一月岬のいつもの昼食
十一月十七日月曜日、昼十二時頃。私は一人、街を歩いていた。
十二時から十三時までの一時間は、私の職場では休憩時間となっている。
私は昼食をとるべく、街を歩いていつもの定食屋へと向かっていた。
その定食屋は寂れた通りにあり、客が少なく、静かな雰囲気の店だ。有り体に言って、全然流行っていない、潰れる寸前の店だった。
味は悪くないが、通うほど特別おいしいわけでもないし、かといって特別安上がりなわけでもない。店員と親しいということもない。
高すぎない値段のまずくない食事で空腹を満たせて、人が少なくて、静かなその店に、私はそれなりに満足しているのだった。
そろそろ冬が近いこともあり、道行く人は皆厚着をしている。私もそうだ。コートに、マフラーに、手袋、ブーツ。体の末端を保護し、体温の拡散を防いでいる。
まだ昼間なのでマシだが、夜になると冷え込んで、防寒具が欠かせない。先週の金曜は特に寒かった記憶がある。
そんなことを思いながら、人の波を縫い、寂れた通りへと入っていく。いつもと変わらない、いつもと同じ道のり。
――の、はずだった。
「そこのお姉さん!」
若い男の声が、通りに響く。
その声に、軽く回りを見渡したが、今、この通りには私しかいない。どうやら、呼び止められたのは私らしい。
私は、その声を無視して歩き出した。
「ちょっと! 今絶対に『自分だ』って思ったでしょ!? ちょっと待ってよお姉さん!」
男が後ろから走ってきて、私の目の前に飛び出してきた。
「いやあ、びっくりした。てっきり振り向くくらいはしてくれると思っていた」
私は、へらへら笑っているその男を見据えた。
黒いロングコートに、グレーのセーターに、青いジーンズ、黒いブーツ。
という普通の格好をしている頭には、黄色い工事用ヘルメットが乗っかっていた。
明らかに建築業関係者では、ない。
狂人だろうか?
ヘルメットの縁から伸びる髪は、肩につくかつかないかという長さで、コートと同じく黒い。
身長は百七十センチ後半、中肉中背。年齢は二十代前半、私と同世代のように見えた。
「お姉さん、一人?」
男が私へ声をかけてくる。
「……なんですか?」
私は、警戒心を隠すことなく、男を睨む。
男は私の警戒心をまるで無視して、キョロキョロと辺りを見回す。
「見たところ、一人のようだね。待ち合わせをするような通りでもないし、俺たち以外に人気もない。昼間とはいえ、綺麗なお姉さん一人でこんなところを歩くなんて、無用心じゃない?」
「……私は、『なんですか?』と、訊いています」
私は手に持つ黒い仕事鞄を体の近くに引き寄せた。鞄の中には、護身用のスタンガンが入っている。
男はおどけたように訊き返す。
「『なんですか?』って……見てわからない?」
「質問に質問で返さないでください」
「ではお答えしよう。こんな昼間に、人気のない通りを一人で歩いている綺麗なお姉さんへ声をかける、その目的なんて、限られている。キャッチ? 営業? 宗教勧誘? それとも――」
男は一度言葉を切った。
「――殺人犯が、標的を見定めている、とか?」
「………………」
私はすっと目を細めて、鞄の中へ手を入れた。男が私に少しでも近付けば、鞄から手を引き抜き、スタンガンで気絶させるつもりだった。
しかし、男はその場から動かず、「どれも違う」と人差し指を振った。
「そんなつまらない理由で、俺は君に声をかけているんじゃない。もっと素敵な理由だ。こんな昼間に人気のない通りを一人で歩いている綺麗なお姉さんへ声をかける目的なんて、一つしかない」
男は、人懐っこい笑顔を私へと向けて、言った。
「俺の目的はナンパだ! お姉さん、今から俺とランチしよう!」
◆◆◆
「私は『丁重にお断りします』と言ったはずですが」
定食屋で正面に座る男を、私は鋭く睨む。
「いいじゃん、固いこと言わないでよ」
男はへらへらと笑いながら、店を見回す。
古ぼけた外観通りの、古ぼけた内装。手書きのメニュー札に、色の褪せた机と椅子。手狭な店内にカウンター席はなく、テーブル席が四つに、椅子が十六脚。私たち以外の客は、くたびれた中年男性が一人だけ。
「へー、静かで落ち着いていていかにも潰れそうな店だね。どうやってこんな店見つけたの? もしかして常連?」
「店が気に入らないなら出て行けばいいと思いますが」
「気に入らないとは言っていない。あ、注文いいですかー?」
店員を呼んで注文し始めた。この男、居座る気だ。
……まあ、どうでもいいか。特に害があるわけではなさそうだ。適当に無視しておけば、そのうち離れるだろう。
ついでなので、私も注文する。こんな男など、混んだ店での相席相手くらいに思っておけばいい。
相席相手が喋り始める。
「ねえ、君の名前は? 俺は
「はあ」
私は質問には答えず、曖昧に返事をした。適当に相槌だけ打っていれば、相手もそのうち飽きるだろう。
「見たところOLさんだね。この辺の会社に勤めているの?」
「はあ」
「そのポニーテール、とても似合っているよ」
「はあ」
「彼氏いる?」
「はあ」
「俺の話聞いてる?」
「はあ」
男は苦笑した。
「ドライだねえ。もうちょっと優しく対応してくれないの?」
「はあ」
「アサヒィスゥパァドゥルァァァイ」
「はあ?」
そのうちに注文した料理が運ばれてきた。
私の今日の昼食は豚のしょうが焼き定食だ。一方、男はサバの味噌煮定食を注文したようである。
「いただきまーす」
男は律儀に手を合わせてそう言うと、自分の料理を食べ始めた。
それにしてもこの男、食事中だというのにヘルメットを被ったままだ。手を合わせて食べ始めるのはいいが、まず、そのヘルメットを外せ。視界に入る鮮やかな黄色が、控えめに言ってすごく邪魔だ。
男は言う。
「ふむ、可もなく不可もない味」
「味が気に入らないなら出て行けばいいと思いますが」
「いや、おいしいよ。気に入った」
男はにっこりと笑った。
口の減らない性格のようだ。
ムカつく。
私も料理を口へ運ぶ。可もなく不可もない、いつもの味。
「最近物騒だよねえ」
食べながら、男が世間話を始める。
「この辺りで連続殺人事件が起こっているらしいねえ」
「はあ」
私は適当な相槌を打ちながら、食べるペースを少し上げる。早く食べ終わって会社へ戻ったほうがよさそうだ。
「君も気をつけたほうがいいよ。誰が殺人犯なんだかわからないんだから」
「はあ」
「もしかしたら、楽しくお喋りをしている相手が『そう』だとも限らないでしょ?」
「はあ」
男は少し間をおいて、私を見据えた。
「……今、目の前にいる人物が、人殺しだったとしたら、どう思う?」
「………………」
私は無視して食事に徹した。
初対面の人間との食事で『殺人犯』の話題を出す男となど、関わりたくもない。
「ところで、話は変わるんだけど」
男は話題を変えた。
「君、友達いないでしょ」
とんでもない話題に変えてきた。
「一人でこんな寂れた店で優雅にランチなんて、ねえ? 一緒に食事をする同僚とかいないの?」
「はあ」
「いないだろうね。君は見たところ『友好的』というタイプじゃない。もっと言えば『排他的』だ。他人との関わりを拒否している」
「そう思うのは、あなたと私が初対面だからでは?」
「そうかもしれないね」
「しかも、ナンパ目的」
「けれど君はこうして俺とランチしている。警察に通報してもいいのに、しない。警察と関わるのが面倒なのかな? ――いや、君は他人と関わること自体が面倒なんだろうね。俺一人を今この瞬間だけ我慢すれば、他の面倒な大多数と関わることはない」
「警察に通報されてもいい自覚はあるんですね」
男は私の言葉を無視して続ける。
「君は、もっと他人と関わったほうがいいんじゃないかな? 試しに俺とランチしながら楽しくお喋りしようよ! うん、ナイスアイデア!」
それが目的か。
私は男を無視して食事を継続する。男は言う。
「人間は社会的な動物だ。人間が生きていくには人間との関わりが必要不可欠。そうでしょ?」
はん。それがどうした。たしかに私は排他的だ。認めよう。しかし、それでも社会でこうして生活できている。社会的な動物? それがなんだ。最低限の関わりだけで、私は生きている。生きていけている。人間との関わりなど、本来大して必要ないのだ。
「……まあ、いい。俺は別に、君の考え方を『社会的』に『矯正』しようなんて思っていない」
男が引き下がり、水を飲んだ。
「けれど」
男は私を見ずに、皿の上の魚を食べながら言った。
「少し社交的になれば、もっとランチが楽しくなるのに」
今の私とのランチはつまらない、ということか?
勝手に声をかけてきておいて勝手に失望するな。
私は、嫌味を込めて言う。
「……あなた、『いい性格』してますね」
「よく言われる」
「………………」
味噌汁を飲み干して、私は席を立った。食事が終わったからだ。自分の分の伝票を手に持ち、会計を済ませ、そのまま無言で店を出る。男はまだ食事中だったので、追いかけてこなかったし、声すらかけてこなかった。私も男に声をかけることなく、足早に店を去った。
◆◆◆
いつもより少し早い時間に、会社に戻ってきた。
休憩ということもあり、部署内に人はまばらで、閑散としている。
特にやることもないので、私はデスクに座り、午前中の仕事の続きをすることにした。
「あれぇ?
同僚の女とその取り巻きが、私へと声をかけた。
いつものことなので、無視して仕事を続ける。
「一月さん、いつも一人で可哀想よねぇ」
「会社の食堂を使わずに、わざわざ外に食べに行ってるんでしょぉ? 贅沢よねぇ」
「きっと一緒にランチする友達がいないのねぇ」
くすくすと耳に障る声で、取り巻きたちが笑う。
どうしてこの女たちは、わざわざ私に声をかけ、嘲笑うような真似をするのだろう。毎日毎日、迷惑以外の何物でもない。
同僚の女が言う。
「一月さん、コーヒー飲むぅ? 淹れてきてあげましょうかぁ? 遠慮しなくていいのよぉ?」
他人の淹れた飲み物など飲めるものか。気持ち悪い。
私は女に見向きもせず、パソコンのキーボードを叩く。
「……なんとか言いなさいよぉ!」
突如、女がヒステリックに叫び、ばん! とデスクを叩いた。
「友達いないからこうして声をかけてあげてるのに、無視するなんて、あんた何様のつもりなのぉ!?」
取り巻きが、そうよそうよと合唱する。
私がいつ、『声をかけて欲しい』と頼んだのだろうか。
「無視してんじゃないわよぉ!」
女がうるさいので、私は仕事の手を止め、ゆっくりと丁寧に言った。
「申し訳ございません。私は喉が渇いていないので、コーヒーは慎んで遠慮させていただきます。お気遣いありがとうございます」
「あんた、馬鹿にしてんのぉ!?」
何故か怒らせてしまった。
同僚の女に続き、取り巻きたちが声を上げる。
「植西(うえにし)さんに失礼だと思わないの!?」
「折角コーヒー淹れてあげるって言ってるのに!」
取り巻きの中心にいる同僚の女、植西が、なにやら喚き始める。
「あのねぇ一月さん、わたし、あなたの先輩なのよぉ? わたしが何年ここで働いてるか知ってる? あんたが大学で遊んでる間、わたしはここで必死に働いてきたの! あんたなんかとはキャリアが違うの! もう十年近くここにいるのよぉ! 入社してたかだか一、二年のあんたがわたしに口答えするなんて、絶対に許されないのよぉ! わかる!?」
私は女たちの言葉を意に介さず、横目で時計を見た。もうすぐ昼休憩が終わる。そうすれば、私は解放されるだろう。
……いや、『解放』というのは、少し違うかもしれない。同じ職場で働いているのだ。どうしても女たちとは顔を合わせなくてはならない。
しかし、どちらにせよ、昼休憩の終了を告げるチャイムが鳴れば、今この時をやり過ごせる。
――俺一人を今この瞬間だけ我慢すれば、他の面倒な大多数と関わることはない。
ああ、これは、昼にあの定食屋で出会った男が言っていたのだったか。
――君は他人と関わること自体が面倒なんだろうね。
そうだ。まったくその通りだ。異論はない。他人と関わることは面倒だ。面倒を極める。
あのナンパ男も、難癖つけてくる同僚の植西も、その取り巻きの女たちも、皆等しく同様に面倒だ。
どうして、私を放っておいてくれないのだろう。
「あんた、聞いてんのぉ!?」
植西が叫ぶ。
さて、どう答えればやり過ごせるだろうか? 全然聞いていなかった。
私は植西たちの言葉に曖昧に相槌を打ちながら、時間が過ぎるのを待った。
やがて、社内に休憩終了の合図が訪れる。
植西はチャイムの音を聞いて、舌打ちしたあと、自分のデスクへと戻っていった。
取り巻きの女たちも、蜘蛛の子を散らしたように、去っていく。
女たちがいなくなったので、目の前のパソコンへと向き直る。
閑散としていた部署内に人間が増えて、雑音が満ちる。
ああ、そういえば、音楽プレイヤーが壊れていたのだった。必要ないかと思っていたが、やはり、あったほうがいい。帰りに買わなければ。
私は目を閉じ、想像した。
音楽プレイヤーの端子からコードが伝い、その先のイヤホンが、私の耳を塞ぐ。
イヤホンによって周りの雑音が遮断され、静けさが訪れる。他人の立てる音や、話し声が一切聞こえない、そんな環境。
私は、想像した。その、現実にはありえない、理想郷を。
◆◆◆
十一月十七日月曜日。
本日の観察記録。
今日は休日である。折角なので映画館に足を運び、洋画を鑑賞した。恋愛映画だった。適当に選んだタイトルにしては上出来である。僕が最も好むジャンルの映画だ。恋愛映画は、登場人物の心情がわかりやすいよう、顔部分のアップが多い。目がよく見えて大変好ましい。日本語音声だったか字幕だったかまでは記憶していない。主役の男は暗い青の目、ヒロインの女は薄い緑の目をしていた。しかし、映画というものは、どうしてこうも画面が暗いのだろう? 折角の綺麗な色が台無しである。もっと光に煌く瞳を主題にした映画はないのだろうか? しかし、テレビより大きな画面で目が動く様を見られるのは、臨場感を感じ非常に良い。恋愛映画というだけあり、登場人物の心情が美しい目に映りこむ。動揺する目、悲しげな目、そして、嬉しそうな、喜びを示す目。エンディングでヒロインの女にスポットライトが当たり、目が蕩けるような喜びの表情を浮かべているのを見たときは、不覚にも涙腺が緩んでしまった。この映画のBlu-rayディスクを購入することを決意する。
映画館の帰りに、金を払って猫を触れる施設へ赴いた。平日というだけあり、店に人間は少ない。僕が餌を手にして席に座ると、大量の猫が僕の元へやって来て鳴き声を上げた。餌を使っていくつかの猫を物色し、その中の一匹を抱き上げる。全身がグレーの猫だ。この色を覚えておかなければならない。僕はその猫が気に入ってしまった。縦長に細められた黒い瞳孔から、美しい金色が広がる目。しばらく、猫を抱き上げたまま、正面から、僕とその目は向き合っていた。しばらくすると猫が手足を動かし邪魔だったので、餌を与えて大人しくさせた。ああ、この金色の目。光の多い昼間であることを示す細長い瞳孔。猫の目は、目蓋の面積が少ないため、人間の目よりも丸く大きく見える。横から目を覗くと、透明な半球体が目に乗っている。角膜と水晶体の間に、房水という血液に似た透明な液体が満たされているのだ。この透明な空間を観察しやすいのも、猫ならではである。何故、生物の身体の一部分、それも目の一部が、こうも透き通り、向こう側を映しているのだろう? まさに神秘的としか言いようがない。そうして目を観察していると、店員が僕へ声をかけてきた。どうやら、猫を撫でようともせず見つめ合っているだけの僕が不審に映ったらしい。店員は、僕に猫の撫で方や猫との触れ合い方を教え始めた。騒ぎになるのは本意ではないため、猫のことがよくわからない振りをして言う通り猫を撫でた。何故、目よりも劣る猫畜生を撫で、しかも機嫌を取らなければならないのか、理不尽に思う。しかし、お陰で餌がなくとも猫は大人しくなった。これで、間近で目を観察できる。そう思っていた矢先、なんと、あろうことか、猫が目を閉じるではないか! しかも満足そうに! 僕は即座に立ち上がり、もうこの店には来ないことを宣言したあと、家へ帰った。あの店員とあの猫畜生には、憤りしか感じない。目だけ残して消え去ってしまえばいいのだ。……しかし、あの金色の目は本当に美しかった。もし、目だけを取り出せるのなら、どんなに良いことか。
覚え書き
今日、実行に移す。
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