事件について。君には必要ないかもしれないが

「やあ!」

 十一月十八日火曜日。私が昼、いつものように寂れた定食屋に入ると、昨日のヘルメット男が昨日と同じ席に座り、私に声をかけた。

「………………」

 私は男を無視して、別の席に座った。店員が私へ水を運んでくる。

 男は自分の水を持って、私の向かいの席へと移動してきた。

「昨日に引き続き会えるなんて、運命を感じてしまうね!」

「……私がこの店の常連だと見抜いて、待ち伏せしてたくせに」

 何が運命だ。戯言を。

 男は「あはは」と笑った。

「そうだね。待っていたよ。さあ、注文しよう! 俺はお腹がすいてしまったよ」

「『待っていて欲しい』なんて頼んでいませんが」

「うん。勝手に待ってた」

「………………」

 恥ずかしげもなく、男は言う。

 気持ち悪い。

 男と私は料理を注文した。男はアジの開き定食、私は親子丼だ。

 そういえば昨日も魚だった。男は魚が好きなのだろうか?

 ……いや、どうでもいい。興味がない。

 男が何か話しかけてくるのを無視して、私は新調した音楽プレイヤーを取り出した。イヤホンで耳を塞ぎ、男を無視する。

「あ、それ、新しいモデルのプレイヤーだね! 音質がいいって評判の! 何を聞いているの?」

 無視する。

 話をする目の前でイヤホンをつけたのだから、無視されているといい加減気付いて欲しいのだが。

 どうして無視している相手に対して話題を広げるのだろう。この男は空気が読めないのだろうか?

「隙アリ!」

 と、男が、私のイヤホンを片方奪い取った。男の予想外の行動に、対処が遅れる。

 男は取ったイヤホンを耳につけて、流れる音楽を聞こうとした。

「教えてくれないから、聞いてみるしかないね! どれどれ……」

 男はイヤホンに耳を澄ませた。そして、しばし黙った。

「……ひゃはは! いい趣味の音楽を聞いているね! なんていう曲? 四分三十三秒?」

「………………」

 曲名など、ない。男はそれを承知で言っている。

「いやあ、驚いた。盲点だったよ。まさか、新しいモデルの、音質がいいとされている音楽プレイヤーを見て、曲が一曲も入っていないなんて思う人間はいないからね」

 そうだ。男の言う通り、この音楽プレイヤーには曲が一曲も入っていない。

 何故か? 私が音楽など聞かないからだ。

「なるほどなるほど、面白い考えだ」

「変だと思うなら私に近付かないでください」

「たしかに、変だ。でも、嫌いじゃない。気に入ったよ」

 にこりと男は微笑む。

 全然嬉しくない。お前こそ変だ。近付かないで欲しい。

「君が曲の入っていない音楽プレイヤーを持っているのは、他人を拒絶するためだね」

 男が語り始める。私はイヤホンを奪い返し、付け直した。……もはや、この男に対しては、イヤホンの意味などなかったが。

「君は『曲を入れていない音楽プレイヤーを持っている』のではない。正確には――『音楽プレイヤーを持っているが曲を入れていない』だけなんだ」

「その二つはどう違うんですか?」

「まったく違う。手段と目的が逆なんだ。君は『曲を聞くために音楽プレイヤーを持っている』のではなく、『音楽プレイヤーが欲しかったけれど曲なんていらなかった』んだ」

 男は続ける。

「イヤホンを耳にさしていれば、大抵の人間は『音楽を聞いている』と判断する。話しかけて君がそれを無視すれば『音楽を聞いているからこちらの声が届かなかったのだ』と思うだろうね。あるいは、話しかける前に『音楽を聞いている。この人は私と話をする気がないのだ』と思う。君の狙いはそれだ。君は『話しかけられる』『会話する』ことを、その音楽プレイヤーを使って回避――いや、拒絶しているんだ」

「……そこまでわかっているのなら、何故あなたは私に話しかけるのでしょうか?」

 若干の嫌味を込めて、男に訊いた。

 男は平然と答える。

「何故って……逆に聞くが、君はどうして他人を拒絶するんだ? 君が他人を拒絶したくて仕方がないように、他人とお喋りをしたくて仕方がない人間がいても不思議じゃないと思わないか?」

「………………」

 全然質問に答えていない。どうしてわざわざ私の気に障るようなことを言うのだろうか、この男は。

 ――いや、この男だけではない。大抵の人間との会話は、私の気に障る。

 だから、拒絶しているのだ。

 店員が昼食を運んできた。男が「待ってました!」と、嬉々として手を合わせ食べ始めた。

 私も食事に手をつける。可もなく不可もない味。おいしくもまずくもない味。

「三人目の被害者が出たね」

 食事しながら、男が喋る。

「……食事中なので、そのような話題は控えていただきたく存じます」

 私は言った。男は返答する。

「わかった。食事中なので控えよう。じゃあ、食事以外の時間に話したいから空いている日時を教えてくれ」

「丁重にお断りします」

 遠まわしにデートに誘うなよ。

「他に時間が取れないのなら仕方がない。今話そう」

「話さないという選択肢をお願いします」

「嫌だね。俺は世間話がしたいんだ。それとも」

 男が、黒い目で私を見据える。

「……なにか不都合でも?」

 私は答えず、男を無視して食事を続けることにした。

「……さて、世間話に戻るが」

 男は、私の無言の拒絶をまるで意に介さず、『世間話』へと話を戻した。

「巷では連続殺人事件が起きている。昨夜、三人目の被害者が出た」

「らしいですね。ニュースでやっていました。怖い怖い」

「棒読みで無理矢理話題を終わらせないでくれ」

 黙殺する。

 男は話しながら食事をしている。器用なものだ。黙って食べていればいいのに。

「第一の事件の発生は今日から十日ほど前。十一月七日金曜日。一人の男性が刺殺体で発見された」

 思わず、私は口を挟んだ。

「ちょっと待ってください。まさか、今この場で、第一の事件から順を追って今回の連続殺人事件を紐解くつもりじゃありませんよね?」

「そのつもりだけど?」

「いい加減にしてください。食事中です。やめてください」

 この男には『配慮』という概念がないのだろうか? いくらなんでも無神経すぎる。

「悪かった。じゃあ、この話は終わりにしよう」

 思いのほか簡単に、男は引き下がった。

「代わりに、食事中ではなく帰り道に話そう」

「帰り道って? まさか、この定食屋から私の会社までついて歩くんじゃありませんよね?」

「違う」

 よかった。

「君の退社時間後、君の会社から、君の家までの帰り道のことだ」

 よくない。

「いよいよもってストーカーのような行為はやめてください」

「君の同意があればストーカーじゃない」

「私は同意しません」

「そうなの? それは困ったな」

 男は全然困った顔をしておらず、へらへらと笑っている。

 ムカつく。

「それじゃあこうしよう。俺は『たまたま』君と帰り道が同じだけで、君とは一切接触しない。君はただ俺の『大きな独り言』を聞いているだけ。どう?」

「反応の返ってこない独り言なんて、虚しくありませんか?」

「今とそう変わらないから問題ないよ」

「………………」

 私は呆れて、男を無視し親子丼を口に運ぶ。

 男も食事を続けた。しかし、世間話を延々と聞かされた。もちろん『殺人事件』以外の、だ。よく、ろくな反応もないのに話し続けられるものである。

 昼食を食べ終わると、男は、会社へ戻る私の後ろをついてきた。そして私の勤め先を眺め「よさそうなところだね」などと世辞を述べていた。いよいよストーカーじみている。

 私はその間、イヤホンを耳にさし、無視に徹した。

 笑顔で手を振る男を背に、私は会社へと戻った。ただの一度も、振り返らなかった。


   ◆◆◆


「一月さん、お昼休憩、一体何をしていたのぉ?」

 デスクへ座ると、植西とその取り巻きがやってきて、そう言った。

「わたし、見ちゃったのよぉ。一月さんが会社の前で男の人と別れるところ」

 幸いにも、私はまだイヤホンをしていたので、パソコンに向かい、聞こえていないフリをした。

「会社の休憩中に男の人と会うだなんて、ちょっと常識に欠けるんじゃないのぉ? 部長に報告しちゃおうかしらぁ?」

 好きにしろ。ただし、いちいち私に話しかけ確認を取るような真似をするな。耳障りだ。

「……あら? 一月さん、それ新しい音楽プレイヤー?」

 植西が言う。私は答えない。

「たしか、少し前に壊れてしまったものねぇ。……あら、わたしが『壊した』んじゃないわよぉ? 勝手に『壊れた』のよ。古い物だったし、寿命だったんじゃないのぉ? 逆恨みはよしてよねぇ」

 植西の言葉に、取り巻きが笑った。

 そうだ。私の音楽プレイヤーは、二週間ほど前、植西に『壊された』のだ。

 私はいつも、昼休憩中はずっとイヤホンをつけていた。こうして植西たちに話しかけられるのが煩わしかったからだ。それに、あの男の言う通り、イヤホンをしていれば大抵の人間――植西を含めて――は、『一月は周りの音に鈍感な状態だ』と判断する。

 だからその日もいつものように、植西たちが私の横で大声で私の陰口を叩くのを無視していた。

 しかし、その日、植西は機嫌が悪かったらしい。

 突然「無視してるんじゃないわよぉ! あなたのためを思ってアドバイスしてあげてるんでしょぉ!?」などと叫び、私のイヤホンのコードを引き千切らんばかりに引っ張り、取り上げた。そして、イヤホンに繋がったままの音楽プレイヤーを、植西は床に叩き付けた。

 私が呆気にとられている間に、植西たちは去っていった。

 音楽プレイヤーを拾い上げ、被害を確認した。植西の力と、イヤホンのコード分の遠心力を直に受けたそれは、画面が割れ、本体にひびが入り、電源がつかなくなっていた。

 壊れた箇所に触れて指を切っては馬鹿らしいので、捨てた。

 それが二週間前のことだ。

「ねぇ、一月さんって非常識よねぇ? 休憩中に男の人と会っているうえに、先輩のわたしが優しくアドバイスしているのを、音楽を聞いて無視してるのよぉ? 問題よねぇ?」

 植西が、取り巻きたちに同意を求める。取り巻きたちはそうよそうよと、いつものように合唱した。この取り巻きたちには、他に芸がないのだろうか?

 無視していると、植西は「それじゃあ、報告させてもらうわぁ」と言い、立ち去った。

 上司に報告することがなんだというのだ。休憩中なのだから、何をしても自由なはずである。仕事はきちんとしている。一体何が問題なのだろう?

 仕事中、私は上司に呼び出された。上司は困ったような顔で、植西から報告を受けた、非常識な振る舞いはやめて欲しい、もう少し協調性を持って欲しい、仲介する俺は大変なんだ、と、注意だか愚痴だかわからないことを言われた。私は「はあ」と曖昧に返事をした。

 誰も彼も、鬱陶しい。何が非常識だ、何が協調性だ。そんなもの総じてくだらない。この世に本当に価値のあるものなど存在しない。私を待ち伏せするナンパ男、自分からつっかかってきておいて不満を言う植西、部下の制御もしつけもできない上司、皆総じて無意味で無価値でくだらない。馬鹿なんじゃないかと思う。呆れて物も言えない。対応する時間が無駄だ。どうして皆、私に関わろうとするのだろう。どうして放っておいてくれないのだろう。

 私はただ、一人きりの静かな空間が欲しいだけなのに。


   ◆◆◆


 定時を数時間過ぎ、残業を終わらせたところで、私は仕事を上がることにした。

 植西やその取り巻きは既に退社しているので特に問題はない。

 ……そういえば、ヘルメットナンパ男が「一緒に帰ろう」というようなことを言っていた気がするが……。

 まあ、いいか。今頃、冷たい外気に耐え切れず、帰ってしまっていることだろう。

 退社時間も大幅に過ぎている。諦めて帰っているに違いない。

 会社前で数時間も待っているなど、暇人のすることだ。あの男も勤め人……のはずだ。きっともういないだろう。

 そう思いながら会社を出ると、なんと、会社前には暇人の姿があった。

「………………」

 何をしているのだ、あの男は。

 しかも男は、あろうことか、既に退社したはずの植西と、仲良さげに立ち話をしていた。

「…………………………」

 男が、私の姿に気付き、手を上げて声をかけた。

「おーい! 一月ちゃん! こっちこっち!」

 呼ぶなよ。

 男の行動で私に気付いた植西が、あからさまに機嫌を悪くした。

 仕方がないので、私は男を華麗にスルーし帰路に着いた。

「無視かよ! 待ってよ一月ちゃん!」

 男が、慌てて私の腕を掴む。

「……離してください。警察に通報しますよ」

「おっと」

 男は、ぱっと手を離した。

 私はそのまま歩き去ろうとした。

 と、植西が声を荒らげる。

「ちょっとぉ! 一月さん、失礼じゃないのぉ! ねぇ?」

 そんな植西を、男は制した。

「いや、いいよ。駅まで一緒に歩こう。俺と植西ちゃんは、一月ちゃんと『偶然』同じ方向に歩くだけ」

 男が、私の横に並んで歩き出した。

 植西も、渋々、男の隣を歩き始める。

「一月ちゃん、お仕事お疲れ様。コーヒーいる?」

 男が私に缶コーヒーを差し出す。

「いりません」

 未開封とはいえ、他人から飲食物をもらうなど、考えられない。気持ち悪い。

「そっか」

 男は淡白に引き下がり、植西に「あげるよ」とコーヒーを押し付けていた。

 男は今、あの目立つ黄色いヘルメットを被っていない。昼はたしかに被っていたのだが、やはり仕事が終わったから外したのだろうか。ヘルメットさえなければ普通のどこにでもいる没個性な男だ。しかし、所持はしているようで、よくみるとコートのポケット部分に釣り下げられている。ちょっとしたアクセサリーに見えるような見えないような、ないほうがいいような、むしろ捨てたほうがいいような、そんな感じだ。

 植西がコーヒーで手を温めながら言った。

「あんたいつまで残業してんのよぉ。わたしたちが何本コーヒーを飲んだと思ってるのぉ?」

 知るか。勝手に待っていたくせに文句を言うな。

「まあまあ。それにしても、両手に花で俺は嬉しいよ。缶コーヒーを何本も飲んだ甲斐があったというものだ」

「そぉ?」

 なにイチャついてんだお前ら。

 不快だから私の視界に入らない場所まで移動してそこでイチャつけ。

「……植西さん、名前」

 私は、植西へ、仕事以外では実に久方ぶりに――もしかして初めてかもしれない――自分から声をかけた。

「私の名前……この人に教えたんですか」

「あら、そうよぉ。あなた、名乗ってなかったんですってぇ? 本当に非常識よねぇ」

 ナンパ目的の男に名乗ることが常識だとは私は思わない。

 植西は言う。

「いろいろとあなたのこと話したわよぉ。常識がなくて、無愛想で、お高くとまってて、本当に嫌な女だ、ってぇ」

「………………」

 余計なことを。

 私が植西を睨むと、植西は「ほらぁ、無愛想でしょぉ?」と男に擦り寄った。

 気持ち悪い。向こうでやれ。

 男は「まあまあ」と植西をなだめながら、私へと話しかける。

「植西ちゃんの話はマイナス方向にバイアスがかかっているから、話半分で聞いていたよ」

「そうなのぉ?」

 植西が口を挟む。

「でも、一月さんって無愛想なのは間違いないでしょぉ?」

「まあね」

 男が肯定する。

 まあ、無愛想なのは認める。しかし、その傾向が『私に悪意ある人間』へ向けては特に顕著だということを忘れないでもらいたい。

 そうこうしているうちに、駅へと到着する。

「それじゃあ植西ちゃん、今日はこれで」

 男は、淡白にそう切り出し、植西を自分から引き離した。

「えぇ? どうしてぇ? このあと、わたしの家で一緒に飲みましょうよぉ。一月さんは無愛想だから、家に上げてくれないわよぉ?」

 あからさまに色目を使うな。植西の態度には生理的嫌悪を覚える。この女は、本当にどうしようもない。

 男は一度笑って、植西の髪を撫でた。

「とても嬉しい申し出ありがとう。でも、今日は一月ちゃんを送る先約があるから、一緒に飲むのは、また今度」

「……そぉ? じゃあ、今度、二人きりで会いましょぉ? 約束よぉ?」

「あはは。そうだね」

 男が、目を細める。

「殺人犯に殺されなければ、また」

「うふふ、面白い冗談ねぇ。絶対よぉ?」

 植西は「それじゃあねぇ、猪狩くん」と言い、駅の中へと消えていった。

「……猪狩くん?」

 私は思わず、口に出した。

 男が答える。

「そう、猪狩。俺の名前だ。やっぱり覚えてなかったんだね。まあ、一度しか名乗ってないし、ナンパ目的だって伝えてたから、覚えてなくてもそれが普通の反応だ」

「……どうして、私があなたの――猪狩さんの名前を覚えていないと?」

「一度も俺の名前を呼ばなかったし、俺が名乗った時にぼんやりしていたし、なにより」

 男――猪狩は、人懐っこい笑みを私に向けた。

「俺に全然興味がなさそうだったから」

「………………」

 笑顔で言うことではないと、思うが。

「どちらにしろ、今呼んだってことは、もう俺の名前覚えたでしょ?」

 そう言いながら、猪狩はポケットに吊り下げていたヘルメットを頭に被り直した。

「よし、OK」

 何がOKなのかまったくわからないのだが。

 何故被った? 何故そのヘルメットを被り直した? いらないだろその動作。

 猪狩は私の冷たい視線を無視して、笑顔で言った。

「さあ、夜も遅いし、約束通り家まで送るよ」

「送って欲しいなんて頼んでいませんが」

「まあまあ。世の中物騒じゃん。もしかしたら、殺人犯に襲われるかもしれないでしょ?」

「襲われません」

「念には念を入れて、さ。それに、俺は『偶然にも』君の近所に住んでいるんだ」

「私の住所、知ってるんですか?」

 猪狩は答えず、私を恭しく改札へ案内した。知らないから先に行け、ということだろう。

「……では、猪狩さん。くれぐれも言っておきますが、あなたは『偶然』私と帰り道が一緒で、あなたは『大きな独り言を言っているだけ』であり、私には一切接触してこない。接触してきた場合、私はあなたをストーカーとして通報します。いいですね?」

「仰せのままに」

 猪狩はそう言って、両手を上げた。

 そうか。

 なら、いい。

 昼休憩につっかかってくる植西を無視するのと、なんら変わりない。私はいつもと同じ対応を、いつもとは違う相手にするだけ。

 音楽プレイヤーを取り出し、イヤホンで耳を塞ぐ。

 そして、猪狩を無視して、歩き始めた。

 私は猪狩を気にしたり、猪狩へ振り返ったり、猪狩の言葉に答えたり、そういうことはしない。猪狩が勝手についてきて、勝手に喋ってくるだけだ。

 その前提を猪狩が受け入れるというのなら、私は、猪狩の行動を是としよう。

 私は、私の行動への無関心と、黙認を求めている。猪狩が私の『無視』という自分勝手な行動を受け入れるのなら、私も、猪狩の『独り言』という自分勝手を認めよう。

 猪狩が私に黙認を与えるなら、私も猪狩に黙認を与えよう。

 断ってもどうせ、この男はついてくる。私が同意しようがせまいが、どちらにしろ変わらないのだ。ならば好きにしろ。

 私へ干渉しないなら、どうでもいい。好きなように話かけろ。好きなように無視するから。

 対等でドライでビジネスライク。こういう関係は、嫌いじゃない。


 私は改札を通り抜け、最寄り駅行きの電車に乗った。猪狩も、私と少し距離を取って電車へと乗り込む。

 電車は、ラッシュの時間帯は過ぎているものの、少々混雑していた。幸い、座席が空いていたので、私はそこに座る。

 猪狩は座らず、立ったままつり革を掴み、窓の外を眺めていた。

 ……地下鉄だから景色は変わり映えしないと思うのだが、一体何をそんなに見つめているのだろうか?

 私は横目で猪狩を観察する。思えば私は、この男のことを何も知らない。猪狩は植西から私の情報を引き出しているというのに、私はこの男の素性を何も知らない。

 アンフェアだ。

 ……いや、違う。猪狩は『私を知る努力』をした。私はしていない。それだけのこと、か。

 窓の外を見つめる猪狩の目は黒く、静かに景色を映している。それは、地下鉄の窓のように、反射はすれど向こう側が見えることは決してない。

 無機質で、冷たくて、感情の見えない、黒い瞳。

 素直に、綺麗だと思った。


 私たちは、しばらく電車に揺られていた。

 電車が最寄り駅に着くと、私は無言で立ち上がり、改札を出た。猪狩も私に続く。

 駅を出て通りを歩き始めると、三歩後ろから、猪狩がついて歩いた。

 猪狩が、口を開く。

「――昼間の続きを、話そうと思う」

 私には猪狩の表情――どころか姿も――見えず、猪狩にも私の表情が見えない。そんな、到底知人と話をするような距離感ではない位置から、猪狩が、その『独り言』を口にし始めた。


   ◆◆◆


「一応、事件の説明をしておこう。君には説明の必要なんてないかもしれないが、読者の皆様には必要だからね」

 読者の皆様?

 疑問に思ったが、猪狩は『私と帰り道が同じなだけのただの他人』という設定なので、口を挟むことは控えた。

「巷では連続殺人事件が起きている。昨夜、三人目の被害者が出た。第一の事件の発生は今日から十日ほど前。十一月七日金曜日。一人の男性が刺殺体で発見された」

 猪狩が、まるでニュース原稿でも読んでいるかのように、淀みない口調で話し始める。

「一人目の被害者は帰宅途中のサラリーマン。会社での飲み会の帰りに殺害された。彼には妻と、三歳になる娘がいた。まだ若いのに可哀想に。被害者のポケットには手付かずの財布があったことから、強盗目的ではない。彼がどうして殺されたのかは現在捜査中だ」

 歩いている通りは、まだ駅前のため道幅が広く、明るく、私たちの他にもたくさんの通行人がいる。大抵は私のように残業終わりのサラリーマンか、酔っ払いだ。

「第二の事件は、十一月十四日金曜日。一つ目の事件から丁度一週間後だ。その日も、一人の男性が刺殺体で発見される。被害者は大学生。サークル活動を終えて帰宅中に殺害された。どうやら、彼は恋人を家まで送って、その帰りに被害に遭ったらしいことがわかっている。一人目と同じく、財布は無事だった。殺害動機は未だ判明していない」

 大きな通りから、やや狭い通りへ、私は足を向ける。

「そして、昨夜、十一月十七日月曜日。第三の事件が起きた。これも変わらず、刺殺体。被害者はOLだった。その日は急な出張でやむをえず、遅い時間にホテルまで歩いていた。タクシーを使うまでもないと判断したんだろう。その、駅からホテルまでの短い間に、殺害された。財布は無事で、第一・第二と同じく強盗目的ではない」

 第三の事件の詳細はあまり知らなかった。まさかつい昨日に事件が起こるなどとは思ってもみなかったので、真面目にニュースを見ることを怠っていた。しかし、それ以外の情報は既に知っているものだった。一人目に妻と幼い娘がいることも、二人目に恋人がいたことも、ニュースで知った。

「さて、この連続殺人事件は、この地域の近辺で起こっている。なるほどそれは恐ろしい。しかし、もっと恐ろしい、ニュースとしては申し分のない、ある追加要素がある。それは――」

 猪狩が一度言葉を切り、言う。


「――被害者全員の両目が、抉り取られていることだ」


 知っている。

「この『両目を抉り取る』という犯人の行動が、観衆の好奇心を煽り、殊更に猟奇性を強調している。犯人の動機や目的は不明。ネットでは想像力を発揮させた野次馬たちで溢れ返っている」

 それも、知っている。

 いや、もちろん、この男がニュースで報道される情報以上のことを知っているとは思っていないが……。

 だからこその、『説明の必要はないだろうが』という前置き、なのだろう。

「『両目を抉り取る』という行為。それによって、警察は今回の複数の殺人事件を『連続殺人事件』だと断定した。今のところ事件は三件起こっている。今後増えないことを祈るね」

 猪狩の最後の台詞は非常に形式張っていて、心からの台詞ではないような、どこか白々しさを感じた。

「凶器は包丁だろうという見方が濃厚だ。切り口から見て犯人は右利き。……包丁を所持している右利きの人間なんて、この地域だけでも五万といるだろうね。まるで参考にならない」

 猪狩は「そんなことで犯人になるなら、俺も君も二人揃って犯人だ」と笑った。

 定食屋で見た箸の使い方で、私たちは互いの利き手を知っている。猪狩が『実は両利きだが、箸を持つ時は右手を使う』などという特殊なタイプでない限り、私も猪狩も右利きだ。

 そして、普通、一家に一本以上は包丁が置いてあるだろう。

 たしかに、まるで参考にならない。

「犯行時刻は夜十一時から深夜にかけて。今のところ目撃情報は出ていないようだ。そして被害者の共通点も見つかっていない。警察は『無差別の通り魔的犯行』として見ているようだ」

 ……さて、さほど目新しい情報の出ない猪狩の説明を聞くのが段々面倒になってきたわけだが。

 正直、聞いていてもニュースの焼き直しで、まるで参考にならない。

 もう帰ってもいいだろうか……。いや、たしかに帰宅途中という設定ではあるのだが……。

 どうして猪狩はこんなつまらない話をしたがっていたのだろうか。話したいなら『聞きたい』と思わせるようプレゼンして欲しいものだ。

 時刻は八時半。通りには照明が少なくなっており、私たち以外に通行人はいない。まさに、こういう状況こそ、殺人犯に理想の環境なのだろう。

「さて、ここで俺は疑問に思った。犯人は誰かとか、犯行方法はとか、そんなことは俺にとっては比較的どうでもいい。俺が気になったのは……犯人が何故、目を抉り取ったのか、だ」

 そんなことが気になっている人間は世の中に五億といる。

「だから、俺は誰かと『何故犯人が目を抉り取ったのか』という意見交換がしたかった。正直に言うと、ナンパの目的はそれだ。もし君がこの意見交換を承諾するなら、俺はもう君をランチに誘うようなことはしないよ」

「………………」

 ……接触はしない、という約束ではなかったか?

「仰る通りだ」

 まだ何も言っていない。

「君との約束の通り、俺は君に対して『大きな独り言』を言っているだけだ。けれど、君にだって『大きな独り言』を言う権利はある。俺たちは互いに『大きな独り言』を言い合っているだけで、『会話』しているわけではない」

 減らず口を。

「君にとっても悪い条件ではないはずだ。今この瞬間だけ我慢すれば、君には優雅な一人ランチの時間が戻ってくる」

 ……今この瞬間だけ我慢すれば、か。

 私に考える暇を与えず、猪狩は喋る。

「ちなみに、先に俺の意見を言わせてもらおう。犯人が目を抉り取る理由、それは、犯人が眼球愛好家だからだ! オキュロフィリアってやつだね。きっと、人間の眼球が欲しかったんだよ。見るだけじゃ満足できず、とうとう『手に入れたい』『手にしたい』と思い詰めた結果だ。眼球欲しさに殺人。これはワイドショーを賑わせるだろうねえ。被害者から奪った眼球は、ホルマリンにでも漬けて毎日眺めているんだ。照明の光を受けてきらめく水中に、ぽつりと浮かんだ眼球。濁ったその瞳は、ただ虚空を見つめている。……いやあ、この事件の犯人は間違いなく頭がおかしいね!」

 楽しそうでなによりですね。

「ああ、でも、犯人が医療関係者、あるいは研究者という線も捨てがたい。入手した眼球を研究材料にするんだ。マッドサイエンティストってやつだね。うわあ、怖い! 頭おかしい!」

 猪狩は一人で喋って一人で笑っている。何がそんなに面白いのだろう。

 犯人を小馬鹿にした口調、犯人の人格を否定した論調、他人の神経を逆撫でする笑い声。そんなことが言いたいのなら、ネットでもっと大人数を相手に語ればいい。どうして私にそのような話をするのだろう。そんな話を聞かされても、私には、同調して笑うことも、反論して怒ることもできない。猪狩の話には、そこまでする興味が湧かない。どうでもいい。私にとって猪狩の意見は、普段無視している植西の嘲笑と大差ない。

 どちらも等しく、くだらない。私にとってはどれも価値がなく、意味がなく、興味がない。

「さて、俺の意見はこんなところだ。君の意見が是非聞きたいね。どうして犯人は被害者の目を抉り取るんだろう? ……犯人は、目を抉り取って、どうするんだと思う?」

 まさか煮るなり焼くなりして食べるなんてことはしないと思うけどね、猪狩はそう付け加えた。

 犯人が目を抉り取ってどうするか? そんなもの知るか。

 私がしばらく無視して歩いていると、猪狩は少し考えて言った。

「ちょっと難しい質問だったね。聞き方を変えよう。……もし、君が犯人なら、抉り取った目をどうする? ちなみに俺なら保存して眺める」

 もし、私が犯人だったら、抉り取った目をどうするか?

 私は、足を止めた。

「……もし、私が犯人だったら、抉り取った目は――」

 私は『大きな独り言』を口にする。


「――捨てます」


「…………え?」

 私の言葉に、猪狩も足を止めた。

「私には眼球なんて必要ないので、抉り取って持ち帰った眼球は、捨てます。人間の眼球を家に持ち帰って、ホルマリンに漬けて眺める? どうしてそんなことをしなければならないんですか? そんなこと――気持ち悪い」

「気持ち――悪い」

「眼球愛好家? 世界にはそんな気持ちの悪い人種がいるんですか? 信じられませんね。正直、猪狩さんの『俺なら眼球を保存して眺める』という意見には虫唾が走ります。軽蔑しました。同じ人間だとは思えません。気持ち悪いです」

「で、でも! それなら!」

 猪狩は食い下がった。

「それなら! どうして犯人は眼球を抉り取ったんだ!? わざわざ遺体から眼球を奪っておいて、捨てる!? どうしてそんな意味のないことをしたんだ!?」

「そんなこと知りませんよ。犯人に聞いてください」

「け、けれど――」

「猪狩さん」

 何か続けようとする猪狩の言葉を、私は遮った。

「もう終わりです。早く帰ってください」

「終わりだって? まだ終わってなんか――」

「終わりですよ」

 私は、猪狩へと振り返った。

 私が足を止めたのは、猪狩へと返答するためではない。私たちは、マンションの前で、立ち止まっていた。

「私についてくるのは『会社から家までの帰り道』という約束だったはずです。あなた、私の部屋にまで押し入るつもりなんですか?」

「え……?」

「私の家はここです。このマンションが、家です。従って『帰り道』はここまでです。……それでは、失礼します。もう二度と会うことがないようお願いします」

 不完全燃焼気味な猪狩を、今度こそ完全に無視して、私はマンションへと入った。オートロック設備もない、古く、家賃の安そうなマンションである。

 もし、猪狩が深追いしてくるようなら、スタンガンで黙らせたあと、階段から突き落とすか。

 猪狩はしばらく道に立ち尽くしていたが、私を無理に追うことはせず、やがて去っていった。

 賢明だ。

 ……意外と、手間がかかった。

 しかし、もう二度と会わないのであれば、この苦労も報われるというものだ。

 私はマンションの壁にもたれて、一息ついた。

 体が冷えてしまった。何か温かい飲み物でも飲もう。

 私は道を引き返し、道中目にした自動販売機で温かいコーンポタージュを購入した。


   ◆◆◆


 十一月十八日火曜日。


 本日の観察記録。


 小鳥遊小鳥たかなしことり。女。23歳。モデル。女性ファッション雑誌の特集より。瞳の色、青。おそらくカラーコンタクトを使用している。過度な化粧に負けず、大きくて美しい目をしている。瞳孔は大量の照明を浴びているらしく小さく絞られている。瞳孔を中心に広がる虹彩は……、カラーコンタクトの模様が邪魔しており確認が難しい。何故この女はカラーコンタクトなどつけているのだ? 邪魔で仕方がない。折角美しい目をしているのだから、そんな装飾品など外せばいいものを。まったくもって台無しだ。このカラーコンタクトは、恐らく、ファッションに合わせてのものなのだろう。何故、『目』よりもたかが服が優先されるのか、まったくもって理解できない。しかし、拡大するほどではないが、青い色をした目はそれなりに美しい。要するに、虹彩に注目せず色に注目すべき写真なのだろう。人工的な青色は一見すると無機質で、だからこそ、普段僕が目にする『自然体の目』との違いや異質さが新鮮だ。悪くはない。雑誌より目の部分だけ切り取り、スクラップブックにまとめる。


 李々下りりか。女。16歳。タレント。バラエティ番組の画面キャプチャーより。瞳の色、黒みがかったブラウン。清純派で売り出し中のため、前述した女のようにカラーコンタクトは使用していない様子。アイラインやマスカラ等の化粧も控えめで、目本来の美しさを味わうことができる。非常に好感が持てる。画像は複数枚あるが、最も美しいと感じたのは、女が微笑み、目が少しだけ細められた表情。普段は大きく開かれている目が細められることにより、普段とは違う、なんとも形容しがたい妖しい魅力が感じられる。普段注目しがちな煌く虹彩が目蓋に覆われることで、そこに隠された美しさが暗示される。僕には見える。目蓋によって覆い隠された、美しい、緻密で、静謐な、……いや、見えるように錯覚しているだけかもしれない。そう、見えるのでない、隠された美がどのような形をしているのか想像させること、それこそ、この目の持つ最も妖艶な魅力なのだ。目蓋によって光が遮られた虹彩は、一体どのような翳りを刻んでいるのだろうか……。画像複数枚を拡大加工し部屋の壁に貼り付ける。なお、録画しておいた映像記録はいつものHDに別途保存済み。


 田端月たばたるな。女。乳幼児。新聞の投稿欄より。瞳の色、黒。掲載媒体が新聞のため、写真はモノクロ。やはり、新聞も欠かさずチェックしておいてよかった。写真自体は極々小さいものだが、目の存在感は素晴らしい。子どもは、目の大きさに対して、大人よりも頭蓋が小さい。そのため、顔の中での目の比率が大きく、その状態を大人は『かわいらしい』と認識する。目が大きく見えるのはいいことだ。もっとその美しい目を喧伝して欲しい。また、乳幼児は黒目が大きいとされている。これは、他のパーツがまだ成長途中で小さいだけで、人間の黒目の大きさは生涯同じなのだが……。いや、しかし、ということは、黒目が大きく見える時期には消費期限があるということである。乳幼児という時期しか、黒目の比率が大きい目を見ることができないのだ。これはその貴重な写真である。特にこの乳幼児には強く感心する。きちんとカメラに目を向け、零れんばかりに大きなその目を見開き、目をこれでもかと強調している。照明の反射であろう白い光がアクセントとなり、モノクロであっても十分見惚れる目である。新聞より目の部分だけ切り取り、スクラップブックにまとめる。




 本日の覚え書き


 事件についてのニュースを視聴する。何度見ても飽きない。アナウンサーがその単語を口にするだけで、高揚感、いや、誇らしささえ感じる。『目』についてのニュースなのだ、それはもう、僕自身を取り上げているのと同じことだ。しかし、もちろん、言うまでもないことであるが、主役はあくまで『目』である。勘違いしてはいけない。


 明日は仕事を早く上がれる日である。

 明日も、目を、僕と同志に、目を。

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