第20話 柿本人麻呂 石見相聞歌(1)
柿本朝臣人麻呂の
石見の海 角の
よしゑやし 浦は無くとも よしゑやし 潟は無くとも
朝はふる 風こそ寄せめ 夕はふる 浪こそ来寄せ 浪の
玉藻なす 寄り寝し妹を 露霜の 置きてし来れば
この道の
いや遠に 里は放りぬ いや高に 山も越え来ぬ
夏草の 思ひ萎えて 偲ふらむ 妹が門見む
(巻2-131)
石見の海の角の浦の当たりを 良い浦がないと人は見るだろうが 良い潟がないと人は見るだろうが
浦などなくてもかまわない 潟などなくてもかまわない
海辺に向かって 和多豆の荒磯の上に 青々と生えた美しい海藻や沖の海藻は
朝には風がなびき寄せ 夕には波が寄せ その波とともに あちこちに寄って こちらに寄る
そんな美しい海藻のように私に身をなびかせて 共寝した妻を 置いて来てしまった
今 都へ向かい歩いている この山道の曲がり角ごとに 何度も何度も 振り返ってみるけれど
本当に遠く離れてしまって 里も遠ざかってしまった
いよいよ 高い山も越えて来てしまった
物思いに萎れるようにして 妻は私を偲んでいるだろう
私は 妻と暮らした家の門口を眺めたい
平らになびけ この山よ
※
※露霜の:置くの枕詞
※夏草の:萎なえるの枕詞
現在「石見相聞歌」として知られる歌群の一首目の長歌。
石見の国に地方官として赴任していた柿本人麻呂が、大和へ戻る際に石見の国に残してきた現地妻を思って詠んだ一首とされている。
当時、地方官の現地妻は、ほとんど経済的な理由により、都に帰る男に同行はしなかったようだ。
すなわち、男の都への帰還は、永遠の別離となる。
長歌の冒頭では、まず石見の海の描写。
それが全て、「玉藻なす 寄り寝し妹」に結びつく。
石見の海には、良い浦もなく、潟もないと他人は言うけれど、そんなことは自分は、どうでもいいことだ。
他人から見れば、どうということのない田舎の妻かもしれない。
しかし、この自分にとっては、愛しくて仕方がない、いつでも寄り添ってくれた妻なのだ。
最初に詠んだ石見の海の描写が、まるで映画のオーバーラップのように、愛しくて仕方がない現地妻の姿に重なっていく。
都に戻る山道を、徒歩で苦しみながら歩きながらも、気になるのは残した妻のことばかり。
寂しくは思っていないだろうか、これから、どんな人生を過ごすのだろうか、
想いはつのるばかり、
もう一度、妻と暮らした家の門を見たい、妻の姿を見たい
そして 最後の句 なびけこの山
この絶唱のすごさ、激しい爆発は なんと 心を揺さぶることか。
読みかえすごとに この歌のすごさに 圧倒されるばかりとなる。
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