5、号令篇における都市住民の性格

 以上号令篇における賞罰について見てみると、賞罰の性格は利害誘導の傾向が強いことがわかる(注11)。「守」の法令に背けば厳しい刑罰を受けたが、「守」に協力すれば手厚い褒賞が受けられた。では、利害誘導を受けた都市住民はどのような性格を持っていたのか。

 号令篇からわかることは、住民の自発的意思による協力はあまり想定されていないと思われる点である。入城した「守」がまず行うことが城内の謀叛者の摘発であるように、号令篇では都市住民の反乱、寝返り、内通を何よりも警戒していた。これに対して備城門篇では、


子墨子曰、我城池修、守器具、樵粟足、上下相親、又得四隣諸侯之救、此所以持也。……(中略)……凡守圉之法、城厚以高、池深以広、高楼撕循、守備繕利、薪食足以支三月以上、人衆以選、吏民和、大臣有功労於上者多、主信以義、万民楽之無窮。不然、父母墳墓在焉、不然、山林草澤之饒足利、不然、地形之難攻而易守也、不然、則有深怨於適、而有大功於上、不然、則賞明可信、而罰厳足畏也。此十四者具、則民亦不疑其上矣。


【子墨子曰く、我が城池修まり、守器具り、樵粟足り、上下相親しみ、又四隣諸侯の救ひを得る、此れ持する所以なり。……(中略)……凡そ守圉の法、城厚く以て高く、池深く以て広く、高楼撕循しじゅん、守備繕利し、薪食は以て三月以上を支ふるに足り、人おおくして以て選び、吏民和し、大臣は上に功労有る者多く、主は信にして以て義、万民之を楽しむこときわまり無し。然らずんば父母の墳墓在り、然らずんば山林草沢のじょうは利するに足り、然らずんば、地形の攻め難くして守り易く、然らずんば則ち適に深怨有りて上に大功有り、然らずんば則ち賞は明らかで信ず可くして罰は厳にして畏るるに足るなり。此れ十四の者そなわれば、則ち民もまた其の上を疑はず】


 とあるように、善政を前提に君主に信望があって、住民が自発的に協力できる「上下相親しむ」体制が整っている上で、明らかな賞罰を求めている。これは『孟子』梁恵王章句下に、


滕文公問曰、滕小国也。間於斉楚。事斉乎、事楚乎。孟子対曰、是謀非吾所能及也。無已則有一焉。鑿斯池也、築斯城也、与民守之、效死而民弗去、則是可為也。


とうの文公問いて曰く、滕は小国なり。斉楚にあいだす。斉につかえんか、楚につかえんか。孟子こたえて曰く、はかりごとは吾が能く及ぶ所に非ざるなり。已む無くんば則ち一有り。の池をうがち、斯の城を築き、民とともに之を守り、死をいたすとも民去らずんば、則ち是れ為す可きなり、と。】


 とあるのと通じるもので、都市住民が自らの居住する都市の防衛のために力戦する体制を想定している。対するに都市住民の自発的協力を前提としていない号令篇は、代わりに具体的で詳細にわたる厳罰・重賞の法令を記している。そして都市住民は専ら褒賞を目当てに戦争協力を行ったようである。吉本氏の説に従うならば、備城門篇は斉・魯の作であり、『孟子』の記述にある「滕」という国は斉と魯の間にあった国で地域的に近い。対して号令篇は秦の作とされ、内容の差は地域差によるものと推測することもできよう。

 また前項に示したように、号令篇内では「守」が城内の人間を慰労、褒賞する場面が出てくる。これは「守」の個人的信望によって都市住民と結合し、城内の統一を図る行為である。この背景には増淵氏の提唱した戦国時代の任侠的習俗の存在をうかがわせ、「守」のために戦う城内の個人の存在を想像させる。また前項で引用した史料に出てくる「候」と呼ばれる間諜は「守」が自ら選んだ人物で「守」に私属し、兵制によって軍組織に組み込まれた存在ではない。これら間諜は「忠信善重士」から選ばれたが、ここにも「守」との個人的な結合が想像できる。対して守城戦時の城内における「王公」の存在は極めて希薄で、都市住民に「王公」への忠誠心や奉仕精神があったとは考えにくい。「王公」は都市住民にとって賞罰を保証するもの以上の役割を出なかった。

 しかし、いくら「守」に個人的信望が集まろうと、「吏卒民」に与える褒賞は「王公」の国庫から出ていた。刑罰の部分で財産の没収先が「王公」にあったことを逆に考えればそのことがわかる。つまり戦時に編制された城内の軍事組織の上下の関係を雇用形態と考えれば、例え現場にいなくとも、褒賞の支払いを保証するのはあくまで「王公」であり、「吏卒民」の信望がどれだけ強くても「守」は褒賞を代行する中間職に過ぎず、「吏卒民」への褒賞を直接保証する能力をもたなかった。「諸の賞罰を行い、及び治有る者は、必ず王公に出ずる」とあるように賞罰の保証者の権利は「王公」が握っていた。少なくとも都市住民は「王公」に対する忠誠心こそなかったが、「王公」に従う利害だけは持っていた。これらから号令篇に見える都市住民の性格は多分に功利的なものであったと判断できる。これは『史記』貨殖列伝に、


故壮士在軍、攻城先登、陥陣郤敵、斬将搴旗、前蒙矢石、不避湯火之難者、為重賞使也。


【故に壮士の軍に在りて、城を攻めるに先登し、陣を陥れて敵をしりぞけ、将を斬りて旗をかかげ、すすみて矢石をこうむり、湯火とうかの難を避けざる者は、重賞の為に使はるるなり】


 とある、重賞のために戦争に駆り立てられる兵士の姿を想像させる。宮崎市定氏は次の『戦国策』宋・衛策を引き、


(前略)……客曰、太子雖欲還、不得矣。彼利太子之戦功、而欲満其意者衆。太子雖欲還、恐不得矣。太子上車請還。其御曰、将出而還、与北同。不如遂行。遂行、与斉人戦而死、卒不得魏。


【(前略)……客曰く、太子還らんと欲すると雖も、得ざらん。の太子の戦功に利して、其の意を満たさんと欲する者おおし。太子還らんと欲すると雖も、恐らく得ざらん、と。太子、車に上つて、還らんと請ふ。其の御曰く、将出でて還るは、ぐるに同じ。遂行するに如かず、と。遂行し、斉人とともに戦いて死し、ついに魏を得ず】


 戦国時代には利益を求めて自ら進んで戦争に参加する好戦の風潮が広まっていたとしている。『墨子』号令篇に見られる都市住民も同様の風潮の影響を受けていたものと考えられる。

 前項に紹介した間諜は厚遇されたが、同時に「候者は異宮をつくり、父母妻子皆其の宮を同じくし」と、親族を他の住民と分けて一ヶ所に集められ、人質にされていた。それにもかかわらず、間諜を辞めて「吏」となるのを望まず、褒賞を選ぶ間諜がいたことは、戦争時の諜報活動を普段から生活の糧とする職業的間諜の存在を示している。これも功利的好戦の風潮の影響と考えられ、戦争の人々の生活に対する経済的影響、特に褒賞を求める動きには貨幣経済の影響が強かったように思われる。




(注11)山辺進氏の研究によると『墨子』尚賢篇、尚同篇には時代が下るにつれて政策による賞罰によって人々を強制的に教化する必要性を説いているとされる。浅野氏は籾山明氏の戦時の軍事組織に使用された軍令が平時の法令に転用され、法家思想と強大な君主権を持つ法治国家の淵源となったとする考えを引き、『墨子』兵技巧諸篇の守城戦時の法令の経験が尚賢篇、尚同篇の考えに反映されているとする。

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