動物愛護

「今日は波が高いですね」

 船の上には似合わない、パリッとしたスーツ姿の外国人が流暢な日本語で言う。

 蛭子えびすの聞くところによると、この男の人はなんとか委員会のお偉いさんらしい。昨日ぐらいからこの町にやってきて、あちこちを「視察」しているという。こんな田舎で何をするのかはわからなかったが、偉い人はとりあえず拝んでおけ、というのがうちの家訓だ。

 漁師としては下っ端の蛭子が接待役を命じられたときはさすがに驚いたが、組合長の指示とあらば従わないわけにはいかない。朝早くから漁に出る準備をしていたところに声をかけられ、特別に船に乗せてやったところだった。

「いつもより高いかもしれんね」

 蛭子は何も考えず、適当に相槌をうつ。

 実のところ、きょうは蛭子の誕生日である。本来、誕生日というのは家で静かに祝うものだ。とれたての鯨肉をたらふく食って、家族と過ごす。

 ほかの連中がどうだか知らないが、おれはそうなんだというのが蛭子の長年の持論だった。それに人と話すのはあまり得意でもない。

 ただ、運のいいことにお互い口数が少ないらしく、男との相性は悪くないらしかった。

 出航して数十分が経ち、さっきまですぐ近くに見えていた陸地はかなり遠ざかりつつある。船のおよその位置を確認して針路を少しだけ変えた。このまま行けば、漁場もそう遠くはない。

 天気は文句なしの晴れだが、男の指摘した通り少しだけ波が出ていた。黒潮が流れる濃紺の海面には風といっしょにときおり波が立ち、散った飛沫が陽光にきらきらと輝く。綺麗だな、と思った。めでたい日には、景色もよく見える。

「天気晴朗ナレドモ波高シ」

 突然堅い言葉が聞こえたので蛭子はびっくりして飛び上った。男は甲板の前方で船の進行方向をじっと見つめ、揺れにも動じず腕を組んで堂々と仁王立ちしている。偉いひと気取りかと思わず笑いそうになったが、たしかにこの方は偉い人だ。

「日本語うまいね」

 蛭子が褒めてやると、男は表情ひとつ変えずに、

「真似だ」

「誰の?」

「むかしのカイグンの人」

「へえ」

 知らねえよ、と思ったが、さすがに口には出さなかった。戦争の話なら隣の爺さんが知っているかもしれない。

 今ではすっかりボケてしまったが、鉄砲と軍艦の話をするときだけは背筋がすっと伸びて流暢にしゃべる変な老人だ。おもしろい外人の姿ともども、記憶の片隅に留めておくことにする。

 びゅ、と風が吹いた。

 さっきから感じてはいたが、どうにも風が強いらしい。おかにいたときは岬と山に防がれていたのか、沖に出てから急にゴウゴウと鳴り出した。天気のわりに波が荒い原因の見当はだいたいついたが、大した問題ではない。この物好きな男に、せいぜいいつもの仕事場を見せてやるだけのことだった。

 意味もなく海図を眺める。

 漁場はもうかなり近い。二人の船は既に、目印となるが目視で見える場所までやってきていた。最寄りの陸地からは大分離れている。

 ここが、熊野灘第一海中牧場だ。

 浮きは半径数キロの円を描くように配置されており、その下に張られた網の中でだけ漁が許されていた。これが開くと悲惨なことになるので、中の魚はここを出ると強制的に死ぬようになっている。自由に泳がせてやればいいのにと蛭子は常々思っていたが、漁がらくになるならどちらでもいいというのも本音だった。それに頭が悪いのに下手に文句をつければ組合長にしごかれる。触らぬ神に祟りなし、言わぬが花というやつだ。

 男のほうを見ると、あまり行き先に早く着くことには興味がないようで、今度は船の後甲板で陸地を懐かしそうに眺めていた。恋しいなら来なければいい話なのだが、男のほうも仕事なのだろう。蛭子もそこのところは触れないことにした。

 代わりに、気楽なふうを精一杯出して話す。

「あんた、どこから来たんだ」

「オーストラリア」

 即答だった。

「オーストラリアってあれか、南極の近くの」

「そうだ」

 蛭子は両親から、かつての南極での操業の話を聞いたことが何度かあった。その度にオーストラリアが出てくるので、アメリカやら中国やらを除けばいつしか蛭子のいちばん親しい国になっていたのだ。外国のことは何もわからないが、南のほうにあるのだから暖かいのだろうという程度に考えている。

 もうひとつ、思い当たることがあった。

「海賊がいるんだってな」

「カイゾク?」

「海の上で悪さするやつらだ」

 両親の話では、漁の途中に襲いかかって邪魔をしてくる悪い連中がいたという。男は数秒ほど首を傾げたあげく、

「ハンホゲイダンタイ、のことか」

「え?」

「捕鯨に反対する、市民団体だ」

「知らんが、たぶんそれだろ」

 蛭子とてべつに詳しくはない。ただ、無言なのは少し気まずかったから訊いてみただけだ。

「どうなんだ」

「昔は、いた」

「ほう」

「だがもういない。君たちのおかげだ」

 それはよかった。蛭子にしてみれば、漁ができなければ暮らしが成り立たない。南の国からわざわざここまで文句をつけにくるとは思えなかったが、面倒ごとは嫌いだった。

 しかしそう考えると男の仕事の大変さが知れるというものだ。この便利な時代に、わざわざこんな田舎町に来る意味もないだろう。

「遠くからご苦労なこった」

「仕事だから」

 予想通りの返答だった。

「それに、シャチクよりは楽だ」

 社畜。蛭子も聞いたことはある。なんでも東京のほうに沢山いるらしく、毎日家畜のように働く人間たちのことらしい。会社と家畜で、社畜。それに比べれば漁師は楽でいいな、と聞くたびに思う。

 そうこうしているうちに、船は浮きに隣接する筏のそばにやってきていた。ここには浮きと網を管理するための設備が揃っている。船を横付けしてひょいと筏に飛び乗り、防水加工のうえに藻がびっしり張り付いた管理箱を開けた。

 箱の定期点検は一週間に一度行うのが組合の決まりになっている。今日はたまたま、蛭子に当番が回ってきたというわけだ。

 各個体の位置情報や健康状態を送信する器具に、有事の際の魚の自動死亡装置などなど。複雑な機械の仕組みは全くわからないが、お役所と国のお金で買ったというから、自然と扱う蛭子の手も慎重になる。

 万事異常なし。

 点灯する緑色のランプを見て無事を確認すると、箱をきっちりと施錠してすぐ船に戻った。オーストラリア人はずっと退屈そうな目でこちらを見ていたが、蛭子が船べりに近づくと何も言わずに手を貸してくれた。

「あんがとよ」

「どういたしまして」

 漁はまだ始まってもいない。遠隔操作で網のロックを解除すると、浮きがすっと動いて船一隻がようやく通れるほどの通路が開く。すかさずその間を通過し、船尾が区画の中に滑り込むのと同時に網が閉まった。

 ここからが腕の見せ所だ。蛭子が熟練の職人のように狡猾に笑いかけると、男もにっと微笑み返した。


 シュバッ、と捕鯨砲から銛が飛ぶ。

 その速度は漁船の貧弱な電力が生み出す電磁加速の限界に近い。獲物の予測進路と銛の軌道の終着点がピタリと一致し、頭の近くを射抜かれた鯨が動かなくなったところに素早く船で近づく。

 射抜かれた、というのは適切ではなかった。電気銛は目標を感電させても、その体内に食い込むことはないのだ。感電した鯨はその一切の神経を停止され、ぴくりとも動かなくなる。

「どういう原理なのだ」

 男が不思議そうな顔をした。職業柄か、非難の眼差しすらこもっているように見える。

 蛭子は練習を頭のなかで思い出し、

「電気銛が目標に命中すると、数ミリ秒のあいだだけ高圧電流が流れます。この電流を鯨の脳が感知し、全身の機能を停止させるのです」と一息で言った。

「脳?」

 男の視線が鋭くなる。

 しまった、と反射的に瞑目したが、教わったことを思い出し、淀みなく言葉を繋ぐ。

「……厳密には脳ではありません。彼らの脳と意識は既に移植され、代わりに機械と電極が挿入されています。機械には生命維持と肉体の運動に必要な最低限の機能が搭載されており、一切の意識はありません」

 すべて昨夜、組合で講習を受けたときのテンプレート通りだった。棒読みになっている自覚はあったが、いまさらどうなるものでもない。

「意識は、どうなっているのだ」

「意識は専用の仮想世界に転送されています」

「なるほど」そう言ったオーストラリア人は蛭子に感嘆の眼差しを向けて、

「これほど人道的な漁もあるまい」

「はい。鯨はとても高い知能を持つ生物ですから、私どもとしても苦しませたくはなく」

 よくもまあこんな薄っぺらな言葉を吐けるな、と蛭子は自分を呪った。定型文だからどうにか喋れるが、自分の言葉でもなんでもない。

 おえらがたが何を考えているかは知らないが、おれは嫌だぞ、と蛭子は思う。

 実のところ、夜中によくうなされるのだ。意識のなかったはずの鯨が突如目覚めて、一斉に船に襲いかかってくる夢を見る。

 電気銛を撃ち込んで、ぴくりともせず動かなくなるだけの漁に殺しの実感などない。ありがたみの欠片も、何もかもだ。

 オーストラリア人が顔を上げた。

「驚いた。実に人道的だ──これならば、商業捕鯨の認可も検討できる」

「そうかい」蛭子は顔を背けた。


 船が波をかき分けひた進む。夕暮れの中で舳先は港をまっすぐ目指し、左手には馴染みの岬、右手には白い灯台が見えてきていた。

「今日は貴重な機会をありがとう」

 男が握手を求めてくる。蛭子は渋々その手をとると、

「なあ」と呟いた。

「どうした」

「人道って、なんだろな」

 オーストラリア人は一瞬首を傾げて、

「倫理といえばいいのか」

「説明になってねえ。それは言い換えってんだ」

 自分でも妙だったが、蛭子は怒っていた。その様子を見てなにか悟ったのか、男はしばし考えるふりをする。

 一瞬の間のあと、

「民意だろう」

 そう言って、男はそっぽを向いた。

 蛭子も舵を握って操船に集中する。無言の二人の間を潮風が吹いて、びゅっと音を立てた。

 船はひた進む。


 蛭子の巧みな操船で、あっという間に漁船は新築の埠頭に横づけされる。

 ここも国のお金で建てたというから驚くばかりだ。ふと、昔のぼろぼろの港を思い出して、蛭子は懐かしくなった。変わったものだ。

 埠頭に飛び移り、すぐさま船を港に係留する。

 帰港。それはひとつの合図といっていい。

 船体後部の機械が巨大な鯨を荷揚げし、集まった町民で港が少し騒がしくなる。ここから出荷への準備が始まり、経済が回ってゆく。長い間、そうやってこの町は暮らしてきた。

 両親はもちろん、祖父の代からだ。漁師が海に出て帰り、そこから町は活気づく。おかげで漁を頑張れる、とよく父が言っていた。

 船の整備やら何やらをしているうちにオーストラリア人はどこへともなく消え、喧騒も束の間、いつしか蛭子と数人だけが埠頭に残されていた。

「どうだい」と聞いたのは海辺の民宿の女将。

 蛭子はぼりぼりと頭を掻き、

「どうもこうもありゃしねえ。幽霊殺しさ」

と言った。

 

 数ヶ月後、IWC──国際捕鯨委員会においてある提案が賛成多数で採択された。題は、「海中牧場技術を応用した電脳鯨の商業捕鯨認可」であった。

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