第22話 きよし、オチそうになる
皆が寝静まった深夜、人っ子一人見当たらない砂浜には、引いては打ち寄せる波の音だけが優しく響いていた。天上に浮かぶ大きな月は暗闇の世界を薄明かりで照らし、静かな水面(みなも)に鏡写しになったそれは、うつろい揺らめく。月が明るい夜なので、濃紺の空に浮かぶ星々は舞台の脇役みたいに控えめにきらめいている。
波打ち際から少し離れた草地の上、そこに俺、パンパン、エーリの三人が過ごすテントが張られている。布製の比較的大きな作りのテントで、この特訓に出かける前にルアーナの屋敷から拝借したものだ。
俺の右手では、パンパンが毛むくじゃらの背中を俺の方に向け、大きないびきをかいている。一方で、左手ではエーリカたんが子猫のように丸まって、すーすーと寝息を立てている。
つまり俺は二人の間に挟まれるようにして眠らなければいけないのだった。
「寝れない……。」
俺はしょぼしょぼする目をこすり、今までの訓練を思い出す。今日で四日目、明日でマックスとの特訓も終わり、明後日が大会の開会式。そして俺らの第一試合は明後日だ。シード下だから一日目で早速出番があるというわけ。
特訓がそんなにきつかったのかというと、俺にいたっては全くそうでなかった。やったことと言えば、自分の能力について実験を繰り返しただけだからな。
便性変換について分かったことはいくつかある。一つ目は、どうやら出る直前の便の性状が特殊能力として反映されるということ。だから、前の排便直後の付加能力は次に排便するまで同じといえる。きっと肛門のすぐ上、つまり下部直腸あたりで便の性状を自動的に探知しているのだろう。これを利用した新しい戦闘スタイルのアイデアも思いついた。
二つ目は、連続使用もできるということだ。便性変換した状態で排便したところ、能力が解除されることはなかった。しかし、その状態でもう一度便性変換を発動すると別の付加能力に変化した。こんなこと何に応用できるかわからないけどな。
三つ目は、いつでも任意に能力解除できるということだ。一度鶏になった時はやり方が分からなくてピンチになったが、何度も解除を訓練したのでもう心配ないだろう。
他には、便がほとんど溜まっていない状態でも便性変換は発動できるということも分かった。しかし、そのソースとなる気と魔力が最弱レベルまで落ちるので、ほぼ何もできないと考えて良い。
あと、それぞれの食べ物でどういう能力を得られるかも実験した。すでに能力発動したことがあるタケノコやチキンに以外には、タコの触手攻撃、貝の貝殻防御、イノシシ肉の頭突き攻撃とかも場合によっては実戦で使えそうな気がする。パンをいっぱい食べた日は、美味しいパンの匂いを出すだけとか酷いものもあった。
試合前には食べるものもキチンと考えなければならないようだ。チキンじゃないよ。
「それにしても」
パンパンがもぞもぞと寝返りをうって俺の領地に侵攻してくる。すると俺の居場所はどんどんエーリカたんの方へと追いやられてしまう。エーリカたんは小さい肩をゆっくりと上下させ、毛布にくるまっている。
彼らは、俺と違って結構ハードな練習をしていた。エーリカたんは気だけで投げる練習と、魔力だけで球を飛ばす練習を分けて行っていた。なんでも別々にやると、それぞれどこが良くないか分かりやすくなるらしい。
一方でパンパンはとにかく体力・魔力が尽きるまでタケノコを海に出し続けていた。だから大いびきかいて熟睡してるのも当然だ。
今度はエーリカたんがこちらの方向に寝返りを打つ。橙色のランプの炎に照らされた頬は、少しあかみがさしている。普段ひらいている大きな瞳は閉じていると、まつ毛の長さが際立つ。
「無防備すぎる……」
起こしてしまわないように小さな声で呟く。いつもは二つに結ばれている長い髪も、寝てる時はおろしてあり、柔らかな布の上でランプの光を艶かしく反射している。一度意識してしまうとどんどん眠れなくなってしまう。彼女の降ろした髪に無性に触れたくなる。
「すー。すー。すー」
「……」
俺の気持ちやいざ知らず、天使みたい寝顔で眠っている彼女。俺はゴクリと唾を飲む。どうにも我慢できなくなって彼女の髪へと震える手を伸ばす。自分の心臓の鼓動が駆け足になるのを感じた。
柔らかで繊細な感触を左手の指先に触れる。そして、そのまま側頭部に触れ、顎先へと流れる黄金色の髪に沿って優しく撫でた。まるで絹みたいな触り心地だ。
「ぱぱ……」
不意に漏らした彼女の寝言に心臓が大きく跳ね上がる。俺が彼女に触れたまま固まっていると、彼女はその腕を掴み、肌触りのいい寝間着に覆われた自分の胸元に引き込んだ。
「……!」
突然の出来事に俺は抵抗できず、そのまま腕を彼女の胸に抱かれ、添い寝するような体勢になってしまう。左の二の腕から肘にかけて、これ以上ないくらいの柔らかくて温かい感覚に包まれる。それほど厚くもない生地を隔てて、彼女の心臓の鼓動を感じる。
最高だけど、これはまずいですね。
腕を抜こうにも、むにむにと至高の感触を味わえるだけで、いっこうに脱出できる気がしない。腕を抱かれているせいで、顔と顔の距離も自然に近くなっている。何気ない寝息でさえもどこか色っぽさを感じてしまう。
「……もっとなでて……」
何の夢を見ているのだろうか。うわごとのように彼女は呟く。その呟きで発せられた小さな息づかいも、まるでいたずらな妖精みたいに俺の耳をくすぐる。
俺は妖精の魔法にかかったみたいに、彼女の頭を右手で優しく撫でてしまう。左手を彼女の胸に抱かれているので右手で頭を撫でると、向かい合った形になってしまう。ますます近づいた顔と顔、彼女の長いまつ毛の閉じた瞳、小さな口、食べごろの果実みたいに柔らかく潤った唇、その全てが俺の顔のすぐ目の前にあった。
彼女の甘い香りが鼻腔をつく。ああ、もうこのままどうなってしまってもいい気さえしてくる。
「……ぱぱ、おやすみのちゅー」
たった一つの寝言で、俺の全神経が目の前の彼女の柔らかそうな唇に集中してしまう。今直ぐに食べてしまいたい果実、抗いがたい衝動。不意に数日前の彼女の言葉を思い出す。
『こんなの、ドキドキしたあたしが馬鹿みたいじゃん……』
彼女を愛おしく思う気持ちが一気に高まってゆく。
ああ、もう俺ダメだわ。爺ちゃん。父ちゃん、母ちゃん、ごめん。
俺、もう我慢できねえわ。
十字架背負って生きていくわ。
俺は、自分の顔を彼女の顔に少しずつ近づけていく。目を閉じる。もういい。感覚だけの世界に堕ちてしまおう。そう決意する。
ファッキューだけどサンキューじいちゃん! 心の中で叫んだ。
「……ふふっ!」
その時、我慢できなくなったような失笑が聞こえて、俺は目を開ける。すると、すぐ目の前のエーリカがその大きな瞳を開いて、イタズラっぽい笑みを浮かべていた。
「何その顔。きよしのすけべ!」
………………
…………
……。
月明かりだけで照らされた波打ち際を二人で歩く。柔らかい砂地は裸足の俺らに踏まれると型を取ったみたいに足跡がつく。しかしその足跡も次に来る波にさらわれ、すぐに消えてしまう。たまに足の甲までおおいかぶさる透き通った海水は、冷えた空気よりもずいぶん温かく感じた。
「いつから起きてたんだ」
夜風で頭が冷えたせいか、それとも恥ずかしさも一周回ってどうでもよくなったせいか分からないけど、俺はもう落ち着いていた。
「んー、清が頭撫でてたくらいから」
「ほぼ最初からじゃん。でもなんで?」
起きてたなら最初から引き剥がせばよかったじゃん。心の中ではそんなことを思う。
「ちょっと……寂しかったからかな」
エーリカは足元に目を伏せた後、海水で濡れた砂を蹴り上げた。すると、砂の塊が前の方に飛び散る。飛んだ砂塊はちょうど押し寄せた波の中に落ちて、月の光で照らされた水面を乱反射させる。
「俺はてっきり夢でも見てるのかと思ったよ」
「誰かに撫でてもらったのなんか、久々でさー」
彼女は少し気恥ずかしい雰囲気で、タッタッタと少し先に駆けていくと振り向いて笑った。
「甘えたくなっちゃった」
月を背負った彼女の少女らしい美しさに、冷静になった心が再びざわめく。なんかこのままだと本気になってしまいそうな気もしてくる。
「そっか」
自分の気持を悟られたくなくて、あえて素っ気ない返事をしてしまう。自分で言うのも何だけど、俺ってなかなか素直になれないから。
「きよしはさ」
また俺に背を向けるとゆっくり歩みだす。回る時になびいた髪が月明かりのもとでふわっと広がる。
「なに?」
「なんでイユなんとかさんと結婚しなかったの?」
歩いている背中しか見えないからどんな顔をしているか分からない。濡れた砂を踏む音と打ち寄せる波を踏む音とが交互に聞こえるだけだ。
「あいつと婚約なんてしたら、それこそきっと地獄みたいな毎日だし」
「でも、イユなんとかさん、可愛いし綺麗だよ」
「まあ、それは確かにそうだけどさ」
エーリカは俺にイユと婚約してほしかったんだろうか? まさかそんなはずは無いと思うけれども。
「……じゃあきよしは、イユなんとかさんが優しくしてくれたら結婚するの?」
エーリカはその場で立ち止まった。足音も聞こえなくなって本当にさざなみの音しか聞こえなくなる。
もしイユが優しかったら。まあ、そういう奥さんがいたら嬉しいことは否定できない。でもすぐにオッケーして婚約して家に入ってってのは、何か違う気がする。
「いいや」
何が違うかって、俺は多分まだこの世界を冒険したいんだと思う。イユのことだってまだよく知らないし、せっかく出来たこの世界での仲間たちと、もっと泣いて、笑って、はちゃめちゃやって怒られて、……じいちゃんから貰った二回目の命、全力で冒険しなきゃ損だよね。
「エーリと、もちろんパンパンもそうだけど。まぁ、あのホモも入れてやるか。もっと冒険したいからさ」
「ふーん?」
立ち止まっているエーリの横に並ぶ。月に照らされた顔が見えるようになる。頬を桜色に染めたそれは、なんとなく嬉しそうでちょっと恥ずかしそうでもあった。
「しゃーないなー。きよしは頼りないから、あたしがついててあげる」
くくくっと悪戯っぽい笑みを浮かべる姿はいつものエーリカたんだった。
「頼りないってなんだよ! うんこがたまってればたぶんエーリより強いぞ!」
俺も負けじと言い返す。
「うんこ我慢してるやつになんかに負けないもーん!」
そう言ってエーリカたんは俺にあっかんべーをすると、元いたテントの方へと無邪気に駆けていく。彼女の子供みたいな可愛らしさにすっかり毒気を抜かれ、走って追いかける気さえなくなる。
「今夜はなかなか寝付けそうにないかな」
俺はもう少し海辺を散歩して、頭を冷やしてから寝床に戻ることにしたのだった。
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