか。『もし俺の根拠が聞きたいなら、今から君の部屋で楽しくお酒を飲みながら話すよ。きっと終電を逃してしまうだろうから一晩泊めてくれ』……これでも、聞きたいかな?」

「………………」

 私は黙った。

 猪狩が笑う。

「ひゃはは! 答えが出たようだね。それでは、また明日」

 猪狩はそのまま立ち去ってしまった。

 私は、一人、しばらくその場に佇んでいた。パトカーのサイレンが、遠く、長く、どこか不吉に、空へと鳴り始めた。

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