第27話 柿本人麻呂 泣血哀働歌(1)

柿本人麻呂朝臣の、妻死して後に泣血哀働して作りし歌


天飛ぶや 軽の道は 我妹子が 里にしあれば

ねもころに 見まく欲しけど 止まず行かば 人目を多み

まねく行かば 人知りぬべみ さね鬘 後も遭はむと

大船の 思ひ頼みて 玉かぎる 磐垣淵の

隠りのみ 恋ひつつあるに 

渡る日の 暮れゆくがごと 照る月の 雲隠るごと

沖つ藻の なびしき妹は 黄葉の 過ぎて去にきと 

玉梓の 使ひの言へば 梓弓 音のみ聞きて

言はむすべ せむすべ知らに 音のみを 聞きてありえねば

我が恋ふる 千重の一重も 慰もる 心もありやと

我が妹後が やまず出で見し 軽の市に 我が立ち聞けば

玉だすき 畝傍の山に 鳴く鳥の 声も聞こえず 

玉鉾の 道行き人も ひとりだに 似てし行かねば

すべをなみ 妹が名呼びて 袖ぞ振りつる   (巻2-207)


※天飛ぶや:軽にかかる枕詞。※さね鬘:後にかかる枕詞。

※大船の:頼むにかかる枕詞。※たまかぎる:岩垣淵にかかる枕詞。

※玉梓:使いにかかる枕詞。※たまだすき:畝傍にかかる枕詞。

※玉鉾の:道にかかる枕詞。



柿本人麻呂朝臣が、その妻の死を知り、後に泣き悲しんで作った歌。


軽の道は、我が愛する妻の里であったので

十分によく見たいと思っていたけれど、常に行ってばかりになると人目が多く 

何度もたびたび出かけたならば、他人が関係に気付いてしまうと思って、少し時間をおいて、ゆっくりと逢おうと思っていた

それを頼りに思って、岩垣淵のように、恋心を他人には隠し続けていたところ、

空を渡る太陽が暮れていくかのように、空を照らす月が雲に隠れるかのように

沖合の海藻のように、私になびき添って寝た妻は、黄葉が散るかのように、はかなく散っていったと 使いの者が告げに来た。

そんなことを聞いても 聞いただけで 何と答えたらいいのだろうか

話を聞いただけでは すまされない

私の想いの千分の一でも せめて慰めになることがあろうかと

愛する妻が、いつも出掛けて眺めていた軽の市で 耳をすますけれど

畝傍の山からは、鳥の鳴く声も聞こえず 道を行く人にも、誰一人妻に似ている人が通らない。

もう、どうにもならない 愛する妻の名前を呼び、袖を振った


柿本人麻呂が軽(奈良県橿原市あたりにあった、交通の要所で市も設置していた)に住んでいた愛妻の死を突然の知らせで知り、失った悲しみを詠んだ歌。

泣血哀働は、血の涙を流さんばかりに嘆き悲しむの意味。

人目を恐れ、逢うのをためらっている間に、愛する妻は、突然死んでしまった。

知らせが来たとしても、そんなことは信じられない。

軽の市には行ったけれど、妻の家に行ったとは詠んでいない。

妻の親や、世間には認められていない関係だったのか。

関係を結んで、まだ日が浅かったのか。

しかし、そんなことを言ってはいられない。

いてもたってもいられず、人目も気にせず、妻ゆかりの軽の市に行き、さまよい歩く。

畝傍の山から鳥の声も聞こえず、亡くなった妻の声も聞こえない。

妻に似た人も、通ることはない。

こうなったら、もはや、どうにもならない。

誰に見られようと、かまわない。

あの世の妻に向かって、袖を振ったのだと思う。


残るのは、悔しさと寂しさだけ、せめて、妻がいつも見ていた風景の中で、妻に向かって袖を振る。


愛する妻の死出の旅への 精一杯の手向けとして。





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