第1210話忽に芳音を辱くし、翰苑雲を凌ぐ。

忽に芳音を辱くし、翰苑雲を凌ぐ。兼ねて倭詩を垂れ、詞林錦を舒ぶ。

以て吟じ 以て詠じ、能く戀緒をのぞく。

春は樂しぶ可く。暮春の風景、最も怜ぶ可し。

紅桃灼々、戯蝶は花を廻りて儛ひ、翠柳依々、嬌鴬は葉に隠りて歌ふ。

樂しぶ可きかも。淡交の席を促け、意を得て言を忘る。

樂しきかも美しきかも。幽襟賞づるに足れり。豈慮りけめや。

蘭蕙くさむらを隔て琴罇用いるところ無く、空しく令節を過ぐして、

物色人を軽にせむと。怨むる所、此に有り、黙已ること能はず。

俗の語に云はく、藤を以て錦を續ぐといふ。聊かに談咲に擬ふらくのみ。

※翰苑:文壇。ここでは家持の漢文のこと。

※詞林:詩歌。

※紅桃灼々:紅い花が、輝き咲く様子。

※蘭蕙くさむらを隔て:家持の長い病気のために、池主が同席する機会が失われていること。


※藤を以て錦を續ぐ:粗末な藤の布を錦に縫い付けること。ここでは家持の素晴らしい漢文と和歌に、自分(池主)の駄作をもって返事とする意味。


山峡に 咲ける花を ただ一目 君に見せて 何えおか思はむ

                     (巻17-3967)

うぐひすの 来鳴く山吹 うたがたも 君が手触れず 花散らめやも

                     (巻17-3968)

沽洗の二日、掾大伴宿祢池主。

※沽洗:陰暦三月の異名。



思いかけずも、お手紙をいただきました。

家持様の素晴らしい文は雲をつくほどです。

同封の和歌は兼ねてお言葉が錦を張ったように見事なものです。

つぶやくように詠んでみたり、大きな声で詠んでみたりして、

あなた様への慕しい気持ちを紛らわせています。

そもそも、春は楽しむものです。三月のの風景は最も素晴らしく、紅い桃は咲き乱れ、蝶々は花をめぐって飛び、緑の柳は垂れ、愛らしい鴬は葉に隠れて歌います。

楽しいことです。あっさりとした君子のまじわりは、席を近づけるだけで気持ちが通じて言葉など、忘れるほどです。

楽しくて麗しいことです。深い心は賞するに値します。

思いもかけないことでした。香りを放つ花のように互いに離れていて、琴や酒樽を用いることも無く、ただ時を過ごし、四季折々の風情を楽しむことができないとは。

恨むことはこのことで、黙っているわけにはまいりません。

世間では、「藤布を錦に縫い付ける」といいます。

(私からのの手紙と歌を)少しでもお笑い種にしていただけましたらと思います。


山あいに咲く桜、その美しさを一目だけでも、あなたにお見せすることができたなら、何も思い残すことはないのですが。


ウグイスが飛んで来ては美しい鳴き声を聞かせてくれる山吹の花、よもや、あなたが手を触れることなく、花を散らせてしまうようなことはありえないでしょうから。


前回の家持の漢文と和歌に対する池主の返事になる。

ただ、池主の漢文と和歌も、家持に引けを取っていない。

池主としても、この漢文と和歌の応酬に、家持の奮起を期待したようだ。

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